Suite.14「両手とレモンと拗らせうさぎとサル共②」
「……いい案、っすか?」
涙で赤く滲んだ目元をパーカーの袖口で乱暴に拭いながら、卯月が胡乱げな声で聞き返した。
俺は壁際から動かぬまま、薄暗い217号室の天井――額縁のようなLEDライトと、その内側で人の顔のように浮かび上がる不気味なシミを一瞥してから、努めて淡々と口を開いた。
「あぁ。お前がこのホテルで働き始めた理由が、自分のトラウマに無理やり向き合うための荒療治だっていうなら、いっそ徹底的にやればいい」
「徹底的にって……具体的に、何をする気なんすか」
「何もしないさ。ただ、朝、詩七美さんがこの部屋の清掃に来るまでの数時間――お前にとって一番忌まわしい『ラブホテルの一室』という密室で、同じくトラウマの根源である『男』の俺と、二人きりで朝まで過ごす」
一瞬、卯月が息を呑み、掛け布団を握りしめる指先に再びグッと力がこもったのが見えた。
無理もない。過呼吸の発作が治まったばかりの人間に突きつけるには、あまりにもデリカシーを欠いた暴論だ。普通ならここで頬を引っ叩かれて部屋を出ていかれても文句は言えない。
「……もちろん、指一本触れないし、そちらが望まない限りこの距離も詰めない。店長からはさっき、フロントの事は心配しなくていいと言われてる。それに……まぁ、ちょっとした事情で他の邪魔も朝まで入らない手筈になってるしな」
今頃、夜の国道の看板裏か、あるいは深夜営業のファミレスあたりでパルミエをかじっているであろう魔女っ子姿のちとせには悪いが、彼女の不在は願ってもない好都合だった。詩七美さんには明日の朝、ありのまま事情を説明すればいい。
「……はっ。なにそれ、バカじゃないっすか」
長い沈黙の末、卯月の唇から漏れ出たのは、震えを無理やり押し殺したような乾いた笑い声だった。
彼女はベッドの上でゆっくりと顎を上げ、まだ赤みの残る瞳にいつもの獰猛な光を宿して俺を睨みつけた。
「つまりパコ太郎は、自分が私にとって無害な男だって証明したいわけっすか? それとも、弱ってる女と同じ部屋で一晩過ごして、あわよくばって下心でも出してんすか?」
「どう捉えてもらっても構わないさ。ただ、もし俺を完全に『無害な石ころ』みたいに扱ったら、荒療治の意味がないだろ?」
「……は?」
「フロントのカウンター越しじゃなくて、逃げ場のないこの部屋に男がいるって事実をちゃんと意識した上で、『それでも何も起きずに朝を迎えた』っていう既成事実を頭に叩き込むんだよ。……嫌なら、俺は今度こそ部屋を出ていくが」
挑発するように肩をすくめてみせると、卯月の整った眉がピクリと中央へ寄った。
踏みにじられっぱなしは性分じゃない――さっき彼女自身が口にしたその矜持が、恐怖よりも先に彼女の闘争本能へ火をつけたのが手に取るように分かった。
「……上等っすよ。そこまで言うなら、受けて立ってあげます」
卯月は布団を蹴飛ばすようにしてベッドの端に足を下ろすと、ビシッと俺の鼻先を指差した。
「ただし! 荒療治っていうなら条件があるっす。変に気を遣って草食系ぶるのはナシ。意識させるために『雄』としての圧は増し増しにしつつ、下心のある『男』は一切出さないこと! 分かりましたか!?」
「……待て。雄味は増し増しで、かつ男は一切出すなと!?」
「そっ。そのくらい出来るでしょ?」
「お年頃ならではの絶妙な落とし所みたいに言うな! そんな殺生な話あるかっ、生殺しにも程があるだろ!」
「うっさいな、言い出したのはそっちじゃないっすか! 言っときますけど、万が一にも変な気起こしたら容赦しないっすからね。生憎、パコ太郎くらいなら玉三つ取るくらい余裕っすから」
「ひとつ多いわ。どこから三個目を錬成する気なんだよお前は……」
呆れてツッコミを入れた俺を見て、卯月が「ぷっ」と小さく吹き出し、すぐにハッとして咳払いで誤魔化した。
張りつめていた氷のような緊張が、ほんの少しだけ緩む。これくらい憎まれ口を叩き合えているうちは、きっと大丈夫だ。
「……まぁ、ただ朝まで無言で睨めっこしてるのも地獄だろうし、控え室から貸し出し用のゲーム機でも持ってくるよ。店長にも一応、このまま部屋で休ませるって内線を入れておく」
「あ、ちょっと待ってください。……なんか情緒不安定なせいか急にお腹減ったんすけど、ついでに出前頼んでいいっすか。パコ太郎の金で」
「……なんで俺の金なんだよ」
「レディをこんなボロ部屋に朝まで軟禁しようってんすよ? 当然の誠意っしょ!」
つい十分前まで世界の終わりのように震えていた人間の図々しさとは思えないが、彼女なりの不器用な切り替え方に内心で安堵しながら、俺は「分かったよ」と溜息をついて受話器へと手を伸ばした。
***
それから深夜二時を回る頃までの217号室は、トラウマ克服の厳粛なセラピーなどとは程遠い、ただの口喧嘩と騒動の連続だった。
俺が控え室から古い据え置き型の貸し出しゲーム機とコントローラーを抱えて戻ってくると、ちょうど深夜営業の中華屋から出前の餃子と炒飯が届いた。
俺の財布から千円札が数枚羽を生やして飛んでいったことには目を瞑り、狭いテーブルを挟んで食事を終えたあと、俺がテレビの裏へゲーム機の配線を繋ごうと屈み込んでいた時のことだ。
「……てかなに……? この絵。下手じゃね?」
背後から聞こえてきた心外極まりない一言に、俺が振り向くと、いつの間にかベッドを降りていた卯月が、布を捲り上げてイーゼルの上の描きかけのキャンバスを覗き込んでいた。
「なっ……!? おまっ、勝手に捲るな! ていうかあろうことかキュビスムを否定するのか? ……はぁ、これだから素人は」
「はぁ!? 絵なんて見る人次第じゃないっすか! そんで私が下手だって言うなら、それはもう下手なんすよ! なんで顔のパーツがこんなバラバラにズレてんすか、さてはデッサン狂ってるっすね?」
「狂ってるんじゃなくて、意図的に解体して再構築してるんだよ! ……だがまぁ、あながち間違いでもないか」
俺は赤と黄色のコードを指先で弄びながら、少しだけ苦笑してキャンバスを見上げた。
「ピカソの絵の本質は、まさにその『下手うま』にあるんだよ。彼は十代の頃にはすでに、写真と見紛うほど完璧な写実画を描き切る技術を完成させていた。その上で、『どうすれば子供のように純粋な目で世界を描けるか』に生涯をかけて挑んだんだ。……俺なんかが同じ土俵を語るのは烏滸がましいにも程があるけどな」
「……ふぅん。よく分かんないっすけど、この端っこにいる耳の長いブサイクな生き物、もしかしてウサギっすか?」
「誰がブサイクだ。まだ下描き段階だって言ってるだろ!」
そんな言い合いをしているうちに配線が終わり、退屈を持て余した卯月が「さっさと画面映してくださいよ」とベッドの上からテレビのリモコンを拾い上げて電源ボタンを押した――直後だった。
『――んっ、ぁあっ♡ ねぇお兄ちゃぁん、寝てるフリしてたって無駄だよぉ? こっちはもう準備万端なんだからぁ……っ♡』
大音量で室内を揺るがす、甘ったるい女の嬌声と生々しい水音。
テレビの大画面いっぱいに映し出されたのは、薄暗い和室で布団に潜り込み、眠っている男の上へと跨がる全裸の女――紛れもない、ホテルチャンネルの『夜這いモノ』の成人向けビデオだった。
「…………」
「…………」
時が止まったかのような数秒の空白。
あぁ、そういえば昼間、あの魔女っ子姿の同居人が『せっかくの休みなのに机で突っ伏して寝てたから、逆夜這い物でも音量MAXでつけておいてあげよーって』などと抜かしていた気がする。あいつ、本当にセットしやがったのか……ッ!!
「――っ、な、な、なに見てんすかこのド変態パコ太郎ッ!! いつもこんなの大音量で流して一人で盛り上がってんすか!? キモッ! 犯罪的キモさっすよ!!死ね…もういっそ…今死ねっ!!」
「ち、違うッ! 断じて俺じゃない!! これには深いというか浅いというか、説明不能な不可抗力があってだな――リモコン貸せっ!!」
「触んな! 私が消す! ……って、ちょっ、これどのボタンっすか!? 入力切替どれ!?」
「それは音量上げるボタンだバカ!! 余計デカくなってるだろ!!」
顔を真っ赤にしてリモコンを連打する卯月と、テレビの主電源を直接切ろうと突進する俺とでひとしきり大騒ぎになり、ようやく画面が暗転した頃には、二人とも変な汗をかいて肩で息をしていた。
その後も平穏とは無縁だった。
やれ「トイレ行くから絶対音聞こえないように玄関のドアの前で耳塞いで立ってろ!」と部屋の隅へ追いやられたり、かと思えば「なんか汗かいて気持ち悪いからシャワー浴びてくるっす! 覗いたらマジで社会的に抹殺するんで!」と俺の洗濯済みの無地Tシャツとスウェットを強奪してバスルームへ立てこもられたり。
曇りガラスの向こうから響いてくるジャーッというシャワーの水音を聞きながら、俺はベッドから離れた床の上で膝を抱え、必死に雑念を振り払っていた。
『雄味は増し増しで、男は一切出すな』などと簡単に言ってくれるが、二十一歳の健全な男子学生にとって、薄暗いラブホテルの一室で女の子がシャワーを浴びている状況というのは、理性への拷問以外の何物でもない。俺は頭の中でトマス・ホッブズの国家論とルネサンス期の遠近法の歴史を必死に暗唱し続け、どうにか煩悩をねじ伏せた。
やがて、ぶかぶかの俺のTシャツの裾を揺らしながら風呂場から出てきた卯月と、画面を切り替えたテレビで対戦型のパズルゲームを始めたのだが――彼女はゲームでも性格そのままの超攻撃型で、容赦なくお邪魔ブロックを降らせては「ざっこ! パコ太郎ざっこ!」と煽り散らし、俺が大人げなく本気を出して三連勝すると「コントローラーの接触が悪いんすよ!」と本気でキレた。
罵り合い、憎まれ口を叩き合い、くだらないことでムキになる。
けれど、ふとした瞬間に気づく。
最初は俺が立ち上がるだけでビクリと肩を強張らせていた彼女が、いつの間にかコントローラーを奪い合おうとして俺のすぐ近くまで身を乗り出しても、もう呼吸を乱さなくなっていることに。
***
午前三時半を過ぎた頃には、さすがの卯月も口数が減り、テレビの電源を落とした室内には再び換気扇の低い音だけが満ちていた。
間接照明を一番暗い段階まで絞った薄闇の中、ベッドの上で毛布にくるまった卯月が、大きなあくびを噛み殺しながらくぐもった声を漏らす。
「……あ〜……眠い……。でも、ここで寝たらこのいきり立った雄に襲われる……」
「誰がいきり立った雄だ。さっきから約束通り、半径二メートル以内にすら入ってないだろ」
「油断大敵って言うじゃないっすか……。絶対、朝まで起きて見張っててやるんすから……」
そう強がってはいるものの、彼女の瞼は今にも落ちそうなほど重たげにトロンとしている。
かくいう俺も、他人の心配をしている場合ではなかった。昨日の夜勤明けに遊園地を駆け回り、そのまま徹夜で今朝まで働いて、昼間は浅い眠りのあとに数駅先まで歩いて往復し、さらに今夜の騒動だ。床に敷いた薄い座布団の上、ベッドの足元側のフレームから少し離れた壁に背を預けていた俺の意識は、限界を超えて鉛のように沈んでいく。
(……まずいな、先に寝るのは無防備すぎるか……いや、俺が寝てしまった方が、あいつも安心して眠れるか……)
そんな都合のいい言い訳を頭の中で転がしたのを最後に、俺の意識は今度こそ、夢も見ないほど深い眠りの底へと落ちていった。
***
どれくらい時間が経ったのだろうか。
ふと、首筋に貼っていた絆創膏の端がわずかに剥がれかけたようなむず痒さを感じて、俺は静かに瞼を開けた。
カーテンの隙間はまだ暗い。時計を見れば、午前五時を少し回ったところだった。
寝ぼけた頭で状況を確認しようと視線を動かした俺は――すぐ隣にあった気配に気づいて、思わず息を止めた。
ベッドの上にいたはずの卯月が、いつの間にか床へと降りてきていた。
俺が背を預けているのと同じ壁際に、ほんの十数センチほどの距離を空けて並んで座り込み、膝を抱えたまま、片耳に白いイヤホンを挿して目を閉じている。
並んで壁に背中を預けたまま、ふと薄汚れた室内に目をやった。
上階の水漏れでできた青いカビの模様、天井のLED額縁の中で不気味に人の顔の形を浮かび上がらせるシミ、部屋中に充満したテレピン油と絵の具のツンとした刺激臭。客観的に見れば、どう言い繕っても褒められたものではないボロ部屋だ。
「……なんすかね、この部屋。天井のシミは人の顔に見えるし、壁はカビ生えてるし、絵の具臭いし、───これはパコ太郎のせいだろうけど…どう考えても最悪の環境っすよね」
膝を抱えたまま、卯月がぽつりと毒づく。
「悪かったな。支配人の趣味が悪いんでね」
俺が苦笑交じりに返すと、卯月は少しだけ目を細め、自分の膝に顎を乗せた。
「でも……不思議と、嫌じゃないっすね」
その声には、さっきまでの棘や虚勢は微塵もなかった。
外界から完全に遮断された、誰にも踏み荒らされないこの吹き溜まりの密室で、傷だらけの二人の体温がゆっくりと溶け合っていく。
卯月は逃げることも、俺を叩き起こすこともせず、ただ暗がりの中で静かに音楽を聴いていた。
「……結局寝なかったのか、卯月」
驚かせないよう低く声をかけると、卯月の長い睫毛がピクリと揺れ、ゆっくりと目を開けた。
彼女は俺が起きたことにも特に慌てる様子を見せず、空いている方の耳で俺の声を聞きながら、少しだけ気怠そうに微笑んだ。
「……少しだけ、うたた寝はしたっすよ。パコ太郎があまりにも気持ちよさそうに爆睡かましてるから、見張ってるのがアホらしくなっちゃって」
「そりゃ悪かったな。……また、その曲を聴いてたのか」
「……うん。なんか、静かすぎると余計なこと考えちゃうから」
卯月は膝の上に乗せた携帯音楽機器の小さな液晶画面を、親指の腹でそっと撫でた。
「この曲を聴いてる時だけ、まだ何者にもなれてない、途中のまま立ち止まってる自分のことも、少しだけ肯定出来る気がして。……届くわけないって分かってても、欲しいって泣くことくらいは、許されるのかなって」
そう言って彼女は、自分の左耳に挿していたイヤホンとは反対側の、だらりと垂れていた右耳用のイヤホンをつまみ上げると、俺の方へと控えめに差し出した。
「……聴きます?」
「いいのか?」
「特別っすよ」
俺が小さく頷いて少しだけ身体を傾けると、卯月も逃げずにすっと距離を縮めてきた。
お互いの肩先が、薄いTシャツ越しにふわりと触れ合うか触れ合わないかという絶妙な距離。コードを引っ張らないように顔を近づけると、彼女の纏う匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
少し古本屋のような、どこか懐かしい埃っぽい匂い。レコード屋の片隅に似た落ち着く空気と、俺の貸した衣服に溶け込んだ柔軟剤の華やかな香り、それから――ちょっぴり汗ばんだ、彼女自身の甘い香り。
以前なら飛び退いていたはずの距離なのに、卯月は震えていなかった。
「……不思議っすね。こうやって……お互いの体温が溶け合うくらいのペースなら、全然怖くないや」
ぽつりと零れた彼女の呟きと共に、右耳のイヤホンから、アコースティックギターの切ないアルペジオと、高谷庵の擦れるような歌声が流れ込んできた。
昼間、駅前の夕闇の中で聴いたのと同じ、『クライ・フォー・ザ・ムーン』。
三分少しの短い楽曲が終わり、数秒の無音を挟んで――再び、まったく同じイントロのギターが鳴り始めた。
「……なぁ、卯月。もしかしてこのプレイヤー、この一曲しか入ってないのか?」
「……バレました? そうっすよ。三年前に、庵さんから最初に買った自主制作のCDから取り込んだ、その一曲だけ」
卯月は壁に後頭部を預け、天井の暗い額縁を見上げたまま静かに続けた。
「あの事件があってから、怖くてどうしても駅前の路上ライブにも、ライブハウスにも行けなくなっちゃったんす。もしあそこに行って、アイツらの仲間とか、私を知ってる誰かがいたらどうしようって考えたら、足がすくんで電車にも乗れなくて。……だから、私の中の庵さんは、三年前のこの一曲でずっと止まったままなんすよ」
だから彼女は、昨日俺が「まだあの場所で歌っていた」と口にした時、あんなにも嬉しそうに目を輝かせ、そして同じくらい寂しそうに顔を伏せたのだ。
俺は右耳からそっとイヤホンを外し、すぐ横に置いてあった自分のショルダーバッグへと手を伸ばした。
「……卯月。さっきは言いそびれたんだが、ひとつ伝えておかなきゃいけないことがある」
「……なんすか、改まって」
「今日、俺が画材屋の帰りにCDショップへ寄った時、高谷庵のCDはどこにも置いてなかった。それで外に出たら、たまたま階段の前で彼女が歌ってたんだが……実は彼女はもう、今日限りで路上ライブを辞めてしまったらしい」
その瞬間、卯月の瞳が大きく見開かれ、見る間に失望の色に染まった。
「え……っ、うそ……。辞めちゃったって……音楽、諦めちゃったんすか……?」
自分の唯一の拠り所まで失ってしまったかのように、今にも泣き出しそうに眉を下げる卯月。
俺は少し意地悪な順序になってしまったことを内心で詫びながら、バッグの中から白い紙ジャケットに包まれた一枚の手売りCDを取り出し、彼女の膝の上へとそっと置いた。
「逆だよ。――来月、レーベルからプロデビューが決まったんだそうだ。だから今日が、高校生の頃から続けてきた路上ライブの卒業ゲリラライブだったんだよ」
「……っ! え……プロ、デビュー……!?」
卯月は自分の膝の上に置かれた見慣れない紙ジャケットと、俺の顔を何度も交互に見比べた。震える指先でジャケットを拾い上げ、そこに記された『高谷 庵 / Cry for the moon・Realize』という文字を食い入るように見つめる。
「まだ大きな知名度はないから、これからしばらくはひっそりと活動しつつ、たまに小さな会場でライブをやっていくって言ってた。これは流通に乗る前の、今日だけの手売りCDだ」
「なっ……なんでパコ太郎がこれ持ってんすか……!?」
「買ってきたに決まってるだろ。最後の一枚だったぞ」
俺は少しだけ照れくさくなって視線を逸らし、首筋を軽く掻きながら言葉を継いだ。
「……あの人、お客さんの顔を一人残らず覚えてるみたいでさ。俺がCDを買いに行ったら、『あれ! お兄さん初めましてだね!』って真っ先に声をかけられたよ」
「っ……そうなんすよ……庵さん、そういう人なんす……」
「その時はまだ、卯月の昔の話なんて知らなかったからさ。『職場の二十歳くらいの派手めな女の子が、クライ・フォー・ザ・ムーンだけを毎日大事に聴いてるんですよ』って伝えたんだ。そうしたら彼女、少し首を傾げてから、こんなことを言ってたよ」
俺は夕暮れの階段下で、ギターケースを片付けながら懐かしそうに目を細めていた高谷庵の言葉を、ひとつずつ丁寧に掬い上げるように伝えた。
「『派手な子は心当たりがないけれど……その古い音源なら、まだお客さんが一人か二人しか止まってくれなかった頃、いつも一番端っこで、一人なのにキラキラした笑顔で聴いてくれてた高校生くらいの女の子がいたな。ここ数年はすっかり見なくなっちゃったけど……お兄さんの職場の子にも、よろしく伝えてね』ってさ」
「……っ、ぁ……」
卯月の喉が、ひゅうっと小さく鳴った。
自分が勝手に汚されて、勝手に逃げ出して、もう忘れ去られたと思っていた時間。けれど、あの日階段の下で歌っていた憧れの人は、端っこで立ち尽くしていた黒髪の少女の笑顔を、三年経った今日までずっと覚えていてくれたのだ。
俺は立ち上がると、彼女の手からそっとCDを受け取り、テレビの下に置かれていたDVDレコーダーのトレイを開いてディスクをセットした。テレビの画面は消したまま、スピーカーの音量だけを極限まで絞って再生ボタンを押す。
静まり返った217号室に、力強いギターのストロークが流れ出した。
「二曲目に入ってる新曲だ。曲名は『リアライズ』――実現、あるいは『再起』って意味らしい」
スピーカーから溢れ出す、凛として芯の通った歌声。
かつて届かない月に手を伸ばして泣いていた少女が、傷つくことも、自分の弱さもすべて抱きしめたまま立ち上がり、本当に欲しかった未来を自らの手で掴み取ろうとする強い祈りの旋律。
卯月は両手で口元を覆い、瞬きもせずにその歌声を浴びていた。赤く潤んだ瞳から一筋だけ光るものが頬を伝ったが、彼女はそれをすぐに指の腹で強く拭い去った。
俺は再び彼女の隣から少し離れた場所へと腰を下ろし、静かに語りかけた。
「……なぁ、卯月。無理して『怖いもの無し』になんてなる必要はないんだよ」
「…………」
「誰かに触れられて足がすくむのも、過去を思い出して震えるのも、お前が弱いからじゃない。二度と同じように傷つかないようにするための、心の正常な『セーフティ』なんだからさ。無理やり自分を変える必要なんてないし、あの連中に変えられてしまったものを我慢して受け入れる必要も無い。……卯月はもう十分戦ってきたんだ。だから大丈夫、今のそのままでいいんだよ」
歌が静かな余韻を残して終わり、室内に穏やかな沈黙が降りる。
それは昨日の夜までの、互いを拒絶し合うようなトゲだらけの沈黙ではなかった。かといって、彼女がかつて定義した『男女の友情』と呼ぶにはまだ少しばかり不器用すぎる、同僚以上、友人未満とでも呼ぶべき奇妙に心地よい距離感だった。
やがて卯月は、スッと背筋を伸ばして立ち上がると、レコーダーから取り出したCDを宝物のように胸に抱きしめ、仁王立ちのまま俺を見下ろした。
「……なに優しいこと言ってんすか。これで私が泣いて、喚いて、パコ太郎に縋り付くとでも思った?」
その口元には、いつもの不敵で、どうしようもなく生意気な笑みが戻っていた。
「生憎、私はそんな『可哀想な自分』を絶対に許さないんで。誰にも――パコ太郎にだって、弱いところなんて、死んでも見せてやらないんだから」
「……あぁ、それでいいよ」
俺が苦笑交じりに頷くと、卯月はぷいっとそっぽを向き、自分のトートバッグを肩に引っ掛けながら、思い出したように早口で付け加えた。
「あっ! あとちなみに、パコ太郎はどうせ今日の私の為にした行動も『結局は自分の為だ、利己的だ』なんだと捻くれて考えて、後から『もっと他に上手くやれたんじゃないか』って一人でウジウジ後悔すると思うんすけど……!」
彼女は一度だけ言葉を区切り、カーテンの隙間から僅かに差し込み始めた白々しい朝の光の中で、ほんの少しだけ頬を染めて唇を尖らせた。
「……案外と、悪くは無かったっす。反芻思考の厭世主義者にしては、っすけどねっ!」




