Suite.12「拗らせギャルとサル共③」
真っ白なキャンバスに木炭を滑らせ、余分な炭の粉を布で払ってから、テレピン油で薄く溶いた絵の具で下描きの線をなぞっていく。
『両手とレモンと拗らせうさぎの関係性を想定せよ。』
そんな題名を頭の中で反芻しながら筆を動かしていたはずなのだが――徹夜明けの遊園地と、それに続く朝九時までの夜勤という無茶なスケジュールを強行した俺の肉体は、若さというアドバンテージを持ってしても、流石に限界を迎えていたらしい。
ふっと意識の糸が切れ、次に俺が知覚したのは、ひどく浅くて息苦しい微睡みだった。
暗い、冷たい水の底から、揺らめく水面を見上げているような感覚。
すぐ頭上を走る国道の高架から、大型トラックが継ぎ目を踏み越えるゴウゴウという轟音だけがくぐもって響いてくる。
頭上からは耳を劈くばかりの風切り音、大型トラックのそれよりも一層恐ろしい轟音が不安と焦燥を更に助長する。
助けを呼ぼうと口を開いても、声は水泡になって弾けるばかりで誰の耳にも届かない。
疲れている時ほど、なぜだか人は深く眠ることができない。泥のように重たい倦怠感が全身に絡みついているくせに、脳の芯だけが妙に冴え渡って覚醒とまどろみの境界を何度も行き来する、あの謎めいた現象に苛まれながら、俺はうっすらと瞼を押し上げた。
「……ん……」
昼過ぎの鈍い光がカーテンの隙間から漏れ込む217号室。
椅子に浅く腰掛けたまま突っ伏すようにして寝落ちしていた俺の視界に最初に飛び込んできたのは、イーゼルに立てかけられた描きかけのキャンバスの前で、腕を組んでうんうんと唸っている同居人――ちとせの後頭部だった。
今日も今日とて彼女は珍妙な──膝下までの黒ワンピースに、赤く大きなリボンというどこか見た事のある魔女めいた格好で、しかしいつになくラフに見える格好をしている。
最近ようやっと気づいたのは、再三にわたり発注しているはずの貸し出しコスプレ衣装が、そっくりそのまま姿を消しているのは間違いなくこいつ、目の前で間の抜けた顔を浮かべている彼女の仕業だろう。
彼女は下描き段階の『両手とレモンとうさぎ(略)』を、まるで美術館の学芸員みたいにまじまじと興味深そうに眺めていた。
「……お前、またいつの間に湧いて出たんだ」
「あっ、起きたん?お兄さん! いやぁ、せっかくの休みなのに机で突っ伏して寝てたから、夜這い物でも音量MAXでつけておいてあげよーって」
「頼むから静かに寝かせておいてくれ……。それに人の描きかけの絵を勝手に覗き込むな」
「減るもんじゃないでしょ〜。ていうかお兄さん、これって……下手うまだねっ!」
ちとせはキャンバスに描かれた、幾つもの角度から切り取られた少女の輪郭と、鮮やかな黄色を乗せかけたレモン、そして警戒するように耳をそばだてたうさぎのシルエットを指差した。
「顔を正面と横顔で重ねて描いてるあたり、やっぱりピカソ意識なのかな…?」
「お前のどこにそんな知識があるのか…まぁ正解だ。肉眼で捉えた物をそのまま正確に写し取る術は、もうカメラにあるからな。絵画に求められるのはその先だ。三次元の立体をいろんな角度から解体して、ひとつの平面にまとめあげる四次元の表現……ピカソの用いたキュビスム的思想ってやつだよ」
「ふぅん。確かピカソってさ、『七人の女神と愛の魔王』なんて呼ばれてたんだよね? 付き合う女性が変わるたびに、画風も世界の見え方もコロコロ変わったって」
「よく知ってるな。……生憎、俺には愛の魔王なんて甲斐性はないが」
「どうだか〜? 案外お兄さんも、関わる女の子によってキャンバスの色がどんどん変わっていくタイプかもよ?」
ちとせが悪戯っぽく片目を瞑ってみせた、ちょうどその時だった。
コン、コン、と控えめなノックの音が響き、マスターキーの回る音と共に「……タロ。起きてる?」と聞き慣れた静かな声が届いた。
「詩七美さん……!?なんでこんな時間に…お前、隠れ――」
慌てて振り返った俺の言葉を待たず、ちとせは「はいはい、お邪魔虫は空気を読みますよっと」と音もなくベッドの向こう側、窓際のカーテンの影へとひらりと身を滑らせた。先日の風呂場の一件から、最悪を想定して清掃範囲外なる安全圏を模索し、数ある選択肢の中から今回は窓、普段は開けない小窓のカーテン裏をちとせは選んだ様だ。
なんだか悪い事にこなれてしまった感はあるが、心臓に悪いことに変わりはない。
「……ごめんね、急に。日勤さんに欠員出ちゃって…代打してたから、ついでに掃除しようと思って」
「まさかの残業でしたか…」
「うん。でもいつも帰っても家の事しててあんまり寝ないから…一緒」
「マジにサイボーグ説出たなこれ…。あっ…!おれ換気のために窓開けておきますね!」
俺はカーテンの端にいるちとせを視界に入れないよう不自然に身体で遮りながら、その隣に位置する身の丈ほどある両開きの窓を押し開けた。
生ぬるい九月の風と共に、国道の喧騒が室内へと流れ込んでくる。
彼女と連なってベッドメイクを終え、ゴミ箱の袋を替え、手際よくテーブルの上を拭いていた詩七美さんが、ふと手を止め、開け放たれた窓の向こう――秋めいた高い青空をじっと見上げた。
バラバラバラバラッ、と空気を重たく叩きつけるような独特の低いローター音が、建物のガラスを微かに震わせながら頭上を通り過ぎていく。
詩七美さんは白い首筋を晒したまま、瞬きも忘れてその影を目で追っていた。一分近くもそうしていただろうか。やがて機影が山の稜線へと消えると、彼女は俺の視線に気づいて、少しだけ気恥ずかしそうに目を伏せた。
「……ごめん。少し長く、空を見てただけ」
「また随分と詩的なことをしてらっしゃるんですね」
「近くの米軍キャンプの、飛行機が凄く低く飛んでて」
「あぁ、オスプレイですね。あれ、煩くて近くを通るとあまりの轟音に少し不安になりますよね」
俺が苦笑交じりに相槌を打つと、詩七美さんはモップの柄を両手で握りしめたまま、どこか憧れるような眼差しで再び空を見上げた。
「……乗ってみたい。私、飛行機って乗ったことなくて。空を飛ぶって、どんな感じなんだろうって」
言って、目を頻りに瞬かせる彼女。
「旅行とかで旅客機に乗る機会なら、いつかあるんじゃないですか?」
「ううん、あれがいい。オスプレイは……乗れる機会あるのかな……。一回でいいから、運転してみたいな」
「絶対に許可降りないので、そればっかりは諦めましょう」
「…………」
「そんな目したってダメですよ!」
昨日の今日だ。軽自動車で山道をドリフトし、信号のないゴーカート場で火花を散らしながらタイヤバリアへ特攻していったこの人に軍用機の操縦桿など握らせたら、この街ごと地図から消滅しかねない。
むぅ、と微かに頬を膨らませたように見えた詩七美さんは、それでも「……残念」と小さく呟くと、何事もなかったかのように残りの清掃を完璧に終わらせ、「じゃあ、また夜ね」と小さく手を振って部屋を出ていった。
嵐の前の静けさのような、あるいは日溜まりのような彼女の残り香に思わず頬が緩みかけたところで、カーテンの裏からちとせがひょっこりと顔を出した。
「いやぁ〜、お兄さんの鼻の下、ダリの時計みたいにびろーんって伸びてたねっ!」
「伸びてない。……それと、今から少し出かけてくる」
俺は木箱の中の画材を改め、ぺしゃんこになったカドミウムイエローのチューブと、底をつきかけたテレピン油の瓶を確認して溜息をついた。このまま部屋にいても浅い眠りを繰り返すだけだ。気分転換を兼ねて、数駅先の画材屋まで足を伸ばすのも悪くない。
「お出かけってもしかして、デート?」
「画材の買い出しだよ。」
「画材と…デート!?」
「そんな変態がいてたまるかっ!」
「どこまで行くの?」
「二つ先の駅前まで。なにか欲しいものでもあるのか?」
「えぇそんな悪いよ〜。じゃあ…駅前のパン屋さん『オジ-パン』の『パルミエ』!!」
「遠慮と要望を同時にこなすとは中々の手練れだな。わかったよ、もしあったら買ってくる」
「いよっしゃ!なるはやで買って帰ってきてね!それじゃあさっさと、いってらっしゃーい!」
「よだれ拭よだれ」
口元を頻りに拭いながら、期待に満ちた目でひらひらと手を振るちとせを部屋に残し、俺は財布と小さなショルダーバッグだけを肩にかけて217号室を後にした。
***
午後の日差しを浴びながら、ホテル前、国道沿いの歩道から駅へと続く緩やかな坂道を歩く。
ふと、信号が点滅し始めた横断歩道の前で足を止め、向こう側へ駆け抜けていくランドセル姿の小学生たちをぼんやりと眺めた。
大人になってからというもの、走ることが無くなった。
子供であった時には、用もないのにどこへ行っても全力で走り回っていたはずなのに。いつからか俺は、ゆっくりと、堅実に、決して道を間違えないようにと足元ばかりを見て歩くようになった。
いや――走らなくなったのではない。『走れなくなった』という方が正しいのだろう。
無様に足を取られて転ぶのが、取り返しのつかない何かを壊してしまうのが、怖いから。
点滅する青信号を見送り、赤に変わった信号機の前で立ち尽くす自分の臆病さに自嘲しながら、俺は二十分ほどかけて数駅先にある駅前の雑居ビルへと辿り着いた。
エレベーターで四階にある馴染みの画材屋へと上がり、油絵の具の棚の前に立つ。
ホテルで働き始めてから受け取る僅かばかりの手取りも、そのほとんどがこうして画材へと消えていく。そもそもの話ここへ来た当初は、さっさと金を貯めてすぐにでもあんなおんぼろ部屋から出ていく腹積もりではあったのだが、あの薄暗い吹き溜まりの妙にしっくりとくる肌感から、俺はいつの間にか停滞を受け入れてしまっていた。
レモンの皮を描くための鮮やかなイエローと、チタニウムホワイト、それから新しいテレピン油をカゴに入れる。
ふと視線を横に滑らせると、ガラスケースの中に並ぶ最高級ラインの青い絵の具――『ウルトラマリン』の小さなチューブが目に入った。かつてルネサンスの時代には、ラピスラズリを原料に作られた純金よりも貴重だったとされる聖なる青。今の俺の手取りでは到底手が出せないそれを数秒だけ見つめてから、俺は視線を切ってレジへと向かった。
会計を済ませ、階段を使ってビルを降りる途中、二階のフロアに入っている中型CDショップの看板が目に留まった。
昨日の遊園地での後味の悪さが、ずっと喉の奥に小骨のように引っかかっている。
俺は気まぐれに暖簾をくぐると、邦楽の棚を五十音順に辿ってみた。確か、卯月の携帯音楽機器の画面に表示されていた曲名は『クライ・フォー・ザ・ムーン』。
しかし、メジャーからインディーズの試聴機コーナーまで一通り探してみても、それらしき曲名も似通ったアーティスト名も一向に見当たらない。検索端末に打ち込んでみても結果は同じだった。
(ネット専業の歌い手か、あるいはもう廃盤になった自主制作盤なのか……?)
小さく肩をすくめて店を出て、駅へと続くペデストリアンデッキの階段手前まで差し掛かった、その時だった。
――ジャラン、と。
夕暮れの雑踏を切り裂くように、硬質で澄み切ったアコースティックギターのコードが空気を震わせた。
思わず数歩進んだ後、不随意に吸い込まれる視線と共に足を止めた。
駅前の階段下、帰宅途中の学生やサラリーマンが足早に行き交う一角に、十数人ほどの人垣ができていた。その中心で、黒いギターケースを足元に広げ、一本のマイクスタンドの前に立つ小柄な女性の姿があった。
足元の小さなイーゼルに立てかけられた手書きのボードには、『高谷 庵』という名前が記されている。
「――手に入らないと分かっていても、どうしても目が離せないものがあります。求めてやまない月に手を伸ばし、届かない光に咽び泣く、そんなないものねだりを拗らせた歌。聴いてください。『クライ・フォー・ザ・ムーン』」
静かな曲紹介のあと、彼女が息を吸い込み、最初の一節を歌い出した瞬間――俺の背筋に、粟立つような電流が走った。
間違いない。これだ。
卯月があのフロントの片隅で、世界から自分を隔離するようにイヤホンをねじ込み、まるで祈るように聴き入っていた曲。
切なく掻き鳴らされるマイナーコードの旋律に乗せて紡がれるのは、夜空に浮かぶ冷たい月を欲しがって咽び泣く子供のような、痛切な渇望だった。自分の身体の半身程の腕の短さも、現実の残酷さもすべて理解していながら、それでも『あれが欲しい』と願う心だけは殺せない――そんな不器用でヒリついた叫びが、高谷庵の擦れるようなハイトーンボイスとなって夕闇に溶けていく。
俺の脳裏に、イヤホンを挿した瞬間にふっと険しさを消し、自分の内側へと心細げに視線を沈めていた卯月の横顔が鮮明に蘇った。
これだったのだ。あの強い陰を纏った彼女が、暗闇の中でずっと見つめていた『光の源』は。
曲が終わり、周囲から温かな拍手が湧き起こる。
高谷庵はギターを抱えたまま深く一礼すると、少しだけ寂しそうに、けれど晴れやかな微笑みを浮かべてマイクに向かった。
「ありがとうございます。……実は今日、こうして告知なしのゲリラでこの階段の前に立ったのは、皆さんにお伝えしたいことがあったからです。私、高谷庵は来月、レーベルからプロデビューすることが決まりました。それに伴って、高校生の頃から歌い続けてきたこの駅前での路上ライブは、今日をもって卒業します」
人垣の中から「寂しくなるな」「おめでとう!」と祝福の声が飛ぶ。
なるほど、まだデビュー前で流通に乗っていなかったから、さっきのCDショップの棚には並んでいなかったのか。
「最後に一曲だけ、デビュー盤に収録される新曲を歌わせてください。昔の私は、届かない月を見上げて泣くことしかできませんでした。でも今は違います。……次の曲は、『リアライズ』」
直後に奏でられた新曲は、先ほどの『クライ・フォー・ザ・ムーン』とは対照的な、力強いストロークから始まった。
儚さはそのままに、芯の通った凛とした歌声。誰の前でも決して弱さは見せない、涙も見せない、けれど自分が本当に欲しいと願ったものだけは絶対に諦めず、この手で現実にしてみせる――そんな強い女性像を高らかに描き出す歌だった。
最後のコードが鳴り止むまで、俺はその場から一歩も動くことができなかった。
ライブが終わり、ギターケースの横に並べられた自主制作の手売りCD――『Cry for the moon』と新曲『Realize』の二曲が収められた紙ジャケットの盤面に目を留めた俺は、気がつけば財布を取り出し、その最後の一枚を買い求めていた。
***
夜になり、217号室でちとせに頼まれていたパルミエを渡そうとしていたのだが、どうやらどこかへお出かけ中らしく、部屋の中に彼女の姿は無かった。
よくもまぁあんな珍妙なコスプレで外を歩き回れるなと感心すると共に、少し親心のような、妹を持つ兄の様なやきもきとした気持ちに包まれる。
軽く着替えだけを済ませた俺は、買ってきたCDを一度カバンへとしまい込み、首筋のキスマークを隠す絆創膏を貼り直してからフロントへと向かった。
昨日の遊園地のお土産屋で『触るなッ!!』と拒絶されて以来、卯月と顔を合わせるのはこれが初めてだ。
気まずさで口も利いてもらえないか、あるいは顔を合わせた瞬間に灰皿でも飛んでくるかと内心ひどく緊張しながら控え室の扉を開けたのだが――。
「おっそいっすよパコ太郎! 五分前行動って言葉、美大では教えてくれなかったんすか? これだから唐変木の朴念仁は使えないんすよね!」
「……いや、まだ始業十分前なんだが。あとそれ殆どトートロジー。」
「は?…トトロ?」
ならば出直して来ようかと冗談混じりに思ったりしつつ、見れば、カウンターの椅子にふんぞり返り、シャープペンシルをカチカチと鳴らしながら睨みつけてきた卯月は、拍子抜けするほど相も変わらない様子だった。
昨日の一件など最初から存在しなかったかのように、いつも通りの毒舌と、いつも通りの威嚇。
けれど、文字や言葉という上辺の情報に惑わされず、視覚情報だけで彼女を今一度よく観察すれば、すぐにその違和感に気づく。帳簿をめくる指先の微かな強張り、普段よりも一トーン高く張りつめた声色、そして俺と決して視線を真っ直ぐ合わせようとしない目線。彼女は間違いなく無理をしている。昨日の失態を無かったことにしようと、普段以上に分厚くトゲトゲしい殻を被って必死に虚勢を張っているのだ。
だからこそ、俺もあえて昨日のことには触れず、「悪かったよ」と軽く受け流して雑務に入った。
何事もなく、いつも通りの退屈な夜勤が終わってくれればいい。そう思っていた午後十一時半過ぎ平和な時程決まって――悪夢は、あまりにも唐突に訪れる。
フロントの自動ドアが開き、安っぽい香水の匂いと酒の臭気を漂わせた二十代前半と思しき男が数名、泥酔して足元の覚束ない若い女を強引に抱きかかえるようにしてロビーへと入ってきたのだ。
男はパネルで部屋を選ぼうともせず、受付の小窓をバンバンと平手で叩いた。
「おい姉ちゃん、一番安い部屋でいいからさっさと鍵出せよ。連れが潰れそうなんだよ」
カウンターの奥に座っていた卯月の眉が、ピクリと鋭く寄った。
彼女はロビーの監視モニター越しに、男の腕の中で完全に意識を失っているらしい幼げな女のぐったりとした姿を一瞥すると、氷のように冷ややかな声で言い放った。
「お断りします。当店、泥酔状態や意識のないお客様のご利用は固くお断りしてるんで。他を当たってください……ていうか、すぐに帰って下さい」
「はぁ!? なんだよその態度! 金なら払うって!」
「既に決まったルールに、個人の事情を介入させる余地はないんすよ。それ以上騒ぐなら警察呼びますけど」
いつもの調子だった。どんな輩が相手だろうと一歩も引かず、鋭い牙を剥いて追い返す、フロントの番犬としての愛姫卯月。
だが次の瞬間、痺れを切らし逆上した男の一人が受付カウンターの仕切り窓から強引に上半身を乗り出し――帳簿を押さえていた卯月の細い手首を、大きな手で乱暴に鷲掴みにした。
「ッざけんなよ底辺のラブホ受付風情がッ! 誰に向かって口利いて――」
「……っ、ひぅ……ッ!?」
パチン、と乾いた音を立てて、卯月の手からシャープペンシルが床に転がり落ちた。
その瞬間、彼女の顔からすべての血の気が嘘のように失せた。
怒鳴り返す声は出ない。振り払うことさえできない。
男のごつごつとした指先が彼女の手首に食い込んだまま、卯月の大きく見開かれた瞳が激しく揺れ、焦点がどこにも合わなくなる。喉の奥からヒュー、ヒュー、と笛の鳴るような浅く苦しげな呼吸音が漏れ出し、肩が壊れたぜんまい仕掛けみたいにガタガタと震え始めた。
過呼吸と目眩。昨日の遊園地よりも遥かに深刻な、激しい…フラッシュバックという奴だ。
「――おい、手を離せ」
俺は反射的にカウンターの間へと割って入り、男の腕の関節を掴んで強引に卯月の手首から引き剥がした。
そのまま卯月の視界から男達を遮るように一歩前へ立ち塞がる。一人の男が「なんだよ、俺ら客だぞッ!!」と怒鳴り声を上げたのと同時に、奥の事務所で伝票整理をしていた店長がいつもの飄々とした態度などではなく、見た事もない真剣な表情で飛び出してきた。
「お客様、たった今警察に通報いたしましたので、面倒事になりたくないのなら直ちにお引き取りください! ……小太郎、愛姫を奥へ」
「すみません店長、フロント任せます!」
店長が毅然とした態度で男をロビーの外へと押し出していく背後で、卯月はカウンターの床へと崩れ落ちるように膝をつき、両手で自分の喉元と手首を掻きむしりながら激しく喘いでいた。
今の彼女に、男である俺が手を貸すのは逆効果だ。どうするべきか判断に迷ったまさにその時、リネン室からシーツを抱えて通りかかった詩七美さんが駆け寄ってきた。
「タロ……?」
「詩七美さん卯月が…、力を貸してください! 控え室はロビーの声が聞こえるから、俺の部屋――217号室で休ませます!」
「……うん、分かった」
詩七美さんは迷いなくシーツを置き、ガタガタと震える卯月の背中と膝裏へそっと腕を差し入れると、見た目からは想像もつかない安定感で彼女を軽々と抱き上げた。女性である詩七美さんの柔らかい体温に触れ、卯月が縋るようにその胸元へ顔を埋める。
俺は二人を先導して裏通路を抜け、217号室の前へと急いだ。
詩七美さんより二歩先に鍵を開け、重い内開きの扉を押し開けた瞬間――玄関のすぐ先で、「お帰りお兄さんパルミエありがと…!――」と呑気に顔を出しかけたちとせと鉢合わせた。
(……っ、まずい!)
俺は背後の詩七美さんと卯月に気づかれないよう素早く一歩中へ踏み込み、ちとせの目を真っ直ぐに見据えて鋭くアイコンタクトを送った。そのまま唇だけを動かすような極小の声で囁く。
「悪い、緊急事態だ。朝まで外に出掛けていてくれ。……礼は今度するから」
俺の只事ではない剣幕と、後ろから聞こえてくる卯月の苦しげな呼吸音を察したのだろう。ちとせの顔から瞬時に茶目っ気が消え、彼女は小さく「りょーかい」と口パクで頷いた。
そのまま彼女は足音ひとつ立てずに部屋の奥へと駆け寄り、両開きの窓をすっと開けると、国道沿いに面した巨大なホテル看板の裏側を通る狭い点検通路へと、まるで重力を感じさせない身のこなしでひらりと姿を消した。
(おぉ……そうか、窓から外に出ればいいのか……)
そんな場違いな感心を頭の隅に追いやりながら、俺は昼に詩七美さんに替えてもらったベッドのシーツを手早く整え、入ってきた詩七美さんへと場所を譲った。
詩七美さんは卯月をベッドの上へ優しく横たえると、彼女の背中をゆっくりと、子供をあやす様に一定のリズムでさすり始める。
「詩七美さん、少しの間だけ見ててもらえますか。俺、フロントの様子を見て、彼女の荷物を持ってきます」
「うん。ゆっくりで大丈夫」
俺は一度部屋を出て、フロントへと引き返した。
すでにロビーに先ほどの男達の姿はなく、カウンターに座っていた店長が「あぁ、小太郎。さっきの客は追い返したから大丈夫だ。今夜はもう暇だし、フロントは朝まで俺が入っておくから、卯月の様子見てやってくれ」と労るように頷いてくれた。
礼を言って控え室のロッカーから卯月のトートバッグを取り出し、カウンターの隅に落ちていた彼女の携帯音楽機器とシャープペンシルを拾い上げて、俺は再び217号室へと戻った。
静かにドアを開けると、絞られた調光式の暖色間接照明だけが灯る薄暗い室内から、詩七美さんが足音を忍ばせて玄関先へと出てきた。
「卯月は……?」
「寝ちゃった……」
詩七美さんが声を潜めて小さく微笑む。ベッドの方に目をやれば、掛け布団を肩まで被った卯月が、壁側を向いて小さく丸くなっていた。過呼吸の発作で体力を消耗しきったのだろう。
「ありがとうございます、詩七美さん。助かりました」
「ううん。私、まだ清掃が残ってるから戻るね。……愛姫さん、起きたらお水飲ませてあげて」
そう言い残して詩七美さんが静かに扉を閉め、室内には再び換気扇の低い音だけが残された。
俺は息を殺しながらベッドの脇へと歩み寄り、テーブルの上に卯月のバッグと携帯音楽機器、それからペットボトルの水をそっと置いた。
そもそもここへ連れてきたのは、あくまで彼女を安全な場所で休ませるためだ。彼女が男との接触に対してあれほど強い恐怖を抱いている以上、目を覚ました時にこの密室に俺がいたら、またパニックを起こさせてしまうに違いない。俺はフロントに戻って店長の雑務でも手伝い、朝になったら詩七美さんに起こしに来てもらえばいい。
そう結論づけ、気配を消して踵を返し、ドアノブへと手を伸ばしかけた――その時だった。
衣擦れの微かな音と共に、背後からひどく掠れた、今にも消え入りそうな声が落ちた。
「……どこ、行くんすか」
心臓が跳ね、振り返る。
眠っていたはずの卯月が、掛け布団を胸元まで握りしめたまま、ゆっくりと上半身を起こしていた。メイクの少し滲んだ目元は赤く、虚ろな瞳が暗がりの中で頼りなく、ゆらゆらと揺れている。
「起こしたか、悪い。荷物を置きに来ただけだ。俺がここにいたら落ち着かないだろうし、フロントに戻るからゆっくり休んで――」
「……っ、待って」
俺がドアを開けようとすると、卯月がシーツの上から身を乗り出すようにして、震える指先を宙へ伸ばした。俺に触れることさえ怖いはずなのに、それ以上に、この静まり返った『ラブホテルの一室』にたった一人で取り残される暗闇に耐えられないとでも言うように。
「……今は、ちょっとだけ……一人にしないでください……」
いつもの威勢も、憎まれ口もどこにもない、子供みたいに細く震える声だった。
俺はドアノブから静かに手を離すと、彼女を圧迫しないようベッドから一番遠い壁際まで下がり、描きかけのキャンバスに布を被せてから、床に直接あぐらをかいて腰を下ろした。
「……分かった。じゃあ、そこには絶対近づかないから、ここにいるよ」
「…………すみません。なんか、クソダサいっすね、私……」
卯月はベッドの上で膝を抱え込み、自分の震える手首を隠すようにパーカーの袖を引っ張りながら、自嘲するように乾いた笑みをこぼした。
重苦しい沈黙が部屋に落ちる。何か気を紛らわせる話題はないかと視線を巡らせた俺は、テーブルに置いた彼女の携帯音楽機器に目を留め、努めて何気ない口調で切り出した。
「……そういえば今日、昼間に数駅先まで画材を買いに行ったんだが。駅前の改札に続く階段の手前で、卯月の聴いてたあのアーティストを見たよ」
「……え?」
膝に埋めていた卯月の顔が、ぴくりと上がった。
「ギター一本で路上ライブをしてた。『高谷 庵』って人だろ? 『クライ・フォー・ザ・ムーン』。生で聴いたけど、すごくいい声をしてたな」
「っ……! マジっすか!? え、駅の階段のところっすよね!? 黒いアコギ抱えて、ちょっと目つき鋭い感じの綺麗な人じゃなかったっすか!?」
「あぁ、まさにそんな感じだった。通りすがりの人もみんな足を止めて聴き入ってたぞ」
「うわぁ、やっぱり……! そうなんすよ、庵さんの声って、音源で聴くより生で聴いた方が何倍も胸の奥に刺さるっていうか、一音目で空気が全部変わるんすよね……!」
先ほどまでの虚ろな表情が嘘のように、卯月の瞳にパッと確かな熱と光が灯った。少し落ち着きを取り戻した彼女は、布団の上で身を乗り出し、まるで宝物を自慢する少女のように早口で高谷庵の歌声の魅力をまくし立てた。
俺はカバンの中にしまってある手売りCDのことや、彼女が今日で路上ライブを卒業してプロになるという話を切り出そうかと一瞬迷ったが――その前に、ふっと卯月の笑顔が翳った。
「……そっか。庵さん、まだあの場所で歌ってたんすね」
少しだけ上がったテンションが、潮の引くように静かな寂しさへと変わっていく。
卯月はテーブルに置かれた携帯音楽機器に手を伸ばし、それを愛おしそうに、けれどどこか痛ましそうに胸の前で握りしめた。
「……いいなぁ。私、もうあそこには、行きたくても行けないんすよ」
「……どうしてだ?」
問いかけた俺の言葉に、卯月はすぐには答えなかった。
深夜の、外界から切り離された薄暗い217号室。まるで旅先の夜にふと秘密を打ち明けてしまう『場酔い』のような、奇妙に緩んだ空気。過呼吸の発作で張りつめていた防壁が崩れ落ちたばかりの、ほんの僅かな心の綻び。
やがて卯月は、視線を自分の膝元へと落としたまま、ぽつり、ぽつりと静かに口を開いた。
彼女がどれほどあの歌声に救われていたのかということ。そして、その大好きだった音楽をきっかけにして起きた――彼女の人生を狂わせた、あの最悪の夜の出来事を。




