Suite.2「国道沿い。217号室のサル共②」
ラブホテルといえばネオン輝く夜の街、心だけじゃなく身体までもが愛と共に包まれる空間。
そして──────数多の命の種が無為に吐き捨てられる場所。
けれども少なからず一時の快楽を通して幸せなんかが生まれ、それに付随した愛の様なものが生まれる場所。
さりとて──────その下には、愛や幸せとは無縁な者たちが、常に歯車としてそこに従事している。
果たして、愛だ恋だと現を抜かして周りの見えなくなった人間は、人間と言えるのだろうか?
周りも見えず、理性も働かない。
快楽を貪り、劣情を消費し、一時の本能に身を委ねる。
そんな愚かさの具現化の様なソレはもう『サル』なのではないだろうか。
そんな愛だ恋だと言うものに、恐れ多くも現を抜かし、理性も知性もろくたに働かせず、こんな吹き溜まりに身を落とす人間以下の愚かな存在……。
──────これは紛れもなく、俺自身の話である。
***
──────時刻は午後十七時と少し。すっかり暗くなった国道を跨いで覗く秋空と、既に暗闇となった森林公園をバックに、ホテル敷地内は夜を感じさせないほどの強いネオンの灯りに照らされていた。
部屋付きの駐車場には平日だというのに珍しく、一号棟から二号棟、三号棟に至るまでのほとんどのガレージに車やバイク、自転車、あるいは徒歩客の姿があり、ビッシリと赤い在室ランプが灯っている。
歩幅大きく歩みを進め、辿り着いた従業員控え室前、サビ着いたレールを滑る自動扉を開けてみれば、俺が『そう』確信してやまない惨状が、今日も今日とて繰り広げられていた。
外履きを木製の簡素なロッカーにしまい、内履きとは名ばかりの使い古された小汚い客室用「だった」スリッパに履き替える。狭く蒸し暑いフロント内に足を踏み入れた途端、怒号とシステムエラーのけたたましい警告音、それから入口シャッター前に列を成す車のクラクションが鼓膜を叩いた。
「……あーもうっ! なんで次から次へと来るんすか今日平日っすよねっ!? あーもうっ!今部屋準備中で入れないって言ってんじゃないっすか! ちょっと待つくらいできないんすかっ!?」
インカム越しに、客に対する態度とは思えない口調で噛み付いているのは、先ほど俺と内線で口火を切ったばかりの愛姫卯月だ。
派手な髪色に、派手な飾り付けのネイル。小柄でありながら存在感増し増し、声量増し増しの、お世辞にもホテルマンとは呼べない出で立ちの彼女は、バンバンとキーボードを叩きながら悪態をついている。
「ジャーナルは詰まって出てこないし、精算機は新札吐き出すし……発注したアメニティも貸し出し用のコスプレ衣装も全然届かないしっ! どいつもこいつもっ…唐変木の朴念仁っすねッ!」
彼女はいつから使われているのか分からない黄ばんだキーボードを頻りに操作し、『準備中』と表記のある一室をクリックすると、その作業時間を食い入るように鋭い目つきで見つめた。
「…『パコ太郎』。女子の後ろに音もなく忍び寄って、一体何してんすか変質者っすか」
「実際ここの杜撰な警備設備だったら、変質者も入り放題かもしれないな。あっどうもお疲れ様です、おはようございます」
「なんだその取ってつけた様なやる気のない挨拶は────── 遅いじゃないっすかッ!!」
一応の決まった挨拶を適当に彼女へと投げ、ズラっと出退勤の並んだ自分のタイムカードを差し込む。
なるべく音を立てずに彼女の座るデスクチェアの後ろまで進んだのだが、監視カメラで既に存在を確認されていたらしく、パソコンに向けられた顔はそのままに、振り返る事なく怒鳴りつけてくる。
起き抜けの覚めやらん頭を抱えた出勤早々に飛んできたのは、挨拶ではなく珍妙なあだ名を冠した罵倒だった。
「卯月…やめてくれないか出勤早々に不名誉なあだ名で呼ぶのは。それに内線から十分と経ってないだろ」
「それとご注文のエナドリ」
「十分が既に遅いって言ってんすよ。十分あったら一部屋客室用意出来るんすから! こっちはあっちもこっちも……大惨事なんすよ!」
「っと、エナドリご苦労っ!」
やや遅れて、システムの音声が『清掃が完了しました』と機械的に告げる。
準備中に際して手動へと切り替えていた自動シャッターを手動操作で上げると、待ってましたと言わんばかりに入口で空ぶかしをしていた黒塗りのSクラスのベンツが窓を開けて、絵の描いてある方の腕をわざわざと威嚇する様にだらんと出したまま、サーキット場かと見紛うスピードで乱暴に青く灯りの灯った空室へと向かっていった。
それと同時に、清掃を終えたスタッフ達も山盛りのゴミとアメニティ、清掃道具を乗せたカートをもって控え室へと戻ってくる。
「遅いっ! いったい何分かかってるんすか! 一人で二十分、二人なら十分で仕上げて貰わないと困るんすよ!」
自動ドアの開閉音を聴き、まだ姿を現してもいない清掃スタッフに向けて喚き散らす卯月。
それを受け、おずおずとバツの悪そうな顔をした褐色の女の子が現れ、後ろに続くように、小柄な男の子とも、女の子にも見える金髪の青年が汗だくで姿を見せた。
「うぇ〜……だってぇ、初手ローション風呂だったんだも〜ん。それに換気扇も切れてたし〜…」
卯月の怒声に遮られるように、フロントの奥から半泣きの声が聞こえてきた。
声の主は、東雲有愛。
日本とボリビアのハーフの女性リネンアルバイト。
童顔で小柄……というより小動物的な印象。
野性味を残しながらも奔放で、どこかフワフワとした印象を感じさせる健康的な肌色の彼女は、モップを握りしめたままぐったりと壁に寄りかかっている。
「あっ! コタローさんおはよ〜! けどままならずかな、こんな状況だよ〜……」
目が合うと、決まった挨拶と共に謝意を伝える彼女。
「平日の火曜日、しかもまだ夕方だってのにこの状況は、東雲さんのせいじゃないし。ローション風呂だったら尚の事仕方ないと思うよ」
「それに、俺がもっと早く出勤してればよかったんだよ」
卯月に怒られたばかりの彼女を励ます意味も込めて簡潔にそう伝えると、彼女はその大きな瞳を数回不思議そうに瞬かせた後、にへらっと少し嬉しそうに笑った。
「でもでもやっぱり、清掃は有愛達の仕事だから、コタローさんは悪くないよっ!」
「東雲さん…!」
「いいや、有愛。大庭の言う通りだ。ああいう厄介なアクシデントは、お前達社員の仕事だろ」
「それに、随分重役出勤じゃないか。未だ見習いだってのに面の皮の厚い奴だな」
東雲さんと至近距離で会話をしていると、遮る様に間に割って入ってきたのは金髪の青年だ。
切れ長の瞳。何故だかそれを幾らか鋭く尖らせ、かつやたら攻撃的に。
「大庭お前、あんまり有愛に色目使うんじゃねーよ。下心見え見えだぜ?」
「え……? あぁ、そんなつもりはなかったんだが。ごめん、ヒゲちゃ…髭乃くん!」
下から突き刺す様な視線と、分かりやすい敵意。
返答を間違えようものなら、すぐにでもその小さな拳が飛んできそうだなと危険を察知し、俺は東雲さんからサッと距離を取る。
小さいのに、この迫力。手乗りの虎、もしくはクロハラハムスターの全身を使った可愛らしい威嚇の様だ。
噛まれたらちょっと痛そうだなと身を引く判断に、迷いはなかった。
「───てゆーかあの客はぁ!! またローション風呂しやがったのかぁ────!!」
そんな微妙な空気をかき消す様に、卯月の既に何度目とも分からない怒声が控え室内に響き渡る。
ようやっとジャーナルを処理し、車番を控え終えた彼女は、未だ興奮冷めやらぬ様子で立ち上がり、 顧客名簿と車番表の挟まったクリップボードを抱えたまま、誰に語りかける訳でもなく自問自答をしながらこちらへと歩み寄ってくる。
「あのエロジジィ一体何度注意したらッ! ……あぁもういっそ、出禁にしてやるのもいいっすね……」
そして、その怒りの矛先は再び清掃を行った二人に向けられる。
「それにしたって、二人で『三十分』はやっぱりかかり過ぎじゃないすか? それなら一旦他の部屋を優先して──────」
「だったらお前が出てくればいいだろ、『拗らせ馬鹿女』」
東雲さんを庇うように低い声で凄んだのは、先程からこちらに敵意を浴びる程に向けている彼――東雲さんと一緒に清掃に入っていた髭乃 梓だ。
通称『ヒゲちゃん』……と呼ぶのを許されているのは東雲さんだけで、他の者がそう間違ってでも呼んだなら、その小さな体躯を大きく震わせ威嚇した後、法律の一切に躊躇なく拳を振るうだろう。
彼は、その中性的な愛らしい容姿からは想像もつかないほどに不遜であり、口が悪い。
基本東雲さんと同シフト、セットで行動することが多い彼は、うんざりした顔で卯月を睨みつけている。
「ああん!? 目つきも口も悪いチビ助が……! 男だからって舐めてっと早上がりさせんぞこら!」
「はっ! やってみろ拗らせアホ馬鹿女。こちとらダブルワークなんだ、ここの稼ぎがなくたって生きていけんだよ!」
火花を散らす卯月と梓。
口の悪さでいえばどっこいどっこい、どんぐりの背比べだとは思うのだが、言及しようものなら巻き込まれ、しまいには二人からの集中砲火を浴びそうなのでやめておく。
その間で、東雲さんがおろおろと笑顔の様な困った様などっちとも取れない表情であわあわと手を振っている。
「どーどー! 次は急ぐから! ねっ『うさ姫』ちゃん!」
「……『ヒゲちゃん』も、女の子にそんな言葉使いしたらだめだよ。さっ、次いってみよー!えっと次は…313あんど315!」
「有愛が言うなら……わかったよ」
東雲さんの天然な仲裁で、髭乃くんは渋々といった様子でモップを担ぎ直し、再び次なる準備中の客室の方へと消えていった。
東雲さんたちは初っ端からローション風呂の処理に追われ、他の部屋では別のスタッフがベッド上で排尿された部屋の復旧にあたっているらしく、勤務開始十分にして、一目で分かる大惨事だ。
珍しく繁忙な火曜日。
詰まっていたジャーナルが連なったまま一気に次から次へと飛び出て、フードや貸し出しの注文はかさむばかり。
事務業務に追われている卯月に代わって、フロント隣に位置する受付専用の小窓で部屋番号の書かれた鍵をお客さんへ渡しに行くと同時に、俺はため息をつきながらエラーを吐き続けて赤いランプを点滅させている精算機の前に立った。
時間申告の事前精算である為に、精算機の故障は致命的だ、急ぎ復旧にあたる。
たった数年前に新調した一台四十万もする高価な代物が、あろうことか新札を認識せずに吐き出し続けているのだ。
「このエラーの場合は、札を半分に折った後、斜めにもう一度折り目をつけてあげれば……っと。よし、通った!」
若干不愉快なゴムの空滑りの音が聞こえるも、何とか無事に精算を終える。
「失礼致しました。それではごゆっくりどうぞ!」
新札吐き出し、というよりはピン札を認識しないオンボロ精算機を裏技で攻略すると、思ってもいない接客文句を作り笑顔で吐きながら、不機嫌そうに足を揺らして待っていた中年のガラの悪い男とやたら派手な見た目の女に鍵を手渡す。
奪い取るようにして部屋へと消えていく客を深く腰を折って見送り、再度このホテルきっての問題児である精算機へと視線を移す。
「これはまた、5-56(潤滑油)浴びせかけないとかなぁ……」
***
「……で、店長は?」
開幕早々のてんやわんや。
俺が呆れ果てて尋ねると、卯月はクイッと顎先を動かし、一瞥の後、親指で奥の休憩室兼物置である和室を指し示した。
そこには、店の売り上げにもトラブルにも一切の関心を示さず、ふんぞり返って……というのは単なる表現で、やたらと猫背で革の剥げたボロボロのデスクチェアに座っている男が一人。
現『VEGA』の店長、支配人を務める長万部寅仁だ。
彼はジャラジャラとやかましい音を出す筐体の前、手元のスマートフォンを横持ちにし、画面と交互に食い入るように見つめている。
「……一発一億から、三億だとして……」
店長はぶつぶつと虚空に向けて独りごちる。
くすんだ茶色の長髪を後ろ手に括り、ホテルマンとは思えない伸ばしっぱなしの無精髭を撫でながら、不意にキィッとデスクチェアが回ると、畳の沈み込む嫌な音と共にこちらに語りかけてきた。
「一日で約三百億の命が吐き捨てられる訳だが……小太郎。全くどうしてこいつらは…本当にどうしようもないとは思わないか?」
「は?」
「命をなんだと思ってるんだろうな、人間ってやつは。欲望のままに発散し、無責任に消費し流していく。あまりにも愚かだ……──────あ」
店長の声がそんな突拍子も脈絡も無い意味不明な話の途中、不意に止まった。
カラフルな画面の中で、色鮮やかな魚の群れが右から左へと横切っていくのが見えた。
「魚群」
「……どうしようもないのは、あんただ……」
俺の心からのツッコミは、海物語に脳を焼かれた店長にはどうやら届きそうもなかった。
祖父がこの男の後釜に俺みたいなしがない大学中退者なんぞを宛がった理由も、少しだけ理解できた気がする。
昼間は近隣の、或いは国道を抜けてやって来るやたら早起きな老人達が集まり、夜になれば酔っ払いに人の話を聞かないチンピラ。周りの見えないバカップル。
問題ばかりのシステム周り。
極限まで少数の……精鋭とは言い難い人員たち。
そしてその中でやはりとりわけ問題なのは、輪をかけて常識が欠如したスタッフたち。
大きな国道沿い、周りに似たようなホテルはない独壇場。客の食い合いも起きない好立地・好条件でありながら、この紛れもない地獄の状況。
昼は穏やかに、まるで老人ホームの様な客層。忙しい日でも平日であれば全三十四室からなる部屋の半分も埋まらないし、基本年配の客は利用時間が長い。その分部屋はやはりとてつもなく汚いのだが、出入りが激しい休憩利用よりは幾分マシだ。
そしてその朝から昼にかけて溜め込んだ客が、この時間、夕方を目安に一気に帰っていく。
それでも今日のこの惨憺たる状況は非常に稀有な例ではあるのだが……。
「『パコ太郎』。フロントはいいっすから、清掃行ってきて下さい。兎にも角にも追掃が終わらなきゃ客いれれないっすよ」
余りの準備中の待ち時間に、皆一様にくたびれ、諦めて帰る事で強引に解消された行列。
売上低迷中のこのホテルにとって、非常に手痛い取り零しだ。
そんな今の状況を頭の中で整理しながら、荒れたデスク上で適当にまとめられたジャーナルをチェックインとアウトに分け、割引サービスやその他書類の調整をしていると、すっかり落ち着きを取り戻した卯月からそう告げられる。
「211号室。『詩七美さん』のサポートよろしく」
「……えっと、ちなみに卯月の代わりに俺がフロントってのは……?」
「ないっすね。ネイル割れるし、汚いし臭いし病気になりそうだし、清掃だけは絶対やらないっすよ。」
「随分と酷い言い草だな」
「あ〜……それと。くれぐれもうちのエース『彩舞駆』の邪魔にだけはならないように」
「善処するよ。それと…あまり期待はしないでくれ」
椅子をしっかりとリクライニングさせ、スマホ片手に、あろう事か勤務中にも関わらずイヤホンで音楽なんぞ聴きながら、ヒラヒラと軽快に手を振る彼女へ若干の恨めしさを帯びた目を向けつつ、決して振り向かない彼女から視線を切ると今一度、外履きに履き替え来た道を戻るのだった。




