Suite.1「国道沿い。217号室のサル共」
──────幸せとは、見知らぬ誰かの犠牲の上に成り立っている。
『幸せ』などと大々的に掲げるのだから、なにをもって『幸せ』とし、なにをもって『不幸せ』とするのか、その定義を明確にしなければならないだろう。
されどそんな曖昧で答えの無い疑問提起は、今よりずっと前、物心ついてすぐにやめてしまった。
哲学者トマス・ホッブズは『人間の本質は邪悪そのものである』と説いた。
放っておけば世界は万人の万人に対する闘争へと陥り、故に人は自らの権利を一部放棄してでも、絶対的な力を持つ何かに統治やそれに類する全てを委ねることで安寧を得るのだと。
デッサンにおいては、白い紙の上に暗い『陰』を落とすことで初めて立体的なリアリズムが生まれ、同時にどこに『光の源』があるのかが浮かび上がってくる。
故に――決して揺るがないのは、誰がどんな形であれ、幸せという光を享受する時、また別の誰かが辛く険しい思い――即ち、不幸せという陰を強いられるということだ。
そんな綺麗事の裏返しのような残酷な真理を、俺――大庭小太郎は、齢二十一、今日までの人生で嫌というほど身に染みて思い知らされてきた。
幼い頃から「誰かに自分を見てほしい」という思い一心で、狂気じみた献身に身を投じてきた。媚びへつらい、己を顧みず他人を尊重し、誰かの為に買ってでも苦労を重ねる。自分の事なんぞ後回しにすればいい、と。
最初期には両親へ。そして学校へと上がればクラスメイトへ。
気づけば、自分の周りを取り巻くすべての人間に対して、自己犠牲のような感情を抱きながら生きていた。
何かしら他者を顧みる必要のない圧倒的な才能を持たない人間は、取り繕った上辺の献身がなければ、到底誰にも見てはもらえないのだと本能で悟っていたからだ。
そうして愚直に積み重ねていれば、いつしか自分にも回ってくると信じていた『幸せ』とやらは、どうやら待機列の最後尾……とは言わずとも、果てしなく後方にあるらしく、持ち前の反芻思考。枝分かれしたあらゆる選択肢と、その一つを選んだ時に『選ばなかったこと』で後悔する未来。頭の中で栓のない懊悩を何千回、何万回と無意味に繰り広げた末に、俺が悲観主義・厭世主義的な結論に辿り着くのは当然の帰結であると言えるだろう。
したがって、今日も今日とて、俺は誰かのためではなく、自分のために利己的な善行を行う。そうして自らの権利を放棄し、誰かの犠牲(踏み台)でい続ければ、いつか、いつの日か巡り巡って自分の元にも幸せとやらの順番が回ってくると、愚かにも信じて。
***
──泥のような眠りの中で、頭の奥に不明瞭な夢がフラッシュバックする。
幼い頃、水車の回る森林公園で出会った初恋の記憶。
霞のようにぼやけた――とどのつまり、今もなおこうして強く胸を締め付け、燻り続けている初恋の面影を、俺はあろうことかほとんど覚えていないのだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチが『モナ・リザ』に用いたスフマート技法のように、指先で幾度も擦り合わされた彼女の輪郭は煙のようにぼやけ、怪しげな微笑みだけを残して霞んでいる。
睫毛は長く、目元は少しだけ下がっていた気がする。けれど、よく笑う彼女の目元は自然と上がっていて……そんな曖昧なシルエットだけが僅かばかりに残っている。
忘れたくなくて、間違えたくなくて、同じ記憶を執拗に反芻し続けた結果『記憶の固執』――砂漠の中で溶けて柔らかくなった時計のように、あの日々の記憶は歪み、溶け落ち、正しい形を保てずにいる。
そして、そんな幼い頃の初恋をいい加減に振り切ろうと、大手を振って踏み出した恋路でさえも、それが「始まる直前」に自らの手で壊してしまった。
大学で出会い、ある『事件』をきっかけにすべてを狂わせた、僅か数ヶ月前の苦い思い出――。
結局の所、自ら進み出て強引に目先の幸せなんぞにすがろうとすれば、『順番抜かし』のソレは自然と離れていく訳で。
彼女が、いや『彼女たち』が、出会った場所も時間も違うというのに、まるで示し合わせたように一言一句違わず口にした言葉。
『幸せは、順番待ちなのだ』と。
その呪いのような言葉を胸に、俺は今もまだ希望的観測にしがみつき、心の奥底で劣情見え隠れする利己的で打算的な善行を、相も変わらず積み続けている。
いつか彼女にもう一度会えた時、自分を見て「大丈夫」だと言ってもらえるように。
……こんな、排気ガスとネオンが混ざり合う国道沿いの吹き溜まり『ラブホテル』で。
***
締め切られた窓、一切の光を断たれた暗闇。
蝙蝠傘のように暗く閉じた、雨風を凌げるだけの場所。
関連性の希薄な俺とこの場所との偶発的な出会いには、何かしらの美しさを孕んだ意味があるのだろうかと、起き抜けに考えるのはそんな正解のない自問自答。
静まり返った室内には、ゴウゴウと汚れの詰まった換気扇の嫌な音が響く。
「……いつ眠ったか、全く思い出せないな。また気絶したのか……」
ここは従業員用の宿泊部屋として、俺が住み込みで働くにあたり急拵えで用意された客室『217号室』。
意識が浮上すると同時に視界に飛び込んできたのは、お世辞にも褒められたものではない現実だった。
暗がりの中、DVDレコーダーの赤い光のみが唯一の光源。手探りで、一人で寝るには大き過ぎるダブルベッドのヘッドボードに手を伸ばし、備え付けられたタッチ式のライトを適当に三つほど押す。
直ぐ様、部屋全体が柔らかな暖色の灯りで満たされた。
眩しさに瞑った目を数回瞬かせた後、ここが今現在の自分の家なのだと確かめるように見回せば、やはり……あっちもこっちもボロのボロリ。
壁は上階の水漏れか、青く淡いカビのような――良く言えば水彩画のような模様があちらこちらに散見され、やたらアートめいた小さい穴も複数開いている。
天井を見上げれば、中央が一段折り上がったデザインになっている。
ベッドを取り囲むように四角く埋め込まれたLEDライトはまるで額縁のようで、その内側は真っ白なキャンバスのような形になっていて、その中央には人間の顔の様に見えてしまう不気味なシミがポツリと浮かんでいる。
周囲の壁とは少しだけ色合いの違う天井の壁紙が湿気で剥がれかけ、だらしなく垂れ下がっているのが、またその不気味さを助長している……。
『シミュラクラ現象』という奴だろうか。三つの点を顔として認識してしまうという厄介な現象。
そのせいで、ここへ住み始めた当初は仰向けに見上げるたび目に入るそれが恐ろしくてたまらず、うつ伏せ、或いは横向きでしか眠れなかった。
(だって、なんだか見れば見るほど髪の長い女の様に見えるんだもんなぁ……)
おまけに、ガタガタと音を立てて今にもすっぽ抜けそうなドアノブに、すっかりホコリを被った安っぽいランプシェード。
これでも一応、二年ほど前、ホテル全体がリフォームされた時にこの部屋も修繕が入るはずだった。
だが、現場の事情を知る者たちの間ではもっぱらの噂だ。社長である俺の父親が変更に次ぐ変更を重ねたせいで現場の人間と揉めに揉め、予算も底をつき、現店長である長万部寅仁の提案によりリネン室の改修を優先した結果、この217号室だけは完全に見捨てられて放置されたらしい。
重い頭を抱えながら起き上がり、ベッドの脇に放置されたキャンバスに目をやる。
そこに描かれていたのは、昨日寝る間際に必死で筆を走らせていた絵の続きだ。
女々しくて、情けなくも夢にまで見る初恋のひと。今や朧気な記憶を辿るように、残っている僅かばかりの面影を忘れないように、こうして時間さえあればキャンバスに筆を走らせる。
クロード・モネが刻々と変わる水面を捉えようと生涯『睡蓮』を描き続けたように、俺がこの水車小屋と彼女の面影を描くのは、もう何度目になるだろうか。僅かばかりの手取りも、そのほとんどが高価な画材に無情にも消えていく。忘れまいと絵の具を塗り重ねるたび、一番下にあったはずの本当の下描きが塗り潰されていくような矛盾を抱えながらも、俺は筆を置くことができないでいた。
「……胸は、もうちょっと大きかったか。お尻はもっと大きく安産型で……いや、そういう問題じゃないだろ俺は……」
自らの劣情由来の独り言に呆れ、自嘲気味に呟きながら視線を逸らそうとした、その時。
――ジリリリリリリリリリリッ!!!
「うわっ!?」
容赦なく鳴り響く内線電話の音に、心臓が痛みと共に跳ね上がる。
デザイン性重視な曲線ウェーブ型の内線専用電話機。慌てて受話器を取れば、向こうから突き刺さってきたのは、我が物顔でフロントを牛耳るギャル社員・愛姫卯月の冷ややかな声だった。
『いつまで寝てんだ『パコ太郎』!! 照明もずっとOFFだし、一体何回戦自分を慰めてるんすか!』
「知ってるだろ?昨日も一昨日も残業で、たった今起きたんだよ。それに、そんな事してないからな。モーニングコールなんてしなくても、すぐ支度して行くか───」
『モニコじゃないっすから。早く・起きて・出勤しろって催促だから。口答え多くてうっざ』
「何をそんなにカリカリしてんだよ。……ガールズデイか?」
「パコ太郎…女の子相手にあんまそういう事言わない方がいいっすよ…?」
「あぁ〜そ・れ・と! 数時間前までかかってたホテルチャンネルの履歴……「ムスメに喰わせて貰ってますっ! vol.3」、これってなんすか〜?』
「……いったいなんの事だか」
『え〜となになに? 「重い病で床に伏せた母、奔放な父親。幼気な一人娘が懸命に働き、どうしようもない両親を体一つで支える人情ドラマ……」企画物っすか?』
「あっ、あぁ〜……それなぁ! 感動モノかと思って間違えて再生しちゃった奴な〜!」
『いやいやっ! 本当に見てるじゃないっすか。ホテルチャンネル新作の中からカマかけただけっすけど、そういうの好きなんすね〜……─────きも』
「すぐ、直ちに向かわせて頂きますので、どうかこの事は愛姫卯月様の中でご内密に……」
『それはパコ太郎の態度次第っすね。自販機でとりあえずエナドリ』
「はっ、直ちに!」
フロント担当兼、今現在の俺の教育係である愛姫卯月との内線での一戦を終え、部屋着代わりのガウンから社員用の黒無地のポロシャツに着替える。
時刻確認の為につけたテレビを見れば、既に十七時過ぎ。
部屋に充満したテレピン油の刺激臭を換気するため、身の丈程の両開きの窓を開けてみれば、近隣のアクセスの要となる大通りの国道は、仕事終わりや遊び帰りの車で側道までが大渋滞を起こしていた。
今日は確か平日の火曜日だというのに、九月になり過ごしやすくなったからか、近くの森林公園や大型ショッピングモールへ出掛ける家族連れも増え、ホテル前の国道は一日の殆どがこうして押し詰まっている。
そんな国道沿いのど真ん中に、存在を誇示するかのようにライトアップされた大きな看板を掲げるこのラブホテル『VEGA』は近年、正確には大々的なリフォームに伴うリニューアルを終えた辺りから、その甲斐もなく客入りが減り続けている。
数億かけたリフォーム。一から見直した敷地内周辺のモダンなデザインに、中世のお城のような目を引く建物の外観。
物価高や不景気の中で随分と強気な判断に出たというのに、昔からの常連を除き、新規の客は寄り付きもしない。
三つの棟からなる、全三十四室の客室。
リフォーム前までは日に五回転はザラで、売上も今の数倍はあったらしいのだが……今では日に二回転もすればいい方だ。
日商は二十〜三十万、一週間で平均二百万程。従業員の給料や維持費などの諸々を差っ引いたなら、リフォームにかけた数億は到底回収できそうにない。
こんな辺鄙で落ち目なホテルで、何故俺、大庭小太郎は『店長見習い』として働いているのか。
何故、有名な『美術大学』を辞めてこんなオンボロの一室に居るのか。
語るには少し長くなりそうだと、思考の整理代わりの自問自答を強引に切り替え、俺は重い内開きの扉を引き開けて、今日も埃っぽいフロント控え室へと向かう。
自室である217号室の駐車場を抜け、いくつかの客室の前を通り過ぎる道中、俺は自分の考えに致命的な『漏れ』があったことに気づく。
このホテルに流れ着いて早一ヶ月程。
この好立地なホテルに客が寄り付かない理由。設備の不行き届きや不景気など要因は多々あるだろうが――その最大の原因は間違いなく、このホテルの
──────『従業員』にある。




