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Suite.18「模擬戦デートとサル共」

 社会という場所へ出てみてまず気づくのは、自分がそうであるように、世の中の『大人』というやつは案外大したことがないという事実だ。


 それどころか、一歩夜の帳が下りたこの国道沿いに立てば、規律や規範、社会通念といったものが一切通用しないとんでもない人間がうようよと這い出してくる。その有様はさながら、百鬼夜行の──────『妖怪横丁』である。


「えへへ……あのぉ、お姉さん。さっき借りたナース服、すっごく良かったからぁ、追加でもう一着……今度はお姉ちゃんの使用済みのやつとかって、裏メニューになかったりするぅ……?」


「ないっすー。つーか次その臭い口開いたら即刻警察に通報の上で永久出禁にするんでー、さっさとお帰りくださーい」

 深夜二時のフロント。受付の小窓の向こうで脂ぎった笑みを浮かべていたデリヘル終わりの中年の男が、卯月の氷点下の声色にビクリと肩を震わせ、「は、はいはい、冗談だってば、はいはい……」と小声で呟きながらそそくさと自動ドアの向こうへ消えていった。


 いわゆる『変質者』と言うやつである。

「なんか今日待ち合わせ利用多いよな、イベントでもうってんのか?」


「知らないっすよ。てかそもそもにして、この令和の時代に金で女を買おうなんてのが悪魔の所業っすね」


「まぁ彼女たちが居るから、ああゆう妖怪が世に放たれずに済んでると思えば…な」


「風俗の存在が性犯罪の抑止に繋がってるって奴っすか? はっ、デリヘル呼ばなきゃ犯罪する奴は既にして犯罪者みたいなもんすよ…あぁおぞましいっす」


「辛辣だなぁ…」

 ちなみに今夜だけで、備品のローションを三回連続で要求してきた『おかわり君』、小窓の前で十分間無言で立ち尽くしていた『モジモジ君』、そして威勢よく入ってきたくせにパネル操作が分からずキレ散らかした『テンプレヤンキー君』と、実にバラエティ豊かな妖怪たちが通り過ぎていった。


「……なんすかね、この既視感。この系統の人達には、それぞれ初期設定で言語セットが一つしか搭載されてないんすかね」


「俺、ああいう大人たちを見てると思うんだよ。『あぁ、世の中って奴は常識という物差しじゃ測れない』ってさ。ある意味、精神衛生にはいいだろ」


「良くないっすよ! 毎日毎日妖怪共の相手して…こっちの寿命が縮むんすから!」

 消毒用アルコールを小窓のカウンターへこれでもかと吹き付けながら、卯月が忌々しそうに身震いした。


 それから数時間後。空が白み始め、勤務終わりの詩七美さんと控え室で顔を合わせた時も、卯月の憤慨はまだ収まっていなかった。


「でも私、今夜しみじみ考えたんすよ。なんでいい歳した大人が、あんな話の通じない化け物になっちゃうのかって」

 紙コップの甘いばかりのカフェオレを啜りながら、卯月が深刻な顔で人差し指を立てる。


「あれって絶対、若い頃にまともな恋愛とか人との距離感をすっ飛ばしたまま歳だけ食って、暗い部屋で変な妄想ばっかり熟成させちゃった結果じゃないっすか? つまり! 若いうちにそれなりの真っ当な経験を踏襲しておかないと、将来あんな妖怪横丁の化け物になるよって、そういう事なんすよ!」


「……極論が過ぎる気もするが、あながち否定しきれないのが怖いな」

 実家で描けもしない初恋の絵と睨めっこしていた数ヶ月前の自分を思い出し、俺が微妙に目を逸らした、その時だった。


 ロッカーの前でエプロンの紐を解いていた詩七美さんが、ふわりとこちらを振り返り、至極穏やかなトーンでぽつりと言った。

「……じゃあ、して来たらいいと思うよ。デート」

「「……は?」」

「二人とも……妖怪になるの、嫌なんでしょ?」

 目をパチパチと瞬かせる詩七美さんの提案に、控え室の空気がピタリと凍りつく。


 一拍遅れて、卯月が椅子から転げ落ちそうな勢いで声を裏返らせた。

「パ、パコ太郎とデートぉ!? な、なんで私がこんな唐変木と!」


「それはこっちのセリフだ。休日にまで教育係とは名ばかりの口の悪い朴念仁のお守りはごめんだぞ!?」


「ううん、本番じゃなくて……練習、みたいな感じで。……ちょうど店長が、駅前の大きいお店でフロントのボールペンとか、芳香剤の買い出し、誰かに頼みたいって言ってたから……ついでに…ね」

 真顔でぽつりぽつりと、表情の読めないいつもの詩七美さんを前に、卯月が「うぐっ……」と言葉に詰まる。


 彼女の頭の中で今、『パコ太郎こと大庭小太郎と出かける屈辱』と『将来妖怪横丁に住まう化け物に成り果てる恐怖』が激しく天秤にかけられているのが手に取るように分かった。


 やがて卯月は、観念したように顔を真っ赤にしながらも、ボソッと小さな声で呟いたのだ。

「……ていうか、そもそも……デートって、なにするんすか……?」


「……俺に聞くなよ」

 かくして、二十一歳の美大中退男と、異性経験に乏しい─推測ではあるが─毒舌番犬娘による、世にも不毛な『化け物回避・デート模擬戦』の火蓋が切って落とされたのだった。



***



「先に釘を刺しておくっすけど! デートだとか言っても結局、お店の備品を貴重な休日に買いに来る、体のいい休日出勤なんすからね! そこんとこ勘違いしないでくださいよ!」


「わかってるから、改札出たところから大声で連呼するな。周りの目が痛い」


「パコ太郎の癖にいっちょ前に周りの目なんて気にしちゃって、なんか生意気っすね」


「はいはい…」

 数日後の昼下がり。九月下旬だというのに夏が居座り続けているような強い日差しの下、俺と卯月は電車に揺られて数駅のところにある大きなターミナル駅へと降り立っていた。


 改札を抜けた先には、東西に広がる二つの巨大な複合商業施設を繋ぐように、広大なペデストリアンデッキが伸びている。東側の広場を見下ろせば、近代的なショッピングモールの真ん中に、なぜか立派な木造の五重の塔ならぬ七重の塔がそびえ立っているのが見えた。平日にも関わらず、デッキの上は買い物客や学生カップルで賑わっている。


 今日の卯月は、いつものダボついたパーカーではなく、薄手の黒いカーディガンにロングスカートという、少しだけ外行きを意識した格好をしていた。メイクも先日と同じくナチュラル寄りだ。もっとも、そこへ言及すればまた袋叩きに遭うのは学習済みなので、俺は黙って歩調を合わせる。


 七重の塔の足元にある、円形のレンガ敷きステージの脇を通りかかった時だった。

 先を歩いていた卯月の足が、ふと緩やかに止まった。


「……久しぶりにここ来たけど、やっぱりもう居ないっすよね」

 ステージの上には今、誰もいない。ただ白い鳩が数羽、日溜まりのレンガをつついているだけだ。


 俺は少しだけ記憶を辿り、すぐ合点がいった。以前、卯月が貸してくれたインディーズ時代の紙ジャケットCD――彼女が敬愛してやまないシンガーソングライター・高谷庵が、かつてメジャーへ上がる前に路上ライブの主戦場にしていたのが、この駅前の広場だと聞いたことがあったのだ。


「ああ。今はきっと、あっちこっち大忙しで飛び回ってるんじゃないか」


「……っすね。いつまでもこんな所で立ち止まって歌ってるような人じゃないっすもんね」

 眩しそうに目を細めて空を見上げた卯月の横顔には、ほんの一瞬だけ、憧れと少しの寂しさが溶け合ったような柔らかい色が差していた。


 だが次の瞬間には、彼女はパンッと自分の両頬を軽く叩き、振り返って俺をビシッと指差した。


「よっし! 感傷終了! いいっすかパコ太郎、これはあくまで『普通の人間のデート』を履修するための模擬戦なんすからね! まずは手始めに、あそこのアニマルカフェに突撃するっすよ!」


「……お前が普通に動物をモフりたいだけじゃないのか、それ」



***



 結論から言えば、俺たちの『模擬戦』は開始十分で前途多難を極めた。


 最初に訪れたモール内のアニマルカフェは、見渡す限り十代後半から二十代前半のキラキラしたカップルで埋め尽くされていた。


 「男と二人で入るのなんか気まずいっすね……」

と入り口で渋っていた卯月だったが、いざ小さなヒヨコとハリネズミを手のひらに乗せられた瞬間、「っ……! パ、パコ太郎見てくださいよこれ……重さがない…羽ッ!…尊い……ッ!」と語彙力を完全に喪失してデレデレに溶け始めた。しかし店員のお姉さんに「仲良しカップルさんですね〜、お写真撮りましょうか?」と声を掛けられた途端、茹でダコのように真っ赤になって「ち、違います同僚です業務中です!!」と早口で否定し、せっかく懐きかけていたヒヨコを驚かせて逃げられていた。


 ちなみに、入り口付近には珍しいナマケモノが悠々とマイペースに木登りをしていて、異口同音、一言一句違わず俺たちは『あ、店長だ』と口にした。



 気を取り直して向かった屋内型のスポーツアクティビティ施設とゲームセンターでは、事態はさらに混迷を深めた。


 エアホッケーで大人げなくスマッシュを叩き込み合って息を切らしたあと、シネマコンプレックスへ続くエスカレーターの脇を通りかかると、壁一面に貼られた今話題の恋愛映画――『君の胸板が厚すぎて上手く泣けない。』(巷では『君胸』と略されているらしい)の特大ポスターの前で、本物のカップルたちが肩を寄せ合ってイチャついているのに出くわしたのだ。


「……な、なんか今年の秋は、秋刀魚がそこそこ獲れてるらしいっすよ…」

「そ、そうだな。大根おろしの値段が安定するといいな。あと消費税って計算めんどくさいよな…」


 互いの距離を不自然に一メートルほど空け、映画のポスターと周囲のカップルを絶対に視界に入れないよう正面だけを向きながら、俺たちは極限まで中身のない会話を繰り広げた。


 なんだこの空気は。まるで保健体育の授業中、性に対する興味を周囲に悟られないよう「全然興味ないですよ感」を出しつつ隣の席の友達と喋っているのに、意識だけは前のモニターに全集中してやたら薄っぺらい会話をする中学生みたいじゃないか……!


 そんな謎の羞恥プレイをどうにか乗り越え、駅反対側の商業施設へと移動した頃から、ようやく俺たちの肩の力も抜けてきた。


 大型CDショップに立ち寄れば、特設コーナーで大々的に展開されている高谷庵の最新アルバムのポップを見つけて、卯月が自分のことのように誇らしげに鼻を鳴らす。


 続いて入った生活雑貨店と画材屋では、本来の目的だったホテル用の領収書控えやボールペンの束、フロント用の金木犀のルームフレグランスをカゴに入れ、ついでに俺も自分用の新しい豚毛の平筆を二本だけ買い足した。


「ふぅ……なんだかんだで結構歩いたっすね」


「荷物、そっちの紙袋も貸せよ。重いだろ」


「……なんかパコ太郎の癖にリードしようとしてきてるのがムカつくんすけど…」

 道中憎まれ口を叩かれながら、西側のモールを出て、駅前の再開発エリアに面した大通りへと抜ける。


 時刻は午後三時過ぎ。日が傾き始めたとはいえ、アスファルトからの照り返しは九月末とは思えないほど強烈で、冷房に慣れた肌にじっとりと熱気が絡みついた。


 歩道の先では、ガス管か水道管の入れ替えなのか、赤いカラーコーンとバリケードで車線の一部が規制され、重機の低い唸り声が響いていた。


 その脇を通り過ぎようとした俺は、炎天下の現場で一際せわしなく動き回っている小柄な作業員の姿に、ふと目を留める。


「……おい、卯月。あれ」

「え? ……って、うそ。あれ、髭乃じゃないっすか!?」

 陽炎が揺れるアスファルトの上。安全ヘルメットの下にタオルを巻き、汗で黒く変色した濃紺の作業着姿で重たい資材袋を両腕に抱えて運んでいたのは、間違いなく『VEGA』の清掃スタッフ――髭乃梓だった。


 ちょうど現場監督らしき年配の男が「よーし、一回水飲めー! 十五分休憩ー!」と大声を上げたタイミングだった。

 梓が資材を下ろし、歩道脇の日陰へ歩いてきてヘルメットを脱ぐ。首にかけたタオルで滝のような汗を乱暴に拭った彼は、紙袋を提げて突っ立っていた俺たち二人とバチッと目が合い、鳩が豆鉄砲を食ったように目を見開いた。

「……っ!? なんで、お前らがここに居るんだよ…てか…──組み合わせ気持ちわり」


「それはこっちのセリフっすよ! 髭乃あんた、昨日も夜中までホテルの清掃入ってたでしょ!?」

 卯月はすぐ近くの自動販売機へ小走りで向かうと、冷えたスポーツドリンクを三本買い、そのうちの一本を梓の胸元へと軽く放り投げた。


 「余計な真似すんなよ……」と悪態をつきながらも、梓は反射的にそれを受け取り、キャップをひねって喉を鳴らしながら半分ほど一気に飲み干した。いつも夜の薄暗い廊下で見る時よりも日焼けして見える横顔は、ひどく精悍で、同時に目の下にうっすらと疲労の隈が浮かんでいる。


「本業が現場仕事だとは聞いてたけど、この暑さの中で昼間も働いてたのか。体壊さないか?」


「余計なお世話だ。新入りが気安く話しかけてくんじゃねぇよ。……俺は中学の時からずっとこういう現場の手元で飯食ってんだ。暑さなんか慣れっこだよ」

 ぶっきらぼうに吐き捨てて縁石に腰を下ろす梓。以前は特定の建設会社に勤めていたが、今は知り合いの親方たちの現場を日替わりで手伝って回っているらしい。


 それにしたって、ここ最近の彼のシフトの詰め込み方は異常だった。その疑問を代弁するように、卯月がジト目で彼の足元に置かれた現場用のリュックを見下ろした。


 半分開いたファスナーの隙間から、折り目のついた『中型二輪カタログ』の表紙が覗いていたのだ。

「へぇ〜、バイクのカタログ? なんだ髭乃、あんたも鮎祭りの前にオニューのバイクでも買って、駅前で存在誇示のみっともないコールでも切るつもりっすか?」


「アホ抜かせッ! 誰があんな珍走団みてぇな真似するかよ!」

 梓がカッと目尻を吊り上げて噛みつく。だが次の瞬間、彼は何かを言い淀むように口ごもり、気まずそうに視線をアスファルトのひび割れへと落とした。

 日焼けした彼の耳たぶが、じわじわと赤く染まっていく。


「……ただの足だよ、足。……これから秋になって日が落ちんのも早くなるし、祭り前でホテルの周りの国道、変な連中が増えてんだろ」


「……え?」


「ウチの店の裏、だだっ広い自然公園のせいで街灯もろくにねぇじゃんか! やれ不審者がどうとか、行方不明者がどうとか看板なんかも沢山あって…なのにアイツ……有愛のヤツ、能天気にヘラヘラ笑いながら毎晩鼻歌混じりにチャリンコなんかで通ってきやがって……。危ねぇから、通り道ついでに送り迎えしてやろうと思っただけだ! 」


 一気にまくし立てた梓は、俺と卯月が呆気にとられて目を丸くしているのを見て、さらに顔を真っ赤にして立ち上がった。


「お、おいお前ら…! 今の話、有愛には絶対に一言も漏らすんじゃねぇぞ! バイク納車される前にバレたら、あいつは『悪いからいいよー!お金はー自分の為に使ってねー』とか言って遠慮しやがるのが目に見えてんだからな!」


 そこへ「おーい梓、次の配管やるぞー!」と親方の声がかかる。

 梓は「うっす、今行きます!」と礼儀正しい大声で返事をすると、俺たちに鋭い睨みを一発くれてからヘルメットを被り直し、再び眩しい炎天下の現場へと小走りで戻っていった。


 重機の音と砂埃の向こうで、誰よりもきびきびと資材を抱え上げるその小さな背中を、俺と卯月はしばらく無言で見送った。

「……なんか、見かけによらず健気なヤツっすね、髭乃のやつ」


「ああ。誰かを守るために泥にまみれて働くってのは……なかなか、簡単にできることじゃないよ」

 手に持ったスポーツドリンクの冷たさを感じながら、俺は小さく苦笑した。


 化け物にならないための練習だの、模擬戦だのと理屈をこねて街を歩いていた俺たちのすぐ隣で、あの不器用で口の悪い男は、とっくに誰かの重力を背負う覚悟を決めて必死にペダルならぬアクセルを踏み込もうとしている。

「……さ、俺たちも帰って備品を納品するか、教育係さん」


「……っすね。あーあ、なんか急に自分のしょうもなさが身に染みたんで、帰りの電車賃はパコ太郎の奢りってことで!」


「なんでそうなるんだよ」

 西日に伸び始めた二つの影を踏みながら、俺たちは再び賑やかな駅のコンコースへと歩き出した。

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