Suite.11「拗らせギャルとサル共②」
夕方五時過ぎ、217号室。
早朝の『成人男性によるお漏らし冤罪事件』という人生最大級の汚点を経て、枕を濡らし、泥のように眠り直した俺が目覚めた時、いや正確には目覚めさせられた時、仰向けに眠る俺の上には、なし崩し的同居人――ちとせが、またなにやら珍妙な格好でかつ何食わぬ顔で覆い被さっていた。
「見よこのキュートなボディ! 見よエビバディ! 今回はなんとっ…不埒ナース衣装なちとせだよ!」
「……ナースコスプレにいまいち惹かれない理由としては……やはりそのナースらしからぬ衛生さを欠いた形だけのチープな模倣、リアリティの無さってのが大きいな」
「このペラッペラな安っぽい生地、風邪引くぞ?」
「寝起きからこの人ひねくれてるわぁ。コスプレにリアリティ求めるなんて夢のないお兄さん!」
起き抜けにそんな栓のないやり取りを交わし、俺はヒリヒリと痛む首筋に手を当て、ベッド横の姿見で恐る恐る痛みの発生箇所を見やる。
そこには今朝、寝ぼけたちとせにスッポン並みの吸引力で吸い上げられた『最悪のキスマーク』が、見事なまでに赤紫色の存在感を放っている。これのせいで詩七美さんに「タロ、お漏らし……した?」などと慈愛に満ちた目で、まるで悪さをした子供の様に慰められる羽目になったのだ。
あぁ、いっそゴッホのように自らの耳でも切り落としてしまいたい。
「ていうか良く風呂場からバレずに抜け出したな。一体どんな脱出手品だ? 俺実は種明かしって奴が割と好きなんだよ」
「種明かしって程大それた物じゃないけど、先ずサイボーグの彼女がドアを開けたタイミングでドアの裏へ、彼女はお風呂場を奥から順に掃除するから、その視線の動きに合わせて死角をちょいちょいっ〜とね」
「なんか……ゴキブリみたいだな」
「失礼しちゃうぜっ! お兄さんの社会的な死を阻止したのはちとせだってのにさっ!」
「元を辿ればお前がここに居座らなければ起こりえなかった事象な訳だが……、まぁ今回は素直に礼を言っとくよ、助かった」
「いやに素直なお兄さん……!? でも、君はそっちのが素敵だぜっ!」
「さては格好も相まってキャラが定まってないな?」
「ご名答、さすが名探偵お兄さんっ」
「定まってないのは俺の設定もか」
バチコーンっとダサめな効果音の聞こえてきそうな不格好なウィンクでもってキメ顔の不埒ナースななし崩し的同居人に辟易としながらも、彼女の事などすっかりと頭の隅に押しやって、あろうことか二度寝を敢行した後ろめたさから、改めて彼女に事実確認をする。
「ということは、お前はあの時ずっと風呂場に居たわけなんだな」
「そっ。でもまぁお風呂場の明かりまで消された時にはさしものちとせも酷い孤独を感じましたよ……カラフルなレインボーバスで一人横揺れしてましたとさ……」
「そいつは随分楽しそうだな」
「まぁ実際悪かったって思ってるよ、まさか未だ中に居るとは思わなかったからな」
「え〜と……? 確かこんなのをなんて言うんだっけ? 確かにずっとそこにちとせは居たわけなのだけれど、誰もそこにちとせが存在したかどうか観測出来なかった」
「つまりはシュレディンガーのちとせって奴だねっ!」
「開けて死んでたりしたら最悪だったな……」
毒ガスなんて撒かれてた日にはそれこそ最悪な光景が待っていただけに、目の前でこれでもかと胸を反らせ、鼻を伸ばしっぱなしの同居人──ちとせが今もこうして目の前にいる事に、少しばかり安心している自分がいる。
関係性も希薄、正体も秘匿、そんな奇妙な関係でありながら、ふと窓を開けた時に迷い込んだやたら綺麗な蝶に対する愛着位のモノは覚えてしまっている。
これがなし崩しとやらの本質なのだろうか。
けれども果たして、本当にそんな忍者みたいな真似で、あの彩舞駆〈サイボーグ〉こと詩七美さんの目を欺けるものなのだろうか。
だが事実、こいつの機転のお陰で俺は今もこうして社会の住人として生きていけている訳で、となればこいつも、中々に、件のサイボーグに負けず劣らずの実力者なのだろうか。
俺は最早恒例の、仕事の前に不随意に漏れ出てくる溜息をつきながら、社員用の黒無地のポロシャツに袖を通し、鏡の前で襟をぐっと引き上げてみた。少し不自然なソレだけでは流石に卯月の目は誤魔化せそうにない。
そうなれば、勤務前の短い間では無難に絆創膏でも貼っておくくらいの対策しか出来そうになかった。
「てゆうかお兄さんってば、こんな美少女が可愛らしい格好してるっていうのに、称賛崇拝敬服する態度の一つもないの?」
「なんだよそれ。貢ぎ物でもすればいいのか? ……そもそも、美少女って響きが既にして手垢に塗れてて好きじゃないな」
「ほら出たよ否定からのスタート。いい子にしてないと人生に三回は訪れるハズのモテ期って奴はお兄さんには訪れてくれないよ?」
「白ヒゲ蓄えた老人が来そうな話だな。それにモテ期とやらに関しては必要無いな。なんせ俺には初恋のあの人が……」
「───じゃあこの可愛さを、お兄さんならどう表現してみる?」
「最後まで聞けよ…………でもそうだな表現するなら──────腐葉土?」
「は……? 腐葉土って言ったこの人?」
「腐った葉に土で腐葉土、間違いないな」
「あらやだこのお兄さんったら。寝ぼけてらっしゃる? あろうことか、こんな美少女を捕まえて、これまたあろうことか、腐葉土だなんてのたまってらっしゃる……一体全体──どういう冗談なのっ!?」
「腐葉土と美少女。一見関係性の希薄な物同士ではあるが、どんなものにも少なからず関係性を想定することが出来る。そしてそれは決まって、美しい」
「……それって超現実主義みたいな事?」
「厳密には超現実主義、シュルレアリスムの本質とは少し意味合いが違う…かな。共通項を探す行為は理性的だ、なんて言われたら反論のしようもないからな」
「超現実主義。つまりは理性のコントロール外、夢や幻想の様なもの……関係性の希薄な物同士の偶発的な出会いとその奇妙な美しさ。そういった意味ではやはり美少女と腐葉土に、俺は理性的な共通項を見出し過ぎてる気がするな」
「てか、そんな言葉よく知ってたな?」
「ちょっとねぇ〜。だってわたしって奴は何を隠そう──────っと、今は腐葉土と美少女の関係性の想定とやらについて、お兄さんの見解をしーーっかり納得いくまで説明してもらわなきゃだった!」
ちとせはわざとらしく咳払いをすると、興味津々といった風に身を乗り出した。
スリット形状のやたら短いスカートを全く気にもせず、やたら多動なちとせの若くハリのある生足なんぞに気を取られぬよう、わざとらしく、まるでさもそれらしく目を瞑って、指先で頭の上にある図を指し示す様にしながら続ける。
「当人は決して目立たず、だが密かに周囲の人々を包み込み、引き立て、成長させる圧倒的な包容力や母性。美しさとは外見にあらず内面から滲み出るものであるからして、それ即ち『美』少女とは、縁の下の力持ち。……そんな比喩的表現が似合うのは、彩舞詩七美、あの人しか居ないだろう」
「おーい。わたしの話は一体どこいったー」
ジト目で抗議するちとせをよそに、俺は昨夜、閂さんから預かった小さな携帯音楽機器をポケットへと滑り込ませた。
少し夢中になって話し過ぎたか。
時刻は午後五時半。そろそろ控え室へと顔を出さなければ、またけたたましい内線で卯月から罵詈雑言を浴びる事になりそうだ。
「でもお兄さんってば彩舞詩七美、彩舞駆の彼女の事気になってるんだ。その気になってる相手を腐葉土だなんて言っちゃってるけど……」
「別に悪口って訳じゃないんだ。腐葉土系美少女って字面から既にして惹かれるだろ? まぁ本人を前には絶対に言えないが……」
「本人に言えないのはそれはもう悪口ではなくて〜?」
「断じてないな。紙コップと潮を吹くクジラの背骨の様に美しい」
「ずっと何言ってんのこのお兄さん……」
「ずっと詩七美さんの話をしてるんだよこのお兄さんは」
「ちっ──────ともわからんっ!」
理解不能に頭を抱えるなし崩し的同居人を他所に、いつの間にか、俺の心の中には彩舞駆と畏怖され、片や表向きはお嬢と敬意を表され、けれどその正体は不器用で食いしん坊な女の子、彩舞詩七美が、色濃く根付いているのだと気づく。
これが理性も知性も介在しない劣情由来の感情なのか、はたまた尊敬や崇拝の様な崇高なモノなのか、定かではない。
定かではない…のだが、しかし恐らく強面の旦那に、幼い子供までいる相手にこの不肖大庭小太郎、まさか恋慕の念など抱くはずも無く……無いとは、言いきれない。
熱しやすく…冷めにくい。
俺と言う人間の厄介な性質が、不覚にも、初恋の想い出にしがみつきながら、直近の恋愛から尻尾巻いて逃げた後だと言うのに、恋多き男…主に一方通行の片思いではあるのだが…。
どうしようもなく、彼女、彩舞詩七美にその好意の種類こそやはり分かりはしないが、ライク以上ラブ未満…惹かれてしまっている事は紛れもない確かな事実なのだ。
「でもね。お兄さんは、大きな思い過ごしをしてると思うな」
「思い過ごし?」
「うん。彼女の事を……お兄さんはどれだけ理解してる?」
「詩七美さんをどれだけ理解してるか……」
完璧なまでに仕事が出来て、体力無尽蔵で、言葉足らずだが優しさに満ちていて、食いしん坊で……。
「お兄さんは、大庭小太郎は、彩舞詩七美という人間の本質を、その取り巻く環境の事を──────何も知らないんだよ」
「俺が、詩七美さんの事を何も知らない……? それってどういう……」
ちとせの怪しく細められた瞳、見た事もない真剣な表情。
責め立てられ、詰問されているかの様な不安。
彼女が俺に言いたい事がなんなのか、或いは何か忠告めいた事なのか、その真意こそ分からないが事実、俺は彩舞詩七美。彼女の事をその僅か一片、部分的な断面しか知らないのだ。
「お前は……ちとせは詩七美さんの事、何か知ってるのか?」
「知ってるよ。なにも彩舞詩七美…彼女だけじゃない。ここにいるスタッフ全員。お兄さんはちょっと例外だけどね」
「彩舞詩七美さんの事……お兄さんは知りたい?」
「あぁ……知りたい……」
勿体ぶる彼女の言葉に助けられながら、思考の整理と覚悟を決め、詩七美さんに例えどんな残酷な事実があろうとも構わないと心に決め、ちとせの怪しく光る瞳に目を合わせる。
「彩舞詩七美……彼女は──────」
息を飲む。その先に続く言葉にどんな意味と正体が隠されて居るのか。
俺は果たして、それを知って尚詩七美さんへの想いを変えずに入れるのだろうか。
「…──────実はっ!」
「…ッ!!」
ゴクリッ…やたら通りの悪い喉に強引に唾を送り込む。
「バスト! 彼女は普通の下着屋さんでは合うサイズがないから特注で作って貰っててそのサイズは──────」
プルルルルル──────ッ
「ありゃっ?続きはまた今度みたいだね」
***
ホテル『VEGA』のフロントには、空調の低い唸り声と、愛姫卯月が指先で弄ぶシャープペンシルのカチ、カチ、という乾いた音だけが響いていた。
俺は首筋のキスマークが見えないように貼った絆創膏の存在を頻りに確認しつつ、時折手で押さえながら、雑務のためにやや離れて、音を殺し、彼女の隣へと静かに腰掛けた。
隣に座る卯月は、いつものように派手なメイクで武装し、受付用の帳簿を睨みつけている。少しでも気に食わない数字や記入漏れを見つけるたび、彼女の整った眉がピクリと中央へ寄り、シャープペンシルを握り込む指の関節が白く浮き出る。それが彼女の不機嫌の前兆だった。
「おい」
「……!?」
「お・そ・い。遅いッ! 電話してから何分掛かってんすか」
「悪いな。こっちにも事情って奴が……」
「事情〜? 情事の間違いっしょ」
ちとせと話し込んでしまい、ついに危惧する所の卯月からの即出勤コールを受けた後なるべく迅速に、かつ彼女にバレないように静かに来たつもりだったが、施設内に数十台取り付けられた監視カメラの力か、はたまた彼女固有の特殊能力か、兎にも角にも俺の浅はかな動きは彼女にはお見通しだった様だ。
それに、あながち間違いではないのが痛いところ、あの後ちとせに詳しい話の続きを、主に詩七美さんのバストについて……ではなく彼女の事を俺が何も知らないという事について問いただしたのだが、ケラケラと笑って誤魔化すばかりで、ついぞ続きは聞けなかった。
まさか実は本当にサイボーグだ。なんて事はあるまい。
「……卯月いつものと。…あとこれ」
「あ? なんすかパコ太郎、首元なんか押さえてキザったらしい、似合ってないっすよ……エナドリご苦労」
「……ッて!?」
彼女へといつも通りご機嫌取りのエナドリを渡しながら、次いでポケットから取り出した小さな携帯型の音楽機器を机の上に置いた瞬間、卯月は椅子ごと仰け反り、ひったくるような猛スピードでそれを奪い取った。
「なっ、なんでパコ太郎がこれ持ってんすか!? ずっと、ずっと探してて……まさか盗んだんすか?」
「人聞きの悪いことを言うな。昨日の夜、フロントの引き出しに忘れていったからって閂さんから預かったんだよ」
「い、伊織さんから……? あぁ、そういえばあの時客対応でドタバタして、しまった様な気もしなくも無い……」
「それと、たまたま偶発的に、不意にスリープボタンに指が当たったんだが…卯月、お前にしてはらしくない音楽の趣味だな」
「なんすかそれ。見た目が派手な奴は派手な音楽でも聴いとけって言う差別的発言すか?」
言いながら音楽機器に巻き付けられていたイヤホンをこなれた手つきで解くと、まるでこれ以上俺の声を聞くまいとするかのように、片方の耳へと乱暴にねじ込んだ。
(早く来るよう催促しといてこれか……)
そんな風に恨みったらしく卯月の横顔を見ていると不意に、卯月の表情が幾らか柔らかくなる。
それと同時に少し儚げにも見えた。
らしくない。強く荒く、尖った牙を内包することも無い荒れすさんだ彼女の見た事もない表情。
まるで世界から自分を隔離するための、小さな防壁。
芸術鑑賞の基本、添えられた文字や言葉にとらわれず、まず純粋な『視覚情報』から対象を捉えること。
普段強い言葉で周りを威嚇し、決して他者を近寄らせない彼女。けれどイヤホンを耳に挿した時、好きな音楽を聴いている時、視線が自分の内側へと心細げに沈み込んでいる事に、気づく。
俺は首筋の傷跡を隠すように顎を引き、机の端に肘をつきながら、それとなく――それこそ外壁の向こう側から小石を投げるくらいの遠い距離感で、彼女の横顔、空いた片耳目掛けて言葉を投げかけてみた。
「なぁ、卯月。実際、ラブホテルに客が求めてるものってなんなんだろうな」
「はぁ? なんすか藪から棒に。そりゃまぁ、性欲の発散以外ないんじゃないっすか?」
「それはそうなんだが、ただ快楽だけを求めてここに来てるってわけじゃない気がするんだよ。伝えきれない愛を伝える手段としての側面というか、誰かと一緒にいる安心感とか……そういう、もっと人間臭い繋がりというか」
「はッ、くだらないっすね」
卯月は鼻で笑い、シャープペンシルの先端で机をトントンと叩いた。
「性の話題になれば、やれ処女とか童貞だとか、愛だの恋だの、正味どうでも良くないっすか? セックスなんてどうせ、すっぽんぽんであんあんぱんぱん、アンパンマンかっての」
「……お前、語呂が良ければ何を言ってもいいと思ってないか?」
「真理を突いたまでっすよ。だいたい、ここに来る連中なんてどいつもこいつも発情したサル共ばっかりじゃないっすか。もっともらしい綺麗事並べたって、結局は一皮剥けばみんな同じ穴の狢っす」
「お前なんでここで働いてんだよ……」
吐き捨てるような口調。けれど、その言葉の端々には、単なる軽蔑以上の妙な熱量――そうであってほしい、と自分に言い聞かせているような響きが混じっているように思えた。
俺は少しだけ踏み込む角度を変えた。
「じゃあ、お前の中では、男と女がそういう下心抜きで関わることはないってことか? たとえば……そうだな、『男女の友情』とか」
ピタリ、とシャープペンシルの音が止まった。
卯月の眉が、先ほどよりも深く寄る。彼女はゆっくりと首を傾け、値踏みするような冷ややかな目で俺を見た。
「……いいっすよ。じゃあ、分かりやすく例え話をしてあげます。たとえば、私とパコ太郎が朝から一日『友人』として遊んでいたとして」
「初っ端から想像出来ない展開だな」
「あくまで仮定の話っすよ。で、予定がちょっと想定より早く終わっちゃって、今から他の施設で遊ぶにも微妙な時間。夜まで微妙に時間が余ったとします。さぁ、『余った時間、何をする?』ってなった時、男であるパコ太郎は次に何を提案する?」
「う〜ん……そうだな」
「ぶち殺すぞ」
「まだなんも言ってないだろ」
「どうせ『近くのホテルで休憩でもするか』とか『俺の部屋来る?』とか、そういう下衆な選択肢を脳内で検索してたんすよね! そのスケベ面見れば一発で分かるんすよ!」
「誰がスケベ面だ。俺は純粋に、近くの喫茶店で時間でも潰すか、それとも解散するかって考えようとしただけだ」
「……とまぁ、このようにっすね」
俺の抗議など完全に無視して、卯月はしたり顔で腕を組んだ。
「男って生き物は、隙あらばそういう方向に持ち込もうとする生き物なんすよ。男女の友情? そんなもん、ファンタジー小説の中にしか存在しないっすね。到底成立するわけがない」
「……一切、例外なくか?」
「……まぁ、百歩譲って、ある一定の条件が整えば万に一つくらいは有り得るかもしれないっすけど」
「一定の条件?」
「『お互いに、他にどうしようもなく好きな想い人がいること』っすよ」
卯月は窓の外、暗い国道を行き交うヘッドライトの光を眺めながら、ぽつりと言った。
「お互いが別の誰かに本気で矢印を向けてて、目の前の異性を絶対にそういう対象として見ないっていう確約があるなら……まぁ、友達ごっこくらいは成立するんじゃないっすかね。知らんけど」
それだけ言うと、彼女はもう片方の耳にもイヤホンを押し込み、会話を強制終了させた。
その直後、フロントの内線電話が鳴り響く。受話器を取った卯月は、一瞬でいつもの獰猛な顔つきに戻り、「あぁタオルの追加っすか? え? ベッドがおしっこで濡れちゃったから下に敷きたい? ラブホテルなら金払ったらなんでもしていいと思ってんのかッ!?」「クジラ女に代われッ!!」と客に向かって吠え始めた。
俺はその横顔を、少し離れた場所から苦々しい表情を噛み殺しながら静かに見つめる。
ホテル『VEGA』に勤めるフロント社員である彼女は、厚顔無恥、怖いもの知らずの無鉄砲。けれどそんな彼女、愛姫卯月には、うちに抱えた闇がある。
一見すれば関係性も希薄で、彼女が抱くであろう『恐れ』というやつには、どうにもなり得ないような、そんな矮小でありふれた言葉。
『男女の友情』。
彼女がいつ、なにを経て、それを恐れへと変えたのか。
彼女、愛姫卯月という人間を例えるなら『レモン』と言うのがしっくりとくる。
見た目は色鮮やかで上々、だが一皮剥いた彼女の人生は、酷く酸っぱい。
例えば『両手とレモンと、拗らせうさぎの関係性について想定してみよ』。もし今の彼女をモチーフに想定デッサンの課題が出されたなら、俺は間違いなくそんなテーマを設定するだろう。
そしてもし、そんなテーマが目の前にあったなら俺は……『両手』でありたい。
施術台の上の、蝙蝠傘とミシンの偶発的な出会いのように、この吹き溜まりのホテルでの出会いには、きっと何かしらの美しさを孕んだ意味があるはずだから。
故に、差し伸べる両の手は決して彼女のためじゃない。
利己的で打算的な献身、そんな劣情が見え隠れするこの想定物は――紛れもなく、俺自身のためだ。
結局、その日の夜勤では彼女の闇の尻尾を掴むことはできず、いつものように卯月が客と吠え合う声をBGMに、無為な時間だけが過ぎていった。
***
翌朝、午前九時。
夜勤を終え、重たい瞼をこすりながらタイムカードを押そうとしていた俺たちの前に、清掃を終えたばかりの詩七美さんがひょっこりと顔を出した。
彼女の手には、カラフルなマスコットキャラクターが描かれた三枚の細長い紙切れが握られていた。
「タロ、愛姫さん。お疲れさま。……あのね、これ」
「ん? なんすか詩七美さん、それ。……って、湖畔ランドのフリーパスじゃないっすか!」
「うん。うちの子が、前に買ってたみたいなんだけど……有効期限が今日までだから、よかったら使ってって」
詩七美さんは小首を傾げながら、一枚ずつ俺と卯月の前にチケットを差し出した。
「へぇ〜お子さんが……ってうちの子っ!? ……え、ちょっと待ってください。詩七美さん子供いたんすか…!?」
「どうやら、そうみたいなんだよ……」
目を丸くして俺と詩七美さんを交互に見比べる卯月。
どうやら、ここで長く働いている彼女でさえ、詩七美さんの家庭事情については知らなかったらしい。
「……うん。子供…娘が、好きな人が居たみたいなんだけど…疎遠になっちゃったらしくて…」
「えっ、お子さんに好きな人が? 一体どんな人なんです?」
「……なんだか、少し…変わった人みたい」
詩七美さんはどこか遠い目をして、ふわりと微笑んだ。お子さんがチケットを使わなかったのにも、何かその『少し変わった人』との事情があるのだろうか。
「それにあそこ、キャンプ場がメインだから、遊園地って呼ぶには少し物足りないかもだけれど……もし、二人ともこのあと予定がないなら……行く?」
「俺は、行くのは構いませんけど……てゆーか詩七美さん、昨日の朝からずっと寝てないんじゃないですか? 夜仕事ですよね?」
「……うん。大丈夫、私……あんまり眠らないから」
「マジにサイボーグ説出たっすねこれ……」
卯月が引きつった顔で呟く。
とはいえ、昨夜あれほど「男女の友情なんて到底成立しない」と否定していた卯月のことだ。いくら詩七美さんが一緒とはいえ、夜勤明けの眠気を押してまで俺のいるレジャーに付き合うはずがない。当然断るだろうと……思っていたのだが……。
「……まぁ、タダ券を無駄にするのももったいないし、サッと着替えてくるんで、三十分後に駐車場集合でいいっすか?」
そう言い残して、卯月は風のように控え室を飛び出していった。
そしてきっちり三十分後、オーバーサイズのパーカーにショートパンツという私服に着替えた彼女が、少し眠そうな目をこすりながら現れたのである。
先に駐車場で待っていた俺の隣に並んだ卯月は、遠くで車のエンジンをかけている詩七美さんの姿を見やりながら、しみじみと呟いた。
「……でもまさか、あのサイボーグと仲良くお出かけする日が来るなんて思わなかったっすね。最初、パコ太郎をサイボーグの手伝いに行かせたのも、嫌がらせのつもりだったのに」
「なんだよそれ、初耳なんだが」
「嫌がらせしますって公言する人間がいると思います?」
悪びれもせずケラケラと笑う卯月と共に、俺たちは詩七美さんの車へと乗り込んだ。
***
「い、いやぁあああああっ!! お嬢…じゃない詩七美さん! 赤っ、今の信号どう見ても赤になりかけの黄色だったっすよ!? 死ぬ、死ぬってばぁあああっ!!」
ホテルを出発してわずか十分後。
詩七美さんの愛車である軽自動車の後部座席で、卯月はアシストグリップに両手でしがみつき、この世の終わりみたいな悲鳴を上げていた。
「……大丈夫。まだ、赤じゃなかったから」
「そういう問題じゃないっす!! なんでこんな可愛い顔して走り屋みたいなライン取りするんすか!? パコ太郎! 助手席で黙ってないでなんとか言え!!」
「無駄だ、卯月。詩七美さんにハンドルを握らせたら、もう誰にも止められない。シートベルトを信じて神に祈るんだ」
「黄色の信号は……気を付けて、進め」
二度目の搭乗で半ば悟りを開いていた俺が静かに諭すと、卯月は「ひぃぃぃっ、山道でドリフトすんなぁあああっ!」と涙目で絶叫した。
それからさらに二十分後。
山の斜面と大きな湖に隣接した遊園地『湖畔ランド』の駐車場に車が滑り込んだ時には、卯月は文字通り魂の抜けたボロ雑巾のようにへろへろになっていた。
「……うぅ、胃が口から出るかと思ったっす……」
ふらつく足取りで車から這い出てきた卯月は、入場ゲートのアーチを見上げ、気怠そうに髪をかき上げた。
「のこのこ来といてなんですけど、もう遊園地ではしゃぐって歳でもないんすよね」
「俺の一個下だから、二十歳か」
「なんすかたった一年先に産まれたことを誇示したいんすか? ガキが」
「人の言葉を深読みしすぎなんだよガキが……」
そんな冷めたセリフを吐き、いかにも『付き合ってやってる』というスタンスを崩さない卯月だったのだが。
いざゲートをくぐり、陽気なマーチング音楽と甘いポップコーンの香り、そして青空にそびえ立つアトラクションの数々が視界に飛び込んできた瞬間――。
「──遊園地! まじパないっすね!!」
卯月の目は、小学生のようにキラキラと輝いていた。
つい十秒前のクールな態度はどこへやら、「ほらパコ太郎、ぼさっとしてないで早く行くっすよ! 詩七美さん、あっちの絶叫系から制覇しましょ!」と誰よりも前のめりで園内へと駆け出していく。
そこからの数時間は、昨夜までの殺伐としたフロントの空気が嘘のように、終始朗らかな一日だった。
高所を綱渡りするアスレチック型のアトラクションでは、地上十メートルの風に吹かれて「ちょっ、揺らすなパコ太郎! 落ちたら呪ってやるからな……!」と涙目で命綱にしがみつき、降りた直後には「い、今のは足場の建て付けが悪かっただけっすから!」と誰も聞いていない言い訳をまくし立てる。
ひとしきり騒いで小休止に入ったベンチでも、卯月の口は止まらなかった。
「ところで詩七美さんは、タバコやお酒はやらないんすか?」
「……愛姫さん。吸って来てもいいよ?」
「やっ、そういうんじゃなくてっすね、単純に質問というか」
「お酒も、タバコもやらないよ」
「でもそれじゃあストレスたまらないっすか?」
「ストレスは……別の方法で発散してるし……それにタバコやお酒は身体壊れちゃうから」
「ほ〜ん……マシンボディに傷がつくと……。じゃあっ! みんなで食事とか行ってもお茶やジュースしか飲まないんすか?」
「ううん、お茶もジュースも飲まない……」
「え、じゃあなに飲むんすか……?」
「お水。私……お水しか飲まない」
「オイルしか……飲まない……!?」
「これはいよいよ決定的っすね…」
「こじつけだろ」
そんなくだらないやり取りで笑い合いながら園内を歩いていると、卯月は周囲のカップルたちが並ぶアトラクションを指差して、再び斜に構えた批評を始めた。
「てゆーか、遊園地ってよく考えたら下心の塊みたいな場所っすよね。ほら、あのメリーゴーランドにしたって乗馬……つまりは騎乗位の暗喩じゃないっすか」
「どんな連想ゲームだよ」
「あっちの観覧車なんて、あそこでカップルがちゅっちゅくするための密室っすよ。で、一番最悪なのが、あのゴーカート! カーブでよろけたフリして、わざとらしく肩ぶつけて距離縮めようとしてみたりするんすよ!」
そう鼻息荒く語っていた卯月だったが、その直後に乗った昼過ぎのゴーカートこそが、今日一番のハイライトになった。
二人乗りのカートに俺と卯月が乗り、その後ろから一人乗りのカートに乗った詩七美さんが追いかけてくる形になったのだが――。
――ガシャアアアンッ!! バコォンッ!!
「ちょっ、詩七美さん!? ゴーカートでも運転荒すぎじゃないっすか!?」
「……ここ、信号ないから、ブレーキ要らないかなって。」
「よおぉーしパコ太郎! もっとアクセル踏めッ! 振り切らないと追突されるぞ!!」
よろけたフリをして肩をぶつけるどころではない。タイヤバリアの壁を火花が出そうな勢いで擦りながら、無表情のまま猛スピードで背後に迫ってくる詩七美さんのカートから必死に逃げ惑い、俺たちは久々の休日らしい休日という事もあってか、腹を抱えて笑い転げた。
強い日差しの下で屈託なく笑う卯月の顔には、いつものように眉間へ寄る皺も、何かを威嚇するような棘もなかった。そこにあるのはただ、年相応の無邪気な少女の素顔だけだった。
やがて陽が傾き始め、湖面が夕暮れの茜色に染まり始めた頃。
さすがに夜勤明けの身体に限界が来たのか、あくびを噛み殺す回数が増えた俺たちは、「そろそろ流石に眠気がやばいな」「帰ろうか」とタイミングを見て出口へと向かい、最後にお土産屋へ立ち寄った。
「詩七美さん、見てくださいよこのご当地キーホルダー! 絶妙にかわいくなくて逆に欲しくなりません?」
「……うん。なんだか、タロに似てるね」
「俺、こんな間の抜けた顔してますかね……?」
俺と詩七美さんが棚の前でそんなやり取りをしていた、その時だった。
「――なんだよこの店、めぼしいもん全然ねぇじゃん」
「さっさと出てパチンコ行こうぜー。あ、わりぃ」
通路の向こうからやってきた、金髪やピアス姿の若いキャンプ帰りと思しき男たちの集団。
悪気はなかったのだろうが、じゃれ合いながら歩いていたうちの一人の肩が、少し離れた通路にいた卯月の肩に「ドンッ」と強くぶつかった。
カシャン、と乾いた音を立てて、卯月のポケットから携帯音楽機器が床に落ち、白いイヤホンがだらりと伸びる。
男たちは軽く片手を上げただけで、振り返りもせずにそのまま店の外へと出ていった。
(……ヤバいぞ、これは)
俺の背筋に緊張が走った。
相手は卯月が最も毛嫌いするタイプの若い男たちだ。いつものフロントでの彼女なら、瞬間湯沸かし器のように沸騰して「どこ見て歩いてんだコラァ!」と飛びかかってもおかしくない。トラブルになる前に止めなければ、と俺は咄嗟に足を進めた。
けれど。
卯月は、その場からピクリとも動かなかった。
怒鳴り声を上げることも、去っていく男たちの背中を睨みつけることもない。
ただ、肩をぶつけられた体勢のまま、床に落ちた自分の携帯音楽機器を拾おうともせず、まるで時間が止まったかのように固まっていた。
よく見れば、パーカーの袖口から覗く彼女の指先が、小刻みに震えている。さっきまであんなに血色の良かった頬からはすっかり赤みが消え、浅く速い呼吸を繰り返していた。
「……卯月?」
俺は胸騒ぎを覚え、床に落ちた音楽機器を拾い上げようとその場に膝をついた。
その瞬間、ハッと弾かれたように動いた卯月も同じように音楽機器へ手を伸ばし――俺の指先が、彼女の冷たく震える手に重なった。
「あっ……悪い」
そう言いかけた、まさにその刹那。
「――触るなッ!!」
店内の陽気なBGMを切り裂くような、悲鳴にも似た激しい怒号が響き渡った。
卯月は自分の手を胸元に抱え込み、まるで汚物か恐ろしい化け物でも見るかのような、剥き出しの恐怖に歪んだ瞳で俺を睨みつけていた。
「……っ」
周囲の客たちがギョッとしてこちらを振り返る視線に気づき、卯月はハッと息を呑んで唇を強く噛みしめた。
そして、床に落ちていた音楽機器をひったくるように拾い上げると、俺とも詩七美さんとも一度も目を合わせることなく、逃げるように店を飛び出していってしまった。
***
帰りの車内には、行きとは比べ物にならないほど微妙で、重苦しい空気が流れていた。
後部座席の窓際に身を縮めた卯月は、両耳にイヤホンを深くねじ込み、流れる夕暮れの景色だけをじっと見つめている。結局、誰一人として口を開かないまま、車は卯月のアパートの前へと到着した。
今日が休みである卯月は、「……送ってくれて、ありがとうございました」と消え入るような声で詩七美さんにだけ告げ、逃げるように車から降りていった。
そのまま俺と詩七美さんはホテル『VEGA』の駐車場へと戻った。
夜の出勤時間までまだ少しだけ余裕がある。俺たちは軽自動車のシートを倒し、狭い車内で並んで少しだけ仮眠をとることにした。
「……タロ、少し寝ておいた方がいいよ」
「はい。詩七美さんこそ、本当に倒れないでくださいね」
すぐ隣の運転席から伝わってくる、詩七美さんの静かな寝息と、微かなシャンプーの香り。
普段なら胸が高鳴って眠れなくなるはずの距離感だというのに、連日の疲労と、さっきのお土産屋での卯月の凍りついた表情が頭から離れず、俺の意識は泥沼へと沈むように落ちていった。
やがて迎えた夜の勤務。
今夜のフロントには閂さんが入っており、相も変わらず客足の遠のいた暇な一日が始まった。
やることがないからこそ、徹夜明けの肉体を蝕む眠気はただならない。重い瞼を必死にこじ開けながらシーツを畳み、モップを動かし続け、なんとか地獄のような業務を終えたのは早朝の六時だった。
俺は白み始めた空の下、ホテルの外壁を照らす街灯の灯りをパチリと消し、鉛のように重い足を引きずって自室である217号室へと戻った。
誰もいない静まり返った部屋。一応、ちとせの姿がないことを確認してから、俺はポロシャツの襟元を緩め、ベッドの脇に立てかけられた新しいキャンバスと向き合った。
パレットの上に絵の具を絞り出し、テレピン油で溶く。
一つの対象を、単一の角度からではなく、複数の異なる視点から同時に捉えて一つの画面に再構築する『キュビズム』という技法がある。
フロントでヤクザ紛いの相手にすら一歩も引かず吠え散らす獰猛な顔。
遊園地で歳相応の少女のように無邪気にはしゃぐ顔。
そして、見知らぬ若い男に肩をぶつけられた瞬間、音楽機器すら拾えずに震え、俺の手を『触るな』と振り払った、あの恐怖に歪んだ顔。
バラバラの角度から観測した愛姫卯月のいくつもの断面が、俺の脳内で少しずつ一つの立体像へと集約されていく。
強い陰が落ちているのなら、その反対側には必ず、彼女がかつて見つめていたはずの『光の源』があるはずだ。
眠気に霞む目を細めながら、俺は真っ白なキャンバスへと木炭を滑らせた。
『両手とレモンと拗らせうさぎの関係性を想定せよ。』
そんな題名で、俺は静かに筆を走らせる。




