Suite.17「ハードラックとサル共②」
「お兄さんってば、どしたん?そんな…──────ハードラックとダンスっちまったみたいな顔して?」
昨日の朝からというもの、うちの神出鬼没な同居人が事あるごとに口にするこの時代錯誤な言い回しには、明確な元凶が存在する。
犯人は他でもない、我が『VEGA』の良心こと詩七美さんだ。
数日前のことである。深夜の暇な休憩時間にみんなが退屈しないように、そして自分も休憩の合間に暇つぶしに読み返したいからと、彼女が自宅から段ボール二箱分の漫画を控え室へと献上してくれたのだ。
あの物静かで儚げな美女が一体どんな少女漫画やエッセイを持ち込むのかと思いきや、箱の中から出てきたラインナップを見て、俺と卯月は揃って言葉を失った。
『三〇志』、『ベルセ〇ク』、『バガボ〇ド』、『キング〇ム』、そして極めつけに年季の入った全巻セットの『疾風伝説 特攻〇拓』。
渋い。渋いにも程がある。血と汗と硝煙と暴走族の排気ガスしか匂ってこない驚異のセレクションである。「……これ、血湧き肉躍る…よ?」と控えめに微笑みながら身の丈ほどの大剣を振り回す黒い剣士の表紙を撫でていた詩七美さんの横顔は、当分忘れられそうにない。
そして目ざといちとせは、いつのまにやらどうやってか控え室からそれらの単行本を数冊ずつ持ち出しては、ここ217号室で夜な夜な読み耽っていたというわけだった。
「ちょいちょいそこの黒の剣士の旦那。この新作のカボチャドレス……なかなか『気合』入ってんじゃん? 襟元の金ラインとか、小生スピードの向こう側が見えそうじゃよっ!」
「頼むからそのごちゃ混ぜ渋語彙でエロコスプレを評さないでくれ。脳がバグる…」
昼下がりの217号室。
俺は床に広げた業者からの納品箱を前に、新しく届いた貸し出し用コスプレ衣装と、フロント配布用のサンプル品の検品作業に追われていた。
「で、結局お兄さんのその不貞腐れた子供みたいな顔は、それが原因ってこと?」
「貴重な休日に、持ち帰りの仕事してたら誰でもこんな顔になるんだよ…」
本来なら一階のバックヤードでやるべき仕事なのだが、今日は非番の上に店長から「ついでに部屋で数だけ合わせといてくれ」と伝票ごと丸投げされたのだ。
俺がリストと照らし合わせながら『とろける桃源郷・極』などと大変興味深い文字の印字された怪しげな入浴剤やローションの試供品を仕分けている横で、ちとせは検品済みのナース服やらチャイナドレスやらを次々と身体に当ててはご満悦そうにくるくると回っている。
「んーっ、やっぱ新品の衣装は柔軟剤じゃなくて工場の溶けたゴムみたいな匂いがするなぁ〜…でもこれで当分は着替えに困らないね…。 あっ、そうだお兄さん、ちとせちょっと控え室に行って『特攻〇拓』の続き借りてくる! ついでに屋上で少し日向ぼっこしてくるから、その衣装達あとで着せてね!」
「誰が着せるか、自分で着ろ。……というか、誰かに鉢合わせしないように気をつけろよ!ただでさえ目立つ容姿に珍妙な格好なんだから…」
「わかってるってば、誰にも観測されなければ、存在しないのと同義!つまりは無敵なのさー!」
言い残すや否や、ちとせは風のような身軽さで窓から国道沿いの看板裏へと消えていった。
嵐が去った室内を見渡し、俺は「やれやれ」と肩を回して伝票にチェックを入れる。これでようやく静かに検品を終わらせられる――と思ったのも、束の間のことだった。
ガン、ガン、ガンッ!!
控えめな詩七美さんのノックとは対極にある、借金取りめいた遠慮のない打撃音が扉を揺らした。
嫌な予感しかしない。俺が渋々立ち上がって扉を開けると、そこには案の定、オフ用のゆったりしたパーカーにデニム姿の卯月が、コンビニのレジ袋を片手に仁王立ちしていた。
「ちーっす。邪魔するっすよ、パコ太郎」
「インターホンって奴はお前の辞書には無いのかよ……邪魔するなら帰ってくれ。今日は完全にシフト休みなハズだろ?」
僅かに開けた扉を閉めようとする隙間に素早くスニーカーの爪先をねじ込み、卯月は堂々と強引かつ我が物顔で室内へと上がり込んできた。
なし崩し的同居人──ちとせとの奇妙な同棲生活、早朝に訪れる詩七美さんの清掃、それに加えてここ最近、俺のプライベートを根こそぎ絶滅させている第三の要因がこれだ。『荒療治の続き』などと訳の分からない大義名分を掲げて、休日までこの217号室へと転がり込んでくる教育担当・愛姫卯月の存在である。
「なんなんだよ一体。わざわざ休みの日に職場まで来なくても、自分の家でゆっくり寝てればいいだろ」
「はぁ!?何を無責任なッ! あんな一回ポッキリで長年のトラウマ克服なんて出来るわけないじゃないっすか!ほんっと馬鹿だなパコ太郎!」
卯月は床のコスプレ衣装の箱をひょいと跨ぐと、我が物顔でベッドの端へと腰を下ろし、レジ袋から取り出したエナジードリンクのプルタブをプシュッと小気味よく開けた。
「最近は俺や客と、少し肩や手先が触れた位じゃ、なんとも無くなってるじゃないか」
「まぁ確かに、幾らか心に余裕は出来たっすけど……でももし、『男なんて恐るるに足らない』って本気で頭に叩き込むならそれこそ反復練習、無害が証明済みのパコ太郎がサンドバッグになってくれるのが一番手っ取り早いと思うんすよ。いやマジに」
「俺は人間からサンドバッグに格下げされたのかよ……」
普段ちとせが部屋に居座っている時に来られた際は、あろうことか職場兼住居であるこの部屋に幼げなコスプレ少女を囲ってるなどと万が一にもバレる訳にはいかず、息を殺して不在を装うか、ベッドで寝たフリをしてやり過ごすことも多いのだが、あいにく今日はたった今ちとせが出かけた直後だ。
それに――こんな憎まれ口を叩いてはいても、直近であの過呼吸の発作を見ている以上、俺としてもやはり彼女に対する心配が拭いきれない部分はある。この薄汚いボロ部屋が彼女にとって少しでも肩の力を抜ける避難所になっているのなら、無下に追い返すのも寝覚めが悪い。そうして結局、こうして連なって休日を過ごす羽目になっているのだった。
「うわ、なにこれ。新しい貸し出し衣装っすか? 相変わらず男の浅ましい妄想を煮詰めたみたいな都合の良い布面積っすね。──発注したのパコ太郎?」
「断じて違う。発注したのは店長だし、文句ならそれこそ店長に言え。ほら、そこに座るならそのナース服のほつれがないか確認くらい手伝えよ。なんせ大抵この手のグッズはメイドイン北の国なんだからな……」
「休みの日にわざわざ訪ねて来てくれたお客様に仕事させますかねぇ普通……時給いくらだします?」
「施設利用料な」
「ちっ。ケチな男はモテないっすよ」
ぶつぶつ文句を垂れながらも、卯月はエナジードリンクを一口煽ってから、意外にも真面目な手つきで衣装の裏地やファスナーの噛み合わせをチェックし始めた。そういうところだけは根が几帳面な教育係らしい。
しばらくの間、室内には衣擦れの音と、俺が伝票をめくる乾いた音だけが流れた。
すると不意に、チャイナドレスを畳んでいた卯月が手を止め、部屋の隅に立てかけられたイーゼルをチラリと見てから、何気ない調子で口を開いた。
「……でもさ。パコ太郎の境遇的には、はよ店長になって、そのままお店が軌道に乗って前の売上に戻って……そしたら、どうするん?」
「……どうする、って?」
「だから、その後の話っすよ。パコ太郎だって、一生こんな国道沿いのラブホに骨を埋めるつもりで来たわけじゃないでしょ」
俺の事情の一端を知る彼女ならではの、真っ直ぐで悪気のない問いかけだった。
俺は段ボールの蓋を閉じながら、少しだけ言葉に詰まり、曖昧に肩をすくめてみせた。
「……さぁな。まずは店を立て直さないことには始まらないし、その先のことはまだ白紙だよ」
「ふぅん? ま、パコ太郎がいなくなったら誰が私の雑用やるんだって話になるんで、せいぜい私のお給金が倍になるくらいまでは働いてもらうっすけどね!」
「今でさえここいらのホテルで一番給料いいんだからな、贅沢な事言うなよ。あろうことか手取り二万の男の前で…泣きたくなる。いやマジに…」
「ごめんって…パコ太郎」
卯月はケラケラと笑うと、それ以上深く踏み込むこともなく、残りのエナジードリンクを一気に飲み干すと、「よっし、今日のセラピーはこれくらいで勘弁してやるっす! 空き缶のゴミはよろしく!」と嵐のようにやって来た時と同じ勢いで部屋を出ていった。
「ったく。なんなんだあいつは…」
卯月が居なくなり、静かになった室内、つけっぱなしのテレビをBGMに窓の外の国道を眺め物思いに耽る。
女心と秋の空とは実によく言った物で、刻々と色合いを変える空模様同様に、愛姫卯月。彼女の考えている事などやはり到底分かりそうにない。
けれど今のこの慌ただしい生活も案外と悪くはないかもしれないと、何に向けるでもなく、一人ため息混じりに苦笑した。
***
ようやっと一頻りの来訪が落ち着き、再び一人きりになった217号室には、カーテンの隙間から傾き始めた午後の西日が細く差し込んでいた。
俺は卯月のお陰で想定よりも早く検品を終えた箱を壁際へと押しやり、ベッドの上へ大の字に倒れ込んで、額縁のような天井ライトとあの不気味なシミをぼんやりと見上げた。
(……お店が軌道に乗ったら、どうする…、か)
卯月が置いていった何気ない一言が、静まり返った胸の奥で小さく反響している。
やはり……当初の目的通り、一刻も早く結果を出してここを出ていかなければならないのだろうか。
けれど、と俺は自問する。
必死に金を貯めて、あるいはノルマを果たしてここを出ていったとして――その先で、俺は一体何をする? また実家の自室に閉じこもり、描けもしない『初恋の人』の絵を来る日も来る日も描き続けるのか? 皮肉なことに、あんなにも動かなかった筆が、この悪臭漂うラブホテルに流れ着いてからの方がいくらか動くようになっているというのに。
そもそも、ここを中途半端に出ていったところでどうなるものでもない。あの普段は優しく温厚だが、中途半端とやらが大嫌いな厳格な祖父がそんな逃亡を許すはずがないし、かといってこのままなし崩し的に親父から会社の社長を引き継ぐ気なんか現状さらさらないのだ。
というか、イメージが全く湧かない…。
ならばいっそ、このままここで一社員として、或いはそれこそ店長くらいにはなっても、居続けた方がいいのではないか。
ふと、脳裏に朝の光の中で微笑んでいた詩七美さんの面影がよぎる。
──────……詩七美さん。
いや待て、彼女は既婚者だ。仮に万が一、いや億が一にも間違いが起きて倫理を犯すようなことになれば、その代償は相場にしておよそ三百万……。三百万さえあれば…。いかん、何を具体的な慰謝料の皮算用までしているんだ俺は。
慌てて頭を振って邪念を振り払うが、それでも思考は自然と『ここに残る未来』へと傾いていく。
きちんと店の売上を戻して結果を残せば、さすがに祖父も満足して口出しをやめるだろう。下手に金を貯めて外へ飛び出すよりも、ここで結果を残して居場所を確立する方が、可能性としてはよほど現実的な気もする。
まぁ……もっとも、今は給料の大半を部屋代として天引きされている身だ。出ていくにせよ残るにせよ、兎にも角にも、何をするにもまずは金を貯める事からには違いないのだが。
「……はぁ……俺は、どうなりたいんだ……」
二転三転、どっちつかずな厄介な反芻思考、栓のない懊悩に、誰に聞かせるでもない溜息が、薄暗い天井へと吸い込まれて消えた。
俺は特別な人間ではない。詩七美さんが持ってきた漫画の主人公たちみたいに、己の痛みを投げ打って誰かの為に戦ったり、世界の裏側で暗躍したりだとか、そんな劇的なことは何ひとつ出来ない。
ただ食べて、寝て、働く。人よりほんの少しだけ絵を描くのが得意で、あとは……俺という人間には、一体なにがあるというのだろう。
***
大学をやめて、後悔していないと言えば嘘になる。
自分の弱さから逃げ出したというその経歴は生涯消えずに残る事になるし、辞めた理由も理由だ。
けれど――たとえあのまま歯を食いしばって美大に残っていたとして、卒業後に絵に携わる仕事をしていたかと問われれば、すぐには答えられそうにない自分がいる。
だとしたら。
こうして適当に手頃な、案外と働きやすい職場で風変わりな仲間たちと働きながら、空いた時間に好きな絵を描いていく人生も、それはそれで悪くはないんじゃないだろうか――。
開け放たれた秋風吹き込む室内。西日に染まる天井を見つめながら、俺がそんな柄にもない穏やかな達観へと辿り着きかけた、まさにその瞬間だった。
ガチャンッ、コロコロ……と、玄関の方から明らかに部品が外れて転がる不穏な金属音が響き、扉が勢いよく開け放たれた。
「お兄さんに、一つ…二つ!いや、三つお願いがありますっ!」
満面の笑みで飛び込んできたちとせの両腕には、これまで彼女が散々着散らかしてきたであろうコスプレ衣装の山が抱えられており、さらにその右手には――根元から完全にすっぽ抜けた真鍮製のドアノブが握りしめられていた。
「この溜まった着替え、控え室の業務用の洗濯機で洗濯してきて欲しい!のと…ドアノブまた外れちゃったから直しといてって言うのが二つ目ね。それからそれから、控え室の棚の一番上にある『キング〇ム』の続き、届かなかったから取ってきてほしくて――」
「……前言撤回。俺はやはり、一日でも早く金を貯めてここを辞めてやる」
感動的なまでのタイミングで突きつけられた雑用のフルコースを前に、俺のささやかな人生の悟りは、ものの三秒で木っ端微塵に吹き飛んだのだった。
「…どしたん?お兄さん一人でぶつぶつ…悩んでるならちとせが話、聞こーか?」




