表札
九時十分。
紬は台所の小さな作業台に、二百一枚目の原稿を置いた。
居間からは、夏帆と犬飼の話し声が聞こえていた。
昔の刑事ドラマに出てくる取調室と、本物の取調室がどれだけ違うか、という話だった。
紬は台所の引き戸を閉めた。
原稿の最後には、こう書かれていた。
——それから、彼女は夫を許した。
その下に、修一の赤い字があった。
〈これで終わり。紬、清書〉
紬は新しい原稿用紙を取り出した。
右肩に「201」と書く。
本文を写す。
夫の嘘を暴いた女が、長く暮らした家に戻ってくる。
玄関には、夫の名前だけが書かれた表札が掛かっている。
そこまで写して、ペンが止まった。
表札を叩き割った。
その一文が頭に浮かび、消えた。
口には出さなかった。
紙にも、一文字も書かなかった。
壊して終わるのも、違う。
紬は最後の行に、ゆっくりとペンを走らせた。
——彼女は表札を裏返し、空いた面に自分の名前を書いた。
句点を打った。
台所には紬しかいなかった。
閉じた引き戸の向こうで、犬飼が何か言い、夏帆が笑った。
紬は古い原稿を折り、作業台の引き出しに入れた。
新しい一枚を、コーヒーの盆と一緒に持ち上げた。
九時十五分。
書斎のドアをノックすると、すぐに返事があった。
「できたか」
紬は盆を机へ置いた。
原稿を差し出した。
修一は最後の行を読んだ。
しばらく、黙っていた。
「変えたのか」
「はい」
「清書を頼んだんだけどな」
「私は、こっちを書きたいです」
廊下の向こうで、居間のドアが開いた。
「先生、十時までに終わります?」
夏帆が顔を出した。
「終わるよ。あと少し」
その隣に、犬飼も立った。
「警察への取材なら、今夜はここまでですよ」
「深夜料金になるのか」
「腰が痛くなるんです」
修一が短く笑った。
紬が書斎を出ようとすると、背中に声がかかった。
「紬」
振り返ると、兄はまだ最後の一行を見ていた。
「……これなら、表紙も変えないとな」
紬は、ドアのところで立ち止まった。
修一は原稿を机へ置いた。
「明日、ちゃんと話そう」
それが、紬と交わした最後の会話だった。
居間へ戻ると、時計は九時二十分を指していた。
三人は、夏帆が持ってきた書店用の紹介文を読み始めた。
犬飼が事件の説明に使われている言葉を一つ直し、夏帆が、その言い方では本が売れそうにないと抗議した。
途中、夏帆の携帯電話が鳴った。
「店からです。ちょっと失礼します」
夏帆は居間を出て、玄関の方へ向かった。
戻ってきたのは、五分ほどあとだった。
犬飼も一度、洗面所を借りると言って席を立った。
紬はコーヒーを淹れ直すために台所へ行った。
ポットを持って戻ると、犬飼は自分の椅子に座り、夏帆が紹介文の一節を読み上げていた。
居間にいるあいだ、書斎は見えなかった。
廊下を隔てたそのドアは閉じていた。
十時になっても修一が来なかったので、三人で書斎へ向かった。
ノックには返事がなかった。
ドアには、鍵が掛かっていなかった。
そして、最初の場面に戻る。




