Suite.21「雌牛と馬鹿と不器用なサル共」
東雲有愛という女の子を一言で表すならば、この薄暗く湿った吹き溜まりのホテル『VEGA』には到底似つかわしくない、底抜けに眩しい『太陽』みたいな人間だ。
思い返せば数日前の夜勤のことである。
客がチェックアウトした直後の213号室から、ド派手な水音と共に「きゃーっ! 冷たい冷たいっ!」という明るい悲鳴が廊下まで響き渡ったことがあった。何事かと俺と卯月が駆けつけてみれば、そこにはジャグジーバスの清掃中に誤ってジェット噴射のスイッチを押してしまい、頭からびしょ濡れになってへたり込んでいる東雲さんの姿があったのだ。
『ちょっ、有愛あんたまたやったんすか!? 先週もシャワーのホース暴れさせて水浸しにしたばっかじゃないっすか、このお馬鹿!』
『あはは〜、ごめんなさいうさ姫ちゃーん! なんか泡がいっぱい残ってたから、ボタン押したら綺麗に流れるかなーって思って…!』
エプロンの裾を絞りながら、悪びれる風もなくへらっと笑う有愛。いつもなら誰に対しても容赦なく噛みつく番犬の卯月が、額に青筋を浮かべつつもどこか毒気を抜かれたように頭を抱えた、その直後だった。
隣の部屋からバスタオルの山を抱えて飛んできた髭乃梓が、びしょ濡れの東雲さんの頭へ乱暴にタオルを被せ、俺たちを睨みつけて吠えたのである。
『おいコラ愛姫! 誰にでもうっかりミスくらいあんだろうが、ギャーギャー怒鳴り散らしてんじゃねぇよ! 有愛の分のベッドメイキングは俺がやっとくから、お前らはさっさとフロント戻れ!』
『なっ……こっちは心配して…!? それに、明らかな本人の過失じゃないっすか、なんで私が悪者みたいに言われなきゃなんないんすか!?』
『あーっ、こらー! ヒゲちゃん、そういうトゲトゲした言い方はよくないよー! 悪いのはお馬鹿な私なんだから、うさ姫ちゃんに謝って? ほら、めっ!』
タオルを頭から被ったままの東雲さんに、ぷにぷにとした人差し指で眉間をツンと突かれ、さっきまで狂犬のように唸っていた髭乃くんが『……うっ!?うるせぇな……悪かったよ……』と耳まで赤くして視線を逸らす。
フロントへ戻る階段を降りながら、俺と卯月は思わず顔を見合わせて吹き出してしまったものだ。
少し抜けていて、要領が良いとはお世辞にも言えないおっちょこちょい。けれど、彼女がそこに居てケラケラと笑っているだけで、カビ臭いバックヤードの空気すらパッと華やいでしまう。まさに『愛すべき馬鹿』というやつなのだろう。こんな国道沿いのラブホテルなんかで消費されるには、あまりにも勿体ないほどの陽だまりみたいな女の子だった。
――だからこそ、今夜のフロント裏に漂う空気は、異様なまでに重苦しく張り詰めていた。
ちとせと『すくいーず』を巡る不毛な追いかけっこを繰り広げたあの夕暮れから数時間後。
十七時十五分、夜勤シフトの出勤時間は既に過ぎているというのに、いつもなら鼻歌交じりに一番乗りで現れるはずの東雲さんの姿が、控え室のどこにも見当たらなかったのである。
「……遅いっすね、有愛のやつ。あいつ、仕事ではドジ踏むくせに遅刻だけは絶対しないタイプなのに」
ロッカーの前で髪を結び直していた卯月が、壁掛け時計を見上げて眉をひそめた。
しかし、それ以上に落ち着きを失っていたのは、控え室の隅で仁王立ちしたままスマホの画面を睨みつけている髭乃くんだった。
実は今日、出勤してきた彼の顔はいつになく誇らしげだったのだ。
裏口の駐輪スペースには、彼が昼間の現場仕事で汗水流してようやく手に入れたピカピカの中型バイク――マットブラックの車体に二人乗り用のタンデムシートを備えたネイキッドが、堂々と停められていた。ヘルメットもご丁寧に二つ用意してある。今夜のシフト終わりにでも、東雲さんを驚かせながら家まで送り届ける算段だったに違いない。
だが、肝心の相手が来ない。髭乃くんは貧乏ゆすりで床を鳴らしながら、五分おきに裏口の外へ出ては国道の先を覗き込み、また戻ってきては舌打ちを繰り返していた。
「おい髭乃、そんなにウロウロされると目が回るんすけど。LINEくらい送ってみたらどうなんすか」
「……うっせぇな、とっくに送ってんだよ! 既読がつかねぇからこうしてんだろうが……ッ! まさかあいつ、また暗い夜道でチャリンコごと側溝にでも落ちたんじゃねぇだろうな……!」
今にも買ったばかりのバイクに跨がって捜索へ飛び出しかねない剣幕の髭乃くんを前に、俺がなだめようと口を開きかけた時だった。
奥の物置部屋から、欠伸を噛み殺しながらナマケモノのような足取りで店長が顔を出した。
「あー、言い忘れてたわ。東雲ちゃんなら、今夜は休みだぞ」
「「えっ!?」」
「なんだよそれ、早く言えよオッサン!! それよか、あいつに何かあったのか…!?」
詰め寄る髭乃くんに、店長はスマホのパチンコ画面から目も離さず、ひらひらと片手を振った。
「夕方前に電話があってなぁ、なんかちょっと熱っぽいから大事を取って休ませてくれってさ。まぁ彩舞ちゃんも居るし問題ないだろ」
「体調不良……? あいつが……?」
髭乃くんの表情が、安堵するどころか目に見えて青ざめた。
無理もない。普段から風邪ひとつ引かず、真夏だろうが嵐だろうが元気いっぱいに動き回っているあの東雲さんが、自分から体調不良を訴えて休むなど前代未聞だったからだ。
それから翌朝までの数時間、髭乃くんの働きぶりは鬼気迫るものがあった。
二人分のベッドメイキングと風呂掃除をたった一人で猛スピードで片付けながらも、休憩に戻るたび「熱って何度くらいなんだよ……」「あいつ一人になったら水とポカリの区別もつかねぇんじゃねぇか……」とブツブツ呟き続けている。
そして迎えた午前八時半過ぎ。一頻りの作業と後片付けを終え、既に殆どの客が退室し終えた事もあり早々に帰り支度を始める。夜勤メンバー全員が控え室で顔を合わせたところで、卯月が呆れ顔で切り出した。
「……で、髭乃。あんたそんなに心配なら、これからその自慢のバイクで有愛の家に様子見に行ってくればいいじゃないっすか。住所くらい知ってるんでしょ?」
本来であれば、午前一時には帰路に着いているはずの髭乃くんは、夜間どこかへ一度電話をして、その後自ら志願して朝までここで働き続けていた。
その『らしくない』行動の裏にある理由は、誰がどう見ても、考えるまでもなく一つだろう。
「なっ……ッ!? バ、バカ抜かせ! なんで俺が一人で女の家に押しかけなきゃなんねぇんだよ! そんなことしたら、あいつに気ぃ使わせるだけだろうが……!」
「ただでさえ弱ってるだろうに…」
威勢よく怒鳴ってはいるものの、その拳はギュッと握りしめられ、視線は明らかに泳いでいる。
要するに、心配でたまらないくせに、男一人で彼女の自宅を訪ねる勇気が出ないのだ。あまりにも分かりやすい惚れた女に対する臆病っぷりに、俺は思わず苦笑を漏らし、隣の詩七美さんへと視線を向けた。
詩七美さんは俺の意図をすぐに察したように、目をパチパチと瞬かせてから静かに手を挙げた。
「……じゃあ、みんなでお見舞い、行こっか。私の車なら、四人乗れるし……ゼリーとか果物、差し入れに置いてくるだけなら迷惑にならないと思うよ」
「おっ、それ名案っすね! 私もあいつが本当に大人しく寝てるか顔見ておきたいし!」
「俺も荷物持ちくらいなら出来そうかな。……どうする、髭乃くん? みんなで行くなら問題ないんじゃないか?」
逃げ場を完全に塞がれた彼は、数秒間口をパクパクと開閉させたあと、観念したようにキャップの鍔を深く引き下げてそっぽを向いた。
「……お前らがどうしても行くって言うなら……道案内くらいはしてやってもいいけどな……ッ!」
その姿を見て、俺と卯月、それに詩七美さんまでもが決して言葉にこそ出さないのだけれど、確かに心の中で異口同音、一言一句違わず同様の感想を口にした。
「「こいつ、素直じゃないなぁ──────」」
***
スーパーで桃の缶詰やスポーツドリンク、冷えピタなどを買い込み、詩七美さんの運転するコンパクトカーと、その前を先導する髭乃くんの真新しい中型バイクでホテルから走ること十五分ほど。
最早慣れ親しんだ詩七美さんの特攻運転に対して俺と卯月はなんの言及も無い──卯月に関しては目を瞑り祈りを捧げている────のだが、前を走る髭乃くんはあまりの詩七美さんの運転の荒さに気が気でない様子で、頻りに振り返ってはフルフェイスの中で目を驚愕に見開かせていた。
そして俺たちが辿り着いたのは、駅前の喧騒から少し離れた閑静な住宅街に建つ、日当たりの良さそうな四階建てのファミリー向けマンションだった。
三階の角部屋、『東雲(SHINONOME)』という表札が掲げられた玄関の前で、代表して詩七美さんがインターホンを押す。俺と卯月がその少し後ろに控え、一番端では髭乃くんがまるで面接会場に引きずり出された中学生のようにガチガチに肩を強張らせて突っ立っていた。
やがて内側からパタパタと明るい足音が近づいてきて、ガチャリと勢いよく扉が開いた。
「はーい! あらまぁ、いらっしゃーい!」
玄関先に出迎えてくれた女性を見た瞬間、俺たち三人は(髭乃くんも含めて四人揃って)思わず目を丸くした。
少しウェーブのかかった豊かな黒髪に、彫りの深い華やかな目鼻立ち、そしてエプロンの上からでも圧倒的な存在感を放つ豊満なプロポーション。目尻に刻まれた柔和な笑いジワを除けば、そこに立っていたのは東雲有愛をそのまま二十年ほど大人にしたような、快活なラテン系の美女だったのだ。
「あの、突然すみません。ホテル『VEGA』で東雲さ…有愛さんと一緒に働いているスタッフなんですが、昨日体調を崩されたと聞いて、差し入れだけでもお渡しできればと思って……」
そう言って詩七美さんの横まで進み俺が事情を説明すると。
「おぉー! いつも娘がお世話になってまーす、ママのマリアです! パパはもう会社行っちゃったけど、せっかく来てくれたんだから上がって上がって! 今おいしいお茶入れるから!」
「えっ、いや、有愛さんが寝込んでいるなら玄関先で――」
「だいじょうぶだいじょうぶ! もう熱なんて全然ないし、さっき朝ごはん山盛り食べてたから! ほら、入って入ってー!」
日本語はペラペラだが、距離感の詰め方が完全に南米の太陽そのものである。俺たちはマリアさんの圧倒的な陽気さと腕力に押し切られるまま、あれよあれよという間にリビングへと招き入れられてしまった。
色鮮やかな織物のタペストリーや家族写真が飾られた、温かみのあるリビング。
俺たちがソファの端に恐縮しながら腰を下ろすと、マリアさんは廊下の奥の部屋へ向かって両手をメガホンのように口元へ当て、朗らかな大声を張り上げた。
「おーい、バキータ! 職場のお友達がたくさんお見舞いに来てくれたわよー!」
バキータ?
聞き慣れない不思議な響きに、俺と卯月、そして髭乃くんが揃って首を傾げた直後だった。奥の部屋の扉がパタンと開き、パステルカラーのゆるいルームウェアに身を包んだ東雲さんが、むず痒そうに頬を膨らませながらひょこっと顔を出したのだ。
「もうっ! アリー、その呼び方子供みたいで嫌だよママ〜……って、ええええっ!? 詩七美さんにうさ姫ちゃんにコタローさん……それにヒゲちゃんまで!? なんでみんなウチにいるんですかぁーっ!?」
すっぴんに寝癖のついた髪を揺らし、目をまん丸にして飛び上がっているその姿には、幸いにも病人らしいやつれは微塵もなかった。
「なんでって、あんたが珍しく熱出して休んだって言うから心配して来たんじゃないっすか! ……なんだ、ピンピンしてるなら損したっす」
「えへへ、ごめんなさぁい! 昨日の昼間ちょっと歩き回ったら知恵熱みたいのが出ちゃったみたいで、一晩寝たらすっかり治っちゃいました!」
ぺこりと頭を下げる東雲さんを見て、ソファの端で固まっていた髭乃くんが、誰にも聞こえないくらい小さな安堵の息を吐いたのが分かった。マリアさんがテーブルに並べてくれたハーブティーとクッキーを前に、場の空気は一気に和やかなお見舞いムードへと緩んでいく。
――だが、その平穏を打ち破ったのは、ほかならぬ母・マリアさんの悪気のない一言だった。
「いやぁ、でも最後にみんなで顔を見せに来てくれてママも嬉しいわぁ。アリーったら昨日も夜遅くまで悩んでたみたいだけど、優しい職場の人たちで本当によかったわねぇ」
「……え? 最後に……?」
卯月がクッキーを持ったまま眉をひそめる。
すると東雲さんが「あっ、ちょ、ママまだそれは……!」と慌てて両手を振って遮ろうとしたが、マリアさんはきょとんと首を傾げたまま言葉を続けてしまった。
「あら? だってアリー、昨日店長さんにお電話した時、体調のついでに『そろそろ今のバイト辞めて、また前の職場に戻ろうか迷ってる』って相談してたじゃない?」
パキリ、とリビングの空気が凍りついた。
誰よりも早く反応したのは髭乃くんだった。彼はカップをテーブルへ乱暴に置くと、弾かれたように立ち上がって東雲さんを見据えた。
「……おい、有愛。どういうことだよ、それ。お前……店、辞めんのか……?」
「あ、あはは……えっと、まだ絶対に辞めるって決めたわけじゃなくてですね……」
東雲さんは困ったように眉尻を下げ、自分の膝の上で指先をもじもじと絡ませながら曖昧に微笑んだ。
そんな娘の肩に手を置き、マリアさんが少しだけ真剣な母親の顔になって俺たちに説明してくれた。
「ごめんなさいね、私とパパからも少し言ったのよ。その…ホテルのお仕事? お給料がいいのはありがたいんだけど、あそこって大きな公園の裏手で夜道がすごく暗いでしょう? 最近お祭り前で変な車も多いって聞くし、女の子が夜中に自転車で通うのはやっぱり危ないから、前みたいな落ち着いたお仕事に戻った方がいいんじゃないかって……」
髭乃くんの唇が、悔しそうにギュッと噛み締められた。
自分が必死にお金を貯めてバイクを納車したまさにその日に、一歩遅れで彼女が『夜道が危ないから』という理由で店を去ろうとしていた――その事実が、彼の胸をどれほど抉ったかは想像に難くない。
母親であるマリアさんが「お茶のおかわり沸かしてくるわねー!」とキッチンへ引っ込んだ丁度そのタイミングだった。
折を見て、東雲さんが視線をわずかに泳がせながら「えっと……この前ちょっと買い物に出かけた時に、前の職場の人にたまたま会って『またうちで働かないか』って誘ってもらえたのもあって……」と付け加えた瞬間、卯月がハッと何かに気づいたように身を乗り出した。
「ちょっと待った。前の職場に戻るように誘われたって……有愛、あんた『一個前』の仕事ってなにやってたんすか?」
そういえば、俺たちも東雲さんの職歴については詳しく聞いたことがなかった。ただ以前、雑談の中で「ここに来る前も色んなバイトやってたんですよ〜」と笑っていた記憶があるくらいだ。
俺と卯月、そして髭乃くんの鋭い視線が一斉に集まる中、彼女は指を折りながらぽつりぽつりと思い出すように語り始めた。
「えーっと一個前?のバイトは確か〜……基本的にお客さんに席についてもらって、ジュースとかお酒とか出して……」
「ほう、客と近い接客にジュースやお酒を出す店ね。今どきのコンカフェか、若しくはメイド喫茶とかじゃないっすか?」
「あ、そうそう! お店の制服がフリフリですっごく可愛くてですね!」
「今多いからな、そういう系統のコンセプト店。東雲さんのイメージとも合致するし」
「やっぱりメイド喫茶じゃないっすか? ドジっ子メイド的な」
俺と卯月が納得しかけたところで、髭乃くんも「なんだ、そういう飯屋みてぇなとこか……」とわずかに肩の力を抜いた――まさにその直後だった。
東雲さんはにっこりと太陽のような笑顔を浮かべたまま、なんの躊躇いもなく爆弾を投下した。
「あぁそうだ!それで、おっぱい出すお仕事でした!」
「あぁ〜おっぱいっすか。だったらやっぱりメイド喫茶じゃないすか?」
「そうそう、お酒のおつまみと言えばおっぱい。おっぱいをつまみに飲むお酒がいっちゃん美味いって言うし、おっぱいと言えば卯月の言う通りメイド喫茶か…………、……」
俺の口から滑り出た適当極まりない相槌が、リビングの虚空でピタリと停止した。
隣では卯月が石像のように固まり、端では詩七美さんが目をパチパチと高速で瞬かせている。そして髭乃くんに至っては、魂が口から抜けかけたような顔で硬直していた。
三秒間の完全なる無音ののち――俺と卯月と髭乃くんの絶叫がマンションの一室を揺るがした。
「「「お──────おっぱいッ……!?」」」
「えっ!? は、はいっ、おっぱいですけど……!?」
俺たちの剣幕にびっくりして目を白黒させる彼女に、卯月がガバッとテーブル越しに詰め寄った。
「お、おっぱい出すってあんた……それメイド喫茶じゃなくて、いわゆる『おっパブ』ってやつじゃないっすか…!? なんであんたみたいな純朴そうな子がそんな店で働いてたんすか!?」
「えぇと、その前の仕事辞めてすぐに街をふらふら歩いてたらお店のお兄さんに声を掛けられて……すっごく人手不足で困ってるって言うから、私で役に立てるならってお手伝いしてたんですけど……あっ、でも両親にバレて困らせちゃったので、そこはすぐ辞めたんですよ!」
「あ、当たり前っすよ!! 親が泣くわそんなもん!!」
頭を抱えてツッコミを入れる卯月の横で――ゴゴゴゴゴ、と床が鳴動するような低い地鳴りが聞こえた気がした。
恐る恐る視線を向けると、そこにはキャップの鍔の奥で両目を真っ赤に血走らせ、全身からどす黒い殺気のオーラを噴き上げている髭乃梓の姿があった。
東雲さんの言葉の断片――『前の職場に戻ろうか迷ってる』『前の職場の人にたまたま会って誘われた』、そして『一個前のおっぱい出すお仕事』。
極限の動揺と嫉妬に脳を焼かれた髭乃梓と激しく混乱する俺たち。
そしてまるで何事も無かったかのようにあっけらかんと朗らかに笑う東雲さん。
「……どこの店だ……」
「……え? ヒゲちゃん?」
「どこの店だって聞いてんだよ……ッ!! 困ってるだぁ!? 人手不足だぁ!? お人好しの有愛を言葉巧みに騙くらかして乳揉ませたり吸わせたり…!? 一度ならず二度までも引き戻そうとしやがって……ッ!!」
「えっと…ヒゲちゃん何か誤解が…」
「誤解もクソもあるかっ!! 有愛はお人好し過ぎるんだよ! 待ってろ、俺が話つけてきてやる」
ギリィッ、と奥歯が砕け散りそうな音を立てて立ち上がった髭乃くんは、近くにいた俺の襟首を鷲掴みにすると、有無を言わさぬ力で玄関へと引きずり始めた。
「ちょっ、ま、待って髭乃くん!! なんで俺が連行されて…!? 首が締まる…小っちゃいのになんて力だ…!?」
「大庭、お前は今から俺と一緒に来い! これからその店にカチ込んで、これまで有愛の胸を揉みやがった豚共と有愛を引き戻そうとしてる奴を、一匹残らず全員ブッ殺してくる!!」
「やめてくださーいっ! 死人が出ちゃいますよヒゲちゃーん!!」
キッチンから戻ってきたマリアさんが「あらあら、若い男の子は元気ねぇ〜!」とのんきに手を振るのを背後に見ながら、俺は狂乱の掃除屋に引きずられるままマンションの階段を転げ落ちるようにして連行されていった。
なぜいつも俺、大庭小太郎という人間は、他人の暴走の果てに不運と踊る様な選択肢に進んでしまうのか――澄み切った秋の青空の下、俺の悲痛な叫びだけが住宅街に虚しく木霊していた。




