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Suite.20「同居人と約束とサル共」

 ここ最近の俺の生活を一言で表すならば、一昔前流行った強制断食道場ならぬ『強制禁欲道場』である。


 昼下がりの217号室。カーテンを閉め切った薄暗いベッドの上で、俺は悶々とした熱を帯びた溜息を吐き出しながら、手元の無地の白い小箱をじっと睨みつけていた。


 先日、ちとせ所望の新しいコスプレ衣装――もとい彼女の『着替え』を追加発注した際、アダルトグッズの卸業者が「新商品のサンプルです!」と気前よく置いていった試供品の山。自室で検品作業をしていた俺は、その中に紛れ込んでいた『それ』を、誰の目に触れぬ内に密かに回収して隠しておいたのだ。


 箱の中から取り出したのは、半透明のピンク色がかった円筒形のシリコン塊。

 パッケージには『極上生感・ぷにぷに桃源郷』などという頭が悪くなりそうな箔押し文字が躍っているが、要するに最新鋭の男性用大人のおもちゃ――オナホールというやつだった。


(……いや、これは業務上の検品の一環というか、不可抗力というか……寧ろ正規の検品作業に他ならないと言いますか…)

 前回、決死の覚悟で臨んだ『生セルフケア』がちとせの乱入によって無惨にも未遂に終わって以来、二十一歳の健康な肉体に蓄積された若さ由来の劣情は、いよいよ限界の水位に達しつつあった。


 幸いにして今、室内にあの神出鬼没な同居人の姿はない。


 悶々とした定かではない意識に背中を押されるまま、俺がゴクリと唾を飲み込み、手のひらに吸い付くようなそのぷにぷにとした感触を確かめようと指先に力を込めた――まさに、その時だった。


 ひょいっ、と俺の右肩のすぐ後ろから、白くて細い腕が音もなく伸びてきたかと思うと。

 俺の手の中から、半透明のシリコン塊が鮮やかな手際でひったくられた。

「……え?」


「なにこれー? 今流行りのすくいーずって奴?」

 心臓が口から比喩などではなく本当に飛び出るかと思った。

 バッと振り返ると、一体いつの間にどこから湧いて出たのか、先日検品したばかりのカボチャパンツ風ドレスを纏ったちとせが、俺のすぐ背後で無邪気に目を輝かせて立っていたのだ。


 しかも彼女は、奪い取ったばかりの『ぷにぷに桃源郷』を両手でむぎゅーっと握り潰したり、自分のほっぺたにぺたりと押し当てたりしながら、「わぁ〜っ、なにこの感触! つきたてのお餅みたいで気持ちいいー!」などと歓声を上げているではないか。


「ち、ちとせ待てッ!! 顔を離せっ汚っ…くはないが存在が汚い!! それにそいつは断じてスクイーズなんてメルヘンな物じゃないんだ!!」


「だから────── 返せっ…!」


「えぇー? いやーだぁ〜っ!」

 俺が慌てて手を伸ばすと、ちとせはひらりと身を翻し、ベッドの向こう側へと軽やかに飛び退いた。

 未使用の新品だから衛生面はセーフだとかそういう問題ではない。見た目だけなら中学生から高校生くらいにしか見えない少女が、よりによってラブホテルの一室で、あろうことか大人のおもちゃをびよんびよんと伸ばして遊んでいる絵面そのものが、俺の残り少ない倫理観をゴリゴリと削り取っていく。


「いいから返せ! お前が触っていいもんじゃ――」


「あーっ! お兄さんがそこまで顔を真っ赤にして必死になるってことは、さては一人でこっそり独り占めする気だったなー!?」


「敢えて言い訳はしないっ!その通りだから…いいからそっちに動くな!」

 狭い217号室のダブルベッドを挟んで、世にも愚かな争奪戦が始まった。


 俺が右へ回ればちとせは左へステップを踏み、ベッドの上を乗り越えようとすれば彼女は猫のような身軽さでシーツの上を転がってすり抜ける。ならばと、俺はベッドの足元側でわざと大きく左へ重心を傾け、視線だけをフェイントで窓際へと走らせた。

「どこだ〜? こっちには居ないか……なんてなっ!」


「あっ!?」

 引っかかったちとせが逆側へ飛び出してきたところへ、俺は間髪入れずに回り込んで行く手を塞いだ――つもりだったのだが。ちとせは止まるどころか、俺の脇の下のわずかな隙間をスライディング気味に潜り抜け、イーゼルの横でくるりと振り返って見せた。


「あはははっ! あっまーいねお兄さん! 今のフェイント見え見えだよ駆け引きって奴が下手だねお兄さんは!そういう鈍さが女性関係に置いても一歩二歩と……よっと!」

「──────踏み込みきれない原因なのさ!」


「小学生かお前はっ!! どさくさに紛れて人の恋愛観を分析しやがって…」

 ケタケタと腹を抱えて笑い転げるちとせと、大人げなく本気で息を切らして追いかける俺。


 結局、その後さらに数分ほど狭い室内でドタバタと追いかけっこを繰り広げた末、調子に乗って枕につまずいたちとせの手から宙を舞った『すくいーず(仮)』を俺がジャンピングキャッチしたことで、ようやく不毛な戦いは幕を閉じたのだった。



***



「はぁ……はぁ……ったく、人の気も知らないで朝から晩まで騒がしい奴だな……」


「お兄さん案外体力ないね! ──案外…でもないか?」


 回収したブツを箱ごとベッドの下へ厳重に封印した俺は、床にぺたりと座り込んで壁に背を預けた。俺の『男である部分』は今日もまた、見事なまでに塵へと還ってしまったわけである。


 ベッドの端に腰掛けて足をぶらぶらと揺らしているちとせを見上げながら、俺は乱れた呼吸を整えつつ呆れたように口を開いた。


「……お前さ、そんなに有り余るほど元気を持て余してるんなら、こんなカビ臭いホテルに居ないで、外で遊んでくればいいだろ。それこそ数駅先の駅前まで出れば身体を動かして遊べる施設だってあるし、ここの国道を上り方面へ真っ直ぐ向かった先には、確かデカい屋外アスレチックだってあったはずだぞ」


 先日、卯月との『模擬戦』で見かけた賑やかな街並みを思い出してそう促すと、ちとせはピタリと足の動きを止め、ほんの一瞬だけ窓の外――ホテルの敷地と国道を隔てる境界線のあたりへ視線を滑らせた。


 だが次の瞬間には、彼女はバシッと自分の薄い胸を叩き、なぜか誇らしげに顎を上げて言い放ったのだ。

「ふっふっふ……何を隠そう、このちとせ! 『一人〇〇』とやらが、とんと得意ではないのです!」


「威張って言うことかよ、それを」


「だって一人で遊んでも寂しいだけじゃんかー!」

 ぷうっと頬を膨らませてベッドへ仰向けに倒れ込むちとせ。

 そのあまりにも子供っぽい言い分に、俺は思わず小さく吹き出してしまった。


 不思議なものだ。勝手に人の部屋へ居座り、ドアノブは壊すわ洗濯物は溜め込むわで散々振り回されているはずなのに、俺はいつの間にかこの奇妙な同居人に対して、長年使い込んで指先に馴染んだ絵筆のような愛着が湧いてしまっているらしい。


 きっと、底なしに騒がしいこいつの明るさの前にいると、俺の悪癖である陰鬱な反芻思考に沈み込む暇すら与えられないから――測らずも、そんなところに幾らか救われている自分がいるのだろう。

「……それなら今度、遊びに連れてってやるよ」


 俺が何気なくそう口にすると、ベッドの上のちとせがガバッと勢いよく上半身を起こした。


「……えっ?」


「まぁ……俺もたまには陽の下で身体を動かしたいしな。そういうデカい雑貨屋とかゲームセンターに行けば、それこそ『本物のすくいーず』だって沢山置いてあるんだから」


「ホンモノ……?」


「いやっ……まぁホンモノというか、さっきのじゃなくて、もっと健全なシリコンの塊というか……」

 余計な墓穴を掘りかけて咳払いで誤魔化した俺を、ちとせは大きな瞳をまん丸に見開いたままじっと見つめてきた。


 彼女の瞳がきらきらと揺れ、今にも感極まったような声で俺の名前を呼ぶ。

「お兄さん…………!?」


「いいんだよ、俺がそうしたいと思ったんだから気にすん――」

「……お金、大丈夫そ?」


「………だいじょばない」

 感動的な空気をコンマ一秒で粉砕する現実的すぎるツッコミに、手取り二万の俺は思わず天を仰いだ。


「……いいんだよ、子供が人の懐事情なんて心配するなっての。そうだな……車で行けば早いんだろうけど、生憎俺は車を持ってないし、まさか詩七美さんに車を出してくれなんて頼む訳にもいかないしな…」


 俺は記憶の中の路線図を辿りながら、膝の上でトントンと指を鳴らした。

「ここから電車で駅を幾つか乗り継げば、駅からそのまま直結してる広いアウトレットモールがあるんだよ。改札を出た目の前で、ビーグル犬をモチーフにした可愛らしいキャラクターの像がお迎えしてくれる場所がさ」


「びーぐる犬……!」


「ああ。映画館もゲーセンも入ってるし、服屋も山ほどある。そこで、コスプレじゃない普通の着替えの一つでも買えばいいさ」

 少しだけ照れくさくなって首の後ろを掻きながら、俺は視線を逸らして付け加えた。


「……そういうオシャレな場所、俺も男ひとりじゃ行きづらいからな。お前がついてきてくれるなら、むしろ助かるよ」

 数秒の沈黙が落ちた。

 ちとせはベッドのシーツを小さな指先でぎゅっと掴み、ほんの一瞬だけ、何かを迷うように――あるいは遠い場所へ出向くことへの微かな恐れを押し殺すように睫毛を伏せたが、すぐに太陽みたいな満面の笑みを弾けさせてベッドの上で跳ね上がった。


「……行くっ! ちとせ、お兄さんと一緒に行くーっ! あっ、そしたらさ、ちとせ最近どうしても観たい映画があるのですが! 『君胸』! テレビのCMで観たあの胸板?の映画、そこの映画館で観に行きたいっ!」


「『君胸』って、あの『君の胸板が厚すぎて上手く泣けない。』かよ……。分かった分かった、それも予定に入れといてやるから、ベッドの上で跳ねるな。スプリングが抜けるだろ。ただでさえこの部屋の全てがオンボロなのに…」



***



 ちとせが上機嫌で鼻歌を歌いながら、映画館の席はどこが一番ストレス無く観れるのかなどと気が早い相談を始めたのを横目に、俺はイーゼルに立てかけられた白いキャンバスへとぼんやり目を向けた。


 ここ最近になって、俺は驚くほど外へ繰り出すことが多くなった。


 最低限必要な画材を買いに行って逃げるように帰ってくるだけじゃない、一見すれば時間を無為にするような外出。詩七美さんや卯月と囲む朝のファミレスに、先日の駅前の商業施設、そして少し先の未来ちとせと向かうであろうアウトレット。


 かつての俺は、時間というものは有限なのだから、その限られた時間の目一杯をキャンバスと向き合うことだけに費やさなければならないと思い込んでいた。けれど、こうしてキャンバスの外に目を向けなければ、決して見えてこない色彩もあるのだと、ようやく気づき始めている。


 誰かを遊びに誘い、少し先の予定を立てる。

 そんな世間の人間にとっては当たり前な事に一喜一憂して、その日の為に少しだけ仕事を頑張ってみたりする。今のこの瞬間には気にも留めない、色合いすら意識しない真っ白なキャンバスみたいな日常であるのに、きっとこれも過ぎ去った途端に恋しくなって、やけに鮮やかに色づいて見えるのだろう。どうして人間って奴はこう、失ってからしか気づけないのか。あるいは過ぎ去ったが故に勝手に美化され、再評価される――さながら、死後に評価を受ける画家の作品のように。


「……ねぇ、お兄さん」

 ふと、ベッドの端でうつ伏せになったちとせが、両手で頬杖をつきながら下から俺の顔を覗き込んできた。

「お兄さんはさ、もしちとせがどんな姿であっても……たとえ超絶どすこーいなガンタンクみたいな女の子だったとしても、こうして変わらず存在を受け入れてくれた?」


「……なんだ、その唐突にルッキズムを試される質問は」

 俺は苦笑しながら、キャタピラを備えた重量級のちとせを頭の中で想像して肩をすくめた。

「まぁ正直、ベッドの大半を占拠されそうな懸念はあるが……正味、容姿で対応が変わるなんて事は有り得ないな」


「ほんとー? 可愛い子を隣に置いておきたいとか、フレネミー的な意味合いじゃなくて?」


「そんなに俺って奴は器用じゃないさ」

 俺が呆れたように返すと、ちとせは目を細めてニヤリと口の端を吊り上げ、わざとらしく胸元を両手で隠すポーズを取った。

「……はっ! さてはまさか……ちとせがまだ若くて世間知らずで、手篭めにしやすそうだから餌付けしてるな……!?」


「断じて違うわ!! 人聞きの悪いことを言うな、大体俺は昔から年上が好きなんだよ!」


「へぇ〜、年上なんだ? 例えば……お兄さんの四つ上の、あのサイボーグのお姉さんみたいな?」


「……えっ、詩七美さんって二十五歳だったのか……?」

 なぜちとせが俺すら知らなかった詩七美さんの正確な年齢を把握しているのかは謎だったが、俺は思わず腕を組んで唸ってしまった。


 ……年上の女性としての詩七美さんか。まぁ、あながち間違いでもないというか、どちらかと言えば正解寄りだ。ただそこに居るだけで場の空気がふわりと暖かくなる母性のような包容力と、あの静かな言葉を前にすると、こちらの捻くれた理屈などすべて肯定してしまいたくなるような……不思議な魅力があの人にはある。


 と、彩舞詩七美。無機質な彩舞駆〈サイボーグ〉の様な彼女の事を考えるとどうにも記憶の底を探る様な感覚、頭の中思考スイッチが急に切り替えられた様な不可思議な意識に囚われる。


だと言うのにそれは、深堀ろうとすればする程に、すぐにその思考はそっくりそのまま深い水底に沈められた様にぼやけてしまうのだ……。


そして思考のスイッチはそのまま、また厄介な思考へと深く潜っていってしまう。例えば、絵画の世界には『空気遠近法』という技法がある。遠く離れた景色ほど大気の層を挟んで輪郭が滲み、青みがかって美しく見えるという理屈だ。


 近いものは大きく、かつ大袈裟に捉え、遠いものへは変わらない大きさのままで――もしそんな風に器用に、あらゆる物事や人との距離に向き合えたなら、俺は今よりもっと上手く生きられたのだろうか。そして、もっと早くそれに気づいてさえいれば、かつての大事なものを取りこぼさずにいられたのだろうか。またそんな栓のない懊悩が、繰り返し頭の中を掠めていく。


 俺は横から急にかつ強引に差し込まれた思考を振り払うように小さく息を吐き、目の前でケラケラと笑っているちとせを見た。


 底なしに明るく、まだ若く、本来ならあらゆる可能性に満ち溢れているはずの少女が、なぜかこんな場末のラブホテルの一室に居座り続けている現状。きっと彼女にも、卯月と同じように何か抱えた事情があるのだろう。


 彼女の口から発せられるまでは、無理にそれを探ろうなどとは思わない。けれど、対岸からほんの少し優しく手招きして、外の世界へ連れ出してやるくらいのことはしてもいいはずだ。まぁ、結局俺という人間は、やってもやらなくても後からウジウジと後悔をする生き物なのだから、だったら『やってする後悔』を選んだ方が幾らか気持ちも楽だろう。

「……よし。お出かけは、月末の鮎祭りが無事に終わったらな。ちょうどその頃に今月の給料も出るし、その時に行こう」


「うん……!! あっ、でもでも、ちとせはお祭りも行きたいかも!」


「無茶言うな、店の最大の繁忙期だぞ。……俺だって本音を言えば、祭りの屋台で香ばしいイカ焼きとか食べたいさ。誰が好き好んでこんな密室に籠もって、別の意味のイカ臭さを感じなきゃならんのか……」


「うわぁ、お兄さん最低の発言!」


「うるさい、現場の切実な叫びだ。……まぁ、来年には今と少し店の状況も俺たちの立場も違うかもしれないし、お祭りはその時にまた考えればいいさ。なんせ、お祭りってやつは逃げないからな」


 俺が立ち上がって伸びをすると、ちとせは一瞬だけきょとんと目を瞬かせ、それから「……うん、そうだね! 約束だよ!」と眩しいくらいに力強く頷いた。


 少し先の予定を、誰かと過ごす一日を予め定めるということ。

 たったそれだけの些細な約束が、時に辛く険しく、すべてを投げ出して死んでしまいたくなるような夜においてさえ、人が現実に踏みとどまって縋りつく『生きる理由』になり得るのだと――俺たちはまだ、そんな大袈裟な言葉にはしないまま、ただ少しだけ浮き足立った気分で夜勤前の夕暮れを迎えていた。

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