Suite.19「マドンナと証人とサル共」
「大庭君! 今夜は朝まで一緒にいて欲しいのっ!」
「──────え?」
午後十一時ちょうど、シフト交代のフロント奥で響いた甘やかな懇願に、俺は啜りかけていた賞味期限切れの廃棄カップ麺を気管に詰まらせて盛大にむせ返った。
「げほっ、ごほっ……! か、閂さん、いくらここがラブホテルだからって、過程を全部すっ飛ばしてなんてことを……!」
「あら、やだ。ごめんなさい、変な聞こえ方しちゃったかな…?」
コロコロと鈴を転がすような声で笑いながら、俺の背中を優しくさすってくれるのは、この『VEGA』における唯一無二のマドンナ的存在――閂伊織さんだった。
ゆるく波打つ艶やかな栗色の長い髪に、左目の下で色気を主張する小さな泣きぼくろ。制服のベストの上からでも分かる抜群のプロポーションと、誰に対しても分け隔てなく微笑みかけるおっとりとした包容力。狂犬めいた教育係の卯月や、表情の読めない詩七美さん、口の悪い髭乃くんにナマケモノの店長というクセの塊みたいな面々が揃うこの吹き溜まりにおいて、彼女だけは間違いなく場違いなほどの華やかさを放っていた。
俺はティッシュで口元を拭いながら、涙目で彼女を見上げる。
「……ええと、つまりどういう意味ですか? そもそも今夜は俺と閂さんの二人シフトなんだから、嫌でも朝まで一緒じゃないですか」
「ほら、深夜の三時から六時までの一番暇な時間帯って、いつもフロントの二人が交代で仮眠休憩を取るでしょう? 先週大庭君と一緒だった時は、私が後半にフロントへ立った時は何事もなかったんだけど……今夜は休憩に行かずに、朝までずっと私の隣にいて欲しいの」
そう切り出した閂さんの美しい眉が、ほんのわずかに困ったようにハの字へ下がった。
聞けば、ここ一ヶ月ほど、彼女がフロントに立つ深夜帯を狙い澄ましたかのように現れる『厄介な常連客』に悩まされているのだという。
「最初はね、チェックインの時に挨拶を交わすくらいの普通のお客様だったのよ。でも、いつものように笑顔で対応していたら、なんだか妙に気に入られちゃったみたいで……」
「はぁ……まぁ、閂さんにニコッとされたら勘違いする男が出るのも分からなくはないですけど」
「それが、だんだんエスカレートしてきちゃってね。人の波が収まる深夜三時になると必ず一人でやって来て、私がシフトを上がる朝の九時までずっと滞在するの。その間、何度もフロントに内線をかけてきては世間話をしようとしたり、帰りの時間を合わせようとロビーで粘ったり……先週なんて、カウンターの端に置いてあった私の飲みかけのペットボトルを見つけて、『そのお水を一万円で買い取らせてくれ』って言い出したのよ」
「……妖怪横丁の大妖怪じゃないですか、それ」
先日、卯月と相手にした『使用済みナース服おじさん』といい勝負の変質者っぷりである。
俺は思わず顔をしかめ、素朴な疑問を口にした。
「店長に言って出禁にしてもらうわけにはいかないんですか? というか、そもそもの話閂さんみたいに綺麗な人なら、こんな治安の悪い国道沿いのラブホで夜勤なんか続けなくても、もっと安全で条件のいい昼間の仕事がいくらでも見つかるんじゃ……」
俺の言葉に、リネン伝票を揃えていた閂さんの白い指先がふと止まった。
彼女は少しだけ迷うように長い睫毛を伏せると、いたずらっぽく唇に人差し指を当てて「……みんなには内緒よ?」と囁いた。
「ここって、この辺りホテルの中じゃ破格に時給がいいでしょ? それに余計な人間関係のしがらみもない。それに、今はどうしてもお金を優先したくて」
「お金、ですか?」
「ええ。……私ね、近く目標のお金が貯まったらここを辞めて、大きな手術をしなくちゃいけないの」
さらりと告げられた言葉に、俺は息を呑んだ。
大きな手術。その響きに、改めて彼女の華奢な肩や、蛍光灯の下で透き通るように白い肌へと視線が向かう。普段はどんな理不尽な客にも笑顔を絶やさない店のマドンナが、実は人知れず深刻な事情を抱え、手術費用を稼ぐためにこんな深夜のラブホテルで必死に身を粉にしていたとは――。
(……なんて健気な人なんだ……ッ!)
普段の俺なら他人の事情に首を突っ込む柄ではないが、ここまで打ち明けられて奮い立たない男はいない。
俺はカップ麺の容器をゴミ箱へ叩き込むと、決然と胸を張って頷いてみせた。
「事情は分かりました。安心してください閂さん、今夜は一歩もそばを離れませんし、もしそいつが現れたら俺が責任を持って追い返しますから!」
「わあ!頼もしいわね……! ありがとう、小太郎君」
ふんわりと花の咲くような笑顔を浮かべる閂さん。
ただその瞳の奥に、どこか別の意味合いを含んだような静かな光が宿っていたことに、この時の俺はまだ微塵も気づいていなかった。
***
そして迎えた、午前三時過ぎ。
金曜の夜とはいえさすがに客足の波もすっかり引き、国道を行き交う長距離トラックの低い走行音だけが遠くに響く時間帯になった頃――ロビーの自動ドアが、ウィーン、と重苦しい音を立てて開いた。
フロントの防犯モニターに映し出されたのは、季節外れの湿ったグレーのパーカーを羽織り、脂ぎった前髪の奥から血走った目をギョロつかせている四十代前後の男だった。
男は一度精算機へと向かったかと思えば部屋を選ぶ事もなく、一直線に受付の小窓へと歩み寄ってくる。
「……来た。あの人」
閂さんの小さな声に、俺は「任せてください」と頷き、彼女を奥へ下がらせてから自分が受付の小窓をスッと開けた。
「いらっしゃいませ。お部屋はあちらのパネルから――」
「なっなんだあんた、いっ伊織ちゃんは!? 今日は伊織ちゃんのシフトだろ、駐車場の車見て分かってんだからなぁ… さっき精算機に千円札入れたら詰まったんだよ、伊織ちゃん呼べよぉ早くぅ…!」
小窓の隙間から唾を飛ばさんばかりの剣幕で怒鳴り散らす男。さっきモニターで見ていた限り、男はパネルに指一本触れていない。閂さんをフロントの外――ロビーへと誘き出すための見え透いた口実だった。
「精算機の不具合なら俺が見ますよ。お客様は少し下がって――」
「うるせぇ…!お前なんかお呼びじゃねぇんだよッ! 伊織ちゃんが来るまでここに居座るからなぁ…!」
ドカッと深々と備え付けのソファに腰掛けるどころか足を乗せて行儀悪く寝そべり始める男。
完全に話の通じる相手、状態ではない。俺が警察を呼ぶべきか奥を振り返った時、閂さんが静かに立ち上がり、精算機点検用の鍵を手に取った。
「大丈夫、私が出るわ。ここで突っぱねても、どうせ朝の九時まで外で待ち伏せされるだけだから、今夜はっきりお断りしてくる」
「えっ、でも一人で行くのは危険ですよ! 俺も一緒にロビーへ出ます!」
「ううん、きっと大庭君が隣に立つと、あの人は余計に逆上して話にならなくなるから」
閂さんはフロントとロビーを繋ぐ従業員用扉のノブに手を掛けると、くるりと振り返り、俺の目を真っ直ぐに見つめて念を押すように言った。
「いい? 大庭君、絶対ぜーったいにそこに居てね!?」
「っ……! は、はい! ドアを少しだけ開けて、すぐ後ろで待機してますから!」
「お願いね。じゃないと、どうなるか分からないから……」
切実な響きを残して、閂さんがロビーへと足を踏み出す。
俺は五センチほど隙間を開けた従業員用扉の陰から、固唾を呑んで二人の様子を見守った。今にも震え出してしまいそうなほど華奢な彼女の背中。もし男が指先ひとつでも彼女に触れようものなら、コンマ五秒で飛び出してタックルをかましてやる――俺は靴底に力を込め、臨戦態勢を取った。
ロビーの真ん中、ちょうど天井の防犯カメラが死角なく全体を捉える位置で、閂さんが丁寧に足を止めて一礼する。
「お待たせいたしました。精算機の詰まりとのことですが……確認したところ、異常はないようですけれど」
「い、伊織ちゃぁん……やっと出てきてくれたぁ……! 僕さぁ、今日も仕事終わりに三時まで外で時間潰して待ってたんだよ。これから伊織ちゃんが上がる朝の九時まで、同じ屋根の下でずっと一緒だからなぁ……へへ」
男は気味の悪い猫なで声を出しながら、ポケットからくしゃくしゃの壱万円札を三枚引っ張り出し、一歩、また一歩と閂さんへにじり寄った。その濁った視線が、先ほど開いた従業員用扉の隙間からチラリと見えたフロントデスクの端――閂さん私物の、半分ほど減ったミネラルウォーターのペットボトルへと吸い寄せられる。
「ねぇ、お願いだよぉ……他のヤリモクのクズ連中とは違うんだよ俺は、本気で伊織ちゃんを愛してんだよぉ! 伊織ちゃんの飲みかけのペットボトルの水、三万で買い取らせてくれよぉ! 減るもんじゃないだろ、俺の純愛を受け取ってくれよ……!」
「お客様。当店ではスタッフ個人の私物をお譲りすることはできませんし、そのような目的での滞在もお断りしております。お帰りいただけますか」
最初こそ丁寧な接客用語で応じていた閂さんだったが、その声から営業用の甘い温度がスッと消えた瞬間――男の顔色がどす黒く豹変した。
「……ッはぁ!? なんだよその冷たい目は!! こっちは毎週毎週、何万もこのボロホテルに金落としてやってんだろうが!!」
「申し訳ございませんが、お引き取りを――」
「…ッ!!ラブホで夜な夜な働いてるくせに聖女ぶってんじゃねぇぞコラァッ!! 散々思わせぶりな笑顔振りまいといて、俺の気持ちをコケにしやがって……大人しく言うこと聞けやァッ!!」
理性のタガが完全に外れた男が、獣のような咆哮を上げて両腕を広げ、閂さんをロビーの床へ組み敷こうと真正面から飛びかかった。
「閂さんッ!!」
俺が従業員用扉を蹴り開け、飛び出そうとした――まさにその瞬間だった。
目の前に迫る暴漢を前にして、閂さんが振り返りもせず、まるで深夜の湖面のように静まり返った声で言ったのだ。
「小太郎君は、そこでしっかりと見ててね」
「……え?」
「……後でしっかりと、証言してもらうから」
俺の足が、敷居の上でピタリと凍りついた。
直後、俺の網膜が捉えた光景は、現実感を完全に喪失していた。
覆いかぶさるように迫った男の両腕を、閂さんは悲鳴ひとつ上げずに半身でスッと躱すと、逆に相手の懐へと迷いなく一歩踏み込んだ。
パシンッ、と道着が空気を裂くような鋭い音が鳴る。彼女の白い右手が男の胸倉と脇の下へ滑り込み、左手が袖口を完璧にロックしたかと思うと、タイトな制服のスカートを翻しながら、男の重心の下へと見事なまでに深く腰を落としたのだ。
「……っ、あ?」
男の視界がぐるりと天地逆転する。
艶やかな栗色の長髪がふわりと美しい弧を描き――次の瞬間。
ドゴォォォンッ!!
ロビーのパンフレット棚がガタガタと跳ね上がるほどの轟音が轟いた。
推定七十キロ優に超える大男の巨体が、華奢なマドンナの肩越しに教科書通りの放物線を描いて宙を舞い、背負い投げ一閃、ロビーのカーペットへと叩きつけられたのである。
「がっ……は……ッ!?」
肺の中の空気を全て強制排出され、カエルのように手足を痙攣させる男。
だが、追撃はコンマ一秒の猶予も与えなかった。着地と同時に流れるような身のこなしで男の背後へと回り込んだ閂さんは、乱れひとつない美しい表情のまま、その白く細い右腕を男の顎下へと滑り込ませ、自らの左二の腕を掴んで後頭部を固定し――迷いなく締め上げた。
芸術的なまでに極まりきった、チョークスリーパーだった。
「ぐっ、ぎ……ま、まっ……」
パタ、パタ、と男が苦し紛れに床を二度叩き、やがて糸が切れた人形のようにコトリと完全に意識を手放すまで、実に五秒足らずの出来事だった。
静寂が戻った午前三時十五分のロビーには、自動販売機の低い冷却音と、場違いにムーディーな有線BGMだけが流れている。
閂さんはゆっくりと腕を解いて立ち上がると、息ひとつ切らさずスカートの裾のシワをトントンと整え、頬にかかった後れ毛を優雅な仕草で耳へと掛けた。
そして彼女は、白目を剥いて大の字に伸びている変質者を一瞥してから、ドアの前で石像と化している俺の方へと振り返り、どこか涼しげな吐息と共に微笑んでみせたのだ。
「ふぅっ。どっちが先に手出したか、警察にしっかりと証言してね、大庭君」
「………はい」
***
三十分後。パトカーの赤い回転灯が『VEGA』のネオン看板を照らし出す中、目を覚ましてガタガタと震える男は、防犯カメラの鮮明な映像と俺の偽りなき目撃証言によって、完全なるこちらの正当防衛が認められた上で警察署へと連行されていった。
ようやく嵐が去ったフロント奥で、俺は閂さんが淹れてくれた温かいミルクティーの紙コップを両手で握りしめながら、遅れてやってきた戦慄に小さく震えていた。
『今夜は一緒にいて欲しいのっ!』――つまり、過剰防衛と疑われないための生き証人が欲しかったということだ。
『じゃないと、どうなるか分からないから……』――つまり、誰も見ていない密室でブチ切れたら、手加減できずに相手の首の骨でもへし折ってしまいかねないからストッパーが必要だったということだ。日本語というのは実に恐ろしく、そして奥が深い。
「本当に助かったわ、大庭君。あなたが見ていてくれたおかげで、冷静に『絞め落とすだけ』で我慢できたもの。昔、護身用にほんのちょっとだけ習っていたのが役に立ったわね」
「……『ほんのちょっと』の基準が、俺の知ってる世界と違いすぎるんですが……」
おっとりと微笑みながらミルクティーに口をつける横顔は、間違いなくいつもの優美なマドンナそのものなのだが……。
『俗通三国志境 孔明六擒孟獲』浮世絵師・歌川国芳の、戦う強い女性が大柄な複数の男を力強くねじ伏せる様をダイナミックに活写した作品。まるでそこに登場する騎乗した女戦士そのものの様な彼女。
だが、俺の脳裏には今、先ほどの変質者以上に不可解な『最大の謎』が渦巻いていた。
(……これだけ完璧な背負い投げからの寝技をノータイムで極められる人間兵器が、一体何の『大きな手術』なんて受ける必要があるんだ……?)
まさか古傷の悪化か、それとも見た目には一切分からない内臓の疾患か、あるいは――考えれば考えるほど、彼女の浮かべる聖母のような微笑みが底知れないものに思えてくる。
少なくとも確かなことが一つだけあるとすれば、この『VEGA』という吹き溜まりには、やはり俺の常識など遥かに凌駕する怪物ばかりが棲みついているということだけだった。




