Suite.4「潤滑油要らずの彩舞駆とサル共②」
「タロ……上手になったね」
ピシッとシワ一つなくシーツが張られたベッドの向こう側から、静かな声が降ってきた。
声の主は彩舞詩七美。
彼女はどうしてこんな所で働いているのか。俺がこの一ヶ月で抱いた、最大の疑問の一つだ。
不思議な程に仕事の出来る人で、何をやらせても綺麗で素早く、取りこぼしのない正確さ。毎日夜に配送で届くリネンセット、翌日分のタオルやシーツを二百セット程手折りするのだが、それがまるで機械プレスを通したかのように寸分違わぬ美しさなのだ。
体力も無尽蔵。通常二人一組が定石の清掃作業において、彼女が一人で作業に当たっているのは、単純に『誰も彼女のスピードについていけないから』である。
無表情、無口。感情の起伏を感じさせない彼女。
詩七美さんは夏場でも冬場は勿論、常に長そで長ズボンの、肌の露出を極限まで減らした暑そうな格好をしている。
だというのに、これだけ動き回っていても額には汗ひとつとかいていない。
そこから由来して、表立っては敬意を込めて『お嬢』裏では畏怖を込めて『彩舞駆〈サイボーグ〉』と呼ばれ、一部スタッフから崇拝の対象にすらなっている。
その隠された肌、間接の繋ぎ目は、じつは本当に機械で出来ているのでは?などと、勝手極まりない妄想まで横行している始末。
故に、彼女の手助けなど必要なのかと問われれば微妙な所だが、それでも時折、こうした多忙なタイミングでは俺も一緒に作業に入る。
いや、入らせて貰っている、という表現の方が正しいかもしれない。
「昔っから、手先は器用な方だったんで」
「なかなか居ないよ。ベッドメイク、こんなに綺麗にできる人。それに……早くもなった」
「恐縮です」
ピンと張ったシーツの端をマットレスの下へ素早く折り込みながら、俺は自嘲気味に息を吐く。
『タロ』というのは、初めて彼女と連なって清掃に入ったタイミングで、不意にそんなふうに彼女が呼んだ事から定着してしまったあだ名だ。
なんだかここではまともに名前で呼ばれる事の方が少ないのではないかと思ったりもするが、親しみを込めたであろう彼女からの『タロ』というあだ名に関しては、特に嫌な感情は無い。
けれど、幼い頃なんかは良くそんな犬のような可愛らしい名前で呼ばれたりもしていた気がするが、大人になった今、改まって呼ばれるとなんとも形容しがたいむず痒さはある。
持ち前の手先の器用さもあり、清掃作業は勿論、日報なんかも特にアタマを使う程のものでも無く、問題なくこなせる。フロント担当時の客の応対こそ苦戦はするが、どういうわけか嫌にやりがいを感じてしまっている自分がいる。
人間、どこに適性があるかなんてのは案外分からないもんで、俺はどうやらこの吹き溜まりの業務にカチリと当てはまってしまったらしい。
奇しくも、絵の道よりも、このラブホテルの裏方業務のほうが妙に肌に馴染むのが早かった。
彩舞詩七美。最初こそ彼女は「サイボーグ」という異名のせいで無機質で怖い人だという印象だったが、どうやらそんな事はないらしい。
口数こそ少ないが面倒見も良く、ポツリポツリと話題も振ってくれる。彼女は、静かで優しい、聡明な人だ。
俺はいつの間にか、怒号の飛び交うフロントを離れ、彼女と一室を仕上げるこの十分程の時間が、唯一の癒しとなっていた。
その正確さとスピード感についていくのに際して、通常よりも一層疲弊する事を除けば…。
「……うん、完了」
「ありがとうございました。じゃあ、俺は足りないアメニティを取りに、一旦控え室に戻りますね」
「卯月がちゃんとフロントやれてるか見なきゃならないし…」
「あ……」
「?」
「そこ。シーツ、髪の毛付いてる」
「あぁすみません。えっと……」
「付着した髪の毛は、ガムテープで」
「そうでした。ありがとうございます」
「うん。それと気をつけてね。……今日は、いつもより『客層が悪い』みたいだから」
「……?善処します」
彼女の無機質ながらも気遣うような言葉に背中を押され、俺は211号室を後にした。
束の間の静寂は終わり。再び、あの戦場へと戻る。
だが、その時の俺はまだ、彼女の言う『客層の悪さ』という言葉の本当の重さを理解していなかった。
『……コタローさーん……またおしっこ〜。しかもローション風呂とセット〜……』
別の部屋の清掃スタッフ、東雲さんから社員用の子機に入った絶望的な内線報告。
それを受け、俺は慌ててサニタリー(防水シーツ)を取りにフロントを横切り、控え室の奥へと走り込んだ。
──────その時だ。
「おいコラ! さっさと鍵出せや!」
「だ・か・ら! 当ホテルは『意識のないお客様』のご入室はお断りしてるって……何度言ったら分かるんだこらぁ!」
遠く、フロントの受付窓口から、いつもの卯月と客の揉め事……にしては、明らかに『ヤバめ』な怒声が響いてきた。
***
控え室に備え付けられた監視モニターに映っていたのは、フロントで腕を組み頑として動かない卯月と、その小窓の向こう側に立つ男の姿だった。首元にゴン太の金のネックレスをぶら下げた、一目で『カタギではない』と分かる風体である。
男の腕の中には、完全に意識を手放してぐったりと首を垂れた、まだ若く派手な身なりの女性が抱えられている。
「おいコラ! さっさと鍵出せや!」
「だ・か・ら! 当ホテルは『意識のないお客様』のご入室はお断りしてるって……何度言ったら分かるんだこらぁ!」
男の威圧感に一歩も引くことなく、卯月は身を乗り出して吠え返している。
しかし、相手が悪すぎた。怒りで顔を真っ赤にした男が舌打ちをし、小窓の隙間から太い腕を突っ込んで卯月の胸ぐらを掴もうと、あるいは拳を振り下ろそうと大きく振りかぶる。
「うさ姫ちゃん……!」
「ありゃヤバいな……」
その光景に、何事かと駆け付けた東雲さんが悲鳴を上げ、髭乃くんが血相を変えてモップを握り直すのが見えた。
だが、それよりも早く。俺は控え室を飛び出し、フロントへのスライドドアを勢いよく開け放つと、小窓の前に滑り込み男と卯月の間に割って入った。
「──────誠に申し訳ございません、お客様っ!!」
俺はカウンターに額をぶつけるほどの勢いで、深く腰を折った。
「あぁん!? なんだテメェ!」
「お連れ様が酷く泥酔されているご様子でしたので! 当ホテル、防犯および救護の観点から、意識のないお客様の入室は県の条例と社内規定で厳しく制限されておりまして……!」
ヤクザまがいの怒声に対して、俺はあえて、ひたすらに柔らかく、落ち着き払った『優しい接客声』を張り上げた。
相手をなるべく刺激しないよう、あくまで『あなた達を心配している』『法律で決まっているから仕方ない』という建前を並べ立て、ひたすらに深く頭を下げ続ける。
男は振り上げた拳の行き場を失い、忌々しげに俺の頭を睨みつけた。
「チッ……! 使えねぇホテルだな! もういい!」
「ご期待に沿えず誠に申し訳ございません! またの――」
「うっせぇッ!」
男は意識のない女を乱暴に抱え直すと、ドスドスと足音を立てて車へと戻り、けたたましいスキール音を残してガレージから走り去っていった。
テールランプが完全に見えなくなるのを確認してから、俺はようやく深く息を吐き出す。
「……はぁ。マジに心臓止まるかと思った……」
齢二十一。ここ、ラブホテルで働くまでは一切関わり合いのなかった人種。
任侠物のドラマや映画なんかで見るいわゆる関わったらヤバい奴。震えた指先と、早鐘を打つ胸を抑えながら、なんとか一段落ついたことに、五体満足で命がまだある事に安堵する。
「……なに首突っ込んでるんすかパコ太郎。私一人で追い返せたんすけど……」
助け舟を出したというのに、卯月は不満げに髪を揺らして俺を睨みつけてきた。
その態度のデカさに、俺は堪えきれず注意の声をあげる。
「なんでそんなに突っかかるんだよ。一歩間違えたら殴られてたぞ」
相手はどう見てもヤバい筋の人間だった。
墨の入れ方、立ち居振る舞い、身に付けたブランド物のアクセサリーに黒塗りのセダン……どう考えても役満だ。
「なんすかムキになっちゃって、またお得意の見境の無い自己犠牲由来の献身って奴っすか?」
「…ッ!俺はお前を心配して…」
「怖がって震えてるとでも思いました?────私、ああいう人種大ッ嫌いなんすよね!」
「それにもし殴られたならお金貰えるし、怖いなんてあるわけないじゃないすか。あんなにイキリ散らかして、身体にお絵描きして、首元に似合わない金ネックをつけてたって、汚ったないもんぶら下げて部屋に入ったら、結局は全裸で腰振るだけのサルっすからね」
憎々しげに吐き捨てた卯月の顔には、いつものギャルらしい軽薄な笑みは微塵もなかった。
「……確かに、意識のない女を抱えて来る事には俺も些か問題はあるとは思うけど。それでも、言い方ってものがあるだろ」
「問題がある? ……はっ、そんな軽い言葉で済ませんなよ」
卯月の声が、一段低くなった。
彼女はフロントの小窓から夜の駐車場を……走り去った車の軌跡を、射殺すような冷たい瞳で見つめている。
「ああやって、ただ楽しく飲んでただけなのに……意識のないままこんな場所に連れてこられて、目覚めた時……自分が何をされたか悟った時、女が何を思うのか。男のお前には、一生分からないだろうな」
その言葉に含まれた、あまりにも暗く、重たく、生々しい感情の質量に、俺は言葉を失った。
正義感や職務規定への順守などという薄っぺらいものではない。それは明確な『憎悪』だった。
何か返答をしなければと思いつつも、俺は結局、彼女の抱える闇の深さに気圧されて、押し黙ることしかできなかった。
「あぁ、でも。パコ太郎はどっか少し…身に覚えありそっすけどね」
「…………」
『プルルルルルルルルッ!!』
重苦しい沈黙を切り裂いたのは、容赦なく鳴り響くフロントの内線電話だった。
それと同時に、エラーを吐き出す精算機の警告音が重なり、一気に戦場が再起動する。
「あーもうっ! ぼーっとしてないでさっさと作業に戻って下さいよパコ太郎!」
「そこで突っ立ってる有愛と梓も!!」
卯月はパンッと両手を叩き、いつもの調子を取り戻してインカムのスイッチを入れた。
「はいフロントです! ……は? 買ったローターが動かない? 知るかそんなもん、電池の向き逆じゃないすか……てかそれメイドイン北の国だし……。っていうか今それどころじゃ……あぁもう、少々お待ちください──────!」
そこからはまさに、地獄の様相だった。
客が帰った後の部屋からは取れない香水やお香の匂い、更にボイラーの水漏れ、別の部屋からは空調の不具合、VODがつかない、Wi-Fiが繋がらないといったクレームの嵐。
事務作業も完全にパンクしている。
コピー機の用紙は補充されておらず、ジャーナルはまとまらない。
車番表もめちゃくちゃで、時間別の利用表ははちゃめちゃだ。
フロントは卯月一人でなんとか回し、客室の清掃には東雲さんと髭乃くんが再度仕切り直して飛び回っているが、圧倒的にマンパワーが足りない。
「パコ太郎! ここは私がなんとかするから、あんたは早くリネンに戻って、詩七美さんのサポート!」
「わ、わかった…!」
俺は山積みの事務仕事を卯月に任せ、この激務の中、今もなおたった一人で清掃業務にあたっているはずの『サイボーグ』の元へ向かうべく、再び夜の駐車場を駆け出した。




