Suite.16「ハードラックとサル共」
「で、結局ウチの店の客って、ゴミ箱の存在を知らないって訳なんすよ」
朝の光が差し込む国道沿いのファミレス『ココス』のボックス席。
トースターで焼き直したクロワッサンを片手に、愛姫卯月が忌々しそうに眉を吊り上げてまくし立てる。
「アイコスもティッシュも、食べたお菓子の袋も使い終わったスキンも……全部床にポイポイポイポイアイアイアイアイ…!! お猿さんかって話なんすよっ!?」
「卯月お前…語呂が良ければ何言っても良いって思ってないか?」
「私はこれに名前を付けたんすよっ!その名も『お猿の情事』!!」
「あらゆる方面で最悪だな」
俺がコーヒーカップを傾けながら呆れたようにツッコミを入れると、向かいの端で静かにマヨネーズたっぷりのサラダをつついていた詩七美さんが、ふわりと目元を和らげて小さく笑った。
「なんだか二人……仲良くなったね」
「詩七美さん……犬猿の仲って奴がそのまま具現化したような俺たちが、どこをどう見たら仲良いように見えるんですか?」
「あっ、パコ太郎醤油とって」
「はいはい」
カレー風味のコロッケの乗った皿を手元に引き寄せた卯月の声に、俺は視線すら動かさずテーブルの端の醤油差しをひょいと手渡した。
「お前まさか…コロッケに醤油つけんの?」
「はぁ?コロッケには醤油って、相場がきまってんでしょ」
受け取った卯月が当然のようにコロッケへ醤油を垂らし始めたところで――向かいの詩七美さんが、目をパチパチと瞬かせながら「……ほらね」とでも言いたげな微笑みをこちらへ向けているのに気づき、俺はバツが悪くなって小さく咳払いをした。
あの一晩の騒動と、思い出すだけでも胃が痛くなる『首元の絆創膏事件』を経たあの日以来。
こうして夜勤と早朝清掃のシフトが重なった日の明け方には、なんとなく三人連なって朝食バイキングを囲むのが俺たちの日常になっていた。最初は妙にぎこちなかった空気も、何度か食卓を重ねるうちにすっかり馴染み、今ではこうして朝から遠慮のない軽口が飛び交っている。
そして、同じ職場の人間が仕事終わりに集まってする話となれば――古今東西、当然のように『お店の悪口』になるわけだった。
「……でも実際、最近やけに客層悪くないっすか?例えるなら、冬を越すために集団で移動してくる…やたらクッサイあの、そう!カメムシっす!」
「なんせ店の裏は東京ドーム9個分にもなる自然公園だからな」
コロッケを一口で頬張った卯月が、オレンジジュースで喉を鳴らしながら不機嫌そうに唇を尖らせた。
確かに、ここ数日は平日でも妙に騒がしい客が多い。深夜の駐車場で重低音の効いた音楽を撒き散らす改造車や、定員オーバーでしれっと一室に紛れ込もうとする若い連中の対応に追われる回数が増えた気はしていた。
「そうだね……もうあと少しで、近く大きいお祭りがあるから」
スープカップを両手で包み込みながら、詩七美さんがぽつりと言った。
その言葉に、卯月の顔が露骨に歪む。
「げっ! 今年も来たか……『鮎祭り』」
「鮎祭り? あぁ、駅前のポスターで見かけたな。川沿いで花火も上がるっていう、この辺じゃ一番デカい祭りだろ?」
「そうっすよ。おかげで毎年この時期になると、近隣から浮かれた連中が湧いて出るんす…まるでカメムシみたいにウヨウヨと!」
卯月はフォークの背で皿をコツンと叩きながら、吐き捨てるように続けた。
「結局、アイツらは体のいい騒げる場所を求めてるだけって訳っすよ。アイツらなんて所詮なんにもなれない癖に、その癖承認欲求だけは強くて、騒いで暴れてまるで何者かになったつもりでいる。それでも誰にも見て貰えないから奇行にまで走る哀れな大人赤ちゃんが奴らの本質なんすよ! その時期に現れる奴らの車って一目で分かるし乗ってる奴らは想像通りのスキンフェード。やたら車高の低い車なんかは知能の低さを現してるし…とにかく最悪なんてもんじゃないんすよね」
「つらつらと長い事言い過ぎだろ。一体去年、何があったんだよ」
そこまでの怨嗟が滲むからには余程の因縁があるのだろうと尋ねると、隣で聞いていた詩七美さんまでが、どこか遠い目をして小さく息をついた。
「去年はね……夜から朝にかけて、とにかく大忙しだったんだよ」
「そっ。お祭り、花火ともなれば、当然女の子は気合い入れて浴衣を着るわけで。その帰りにいい雰囲気で盛り上がってホテルに来たはいいものの……」
「浴衣……脱いじゃって、着れなくなる子が多くてね」
「『すいません、着付けお願い出来ますかぁ〜?』ってフロントへの内線が絶えなくて! 出来るわけねぇだろ! ウチは着付け会場じゃねーんすよっ! って大惨事があったわけなんすよ!!」
当時の悪夢が蘇ったのか、卯月が頭を抱えてテーブルに突っ伏す。清掃担当の詩七美さんも「部屋にも帯とか腰紐が知恵の輪みたいに絡まって落ちてたりして、大変だったなぁ……」と困ったように眉を下げていた。
「それはまた、ラブホテルに求められるものが多すぎるな……」
苦笑交じりに相槌を打ちながら、俺は大きなガラス窓の向こう――澄み切った九月下旬の青空と、国道を流れていく車の列へぼんやりと目を向けた。
自分の人生を主役として謳歌している者たちは、夜空に打ち上がる大輪の花火に胸を打たれ、その熱気と余韻を抱えたままラブホテルへと雪崩れ込んでくる。
されど、その裏側で何で濡れたか分からない汚れたシーツを引っ剥がし、散らばった床のゴミを拾い、鍵を受け渡すだけで悪態をつかれる俺たち縁の下のサル共は、須らくお祭りなんぞに行けるわけもなく……。
月末に控えたそのお祭りと花火大会が、卯月からの余計な事前情報のせいで今から既にして億劫でたまらなかった。
***
朝食を終え、駐車場で自宅へ帰る二人と別れた俺は、ひとりホテル『VEGA』の薄暗いリネン室の暖簾を潜り、住処である217号室へと戻ってきた。
建て付けの怪しいドアを開け、一歩足を踏み入れる。
鼻をくすぐるテレピン油と油絵の具の匂い。上階の水漏れが作った青いカビに、額縁のような天井ライトの中で人の顔めいて浮かび上がる不気味なシミ。部屋の隅のイーゼルには、先日描き上げたばかりのキャンバスが静かに布を被って眠っている。
俺は靴を脱ぎながら、ぐるりと狭い室内を見渡した。
ここ最近は、初恋の絵を描いていない。珍しく別の絵を描きたくなった為に時間の問題で描けなかったというのもあるのだが、実はここ最近は───調子が良いのだ。
頭の中不意に降りてくるイメージは何故だか鮮明で、不明瞭だった部分が自然と思い出せる。
だからこそ、敢えて描かない。
頭のなか、粘土を捏ねくり回す様に作り上げられるイメージを崩さないように、一度出力してしまえばそこでそれは固まってしまう。
鮮明になりつつある一部と今もまだ不明瞭なソレが固まるまで、練っておく。それが今描かない大きな理由。
それと──────大きな理由…では無く原因がもうひとつ。
ベッドの上にも、窓枠の上にも、カーテンの裏にも、バスルームの扉の向こうにも――あの神出鬼没な同居人、ちとせの姿は……ない。
「……本当にいないよな?」
念には念を入れてベッド下まで確認してから、俺は深い安堵のため息をついた。
時刻は午前九時半過ぎ。清掃の詩七美さんはさっきシフトを終えて帰ったばかりだし、卯月も今頃は自宅で泥のように眠っているはずだ。フロント奥の物置に陣取る店長は、どうせ朝から魚の群れでも追いかけていることだろう。
つまり今、この瞬間。何週間ぶりとも知れない『完全なる一人きりの時間』が訪れていた。
俺はベッドの端に腰を下ろし、妙な緊張感と共に自分の手のひらを見つめた。
……実を言うとここの所、なし崩し的に居座り続けるちとせの存在と、毎朝のように──有難い限りなのだが────清掃へ訪れる詩七美さん、さらには先日この部屋で一晩を過ごした卯月の一件が立て続けに重なったせいで、俺のプライバシーは絶滅危惧種も同然となっていた。
その結果として――俺の、『男である部分』が完全に完璧におざなりになっていたのだ。
断っておくが、これは断じて卑しい煩悩の言い訳ではない。
二十一歳、心身ともに健康な男子における、極めて厳粛な『生理現象』の話である。食べて、眠って、代謝するのと同じ生命のサイクルだ。むしろ、ここまで不自然に溜め込んで放置している現状の方が不健康極まりなく、逆に「しない」という選択肢の方が生物として気持ち悪いとすら言えるだろう。
(……そう、これは不可抗力だ。生きるための健全な機械的なメンテナンスに過ぎない)
誰に聞かせるでもない完璧な理論武装を頭の中で組み上げた俺は、立ち上がって水周りの、そして部屋の調光をギリギリまで絞った。
続いて枕元にティッシュの箱を引き寄せる。もちろん、使用後に床へポイポイアイアイと投げ捨てるような猿真似をするつもりはない。
だからこれは仕方なく、本当に仕方なく――俺はベッドの上に胡座をかき、テレビのリモコンを手に取って電源を入れ、音量を控えめな『3』に絞った上で、ホテルチャンネルの赤黒い年齢確認画面を突破し今月の新作へと画面を切り替えた。
薄暗い室内に、艶めかしいピンク色の照明を浴びた男女の映像と、微かな吐息が流れ出す。
久しぶりの解放感に小さく息を吐き、スウェットの紐へ指先を掛けた――まさに、その時だった。
カチャリ、と立て付けの悪いドアノブがいとも容易く空回りするような軽い音を立てて。
「お兄さーん、ちとせはそろそろ新しいコスプレ衣装が欲し……」
「えっなになに!?お部屋暗くしちゃって、映画かんしょー?それならちとせも…」
聞き慣れた間延びした声と共に、貸し出し用の少しヨレたチアガール衣装を纏ったちとせが、自分の部屋であるかのようにひょっこりと顔を覗かせた。
俺の指先がスウェットのゴムの上で石化し、ちとせの大きな瞳がパチクリと瞬く。
彼女の視線が、固まった俺の顔から、すぐ横のティッシュ箱へ、次いで画面いっぱいに大写しになった肌色の映像へと順番に移動していき――。
「おぉ〜……生セルフケア…」
まるで珍しい野生動物の生態でも目撃したかのような、感動すら滲む歓声が響き渡った。
「……っ、いやっ、ちが……これは……ッ!!」
全身の毛穴から変な汗が噴き出すと同時に、俺は掛け布団を腰元へ引き寄せようとして足を取られ、ベッドの上で無様に転げ回りながらリモコンの電源ボタンを連打した。一拍遅れてプツンと暗転した液晶画面に、真っ赤に引きつった自分の間抜け面が虚しく映り込む。
普通、こういう場面に出くわした女子というものは、悲鳴を上げて扉を叩き閉めるか、軽蔑の眼差しを向けて立ち去るかの二択であるはずだ。
しかし、目の前の同居人はどちらでもなかった。彼女は入り口に立ったまま腰に手を当て、どこかで読んだ古い不良漫画の登場人物よろしく、実に達観した顔つきでうんうんと頷いてみせたのだ。
「まぁ、ハードラックとダンスっちまったと思ってさ? ……気にせず続けてくれたまえよ、思春期なお兄さん」
「……勘弁してくれ……」
しかも出ていくどころか、「ちとせは空気だから! ほら、壁のシミと一緒だと思って!」などと抜かしながら部屋の隅の椅子にちょこんと座り、指の隙間がガバガバに開いた両手で目元を覆い「おー、ダビデ像…」などと大変失礼極まりない事を言ってのける始末である。
先ほどまで高尚な生理現象だのなんだのと息巻いていた俺の『男である部分』は、音もなく完全に、巨人ゴリアテを前にしたそれこそダビデ像の様に萎縮し縮み上がり塵へと還っていった。
俺は布団を頭から引っ被り、枕に顔を埋めて小さく呻く。
つい三十分前、ファミレスで客のことを本能で動く『サル共』だなどと好き勝手に見下していた罰が、これほど即座に下るとは思わなかった。なんのことはない、一番哀れで滑稽なサルは、こうして不運と踊り狂っている俺自身だったというわけだ。
月末の嵐がやってくるよりもずっと前に、この217号室における俺の平穏と尊厳は、すでに跡形もなく消滅していたのだった。




