Suite.13「両手とレモンと拗らせうさぎとサル共」
──────他人は世界を、どこまで見ているのだろうか。
自分の見ている範囲は、視野狭窄に陥った僅か一部に過ぎないのか。あるいは考えすぎで、ありふれた物事をなにか酷く重いものとして捉えすぎているだけなのか。
他人のなにげない仕草、言葉尻、そのたった一言に一喜一憂し、勝手に期待しては勝手に傷つく愚かな私は、『愛姫卯月』という人間は――結局のところ、いつも見下している連中と何ら変わらない、人間未満の即ち『サル』なのだろうか。
私は、自分の為に泣けない。
映画やドラマなんかでは簡単に泣けるのに、いざ自分の事になると、『可哀想な自分』って奴がどうしても許せなくて、涙腺に固く蓋をしてしまう。
他人の積み重ねてきたものやその背景に涙することは出来るのに。それだけの想像力は持ち合わせているはずなのに、自分の事となれば、どうすれば救われるのか何一つ分かりはしないのだ。
***
あれは今から三年前、私がまだ高校生だった頃の話だ。
当時の私は、今みたいに髪を明るく染めることも、派手なメイクで顔を塗りたくることもない、どこにでもいる黒髪の大人しい生徒だった。
家は、息が詰まるほど厳格だった。
門限、服装、交友関係、果ては将来進むべき大学の学部から就職先のレールに至るまで、すべてが両親の敷いた『正しい模範』によって管理されていた。周囲から向けられる「真面目で優秀ないい子」という期待。少しでもそこから踏み外せば、冷ややかな溜息と正論の刃が飛んでくる毎日。
自分の人生なのに、自分の意思が介入する余地はどこにもなかった。
その日も、三者面談を前にした進路の話で母親と衝突し、このまま家にいたら本当に心が押し潰されてしまいそうで、私は逃げるように数駅先の駅から直結した複合商業施設へと足を向けた。
特に当てがあったわけじゃない。ただ、誰も私のことを知らない雑踏の中で誰の目も気にせず深く息がしたかった。
夕暮れの駅前。改札へと続く階段の手前を通りかかった時、ふいに、乾いたアコースティックギターの音色と、擦れるように切ない歌声が耳に飛び込んできた。
まだ周りには立ち止まる人の姿すらない、たった一人の路上ライブ。
黒いギターを抱えて歌っていた『高谷 庵』という名のその女性は、夕闇の中でまるで私一人の胸の奥を射抜くみたいに歌を歌っていた。
手に入らない月に手を伸ばし、届かない光に咽び泣く、酷く愚かな、ないものねだりな歌。
自分の心の中をそのまま見透かされたような歌詞に、私は鞄を握りしめたまま、最後の音が消えるまで一歩も動けなかった。
勇気を出して声をかけると、彼女は少し驚いたように目を瞬かせたあと、「曜日は決まってないんだけど、毎週このくらいの時間にここで歌ってるよ」と優しく教えてくれた。
それから私は、憑き物が落ちたみたいにその場所へ足繁く通うようになった。
一ヶ月、二ヶ月と経つうちに、階段の前で足を止めるファンは少しずつ増えていき、いつしか常連同士で言葉を交わす仲の良いグループが出来上がった。
大学生やフリーター、少し年上の男の人たちに、同年代の女の子。ライブが終わったあとのファミレスで、安いドリンクバーを片手に、庵さんの音楽や自分の好きなものについて時間を忘れて好きなだけ語り合う時間。
親の顔色も、偏差値も関係ないその場所は、息苦しい箱庭で生きていた私にとって唯一の癒しであり、初めて手に入れた『自由』そのものだった。
そんな日々の中、次第に帰りは遅くなり、両親と揉めることが増えていった。
それでも、音楽や仲間のせいにして否定されるのだけは絶対に嫌だったから、私は意地でも学校の成績だけは落とさなかった。ただ、親が勝手に選択した進学先へ頷くことだけはどうしても出来ず、家庭内の空気は日増しに冷え切っていった。
そんなある日のことだった。
ずっと路上で歌ってきた庵さんが、小さなライブハウス――いわゆる『箱』で初めてのGIGを開くことになったのだ。
もちろん、私たちはみんなで連なって見に行った。薄暗いフロアを揺らす爆音と、ステージの上で誰よりも眩しく輝く庵さんの姿。胸が張り裂けそうなほどの高揚感に包まれ、ライブが終わったあとも私たちの興奮は冷めやらなかった。
「このまま帰るのもったいなくない? 近くでご飯食べて、感想戦しようよ!」
グループの一人がそう声を上げ、私たちは駅裏の雑居ビルに入った飲食店へと流れ込んだ。
あの曲のアレンジが最高だったとか、いつかもっと大きなステージに立つはずだとか、感動を共有したくて夢中で言葉を交わしていた、その途中だった。
グラスに残っていた甘いオレンジジュースを飲み干して、少し経った頃。
ふいに、身体の芯がふわふわと宙に浮くような、奇妙な夢見心地に襲われた。
(……あれ、なんか、頭がぼーっとする……)
門限が気になり、そろそろ帰ろうと席を立とうとしたのに、足元がぐにゃりと歪んで覚束ない。視界の端がチカチカと明滅し、テーブルの向こうで笑っているみんなが何を言っているのか、水の中で聞いているみたいに言葉の意味が頭に入ってこなくなる。
「大丈夫? 外の空気吸おっか」「送ってくよ」――そんな誰かの優しい声が遠くで響き、肩を支えられた感触を最後に、私の意識はぷっつりと暗闇へ途切れた。
そして。
次に目が覚めた時、視界に飛び込んできたのは――毒々しいピンク色の間接照明と、見覚えのない大きなベッド。
そこは、ラブホテルの一室だった。
「……え……?」
状況が飲み込めないまま身を起こそうとした私の両肩を、複数の重たい腕が上から乱暴に押さえつけた。
見上げれば、ついさっきまで同じ音楽を愛し、同じ感動を分かち合っていたはずの『仲間』の男たちが、見たこともない濁った目で私を見下ろしていた。
「みんな……?…どうした…の…?」
私の問いかけに、言葉は一つも返ってこなかった。
けれど、目の前で下卑た笑いを浮かべる男達を見れば、ここがどこで、自分がどういう状況なのか…察するのに、そう時間はかからなかった。
「やだ……っ、離して! なにするの、やめてッ!!」
「──────私たち友達じゃなかったのッ!?」
どんなに強い言葉を使っても、喉元が裂けるまで叫んでも、組み敷かれたその圧倒的な力強さを前に、私は何一つ出来なかった。手首を片手で簡単に束ねられ、暴れる足は膝で縫い止められる。男と女の間に横たわる、どうしようもない暴力の格差。
全身の毛穴から氷水が噴き出すような恐怖の中で、私の心を一番深く抉ったのは、肉体的な痛みよりも――あまりにも呆気ない裏切りだった。
私たちは、好きな物を共有出来る『友人』だと思っていたのに。
喜びや悲しみ、あの歌に震えた感動までも共有出来る、本物の『友情』なのだと信じていたのに。最初から彼らの目には、私なんて手頃な獲物にしか映っていなかったのだ。
――あぁ、そっか。
激しく揺さぶられる視界の隅、天井のシミを見つめているうちに、ふいに、すべてがどうでも良くなるような冷たい虚無が胸を満たした。
自分が『欲しい』と望むから、手に入らなかった時にこんなにも苦しいのだ。自由も、友情も、理解者も、私には最初から分不相応な『ないものねだり』だったのだ。ならばいっそ、自分の意思も権利もすべて放棄して、外からやってくる暴力にすべてを委ねて受け入れてさえいれば、ずっと楽になれるんじゃないか――。
そんな諦めが、意識を塗り潰しかけた瞬間だった。
脳裏にふと、あの階段の下で一人、誰に聴かれずとも真っ直ぐに声を張り上げていた庵さんの姿が閃いた。
(――冗談じゃない……ッ!)
こんな連中に、私の好きだったものまで全部汚されてたまるものか。
私はわざと全身から力を抜いて諦めたフリをした。押さえつけていた男の手がわずかに緩んだ、その一瞬の隙。私はベッドのヘッドボードに備え付けられていた内線電話へ死に物狂いで手を伸ばし、受話器を叩き落とすと同時にフロントへの呼び出しボタンを連打して叫んだ。
「助けてッ!! 警察呼んでぇッ─────!!」
「チッ、こいつ……!」
慌てて口を塞ごうと覆い被さってきた男の股ぐらを、私は躊躇なく膝で思い切り蹴り上げた。鈍い音と共に男が悶絶して崩れ落ちる。さらに横から掴みかかってきたもう一人の股間も爪先で蹴り飛ばし、私は裸足のままドアへと這いずり出した。
けれど、重い扉のノブに指がかかった直後、背後から髪を掴まれて床へと引きずり倒された。脇腹を蹴り飛ばされ、息が詰まる。再び背後から組み敷かれ、床に顔を押し付けられたまま、震える指先はもうどこにも届かない。
(……あぁ、もう、これ以上は無理だ。……もう、私は、よくやったよ……)
限界だった。固く目を閉じ、今度こそすべてを諦めかけた――まさにそのタイミングで、マスターキーが回る硬い音と共に扉が勢い良く開け放たれ、ホテルの従業員と駆けつけた警察官たちの怒号が部屋になだれ込んできたのだった。
***
「……後から聞いた話だと、アイツら、そうやってライブハウスやイベントの周りで若い女の子を捕まえては、飲み物に覚醒剤とか薬を混ぜてホテルに連れ込んで……依存させて逃げられなくする常習犯だったみたいっす。私以外にも、何人も被害者がいたって」
薄暗い217号室。
壁際であぐらをかいて座る俺の耳に、ベッドの上で膝を抱えた卯月の淡々とした声が届く。換気扇の低い唸り声だけが、彼女の言葉の合間を埋めていた。
「間一髪で助けが来たから、その……最後までやられる前に済んだんすけど。でも、本当の地獄はそこからだったっすね」
卯月は自分の手首をさすりながら、乾いた、自嘲するような笑みを唇の端に浮かべた。
「警察に保護されて、迎えに来た親が開口一番なんて言ったと思います? 『夜中にそんな素性も知れない連中と遊び歩いているお前が悪い』『恥ずかしくて世間に顔向けできない』って、泣くどころか呆れ顔で叱責されたんすよ。……しまいには、事情聴取してた警察官にまで言われました。『こういう界隈じゃ性行為と薬はセットみたいなものだからね。ノコノコ一緒にホテルへついて行った時点で、既に同意があったとみなされる、君にも責任があるよ』って」
俺は無意識のうちに、床の上で自分の拳を強く握りしめていた。爪が掌に食い込む痛みすら遠い。
薬を盛られて意識もなかった少女に対して、一番守るはずの大人たちが投げつけた『自己責任』という名の暴力。それがどれほど深く、決定的に彼女の心を殺したのかは想像に難くなかった。
「血液検査で出た微量の薬の反応が気持ち悪くて、自分の身体の中に汚いものが混ざったのが許せなくて、何度も吐くまで水を飲みました。……それでも、男に対する恐怖だけは消えてくれなかった。しばらく部屋に引きこもってたら、親からは完全に腫れ物扱いで見放されて」
卯月は顔を上げ、暗がりの中で虚空を見つめた。
「繰り返す毎日の中で、布団の中で震えながら『可哀想な自分』に酔ってる自分に、ある日猛烈に嫌気が差したんすよ。踏みにじられて、踏みにじられっぱなしってのは私の性分じゃないんで。私は誰にも何にも縛られないし、二度と弱い姿なんて誰にも見せてやらないって、そう決めたんすよ」
先ずは見た目から、誰にも舐められないように髪を染めて派手に武装した。
語気は強く、言葉遣いは荒く。近づいてくる人間すべてに先制攻撃で噛みつけば、誰も自分の内側には踏み込めない。
そして極めつけに彼女が選んだ職場が――よりにもよって、このラブホテル『VEGA』だった。
「……自分と同じ思いを、他の誰にもさせない為の『防波堤』ってわけか」
俺がぽつりと呟くと、卯月は図星を突かれたように小さく肩を揺らした。
さっきの夜勤で、泥酔して意識のない女の子を抱えた男たちを見た瞬間、彼女があれほど冷徹に、過剰なまでの敵意を剥き出しにして追い返そうとした理由。普段からフロントの監視カメラや内線に異常なほど神経を尖らせていた理由。すべてが、ひとつの線となって繋がった。
あの日、内線電話一本で命からがら救われた彼女は、今度は自分がその受話器を取る側に回るために、一番忌まわしいはずの場所に座り続けていたのだ。
「……それだけじゃないっすよ。本当は……ううん、もう最近のこと、ここで働き始めた辺りから分かってたんだ」
張っていたはずの彼女の声から、ふいに『〜っす』という虚勢の鎧が剥がれ落ちた。
シーツを握りしめる彼女の指先が、再び小刻みに震え始める。
「男なんてって、全部一緒くたにしたってしょうがないってことくらい……。店長だって、髭乃だって、……パコ太郎だって、アイツらとは違うって、頭では分かってるのにっ……。あの日、それが友情であったのか、はたまた最初から別の目的があったのか、答えなんて分かりきってるのに、未だに……っ」
ぽろり、と。
強がりに強がりを重ねてきた彼女の大きな瞳から、ついに堪えきれなくなった涙の粒が零れ落ち、シーツに暗い染みを作った。
「いざ目の前にすると、少しでも触れられると、あの時の記憶が蘇って身体が勝手に震えて、逃げ出したくなる……っ。泣きたくなる……。でも、自分の為に泣きたくない……! 映画やドラマなんかでは自然と涙を受け入れられるのに、自分の事になると、『可哀想な女の子』って奴になってしまったら、もう一生立ち直れない気がしたから……っ!」
嗚咽を噛み殺そうと唇を噛み、自分の手首を強く抱え込む卯月。
俺は壁に背を預けたまま、痛々しいほどに震えるその小さな輪郭を静かに見つめた。
「……わざわざラブホテルを選んで、否応なく意識させられる環境に自分を追い込んで、荒療治でも克服してやろうってか」
「……そうっすよ、バカみたいって思うでしょ……! けど、こうでもしないと……荒療治ででも無理やり向き合わないと、私、一生アイツらの影に怯えたまま、もう二度と立ち直れない気がして……っ!」
絞り出すような悲鳴。
きっと今、ここで彼女にかけるべき『正しい言葉』なんてものはいくらでもあるのだろう。「無理をする必要はない」「少しずつ時間をかければいい」「トラウマから逃げてもいいんだ」――そんな教科書通りの優しい正論。
けれど。
今は、正論なんて要らない。
『可哀想な女の子』になることを死ぬよりも恐れ、傷だらけのプライドひとつを杖にしてここまで一人で立ってきた彼女に、「可哀想だから休め」と諭すことは、彼女の戦ってきた時間そのものを否定することと同義だ。
決められた事を決められたように正しく捉えるのではなく、彼女の歪な強がりをそのまま踏襲した上で、俺なりの独自の解釈で包み込む。それこそが、この酸っぱくて傷つきやすい『レモン』を潰さずに支える、『両手』の役割のはずだから。
もちろん、これは彼女のためじゃない。すべては俺自身の、利己的で打算的な自己満足のためだ。
俺はゆっくりと立ち上がると、約束通りベッドからは一定の距離を保ったまま、涙で赤く濡れた卯月の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……卯月。本当に、荒療治でいいんだな?」
しゃくり上げていた卯月が、呆気にとられたように瞬きをして顔を上げる。
「……え……?」
「そこまで言うなら、付き合ってやるよ。――俺にいい案がある」




