Suite.10「拗らせギャルとサル共」
あれだけ一波乱あるだろうと身構えていたその日の夜勤は、拍子抜けするほどに暇だった。
前日に用意したシーツ一式のセットの半数以上が余り、更に発注をかけていたシーツ類が届く事で控え室はシーツ山盛りの状態。
結果として、俺は午前一時という異例の早さで業務を上がらせてもらうことになった。
それでも勤務時間でいえば八時間一日の約三分の一をラブホテルで過ごした事になる。
「字面だけ見れば、現実が充実した人間の様にも思えるな」
この店では───あるいはどこの店でもあるのだろうが───こういった事が、往々にして起こる。
人員が潤沢であればある程想定よりも大きく下回る客入り、その逆に人が少ない窮地であればある程にまるで嫌がらせかの様に客足が絶えない。
けれど、正直な所渡りに船ではあった。
連日の激務を受け疲労に軋む身体を引きずっての勤務、数時間眠っただけではやはり取り切れないダルさと言う奴のせいで身体は重く、瞼もおもく腫れぼったくなってしまっていた。
明け休で不在の卯月に代わって交互にシフトに入っている一人のフロント社員――閂伊織さんに気を遣ってもらった結果だ。
「大庭くん、ここ数日ずっと残業続きだったでしょう? 今夜はもう落ち着いているから、後は私に任せてゆっくり休んで頂いて結構ですよ」
透き通った鈴の音のような声が、静かなフロントに心地よく響く。
閂伊織さん。卯月が不在の日の夜勤を主に担当している彼女は、一言で表すなら『いいとこのお嬢さん』といった印象の女性だ。
もっと噛み砕いて『彼女の人間的魅力』を一言で言い表すなら『いとこのお姉さん』
落ち着いていて、大人びた魅力と気品があり、制服の上からでも分かる出るとこは出ていて、引っ込む所は引っ込む、例えるならボンキュッボンの『蟻』の様な凄まじいプロポーション。それでいて立ち居振る舞いには凛とした力強さと綺麗さを併せ持っている。
間違いなく、このホテル『VEGA』の中で日勤の小山さんを抜いたなら誰よりも常識人だろう。
事実、来店する客の中には、わざわざ彼女のシフトを狙って会いに来る常連も少なくはない。
「すみません、閂さん。お言葉に甘えさせてもらいます。……あ、そうだ。上がる前に一つだけ聞いてもいいですか?」
「ええ、なにかしら?」
俺はタイムカードに手を伸ばす前に、ふと夕方の、なし崩し的同居人であるちとせとの会話を思い出し、卯月のあの見境のない噛みつき癖について尋ねてみた。
「卯月ちゃんのこと? ……そうねぇ、あの子がここへ来た時からあんな感じではあったけれど、ここ最近は特にトゲが強くなった気はするわね」
伊織さんは綺麗な指先を顎に添え、少し困ったように微笑んだ。
「私に対しても、なんだか妙に遠慮しているというか……ただ距離を置いているのとはまた違う、どう関わればいいのか戸惑っているような素振りを見せることがあるの。根は決して悪い子じゃないと思うのだけれど……」
圧倒的な女性としての包容力と気品を持つ伊織さんを前にすると、あの卯月ですらどう接していいか分からなくなるのだろうか。
「あ、ちょうど良かったわ。大庭くん、明日の夜は卯月ちゃんとシフトが被るわよね? これ、あの子がフロントの引き出しに忘れていったみたいなの。渡しておいてもらえるかしら」
「あ、はい。預かっておきます」
伊織さんから手渡されたのは、少し型の古い小さな携帯型の音楽機器だった。
受け取った拍子にスリープボタンに触れてしまったのか、小さな液晶画面がぼんやりと光り、再生中だったらしき曲の情報が浮かび上がる。
アーティスト名、『高谷 庵』。
曲名、『クライ・フォー・ザ・ムーン(Cry for the moon)』。
「……意味合いとしては…ないものねだり的な事だろうか」
あの攻撃的なギャルが聴くにしては、どこか切なく、湿り気を帯びたタイトルだ。
俺はその小さな機器をポケットにしまい込むと、伊織さんに頭を下げて控え室を出た。
廊下で帰り支度を済ませた私服姿の東雲さんと髭乃くんに退勤に伴う挨拶を済ませ、控え室横に位置する物置にてシャンプーセットの詰め替えを行っている詩七美さんにも、今朝のバイキングのお礼と挨拶を軽く済ませてから、俺は自室である217号室へと戻った。
***
泥のように眠りについたはずだった。
時刻は早朝の六時過ぎ。俺を眠りの淵から引きずり出したのは、首筋に絡みつく生温かくも異様な感触だった。
――ちゅぅぅぅ……じゅるっ……。
「……っ、な、なんだ……!?」
なにか、柔らかく生温い物に取り込まれる様な、今にでもそのまま惨たらしく捕食されそうな…。
重たい瞼をこじ開け、視線を下ろした俺は想像していた物と、現実との対比に、胸を撫で下ろすと同時に、辟易とした。
いつの間にか俺のフトンの中に潜り込んでいたスクール水着の上にセーラー服を纏った珍妙な空想上の生き物…いや確かに存在する人間であるちとせが、まるでタコかヒルのように俺の首筋にぴたりと吸い付き、一心不乱に肌を吸い上げていたのだ。
「おい…お前、人の首になにしてる」
「んむぅ……すぴー……んちゅ……」
「寝ぼけてんのか…? 離れろ、離れろって……!?あだだだっ、皮膚が千切れる!!」
なんだこの珍妙な吸い付き癖はって噛んでる!?
引き剥がそうと彼女の頭を押さえるが、スッポン並みの吸引力でびくともしない。ようやく「ぷはっ!」と口が離れたかと思えば「ポンデケージョ…」などと寝言なんぞ呟きながら。
ヒリヒリと痛む首筋に手を宛てがい、ベッド横の姿見で確認してみれば。
俺の首筋にはこれ以上ないほどに鮮やかな、誰がどう見ても言い逃れのできない『最悪のキスマーク』が刻み込まれていた。
「学生時代憧れてたキスマークとやらがよもや、こんな形で叶うとはな…」
「思えば昔は、口紅の跡なんかをキスマークと勘違いしていたっけ」
――ピンポーン。
そんな俺の思考を遮るように、217号室のチャイムが控えめに鳴り響いた。
同時に、外扉の向こうから、聞き慣れた…けれど今最も聴きたくなかったであろう静かな声が届く。
『……タロ、起きてる? 詩七美だけど』
全身の血液が、一瞬にして凍りついた。
「詩七美さん……!? な、なんでこの時間に!?」
『今仕事終わったから……もうやる事も一段落したし…タロの部屋の清掃、しようと思って』
――マズい。
文字通り、控えめに言って死ぬほどマズい。
いっそここで死んでしまった方がいいのではないかと、有り得もしない提案を掲げ現実逃避を慣行する脳みそを振り切ると同時に俺は慌てて室内を見渡した。
描きかけの初恋の人のキャンバスは…ベッドの下ににしまってある。散らかった画材も…洗面の配管裏に。
うっかり出しっぱなしにしていた大人向けのDVDも…ちとせが現れてからはフロントに密かに返却した。ゴミ箱の中も良し…ならば、何も問題は…問題は…?大いにある!こんな、ゴミ箱やキャンバスなんかよりも何より見られたらヤバいもの――人生が、限りなく破滅方向に捻じ曲がる様な…超特大の。
この、ベッドの半分以上を占領している『スクール水着に上だけセーラー服を着た幼げなコスプレ少女』の存在!!
まさか、仮住まいのホテルの一室に、あろうことか未成年の──自称四十一歳の────それもコスプレ衣装をまとった幼げな女の子を匿っていると露呈しようものなら、これまで培った信頼や人間関係――存在こそ疑わしいが――の全てが崩れ去るだろう。
といっても、この同居人とはなし崩し的、特段大した関係もないのだけれど……詩七美さん、彼女には、なぜだか誤解されたくないと思ってしまう。
「おいちとせ! 起きろ、緊急事態だ! 頼むからバスルームに隠れてくれ!!」
「んぁ〜パンは……? あれっお兄さん…なんで二人…」
「分かりやすい寝ぼけ助かるわ…!ほらっ布団纏ってそのまま浴槽で丸くなっといてくれ!」
「絶対に、絶対に声だけは出さないでくれ!」
俺は半ばパニックになりながら、寝ぼけ眼のちとせを毛布ごとみの虫のようにぐるぐる巻きにして風呂場の、人一人が悠に横になれる湯の張られていない浴槽へと沈め、その上から予備の枕や散らかった服を山盛りに積み上げて隠蔽工作を敢行した。
そして、首筋のキスマークを隠すように襟元を片手でギュッと押さえながら、内扉を少しだけ開ける。
「あ、あはは……おはようございます、詩七美さん。わざわざすみません……」
「……うん、おはよう。タロ、なんだかすごく汗かいてるね」
「そういう詩七美さんだって、ワンオペの後で汗……かいてないですね」
「うん。代謝…悪いから」
「あの後の営業はどうでした?なにか大変な事とかありませんでした?」
「呼んでくれればいつだってすぐにでも駆けつけますし、疲れてるなら清掃は自分で─────」
「タロ。」
「はい…」
「中、入ってい?」
「はい…」
我ながら苦しすぎる時間稼ぎを早口でまくし立てながら、その努力虚しく、俺は掃除機とモップを携えた詩七美さんを室内へと招き入れた。
***
そこからの十数分間は、今朝のドライブとはまた違った意味で生きた心地がしなかった。
洗面所から時折「んぐー……くるしー……」と微かなうめき声が漏れるたび、俺はわざとらしく大きな咳払いをしたり、テレビの音量を上げたりして必死にごまかし続けた。
とりわけ、この汚れの溜まったやかましい換気扇の轟音が、寝息と見事に重なり、その存在を薄めてくれている。
幸い、詩七美さんは俺の不審な挙動を深く追及することもなく、あの機械のように正確で素早い手つきで、あっという間に床と風呂場を除く水回りをピカピカに磨き上げてくれた。
「……なんだか、思ったよりも綺麗だね」
「そっ…そうですか?いやぁ日頃清掃の仕方を詩七美さんから学んでいるからかなぁ…ほんとありがとうございます、本当に助かりました……!ではまた夜に…」
「ううん。まだ浴室掃除終わってない。」
「それと……お布団も回収しないと。」
「ッ……!?」
「いっ……いゃその、お風呂とお布団の関係性は希薄で、そのふたつが出会う事と言うのはそれこそ詩人ロートレアモンの『マルドロールの歌』の様な…」
──────ガラガラッ
そんな支離滅裂を右から左へ、詩七美さんはなんの躊躇も無く浴室の扉を開け放った。
慣れた手つきで風呂桶と椅子を拭きあげ、シャワーヘッドの溜まった水を抜き、風呂場のジェットバスに溜まった水を抜きに…。
「(あぁ、終わった。これで俺の人生は未成年誘拐の汚名を着せられ、社会からもその居場所を剥奪され、生涯その情けない汚名に悩まされる事に──────)」
「タロ。」
「……はい」
「もしかして」
「…………はい」
「──────お漏らし、した?」
***
「タロ…頑張ったね。」
「えぇまぁはい。本当に申し訳ございません」
「面目もございません……」
嵐のようなドタバタが過ぎ去り、ようやく一息ついたタイミング。
正確にはまたある種別の誤解が生まれてしまった訳ではあるのだが。
目の前で、ベッドに新しい布団一式を敷いている彼女を見ながら、持ち前の反芻思考でもって今一度振り返ってみる。
詩七美さんが風呂場へと清掃に入り、浴槽に丸められた布団を捲ると、そこにちとせの姿は無かった。
そこにはただ、シーツと布団に、それから枕が浴槽にびっちりと埋め込まれているだけ。
それを見て、何度か長年の清掃経験を通してこのパターンを経験した事があるのか、詩七美さんは直ぐにこちらを振り向き、一瞬間を置いてこう言った。
「…タロ。お漏らし…した?」
「…はい」
「………………はい?」
人生の終わりへの葛藤に揺れていた最中、取りこぼした彼女の言葉を後から必死に拾うと、俺は何を言われているのだろうか…?と思ったのと同時に、この大変不名誉な、成人男性としては有るまじき事象から、逃れる選択肢はどうにも無さそうだと、瞬時に様々な後悔が浮かぶが迅速かつ懸命に思考を切り替えて、項垂れるように肯定した。
「はい、私がお漏らしをしました…………」
「タロ。」
「……はい」
「──────頑張ったね」
***
「自分で洗いますから…あの、本当置いてってください…」
「…大丈夫。慣れてるから。」
等と成人男性がお漏らししたであろう布団を綺麗にまとめ、あろうことか慰めの言葉まで投げ掛けて。
彼女の底知れない母性には、どうにも敵いそうにない。
深く追求はせず、かつ端的に一言でお漏らしをした俺の心を支える為の一言を言える彼女の温かさが、今は心臓をキリキリと痛める。
なんせお漏らしは冤罪なのだから。
「すみません何から何まで」
「ううん…仕事だから気にしないで。」
などといっそ責め立ててくれたのなら気持ちも楽になると言うのに、彼女はそれに類する言葉を何一つとして口にしなかった。
一頻りの清掃を終え、清掃道具をまとめてその場を後にしようとする詩七美さんへ、俺はポケットの中の音楽機器の存在を思い出し、クイックルシートを交換している彼女に、何気なく尋ねてみた。
「あの、詩七美さん。詩七美さんはずっと前からここにいるんですよね? ……卯月が入社した当初って、どんな感じだったんですか?」
俺の問いかけに、詩七美さんはピタリと手を止め、少しだけ記憶を辿るように視線を上へと向けた。
「お漏らしと愛姫さん。…関係あるの?」
「いえ、全くもって…。あとその、お漏らしという言葉はもう…」
「…わかった」
更に間を置いて、考え込んだ後再度彼女は口を開いた。
「……愛姫さん。愛姫卯月さん。そう、だね……」
彼女は静かな声で、ぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。
「最初ははなんだか、人に……特に、若い男の人にすごく怯えてるみたいに見えた…」
「卯月が……男に怯えてた、ですか?」
今の、ヤクザ相手にも一歩も引かずに怒鳴り散らす彼女の姿からは、到底想像もつかない。
「うん。それでも…入ったばかりの頃は、懸命に接客業として普通に振る舞おうと努めてたよ。……でも、段々とその怯えた態度が見えなくなるにつれて、今みたいに、誰に対しても噛みつく癖が酷くなっていった…きがする」
怯えが見えなくなるにつれて、噛みつき癖が酷くなった。
その言葉は、昨夜ちとせが口にした『あれは一種の防御壁みたいな物なんだよ』という指摘と、不気味なほどピタリと重なり合っていた。
なにはともあれ、また夜の勤務時間になれば卯月とは直接話す機会もあるだろう。
閂さんから預かった忘れ物を渡すついでにそれとなく、当たり障りのない程度に聞いてみればいい。
それに際して、詩七美さんには何とか隠し通したこの首筋の間違いなくイジられるであろう『痕跡』を先ずどうにかしなければならない。




