1.救われた少女
痛い。息をするたび、体のどこかが悲鳴を上げる。殴られ、蹴られ、骨の奥まで鈍い痛みが染み込んでいく。
指一本、動かすだけでもつらい。空腹で、力が入らない。胃の中は空っぽなのに、吐き気だけがこみ上げてきて、視界がじわじわ滲んでいく。
――こんなはずじゃ、なかった。
異世界に転生したら、少なくとも生き直せると思っていた。努力すれば報われて、笑える日が来ると、どこかで信じていた。
なのに、どうして。スラムでこんな目に遭っている。
まだ、生きたいと思っている。こんな目に遭って、こんな場所で、こんなふうに打ち捨てられているのに――それでも、生にしがみつこうとしている自分がいる。
みっともない。情けない。さっさと諦めれば楽なのに。
そう思うのに、胸の奥で小さく、必死に叫ぶ声が消えてくれない。助けて。死にたくない。
私は歯を食いしばり、地面に爪を立てた。痛みに顔を歪めながら、腹ばいのまま体を引きずる。砂利が肌に擦れて、また痛みが走る。それでも、止まれなかった。
路地の奥から、かすかに光が見える。人の気配。足音。声。
大通りに出れば、誰かがいる。誰かが、気づいてくれるかもしれない。
「……た、す……」
声を出そうとした。なのに、音にならない。
口を開いても、掠れた息が漏れるだけで、言葉は外に出ていかなかった。必死に手を伸ばす。視界の端を、人影が横切る。けれど、誰も立ち止まらない。
……あぁ、そうか。ここでは、私は「助けるべき存在」ですらないんだ。
悔しさが、胸の奥から一気に込み上げてくる。涙が滲む。けれど、それすらも拭う力は残っていなかった。
誰にも届かないと思った、その瞬間――指先に、柔らかくて温かい感触が触れた。
「あなた、大丈夫?」
この世界に来てから一度も聞いたことのない、優しい声だ。
恐る恐る顔を上げる。そこには、一人の女性が膝を折り、身を屈めて、私を見つめていた。
「……ひどい怪我ね」
その人は眉を寄せ、そっと私の手を包み込んだ。指先が触れた瞬間、冷え切っていた体に、じんわりと温もりが広がっていく。
「今、癒すわね」
握られた手が淡く光りだす。その光は優しく、眩しすぎることもない。
さっきまで体中を支配していた痛みが、嘘みたいに溶けていく。呼吸が、楽になる。視界が、はっきりする。
生きている。そう、初めて実感できた。
「これで大丈夫よ」
女性はほっとしたように微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「あなた……スラムの子?」
「……うん」
「親は、いる?」
「……いない」
「……そう」
その人は、私の答えを否定しない。憐れみでも、突き放しでもなく、ただ受け止める。
そして、迷いなく手を差し伸べた。
「だったら、私と一緒に来る?」
私を……助けてくれるの?
すると、手が伸びてきて、優しく私を抱き起してくれた。そして、慈愛に満ちた微笑みを向けて、私の頭を撫でてくれる。
「もう、大丈夫。今からあなたを守るのは私だから」
その言葉をどれだけ待っていたか。胸の奥で張りつめていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた気がした。
ああ、もう。一人じゃなくていいんだ。そう思った瞬間、喉の奥が熱くなった。必死に堪えていたものが、溢れ出す。
「……っ、ぁ……」
声にならない声が漏れる。次の瞬間、視界が滲んで、止めどなく涙がこぼれ落ちた。
その人は、何も言わずに、私を抱き寄せてくれた。あたたかい。ちゃんと、人の体温だ。
「……もう、ひとりにはさせないわ」
耳元で、静かな声が落ちてくる。その一言だけで、胸がいっぱいになった。
私は顔を押し付けて、声を殺して泣いた。みっともなく、生きたいと願った自分を、初めて否定しなくてよくなった気がした。
生きていて、よかった。そう思えたのは、この世界に来てから、初めてだった。
◇
「わぁ! 似合うわ、マナ!」
メイド服を着て、ルティアの前に出る。すると、嬉しそうな顔をして私の前でしゃがみこんだ。
「とーっても素敵! 可愛らしいメイドだわ!」
そう言って、私を抱きしめて頭を撫でてくる。
「お、王女様……。私は一介のメイドなので、そのような事は……」
「もう、名前のルティアって呼んでって言っているでしょ。それよりもメイドになっても、マナはマナ。私の大切な子よ」
そして、ギューッと抱きしめてくる。
「本当に可愛いわ。妹が出来たみたい! 十七歳の姉と十歳の妹……うん、これは十分に可愛がれる年の差ね」
「……る、ルティア様。少し、苦しいです……」
そう訴えても、腕の力は緩まない。むしろ、安心させるように背中を撫でる手つきが、さらに丁寧になる。
「だーめ。可愛い子を前にしたら、抱きしめるのはお姉さんの特権よ」
「特権、ですか?」
「ええ。年上で、しかも王女。二重に正当性があるわ」
当然のことのように言い切られて、言葉に詰まる。胸元に押し付けられた頬に、ふわりと甘い香りがした。落ち着く匂いで、力が抜けそうになる。
「いい? マナは今日から、私の目の届くところにいるの。だって、私があなたを守れなくなるもの。ずっと、ずーっと傍にいること。いいわね」
ルティアは少しだけ身を離し、私の顔を真正面から覗き込む。その瞳は、冗談を言っている時よりもずっと真剣だった。
「さあ、まずはお披露目ね。私の可愛いメイド……いえ。私の妹分を、みんなに紹介しないと」
そこには曇りなき笑顔を讃えた、ルティアの姿があった。その眩しい笑顔は私の心に焼きついた。
◇
夢みたいだ、と思った。
毎朝、柔らかな寝台で目を覚ます。寒さで身体を丸める必要も、空腹に耐える必要もない。用意された清潔な水で顔を洗い、温かい食事を口にする。それだけのことが、こんなにも心を満たすなんて、知らなかった。
王宮での私の仕事は、決して難しいものじゃない。掃除、給仕、書類の運び。失敗すれば注意はされるけれど、怒鳴られることはない。殴られることも、蹴られることもない。
それだけじゃない。ルティアは、私が思っていた以上に過保護だった。
つきっきりで傍にいたり、ふいに抱きしめられたり、すぐに褒めたり。仕事の量が多かったら減らされたり、早めに休憩させられたり、甘いものを沢山食べさせてくれたり。
そこにはスラムでは味わえなかった幸福があった。そんな幸福をいっぱい貰って、私は心からルティアに感謝をした。
命を拾ってもらった。人として生きる道を、もう一度与えてもらった。
だから、私は決めた。
この身は、ルティアのものだ。与えられた恩を、裏切ることはしない。
たとえ命に代えても。たとえ、この先どんな運命が待っていようとも。
私は、この人に仕える。心から、そう誓った。
◇
「ふぁ……交代に行かなくちゃ」
深夜。眠気を押し殺し、静かにベッドを下りて着替える。王女の寝室には常に傍仕えがいる決まりだ。今夜は、私がその交代に向かう番だった。
足音を殺し、何度も通った回廊を進む。扉の前に立った瞬間――胸の奥が、ひくりと嫌な予感を告げた。
扉を開ける。……静かすぎる。
部屋の中は、異様なほどにシンとしていた。空気が張り詰め、肌に刺さるように冷たい。いつもの、あの穏やかな気配がない。
「……?」
恐る恐る中へ足を踏み入れる。見渡しても、今夜の傍仕えの姿が見当たらない。
――どうして?
不安が喉を締め付ける。考えるより先に、私はベッドの方へと歩み寄った。
そして、視界に入った光景に、思考が止まった。
ルティアが、ベッドの上に倒れている。白いシーツを真っ赤に染め、血まみれのまま、動かない。
「……え……?」
声にならない音が、喉から零れた。
なに、これ。どうして。どうして、こんな……。
夢だ。そうに違いない。だって、こんなの現実なわけがない。
次の瞬間。
ドスッ。
鈍く、重たい衝撃が体を貫いた。
「……っ」
遅れて、焼けるような痛みが腹部を襲う。視線を落とすと、そこには――私の腹から突き出たナイフ。
「……え……?」
理解が追いつかない。
なぜ、私が。なぜ、ここで。
背後で、何かが動く気配。次の瞬間、ナイフが勢いよく引き抜かれた。
「――っ!!」
声すら出ないまま、膝が崩れ落ちる。床に倒れ、冷たい石の感触が頬に触れた。
痛い。息が、できない。
視界が滲み、暗闇が端から侵食してくる。
――ルティア。
最後に浮かんだのは、あの人の名前だった。意識は静かに、そして確実に遠ざかっていった。
◇
「わぁ! 似合うわ、マナ!」
その一言で、意識が強引に引き戻された。
眩しいほどの笑顔。目の前には、しゃがみ込んでこちらを見上げるルティアの姿がある。
「……え?」
思わず、声が漏れた。ついさっきまで血の匂いと、冷たい床の感触と、腹を貫いた激痛が、はっきりとそこにあったはずなのに。
刺されて。倒れて。私は、確かに死んだ。なのに。
「とーっても素敵! 可愛らしいメイドだわ!」
そう言って、ルティアは私を抱き寄せ、変わらぬ仕草で頭を撫でてくる。その手の温もりが、あまりにもはっきりしていて、夢だとは思えなかった。
……覚えている。この言葉も、この距離も、この少し甘い香りも。
これは、私が王宮で働き始めた日。初めてメイド服を着て、ルティアの前に立ったあの日の光景だ。
心臓が、嫌なほど速く脈打つ。
じゃあ、あれは何だった?悪い夢? 幻? それとも――。
答えは、胸の奥ですでに形を成していた。
もしかして、私は――あの日に、死に戻ってきた?
抱きしめられた腕の中で、私は小さく息を呑んだ。ぬくもりがある。生きている。けれど同時に、背筋を冷たいものがなぞっていった。
この時間は、もう一度与えられただけ。同じ未来を辿れば、また――。
私は、ぎゅっと指を握りしめた。
今度こそ、この人を――命に代えても生かさなくちゃ。




