22.命を賭けろ
そこに、いるはずのない影が立っていた。
扉の向こう。薄暗い廊下の奥に、メイド服を纏った人影。だが、その顔は仮面で覆われ、深く被ったフードが表情を完全に隠している。
異様だったのは、その手に握られた剣。刃から滴る血が、ぽたり、ぽたりと絨毯に落ちている。
部屋の前には、護衛騎士がいたはずだ。……いた、はずなのに。
喉の奥がひくりと引きつる。血の量が、何を意味するのか理解してしまったから。
「そ、そんな……なんで? ここに、暗殺者が来るの……?」
隣でルティアの声が震えた。顔から血の気が引き、目を見開いているはずだ。もう来ないと信じていた恐怖が、再び目の前に現れたのだから。
本来、暗殺者が現れるのは死に戻りから一か月後。だけど、今回はまだ数日しか経っていない。……早すぎる。
ルティアがメイドを排除するという行動を取ったからだ。未来を変えた。その歪みが、予定を前倒しにした。
これが、未来を動かした代償。ぞくり、と背筋を冷たいものが這う。でも、立ち止まるわけにはいかない。
「ルティア様は、ここにいてください!」
叫ぶと同時に、ベッドから飛び降りる。足裏に伝わる床の冷たさが、意識を鮮明にした。
自分のメイド服に駆け寄り、隠していた二本のナイフを引き抜く。手に馴染む重み。呼吸を整え、刃先をわずかに持ち上げる。
そして、ルティアと暗殺者の間に立った。
距離は十数歩。仮面の奥から、じっと視線が突き刺さる。暗殺者は動かない。ただ、私を観察している。
邪魔だ。そう言外に告げる、冷え切った気配。一瞬だけ、戸惑いの色が空気に混じった。標的の前に、想定外の障害が立ったからだろう。だが、それも刹那。
次の瞬間、空気が変わった。濃密な殺意が、肌を刺す。呼吸が重くなる。心臓の鼓動が、どくん、と大きく鳴った。
排除する。ただそれだけの、感情のない殺気。それがルティアに向けられていると理解した瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
怖さよりも先に、怒りが込み上げる。また奪う気なの?
背後で、ルティアの呼吸が乱れているのが分かる。その震えを感じた瞬間、迷いは消えた。
「……ルティア様には」
低く、静かに告げる。
「指一本、触れさせない」
言い切った瞬間、床を蹴った。一気に距離を詰める。視界が細く絞られ、暗殺者の喉元だけがはっきりと見えた。右手のナイフを逆手に構え、左手は牽制。
初撃は速さ重視。一直線に踏み込み、斜め下から切り上げる。
――キィンッ!!
甲高い金属音が室内を裂いた。暗殺者の剣が、紙一重で受け止める。衝撃が腕を痺れさせるが、止まらない。弾かれた勢いを利用し、体を回転させて二撃目を叩き込む。
喉。心臓。急所だけを狙う連撃。だが、剣が閃くたびに、軌道を逸らされる。速い。重い。そして、無駄がない。
次の瞬間、視界がぶれた。
――浅い。
胸元に熱が走る。遅れて、血が滲む感覚。斬られた。だが、引かない。
踏み込む。刃が私の肩を掠め、布が裂け、皮膚が切れる。それでも、至近距離に潜り込んだ。
「っ――!」
左のナイフを、脇腹へ。少しの手応えを感じた。布と肉を裂く感触が、確かにあった。
暗殺者の動きが、わずかに鈍る。その隙を逃さない。右、左、右。嵐のように刃を振るう。
だが、その代償に、私の体も容赦なく斬り刻まれていく。太腿に鋭い痛み。腕に深い裂傷。血が飛び散り、視界の端を赤く染める。
息が荒い。肺が焼ける。それでも、後ろには下がれない。背後には、ルティアがいる。守ると決めた。ルティアが傷つくくらいなら、死んでやり直す。
剣が振り下ろされ、半歩ずらして受け流す。完全には避けきれず、脇腹が裂ける。視界が白く弾けるほどの痛み。
大丈夫。ルティアが傷ついていなければ、それでいい。この痛みは自分だけのものだ。
「もうやめて、マナ! 私のために戦わないで!」
その時、ルティアの叫び声が聞こえ――体を抱きしめられる。
「私のせいで傷つくのはやめて! お願いだから、私を見捨てて逃げて! これ以上、あなたが傷つくのを見るのが嫌なの!」
叫びながら、ルティアは私を抱きかかえ、その場に蹲った。まるで自分の体で覆い隠すように。
だめだ、そんなことをしたら。標的は、あなたなのに。
顔を上げた瞬間、暗殺者の動きが変わった。剣を引き、代わりに懐へ手を差し入れる。次の瞬間、月光を弾く銀の軌跡が、いくつも宙に走った。
投擲。一直線に、ルティアへ。
「ルティア様!」
反射だった。ルティアの腕を振りほどき、無理やり前へ出る。体勢も何も整っていない。ただ、間に入ることだけを考えて。
両手のナイフを振るう。
キンッ、キィンッ――!
飛来する刃を弾き落とす。だが、数が多すぎる。弾き切れない。
その時、鋭い衝撃が腹部に突き刺さった。次いで、肩。太腿。
「ぐっ……!」
息が詰まる。体の奥に、冷たい鉄が入り込む感覚。遅れて、焼けつくような痛みが爆発した。足が崩れて、膝をつく。
「いやあぁぁぁっ! マナ、マナ、マナ!」
背後で、悲鳴が裂ける。体に突き立ったナイフの柄が、視界の端で揺れている。血が溢れ、床に滴り落ちる。
でも後ろには、傷一つないルティアがいる。それだけで、十分だ。
「……無事、ですか……」
振り返らずに問う。声が掠れる。
「なんで……なんでこんなこと……! 抜かなきゃ、血が……!」
「抜かないで……今は、だめ……」
視界が滲む。けれど、仮面の奥の無だけははっきりと見えた。暗殺者は一歩も動かない。ただ、こちらを測るように見据え――ゆっくりと、再び懐へ手を入れた。
嫌な予感が、背筋を走る。次の瞬間、複数の銀閃が空気を裂いた。狙いは、一直線。
私ではない。――ルティア。
「っ!!」
考えるより先に、体が動いた。最後の力を振り絞り、踏み込む。ぐらつく足を無理やり前へ出し、ルティアを押し倒すように抱き寄せる。
そのまま、覆いかぶさった。直後。
ドスッ――!
鈍い衝撃が、背中を貫いた。一瞬、何が起きたのか分からない。遅れて、熱が爆ぜる。
一本。二本。三本。何本も、何本も。背中に突き立つ感触が、骨を震わせる。
「――ぁ……」
声にならない息が漏れた。肺がうまく動かない。空気が入らない。激痛が脊髄を駆け上がり、視界が白く弾ける。それでも、腕だけは離さなかった。
ルティアを、強く抱きしめる。無傷だ。それが分かった瞬間、全身の力が抜けた。支えきれず、そのまま覆いかぶさる形で床に崩れ落ちる。
「いやぁぁあああっ! マナ、マナしっかりして!」
耳元で、絶叫が響く。頬に、温かいものが落ちる。涙だと、ぼんやり理解する。
ああ……泣かせちゃった。だめ、なのに。
「……無事、で……よかった……」
喉に血が絡む。うまく息ができない。
背中に刺さった刃が、心臓の鼓動に合わせて微かに震える。そのたびに、意識が遠のきそうになる。
「嫌……嫌よ……目を閉じないで……! 誰か、誰か来て! お願い、マナを助けて!」
必死な叫びが、遠くなっていく。視界の端で、暗殺者がこちらへ歩み寄るのが見えた。
力を振り絞って、床に倒れるルティアの上に覆いかぶさる。私は大丈夫。だけど、ルティアには指一本触れさせない。
「いやぁぁっ、マナァ、いやぁぁっ……!」
大粒の涙を流し、曇った目で見上げている。そんな顔をさせないと誓ったのに、またさせてしまった。
胸が締め付けられて、ナイフよりも辛い。でも、私は大丈夫。ルティアが傷つくくらいなら――私が死ぬから。
精一杯の笑顔を浮かべて、安心させるように心を尽くす。
「絶対にあなたを守ります」
そして、剣が私の体を貫いた。




