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Suite.15「両手と熟れたレモンと月見うさぎとサル共」

 白み始めたばかりの午前六時過ぎ。

 カーテンの隙間から差し込む淡い朝の光の中で、俺と卯月はいつの間にか床の上で背中合わせにうたた寝をしてしまっていたらしい。外から響いてくるけたたましい鳴き声に、ほぼ同時に瞼を押し上げた。

「カラスの鳴き声……っるさ!? ここってば人でも死んでんじゃないっすか!?」


「確かに、朝方は異様な数のカラスが屋上にビッシリと……」


「……マジに死んでる説あるな……となると死因は──────腹上死!?」


「元気そうでなによりだよ」

 素に戻ったような低い声で呟き、厚手の化粧もすっかりと落ちたいつもより幼げな印象の彼女。私服のパーカーの裾を引っ張りながらガシガシと髪を掻き乱す卯月は、昨夜の痛々しい怯えや過呼吸の面影をすっかり隠し、いつもの不機嫌な番犬モードへと戻っていた。


 俺も固まった首と背中をバキバキと鳴らしながら立ち上がった、ちょうどその時だ。

 コン、コン、と控えめなノックの音が響き、マスターキーの回る音と共にドアが静かに開いた。

「……タロ、愛姫さん。起きてる?」


 清掃用のワゴンを廊下に止め、心配そうに顔を覗かせたのは夜勤明けの詩七美さんだった。

 彼女はベッドではなく床から立ち上がった俺たち二人と、いつもの調子の卯月を見て、ほっと胸を撫で下ろすように目元を和らげた。

「……愛姫さん、もう顔色も大丈夫そうだね」


「あ、『お嬢』…じゃなくて詩七美さん! 昨夜は運んでもらっちゃって、マジですみませんでしたっす。もう全然ピンピンしてるんで!」


「ううん、気にしないで。お礼ならタロ…大庭君に…ね」

 そう言ってこちらへささやかなアイコンタクトを送る詩七美さん。

 手早く清掃道具をセットしながら、不意にピタッとその手を止めて俺たちを交互に見る。


「ちょうど、この部屋の掃除が終わったら上がりなんだけど…。よかったら二人とも、朝ご飯食べ…行く?」

 詩七美さんの思いがけない提案に、卯月の目がまるで予想だにしなかったとばかりに見開かれたのと、彼女の腹の虫がグゥと可愛らしく鳴ったのは同時だった。

「え…? 朝食っすか? 私とパコ太郎と…詩七美さん三人で?」


「うん。…お腹、空いてるかなって」

 言いながら、自分のお腹を押さえる詩七美さん。

 隣を見れば、詩七美さん同様自らのお腹を片手でさする卯月。

「…せっかくのお誘いなので、行きます…」


「お前、深夜に俺の金で炒飯と餃子を平らげておいてまだ入るのかよ……」


「うるさいな…! 普段朝はあんまり食べないんすけどせっかく誘ってくれたので仕方なく……。あ、なら私、先にフロント寄って店長に昨夜のお礼と謝罪してきます。そのまま外の駐車場で先待ってるんで、詩七美さんとパコ太郎も準備できたら来てください!」

 そう言うが早いか、卯月は自分の荷物と、紙ジャケットのCDを大事そうに抱え直し、嵐のような足取りで217号室を出ていった。


 パタン、と扉が閉まり、室内には俺と詩七美さんの二人だけが残される。

 詩七美さんはワゴンからタオルとスプレーを取り出しながら、床に転がったままの二つのコントローラーや、昨夜シャワー上がりの卯月に貸してそのままベッドの端に脱ぎ捨てられていた俺の無地Tシャツに目を留めた。

「……なんだか、ずいぶん賑やかな夜だったみたいだね」


「ええ、まぁ。最初は本当にどうなることかと思いましたけど、あいつも根が負けず嫌いですからね。朝までみっちり付き合って、ぶつかり合って、どうにか一山越えられたというか、一皮剥けて大人になったというか……」


「俺なりにやれるだけのことはやりましたよ、というかやり切ったというか出し切ったというか…慣れない事するのはやっぱり疲れますね!」

 俺はテーブルの上の中華の空容器をビニール袋にまとめながら、徹夜明けの疲労感の中にも確かな達成感を滲ませて、少しばかり誇らしげに胸を張った。

 すると、モップを持っていた詩七美さんの手がピタリと止まった。

 彼女は俺の顔を――いや、正確には俺の顎の少し下あたりに視線を縫い止めたまま、目をパチパチと二度、三度と激しく瞬かせた。

 やがて彼女は、ひどく静かな声でぽつりと呟いた。


「……やった?」

「…え? えぇ、やりましたよ!」


 廊下ではなく室内で元気な卯月を見て、俺の荒療治の成果を労ってくれたのだろう。俺は一点の曇りもない爽やかな笑顔で力強く頷いてみせた。

 詩七美さんの長い睫毛が微かに揺れ、どこか遠い目をしてもう一度だけ繰り返す。


「……そ。やったんだね」

「……? はい。やりました…よ?」


 なぜ大事なことのように二回確認されたのか一瞬だけ首を傾げたが、詩七美さんは「……そっか。男の子だもんね……」と自分に言い聞かせるように小さく呟くと、それ以上は何も尋ねずに、いつも通りの完璧な手際で清掃を終わらせた。

「じゃあ、私も一回控え室戻って…着替えてから駐車場に行くから…タロも準備ができたら来て」


「はい、すぐ行きます」

 ワゴンを押して玄関へと向かい、ドアノブに手を掛けた詩七美さんが、ふとその足を止めた。

 彼女は振り返りきらない絶妙な角度のまま、ぽつりと一言だけ言い残した。


「……絆創膏、とれかかってるよ」


 カチャリ、と静かに扉が閉まる。

 一人取り残された217号室で、俺は数秒間、彼女が何を言ったのか理解できずに立ち尽くしていた

。

(……絆創膏……?)


 おそるおそる脳裏を掠める懸念点…自分の首筋へと指先を伸ばす。

 そこには、端っこがくるりと捲れ上がり、今にも脱落しそうになって風に揺れている肌色のテープが頼りなく貼り付いていた。


 嫌な予感に駆られてバスルームへ駆け込み、洗面台の鏡を覗き込んだ瞬間――俺の思考は完全に停止した。


 白々しい蛍光灯の下。捲れた絆創膏の下から、昨日なし崩し的同居人であるちとせに、スッポンばりの吸引力で吸い上げられたあの『最悪の跡』が、言い逃れようもないほど鮮やかにコンニチハしていたのだ。そういえば明け方に目を覚ました時、首筋がむず痒かったのはこれか……ッ!


 脳裏に、つい一分前の自分の堂々たる声が鮮明にリフレインする。


 『朝までみっちり付き合って、ぶつかり合って』『一皮剥けて、大人になって』『ええ、やりましたよ!』『はい。やりました…よ』と――しかもご丁寧に二回も、満面の…充足感に満ち満ちたドヤ顔で。


「……終わった……」

 鏡の前で膝から崩れ落ちそうになる身体を洗面台にしがみつく事で必死に支える。

 詩七美さんの中で俺の評価が「過呼吸で倒れた同僚を自室に連れ込み、朝まで致した挙げ句、事後に爽やかな笑顔で自己申告してくる鬼畜」へと完全に確定してしまった絶望を抱えたまま、俺は新しい絆創膏を三枚重ねで首に貼り付けて部屋を出たのだった。



***



 朝の国道沿いに佇むファミレス『ココス』のボックス席は、大きなガラス窓から降り注ぐ朝日と、焼きたてのパンの香ばしい匂いに満ちていた。

 しかし、向かい側に座る女性陣二人を前にした俺の胸中だけは、どんよりとした鉛色の雲に覆われてモヤモヤと渦巻いていた。



「朝食バイキング…────マジパないっすね!?」

 なんだか既にしてパターン化しつつある彼女の手のひら返しなリアクションに苦笑を浮かべつつ、バターの香りの良いスクランブルエッグを口に運ぶ。

「うわっ、このクロワッサン、トースターでちょっと温めるとサックサクになるっすよ! 詩七美さんも食べます!?」


「うん、ありがとう。……愛姫さんも、たくさん食べてね。昨日はきっと……体力、すごく使っただろうから…朝まで。はい、スクランブルエッグとウインナーも食べて………朝まで」


「…朝まで? あ、すみません、ありがとうございます…! 詩七美さんなんだか、お母さんみたいっすね!…て、一応お母さんではあるのか」

 トレイいっぱいに料理を盛ってきては甲斐甲斐しく卯月の世話を焼く詩七美さんが、時折こちらへチラリと視線を向けては、俺の首元の分厚い絆創膏を見て何とも言えない複雑な――「タロ、見損なったよ」とでも言いたげなジト目を向けてくる。


 違うんです、これは断じて卯月につけられたものではなくてですね、と口を開きかけては、俺は必死にコーヒーで言葉を飲み込んだ。本人の目の前で「これは別の女につけられたキスマークです」などと口走ろうものなら、それこそ卯月に玉を三つ取られた上で社会的に抹殺される未来しか見えない。八方塞がりとはまさにこのことだった。


 それでも。

 俺が一人で勝手に冷や汗をかいている向こう側で、ワッフルにメープルシロップをたっぷりとかけながら「あまっ、でもうまっ!」と年相応の無邪気な笑顔を咲かせている卯月と、その隣でいつの間にか自分のグラスの冷水をゴクゴクとすごい勢いで飲み干している詩七美さんの姿を眺めているうちに、俺の口元からは自然と苦笑いがこぼれていた。



 ────人の心は、行動でしか変えられない。

 どこかで誰かに聞いたそんな確信に満ちた言葉。落ち窪み、荒みきっている時でさえ、誰かの不器用なたった一歩に胸を打たれ、凍りついていた時間が動き出すことだって――きっと、あるのだ。


 とは言いつつも朧気な記憶の中の彼女…初恋の面影の中、唯一鮮明な『君は、そのままで大丈夫』。

 その言葉に今も尚支えられている自らの思考の矛盾に、その一貫性のなさにヤキモキとはするのだが…。


 けれど向かい側、口いっぱいに甘いばかりのお世辞にも上品な味とは言い難い、何枚目とも分からないワッフルを頬張る彼女を見れば、あんなに世界を敵に回して尖っていた少女が、今こうして朝日の中で誰かと並んで温かい朝食を囲んでいるその事実が、自らの悪癖である反芻思考、栓のない懊悩に、今だけは強引に蓋をしてくれた。


 たとえ俺がどれほど不名誉な誤解に晒されていようとも、そんな事は、俺自身の対外的評価などは瑣末な事だと。


 陽光差し込む窓の外に広がる九月の青空とベロア生地の陽射しで温まったソファ席、この誰かと囲む食卓とやらの風景は、感じた事のない充足感に満ちていて、どうしようもなく晴れ晴れとしていた。


(……こんな朝もあったんだな)


 そんな柄にもない感慨を、俺は少し冷めたブレンドコーヒーと一緒に静かに喉の奥へと流し込んだ。



***



 朝食を終えてホテルへと戻り、駐車場で二人と別れて217号室の扉を開けると、開け放たれたままの窓枠に、魔女っ子衣装の裾を揺らしながらちとせがちょこんと腰掛けていた。

 その手には、昨日俺が買ってきた『オジ-パン』の紙袋が大事そうに握られている。

「お兄さーん、ちとせはいつまでお部屋に戻っちゃいけないんでしょうかー?」


「悪かったよ、一晩中追い出す形になって。朝までどこにいたんだ?」


「んー? 看板の上で星見ながらパルミエ食べてー、飽きたら深夜の国道をお散歩してたよ。やっぱあそこのパルミエは唯一無二の傑作だね!」

 ちとせはにへらっと笑いながら室内へと飛び降りると、イーゼルに立てかけられたままのキャンバスへ歩み寄り、少しだけ目を細めた。

「……そっか。あの子、ちゃんと笑えるようになったんだね」


「見てたのかよ」


「見てないよ。でも、今のお兄さんの顔見ればそれくらい分かるって」

 どこか少しだけ寂しそうに、けれど嬉しそうに微笑むちとせの横顔を見ていると、ふと奇妙な思考が頭をよぎる。


 そもそも創作というものは、誰かに観測され、認められなければ、この世界に存在しないのと同じなのではないか――まるで、俺以外の誰の目にも留まらない、この不思議な同居人のように。


「……眠る前に、こいつだけ仕上げてしまうか」


 俺は忘れないうちにパレットへ昨日買ってきたカドミウムイエローとチタニウムホワイトを絞り出し、一気に筆を走らせた。


 酸っぱくて傷つきやすいレモンには、朝日のような鮮やかな熟れた黄色を塗り重ねる。それを包み込む両手はどこまでも不器用に、けれど決して潰さない距離を保って。そして画面の隅で耳をそばだてて怯えていたうさぎの両手には、小さく輝く黄金色の『月』を抱かせた。


 ───『不器用な両手と、熟れたレモンと月を手にしたうさぎの関係性について』。


 心の中でそう題名を改め、最後の筆を置いた瞬間、それから丸二日分の猛烈な睡魔が津波のように押し寄せてきた。俺はちとせが「おやすみ、お兄さん」と囁いた声すら半分も聞き取れないままベッドへと倒れ込み、泥のように深い眠りへと落ちていった。



***



 夕方過ぎに目を覚ました俺は、その夜は店のマドンナ的存在である閂伊織さんとのシフトに入った。


 ここ一ヶ月ほどで、この『VEGA』の売上はほんの少しだけ上がっている。もっとも、それは俺が働いた給料の殆どを宿泊料と称して搾取されている事実と、人員が増えたことによる稼働部屋のキャパシティ増加に他ならないのだが、ひとつだけ明確な変化があった。若いカップルの常連客が、目に見えて増えたのだ。


 過ごしやすい季節になったからだろうか、その理由こそ定かではないが、年配の客層が占めていたこのホテルに少しだけ若い風が吹き始めた。


 始業前、俺は一昨日の夜のお礼を直接伝えておこうと、フロント奥の物置の扉をノックした。


 普段は昼行灯のように飄々としている店長だが、あの輩客を追い返した時の毅然とした背中は本当に頼りになった。やる時にはやる人なのだろう。今より少し前、まだこのホテルが傾く前には、きっとあんな熱い人間性を持った支配人だったに違いない。


だとすれば今の店長のこの堕落っぷりは一体…――俺は店長の人となりへの追究を頭の中で継続しつつも、その認識を改めながら、神妙に頭を下げた。

「店長、一昨日はフロントを代わっていただいて本当にありがとうございました。おかげさまで卯月も――」


「ああ、お前たちが元気そうならなによ……あ──────魚群」

 けたたましい音楽を打ち鳴らす筐体と、手に持った派手な電子音を鳴らすパチンコアプリの画面とを交互に見つめ、食らいついたまま、店長が虚空を見つめて呟いた。


(……俺の認識は、目の前のフィーバーと共に右から左へ、据え置き継続中みたいだ……)


 そんな脱力感に包まれつつも、閂さんとの仕事は拍子抜けするほど平和で、ただ時間だけが穏やかに流れていく適当で暇な一夜を過ごし。


 そして、その翌日の夜。再び卯月とシフトが連なった夜勤の日がやってきた。

「おっそいっすよパコ太郎! 一日ぶりだからって気が緩んでんじゃないっすか!? ほら、さっさとリネンの発注! 業者外で待たせてんすからっ!」


「発注くらい自分でだなぁ…。まぁいいか。明日の発注は八十セットに、ピローは四十追加…っと」


ふと目にした違和感。目の前の彼女が幾らか幼く見える。

「卯月お前…化粧変えたのか?」


「……ッはぁ!?なんなんすかセクハラっすかエリマネと常務とあらゆる所に告発してやるっすよ!?」


「いや、悪い意味じゃないんだよ。なんて言うか幾らか幼く見えるっていうか…今の無理してない卯月の方が好感持てるっていうか……かわいい……と思ったんだよ」


「──────なっ……!?」


「悪い、これは完全にセクハラだった。忘れてくれ」


「あのさ……?」

「…なんだよ」


「パコ太郎さぁ?人が好きでしてる化粧に『無理してる』発言って…だからモテないんすよ。パコ太郎なんて名前の癖に」


「名前の元凶は完全にお前な訳だが…、全くもってその通りの正論だな。痛み入ります。」


「口答えしないのは素直でよろしいっすね」

卯月の白眉の一言に、思わず肩を竦める。

 今日も今日とて、フロントのカウンターに並ぶ俺たちの空気は、傍目にはいつもと何一つ変わらない。相も変わらず彼女は事あるごとに噛みつき、毒を吐く。けれど、その言葉の端々からかつてのような悲痛な棘は消え、どこか軽快なリズムすら混じっていた。


 深夜一時を回った頃だった。

 フロントの自動ドアが開き、二十歳前後と思しき若いカップルがロビーへと入ってきた。

 女の子の方はすっかりお酒が回っているらしく、頬を真っ赤に染めて「えへへ、まだ全然歩けるってばぁ〜」とご機嫌に笑いながら彼氏の腕にぶら下がっている。連れの若い男の方は困り果てた様子で彼女の肩を支え、受付の小窓へと歩み寄ってきた。

「あ、あの、すみません……彼女が飲み会でちょっと潰れかけちゃってて、終電も逃しちゃったんで、少し横にして介抱したくて……一番落ち着ける部屋って空いてますか?」


 俺は内心で小さく息を呑み、隣の卯月を見た。

 いつもの卯月なら、客が酔っ払っていると分かった瞬間に「泥酔状態のお客様は即出禁っす!」と冷徹に門前払いしていた場面だ。


 卯月は帳簿から顔を上げ、小窓の向こうの二人をじっと見据えた。

 だらしなくへらへらと笑うご機嫌な女の子と、下心よりも純粋に彼女の体調を案じてオロオロと汗をかいている男の真っ直ぐな目。


 数秒の沈黙のあと――卯月は小さく鼻を鳴らすと、カウンターの下の小型冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのペットボトルを二本取り出し、ルームナンバーの書かれた部屋の鍵と共に受付のトレイの上へとコトンと置いた。

「……211号室、最奥の角部屋。森に面してるんで静かだと思うっす。あとこれ、サービスなんで持ってってください」


「えっ……? あ、ありがとうございます!」


「部屋入ったら、寝かせる前にまずその水を飲ませてあげてください。お酒抜けるまで無理なことはしないこと。あと、もし気分悪くなったりしたら遠慮なくフロントに内線かけていいんで。……どうぞ、お大事にっす」


 若い男は目を丸くしたあと、「ありがとうございます!」と何度も頭を下げ、上機嫌な彼女を優しく支えながらエレベーターへと向かっていった。

 エレベーターの扉が閉まるのを見届けてから、俺は何も言わず、ただ椅子に座り直した卯月の横顔をじっと見つめた。

 すると、俺の視線に気づいた卯月が、ピクリと肩を揺らし、バツの悪そうな表情を浮かべたかと思うと、怪訝そうに眉をひそめた。

「……な、なんすか、その生暖かい目は! 気色悪いんすけど!」


「いや、べつに。卯月らしくない……ずいぶん優しい接客をするなと思ってさ」


「は…はぁ!? 勘違いしないでくださいよ! 今のは…そう売上の為! あとはほんの気まぐれというか一種の気の迷いというか…だ、だいたい、部屋で吐かれてシーツ汚されたら、清掃する詩七美さんの手間が増えるじゃないっすか! 私はお店の売上と業務上のリスク管理をしただけで、優しさとかそういうんじゃ断じてないんすからね!!」


 真っ赤になった耳たぶを隠すようにパーカーのフードを乱暴に引っ張りながら、早口でまくし立てて帳簿の影に顔を隠す卯月。


 そのあまりにも分かりやすい言い訳に、俺は小さく吹き出し、「そういうことにしておくよ」とだけ返して納品書にサインをした。


 もし、本当に関わる相手によって、キャンバスの色も、世界の見え方も少しずつ変わっていくのだとしたら。


 この薄暗い吹き溜まりのラブホテルで過ごす俺たちの時間もまた、不器用なまま、新しい季節へと向かって静かに色づき始めていくのだろうか。

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