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Suite.3「潤滑油要らずの彩舞駆とサル共」

「ラブホテルってのはもっと、楽な仕事だと思ってたんだけどな……」


 先程まで居たフロントを抜け、外履きに履き替えて再度外に出る。

 仮住まいの217号室を通り過ぎ、目指すは最奥に位置する211号室。眩しいネオンの光から目を逸らしつつ歩く道中、ふとそんな事を考える。


 ラブホテルの世間一般的なイメージといえば、年配の女性が小さな窓口から部屋の鍵を渡すだけ。体力のない人でも出来る、接客なんかも少なく簡単な、そんなイメージ。

 事実、俺も面接の段階ではそう高を括っていた。適当に座って、時折客に鍵を渡すだけのボーナスステージだと。


 だが、蓋を開けてみればどうだ。

 フロント業務は日報に車番表、時間別記録に現金収支にその他数多のエトセトラ。

エトセトラの中身も酷いもので、深夜三時に容赦なく鳴る内線からの氷や避妊具のデリバリー、テレビの映りやVODのアダルトチャンネルのラインナップを変えろという理不尽なクレーム対応。フードメニューの調理から貸し出し品のお届け、さらに一時間おきの各店舗間の定時報告。


 ガレージ型のホテルであるから作業に際しては外を走り回る事になるし、客が来れば更に控え室とフロントを行き来しなければならない。

 清掃業務は数人のリネンアルバイトだけでは到底回らない事から、俺たちフロントスタッフも隙間を見つけてはサポートに入る。


 中にはポットでカニを茹でるような常識の欠如した客の尻拭いや、イカ臭いどころの騒ぎではない大惨事の部屋の消臭作業など、リアリティを通り越して誇張表現を疑うようなトラブルが日常茶飯事だ。


 どんなに地位や立場がある人間も、ここではすっぽんぽんの産まれた姿。

 一度ここへ訪れ、部屋へと進めば、着飾る事もなく、纏った衣服ごと持っていなきゃいけないモラルや常識をも脱ぎ捨てる。

そして人間としての理性の欠如した本来の姿を晒す。それが彼らの根底にある本性であり本質なのだろう。


 想像以上の体力仕事。それに、昼は八時間勤務だが、夜勤ともなればこれが十六時間続く。とてもじゃないが年配の人には務まらないだろう。

 そうした環境で早一ヶ月と少し……馬車馬のように、それこそシャカリキに働き、泥のように眠る。

 目が覚めたならまた仕事、その繰り返し。

 一体どうして、俺の人生はこんな事になってしまったのだろうか。


 ほんの数ヶ月前までは朝はゆっくりと起床し、用意された朝食を食べ、夢と言うには大層ではあるが、少なからず目標をもって、やりたい事をやりたいだけやっていたと言うのに。


 一体どこで選択を間違えてしまったのか……は、自分でも嫌という程に理解している。


 そう、僅か数ヶ月前まで身を置いていた大学での出来事。こんな吹き溜まりへと俺を追いやるきっかけになった、ある『事件』が俺の全てを瓦解させたんだ。



***



 ──────入学したのは、誰もが名を知る有名な美術大学、の絵画学科『油画専攻』だった。


 自分の脳内にある人間のイメージや、現代アートとしての人物表現をキャンバスに爆発させたい…

そんな崇高な志などでは無く、ただより鮮明に、記憶の中の彼女を描きたい、その為に足りない物を……と思いここにやって来た。

 しかし、高校までとは違い、受講するコマごとに顔ぶれが変わる大学という環境は、俺から人間関係を築く機会を容易に奪い去った。

 それに、美術大学特有の『才能の暴力』が、俺から余裕をも削り取っていった。

 二年次以降は「何を使っても、どう表現しても自由」になる。だが、その正解のない自己表現の世界において、俺は自分がいかに凡庸であるかを思い知らされることになった。油絵専攻の層の厚さと、周りの圧倒的な才能。

 そんな環境で自分と向き合った時、「本当にこれでいいのか?」というインポスター症候群のような不安に押しつぶされそうになった。


 誰かの評価を受けたい訳ではなく、ただ自分の腕を磨きたかっただけなのに、正解のない自己否定の海で溺れていたのだ。


 三年生に至るまで、友人と呼べる人間は一人もできなかった。……いや、正確には入学当初、一人だけ友人と呼べるような人が居たには居た。

 それは俺が当時大学一年、新入生歓迎会とは名ばかりの体のいい騒ぎたいだけの飲み会で出会った、二つ上の学年の先輩。


 彼は……一言で言うなら度を超したシスコンで、出された課題の全てにおいて仕上げに妹の人物画をまるで主題かのようにど真ん中に描く超絶変わった変態で、その癖件の妹の実物写真なんかは『惚れられたら殺さなきゃいけなくなる』なんて言ってただの一度も見せてはくれなかった。


 そんな彼とは新歓をキッカケにそれ以降も顔を何度か合わせる機会があり、自然と話すようになった。

彼とは何故だか妙に波長が合い、学年の差を感じさせない朗らかな、かつ奔放でマイペースな性格から共に連なって小さなアトリエに籠ってはキャンバスを並べ、ただひたすらにお互いの描く『対象』の魅力について語らっていた。


 俺は初恋の女性を、彼は最愛の妹を。

 一度集中すれば何を話す訳でもなく黙々と、肩を並べて時間も気にせず描き続けていた。

 彼は、彼こと『鹿志村 千明』は、ひと握りの稀有な才能の持ち主であった。

 推薦入試で入学した彼は入学当初から類稀なデッサン力で他を圧倒し、批評会においても自己の表現を深く追求し、プレゼンテーションでもそれを多角的に、言葉にして伝える才能があった。


 千明先輩の、彼の描く絵が好きだった。


 それは入学に際して下見を兼ねたオープンキャンパスにおいて一際目を引いた女性の絵。

 正確には女の子の絵と言った方が正しいか。

 こんなふうに、自分も生涯たった一人の最愛を描き続けたいとそんな風に思い、やや見切り発車気味にその日のうちに進学を決めた。

 そんな崇拝の対象のような人、連なって油に塗れ、肩を並べて他愛もない歓談を交わす相手が大学生活唯一の友人。

 連絡先を交換することも無く、プライベートで会う訳でもない。

 けれど俺も千明先輩も似たもの同士だった。

共に連なってキャンバスに向き合いお互いの情熱について肯定し合う…その時間だけで十分であった。


 いつもの様に連なって最上階東に位置するアトリエにて日がな一日、夜になってもキャンバスと向き合っていた俺と千明先輩。

「テレピン油に混ぜるリンシードオイルが足りない……」とぼやいていた千明先輩に、俺は自己の厄介な性質故か無性に、勝手に何かしてあげたくなって、帰り際に画材屋に寄って少し高価なソレを用意し、後日いつものアトリエにて彼を待っていた。


 しかし、待てど暮らせど彼は来なかった。

次の日も、その次の日も、彼はぱったりと学校へ来なくなり、俺は必然的に孤独になった。


 それからというもの、繰り返される日々の中で俺は『学びたい事』と『学べる事』の決定的な違いに気づき、少しずつ心が離れていった。

 授業が終われば人目を避けるようにアトリエへ逃げ込み、一人キャンバスに向かい、情けなくも初恋のひとの面影に想いを馳せる……そんな女々しい日々が殆どになっていた。

 そして、それを肯定してくれる友人は、もう居なかった。


 そんな唯一の友人を失った空虚な生活の最中、あれは確か二年の夏。

 オープンキャンパスで出会った一人の女の子に、俺は心を救われた。何度か繰り返し会う事で、自然と心の距離も近づいていったように思えた。

 そして何回目か――足繁く、最早見飽きたであろうオープンキャンパスに健気に足を運ぶ彼女と、いつもの調子で語らったあの日。

『事件』は起きた。

 夏だというのに凍りつくような冷や汗。突き放すような拒絶の眼差し。彼女の震えた指先…。

真っ白なキャンバスが汚れていくような絶望感。

 それが決定打だったと思う。


 以来、俺の中で燻っていた残り火のようなやる気すらも完全に消失した。

 当然、そんな関心や意欲で臨んでいればあらゆる場面で行き届かなくなり、どうにも卒業できそうにもなくなったし、もはや出来なくても良いとすら思い始めた。


 なによりも、もし彼女があの大学に入学を決めたなら、俺がそこに居る事は単なるノイズになるだろうと思ったからだ。


 詳しい事情を伏せたまま大学を辞める決意をした俺を、実家は当然許しはしなかった。

 学費の大半を出してくれていた祖父と交わした条件もあり、半ば勘当のような形で家を追い出され、行き着いた先が、祖父が築いた会社の子会社に位置し親父が社長を務める三つのホテル運営会社。

 その中の一つがこのホテルだった。


──────そして、初出勤の日。


 初対面の『愛姫卯月』は…───優しく頼りになる親しみ易い先輩の…『皮を被っていた』


「大庭小太郎さん、わかんないことがあったらわかるまで何度でも、先輩に聞いていいっすからね」

 派手な見た目に反して面倒見の良いギャル。

 そんな彼女の態度にすっかり絆された俺は、慣れない業務、疲れに不安に緊張といった不安定な精神状態からか、あろうことか『自己の厄介な性質』や『初恋の人の面影を追っていたこと』、ラブホにまつわるその『事件』の顛末を、壁打ち代わりについ吐露してしまった。

 それが運の尽きだった。

 数秒の沈黙の後、愛姫卯月はそのモコモコに、重厚に着飾った皮を脱ぎ捨て、腹を抱えて爆笑したのだ。


「ぷっ……くふふふっ、あっははは! マジっすか!? 君最低っすね!」


「いや、俺にもやむにやまれぬ事情が……」


「この後に及んで言い訳っすか?うわー、マジ引くわ。よし、決めた!今日からお前の名前は『パコ太郎』!」


「いや、俺には大庭小太郎って名前が……」


「随分贅沢な名前っすね。パコ太郎で十分。 反論は許さないっすよなんせ私はパコ太郎の先輩なんすから」


「どうしたんですか急に、さっきまでそんな感じじゃ……」


「女の尻追ってた癖に、あろうことか女からケツまくって逃げたなんて本当、みっともないっすね」


 かくして俺、大庭小太郎はオオバコタロウのバコタロウの部分を一部抜粋し、その情けない出来事を珍妙に且つ惨たらしく切り抜かれ『パコ太郎』という不名誉極まりない称号を与えられることとなった。


 そこに、口は悪いが有愛には甘い『ヒゲちゃん』こと髭乃梓や、奔放で天然な東雲有愛といった面々が加わり、俺のラブホテル従業員(店長見習い)としてのなし崩し的な日々が幕を開けたのだ。

 そして初日の業務を終え、疲労困憊で案内された社宅が、あのオンボロの『217号室』。

 扉を開けた瞬間に鼻を突いた青臭いカビの匂い。

シンナーの様な鼻を抜ける香り。

 シミュラクラ現象で顔に見える天井の不気味なシミ。

 宿泊費は日給からの天引き。手取りはほんの僅か、ザックリ二万円前後。給与明細に記載された意味不明な手書きの『家賃』の項目を見るたび、恨み言が口を突いて出る。

 家賃や光熱費等の諸々が浮いている事を踏まえても、待遇は悪く……いや、大分悪い。

 それもそのはず。

 ピンチヒッター的役割と言えば聞こえはいいが、足りない箇所に足りないだけ出るお助けキャラ的出勤体制。公休日、暦の上で休みであっても、現場が回らなければ今日のように容赦なく内線で叩き起こされ、強制的に駆り出されるという最悪な状況だ。

 プライベートもクソもない、シフトもあってないようなモノ。

祖父との関係に亀裂は入るだろうが…きっと断ることもできたはずだ。

 だが、俺の厄介な性質の一つ『反芻思考』がそれを許さない。


 もしやらない選択肢を選べば、絶対に後悔する。「もっとこうしていれば」「あの時引き受けていれば」という栓のない懊悩が止まらなくなるくらいなら、理不尽を被った方がマシなのだ。


だが結局、自ら選択した結果である今現在も、こうして後悔や自責の念に苛まれ、もっとより良い選択があったのでは無いかと思い悩んでいる。

 そんな自分本位な自己犠牲の果てが、今のこの情けない立ち位置である。

 けれど、悪い事ばかりでもない。

 大学を辞めて以来、正確にはオープンキャンパスで出会った『あの子』と会わなくなってから全く描けなくなっていた初恋の人の絵が、最近は何故だか少し調子が良い。


 (目元は少し下がっていた気がする。けれど、彼女はよく笑う人だったから、自然と目尻が上がっていて…マゼンタ色の瞳は木漏れ日よりもずっと眩しくて……)


 それでもやっぱり、まだどこか記憶の中の朧気な彼女とは似ても似つかない。

故に、納得のいくものは今も尚、描けてはいない。


「……っと」

 歩きながら過去の回想と自問自答に耽っていると、いつの間にか目的の『211号室』の前に到着していた。

 暗い思考を振り払うように小さくかぶりを振り、俺は大きく深呼吸をしてから、下部にドアストッパー代わりに差し込まれたサンダルを確認し半開きになっていた重い扉を押し開けた。


 道中、遠くで聞こえた甲高い鳴き声の様なものは、店の裏側に位置する森林公園に住む野生動物の鳴き声か、はたまたこの敷地内のどこかの部屋から発せられる哺乳類(サル)の鳴き声か……。

 なるべく考えない様にし、靴を綺麗に並べて脱ぎ、室内で一人、作業に勤しむ彼女、このホテルのエース的存在――彩舞駆〈サイボーグ〉こと彩舞詩七美の元へと歩み寄った。

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