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第八章 首輪の精が消えかける

 関所を出るとき、セレナは一枚の通行札をくれた。

 薄い鉄片に黒狼の紋章が刻まれている。ヴァルド侯領の関所を通る者へ与えられるものだという。これがあれば、次の町までは余計な通行税を取られないはずだと、セレナは言った。

「はず、ですか」

 ミリアが聞くと、セレナは少しだけ苦く笑った。

「私の誓約が砕けたからといって、領内の腐敗が一夜で消えるわけではない」

「そうですね」

「だが、私が目を逸らす理由も、もうない」

 セレナはそう言って、自分の首元に残った薄い痕に触れた。

 誓約紋は砕けた。

 だが痕は残っている。

 ミリアは、その痕を見て、ガルナの喉を思い出した。

 ガルナの黒い痕。首輪に縛られていた時間が、皮膚の奥に焼きついたもの。

 消えればよいというものではない。

 忘れないために残る痕もある。

 それでも、痕があるというだけで痛みまで残り続けるのは、やはり不公平だと思った。

「古い街へ行くなら、夜は街道を外れないほうがいい」

 セレナは続けた。

「あのあたりには、昔の契約術師たちの遺構が残っている。道に迷う者もいるし、戻ってきても、自分が何を誓ったのか忘れている者もいる」

「怖いことを、そんなに落ち着いて言わないでください」

「すまない」

 セレナは真面目に謝った。

 その真面目さが、少しだけおかしかった。

 ガルナが横で言う。

「迷うなら道ではない。古い言葉に迷うのだろう」

「古い言葉?」

 ミリアが聞くと、ガルナは肩をすくめた。

「行けばわかる」

「最近、そればかりですね」

「便利だからな」

 ミリアはため息をついた。

 袖の中で、白蛇が小さく動いた。

 ネリスは、関所を出るころからずっと袖の中にいる。

 セレナの誓約が砕けたとき、首輪は激しく反応した。ネリスも一緒に苦しんだ。そのあと、しばらく少女の姿に戻っていたが、日が傾くころには白蛇に戻り、そのまま眠ってしまった。

 ミリアは袖口を少しだけ押さえた。

「重くないですか」

 ネリスの小さな声がした。

「重くない」

「嘘です」

「蛇一匹で重いって言ったら、あなた傷つくでしょう」

 少しの間があった。

「それは、たしかに少し傷つきます」

「なら重くない」

 ミリアがそう言うと、袖の中で白蛇がさらに小さく丸まった。

「ありがとうございます」

「お礼じゃない」

「はい」

 いつものやりとりだった。

 けれど、その声はいつもより遠かった。

 布一枚隔てているからではない。

 もっと遠いところから聞こえてくるようだった。

     *

 古い街までは、三日かかった。

 一日目、ネリスはほとんど眠っていた。

 朝、ミリアが袖口を開けると、白蛇は細く丸まったまま動かなかった。死んでいるのではないかと思って、ミリアは一瞬息が止まった。

「ネリス」

 呼ぶと、白蛇はかすかに頭を上げた。

「はい」

 声がした。

 でも、口が動いたようには見えなかった。

 ミリアは胸の奥が冷えた。

「大丈夫?」

 つい聞いてしまった。

 白蛇は少しだけ首を傾けた。

「それは、答えないほうがよい質問です」

「どういう意味」

「大丈夫ではないと答えると、あなたが心配します」

「大丈夫だと答えたら?」

「あなたは信用しません」

 ミリアは黙った。

 確かに、その通りだった。

「じゃあ、こう聞く。歩ける?」

「今日は、あまり」

「じゃあ袖の中にいて」

「はい」

 白蛇はまた丸まった。

 ミリアは袖を閉じた。

 歩き出すと、袖の内側で小さな冷たさが揺れた。自分の体温で温まるわけではない。ネリスの体は、白蛇の姿でもずっと冷たい。それでも、完全に冷えきっているわけではない。

 生きている冷たさ。

 ミリアはそう思うことにしていた。

 二日目、ネリスの声はさらに遠くなった。

 街道沿いの小さな村で水を買い、三人は木陰で休んだ。ガルナは干し肉を噛み、ミリアは硬いパンを水で流し込んだ。袖の中のネリスに水を差し出すと、白蛇はほんの少し舌を出しただけで飲まなかった。

「水もいらないの?」

 ミリアが聞くと、しばらく返事がなかった。

「ネリス?」

 袖の中を覗く。

 白蛇は目を閉じている。

 ミリアの指が震えた。

「ネリス」

 少し強く呼ぶと、ようやく白蛇の目が開いた。

「聞こえています」

 声は、紙の向こう側から聞こえるようだった。

「返事して」

「すみません」

「謝らなくていいから、返事して」

「はい」

 ミリアは白蛇を手のひらへ移した。

 思っていたより軽かった。

 軽すぎた。

 白蛇の体は指先ほどの細さになっていた。最初に森で助けたときよりも、小さい。いや、小さく見えるだけかもしれない。輪郭が薄くなっているせいで、実際より頼りなく見えるのかもしれない。

 だが、ミリアにはわかった。

 弱っている。

 はっきりと。

 ネリスは弱っている。

「ガルナ」

 ミリアは低い声で呼んだ。

 ガルナはすぐにこちらを見た。

「何だ」

「ネリスが小さくなってる」

「そうだな」

「そうだなって」

 ミリアの声が少し鋭くなる。

「どうしてそんな落ち着いてるの」

「慌てても大きくはならぬ」

「そういうことじゃない」

 ガルナは干し肉をしまい、ミリアの手の中の白蛇を見た。

 その金色の目に、わずかな苦さが浮かんだ。

「首輪が飢えている」

 ミリアは喉元を押さえた。

 首飾りは、最近あまり鳴らなかった。

 関所でセレナが首輪を欲しがったときは強く反応したが、そのあとからは妙に静かだった。リィナやロゼリアやイリゼのときのように、喉の奥で甘く鳴ることが少なくなっている。

 それを、少しだけ楽だと思っていた。

「飢えているって」

「首輪は移るたびに力を取り戻す。新しい持ち主の恐怖や後悔を食う。だが、おまえは渡さない。欲しがる者が現れても渡さない。神殿の契約も、騎士の誓約も、取り込ませなかった」

「悪いことみたいに言わないで」

「悪いとは言っていない」

 ガルナは静かに答えた。

「ただ、首輪にとっては飢えだ」

 ミリアは手の中の白蛇を見る。

「首輪が弱るなら、いいことじゃないの」

「おまえにとってはな」

 ミリアの胸が冷えた。

「ネリスにとっては?」

 ガルナはすぐには答えなかった。

 その沈黙で、ミリアはわかった。

 わかりたくなかったのに、わかった。

「首輪が弱ると、ネリスも弱る」

 ミリアは言った。

「そうなんですね」

「そうだ」

 ガルナは答えた。

 その声は硬かった。

「なぜ言わなかったの」

「おまえは薄々気づいていた」

「気づいていたことと、言われることは違います」

「言えば、変わったか」

 ミリアは言葉に詰まった。

 変わっただろうか。

 リィナに渡しただろうか。

 ロゼリアに渡しただろうか。

 イリゼに、セレナに、首輪を渡しただろうか。

 ネリスを守るために。

 できなかった。

 たぶん、できなかった。

 それでも、知らされなかったことへの怒りは消えない。

「変わらなくても、言ってほしかった」

 ミリアは言った。

 ガルナは何も言わなかった。

 白蛇が、ミリアの手の中でかすかに身じろぎした。

「私が」

 ネリスの声がした。

「言わないでほしいと、頼みました」

 ミリアは白蛇を見る。

「どうして」

「あなたが、私のために迷うから」

「もう迷ってる」

「はい」

「勝手に決めないでって、前にも言ったよね」

 ミリアの声が震えた。

「私が何を気にするか、勝手に決めないでって」

「はい」

「なのに、また?」

 ネリスは小さく体を丸めた。

「すみません」

「謝らないで」

「でも」

「謝ったら済むと思わないで」

 言葉が強くなった。

 ネリスは黙った。

 ミリアは自分の声が鋭すぎるとわかっていた。

 でも、止められなかった。

 怒っている。

 心配している。

 怖い。

 その三つが同じ場所で絡まって、ほどけない。

「私は」

 ミリアは手の中の白蛇を見つめた。

「私は、あなたを助けたいと思ってしまってる」

 言ってから、息が詰まった。

 言葉にすると、もう戻せない。

 ガルナが少しだけ視線を動かした。

 ネリスは何も言わない。

「最初は、首輪を外したかった」

 ミリアは続けた。

「村へ帰りたかった。祖母のところへ帰りたかった。喉からこれを外して、何もなかったことにしたかった」

 首飾りに触れる。

 冷たい。

「でも、リィナを見て、ロゼリアを見て、イリゼを見て、セレナを見て、誰かに渡して外すのは違うと思った。誰も犠牲にしたくないと思った」

 白蛇の体が、手の中で震えた。

「でも、そこにあなたが入ってなかった」

 ミリアの声が小さくなる。

「誰も犠牲にしないって言いながら、あなたが消えることを、どこかで考えないようにしてた」

 ネリスはやっと顔を上げた。

 小さな黒い目が、ミリアを見る。

「私は、犠牲者ではありません」

 声は弱い。

 でも、はっきりしていた。

「私は、あなたに首輪を移した側です」

「知ってる」

「私は、首輪の精です」

「知ってる」

「首輪が弱って、私が消えるなら、それは当然のことです」

 ミリアの指が震えた。

「当然じゃない」

「当然です」

 ネリスの声が、少しだけ強くなった。

「呪いが薄れれば、呪いから生まれたものも薄れます。あなたが誰にも渡さないなら、首輪はいつか力を失う。そのとき、私も消える。そうすれば、首輪は本当に終わるかもしれない」

「そんなの」

 ミリアは言葉に詰まった。

「そんな終わり方を、あなたは望んでるの?」

 ネリスは黙った。

 その沈黙が、ミリアには耐えられなかった。

「答えて」

「望んでいるかどうかは」

 ネリスの声が遠くなる。

「関係ありません」

「ある」

「ありません」

「あるよ」

 ミリアは、ほとんど叫ぶように言った。

「あなたが消える話をしてるんだから、あなたが望んでるかどうかは関係ある」

 白蛇は目を伏せた。

「望んではいません」

 とても小さな声だった。

「でも、そうなるべきだと思っています」

 ミリアは胸の奥が痛くなった。

 そうなるべき。

 その言葉は、あまりに冷たかった。

 ネリスが自分自身に向けている刃のようだった。

     *

 三日目の夕方、古い街の尖塔が見えた。

 平原の向こうに、崩れかけた石壁が横たわっている。その内側に、塔や建物の影がいくつも立っていた。王都のような華やかさはない。むしろ、長い時間に削られた骨のような街だった。

 契約術師たちの街。

 ガルナはそう呼んだ。

「今日は手前で休む」

 彼女は言った。

「街へ入るのは明日の朝だ」

「どうして」

「夜の古い街は、言葉が起きる」

「またそういうことを」

「セレナも言っていただろう。戻ってきても、自分が何を誓ったのか忘れる者がいると」

 ミリアは古い街を見た。

 夕陽を受けた石壁が赤く染まっている。

 美しいというより、どこか血の色に近かった。

 三人は、街道から少し外れた廃水車小屋で夜を過ごすことにした。

 昔は水路があったのだろう。

 小屋の脇には石で組まれた溝が残っている。だが、水は流れていない。水車は半分朽ち、羽根は折れていた。屋根には穴があったが、雨は降りそうになかった。

 ガルナが周囲を見回し、問題ないと言った。

「古い言葉の匂いは少ない」

「匂いでわかるんですね」

「契約は腐った蜜の匂いがする」

「嫌な表現」

「実際そうだ」

 ガルナは小屋の入口に座り、見張るように外を見た。

 ミリアは小屋の奥に敷いた布の上に座り、袖の中から白蛇をそっと出した。

 ネリスはほとんど動かない。

 ミリアは、喉が詰まるのを感じた。

「ネリス」

 返事がない。

「ネリス」

 二度目で、白蛇の目が薄く開いた。

「はい」

 声が、さらに遠い。

「少女の姿に戻れる?」

 白蛇はしばらく動かなかった。

 それから、かすかな白い光が揺れた。

 光は一度、形を取りかけた。

 白い髪。白い衣。細い肩。

 だが、すぐに崩れた。

 ミリアは息を呑んだ。

「無理しないで」

「少しだけ」

 白い光がもう一度集まる。

 今度は、ネリスは少女の姿になった。

 けれど、透けていた。

 向こうの壁の割れ目が、彼女の体を通して見える。髪は光の糸のようで、肌は白というより、色が抜けていた。座っているはずなのに、床に影がほとんど落ちない。

 ミリアは何も言えなかった。

 ネリスはそれを見て、少しだけ笑った。

「そんな顔をしないでください」

「どんな顔」

「泣きそうな顔」

「泣いてない」

「はい」

「あなたこそ、笑わないで」

 ネリスは笑みを消そうとした。

 でも、口元がうまく動かないようだった。

「すみません」

「謝らないで」

「はい」

 少しの沈黙。

 ガルナは入口にいる。

 こちらを見ないでくれている。

 聞こえてはいるだろう。それでも、見ないでいてくれる。

 ミリアはネリスの前に座った。

「教えて」

「何をですか」

「あなたを消さないで、首輪を外す方法はあるの?」

 ネリスは目を伏せた。

「わかりません」

「ない、じゃなくて?」

「ないと言い切るほど、私は首輪を知りません」

 その答えは少し意外だった。

「首輪の精なのに?」

「はい」

 ネリスは自分の胸元に手を当てた。

「私は首輪から生まれました。でも、首輪を作ったわけではありません。首輪のすべてを知っているわけでもない。自分の心臓の作り方を知らないのと、少し似ています」

 ミリアは黙った。

 確かに、自分の体のことだって、すべてわかるわけではない。

 なぜ心臓が動くのか、なぜ傷が塞がるのか、なぜ涙が出るのか。知っているつもりで知らないことばかりだ。

「でも、あなたは消えかけてる」

「はい」

「怖い?」

 ネリスは少しだけ目を上げた。

 その問いを、待っていなかったようだった。

「怖いです」

 小さな声だった。

「怖いなら、怖いって言って」

「言うと、あなたが」

「私がどうするかは、私が決める」

 ミリアは言った。

 ネリスは息を吸った。

 透けた胸が、わずかに上下する。

「怖いです」

 もう一度、彼女は言った。

「消えるのは怖い。声が遠くなるのも、体が薄くなるのも、あなたの袖の中で眠っていて、自分が本当に目を覚ますのかわからなくなるのも、怖いです」

 ミリアは拳を握った。

「でも」

 ネリスは続けた。

「私は、それをあなたに背負わせたくありません」

「背負うかどうかも、私が決める」

「違います」

 ネリスの声が強くなった。

「これは、私があなたに背負わせたものです。あなたの首に首輪を移した時点で、私はあなたに十分すぎるほど背負わせています。これ以上、私の命まで背負わせるわけにはいきません」

 ミリアは言い返そうとした。

 けれど、言葉がすぐに出なかった。

 ネリスは静かに見ている。

「ミリア」

「何」

「私は呪いだよ」

 その言葉だけ、敬語ではなかった。

 ミリアは胸が痛くなった。

 初めて、ネリスの中の何かがほどけたように聞こえた。

 首輪の精としての言葉でも、謝る相手としての言葉でもない。

 ただ、消えるのを怖がっている一人の声だった。

「知ってる」

 ミリアは答えた。

「あなたを騙した」

「知ってる」

「あなたの優しさを使った」

「知ってる」

「ガルナを自由にするために、あなたを選んだ」

「知ってる」

「なら、どうして」

 ネリスの声が震えた。

「どうして、私まで救おうとするの」

 ミリアは、しばらく答えられなかった。

 理由を探した。

 いくつも浮かんだ。

 袖の中で眠る白蛇が軽すぎたから。

 泣きそうに笑う顔を見るのがつらかったから。

 許せないまま消えられたら、自分の怒りが行き場を失うから。

 首輪から生まれたとしても、今ここで怖いと言った声を聞いてしまったから。

 でも、どれも少し違った。

 ミリアはネリスを見た。

「知ってるからって」

 ゆっくり言った。

「消えていいことにはならない」

 ネリスの目が見開かれた。

 ミリアは続けた。

「あなたが呪いだって知ってる。私を騙したことも知ってる。謝れば済むと思っていないことも知ってる。私がまだ怒っていることも、あなたは知ってる」

 首輪が静かに冷たくなる。

「でも、それを全部知ったうえで、あなたが消えていいとは思えない」

 ネリスの瞳が揺れた。

「それは、優しさですか」

「わからない」

 ミリアは正直に言った。

「怒りかもしれない。同情かもしれない。意地かもしれない。首輪に、あなたまで持っていかれたくないだけかもしれない」

「それでも」

「それでも」

 ミリアは頷いた。

「私は、あなたも救いたい」

 言ってしまった。

 その瞬間、首輪が小さく鳴った。

 ちりん。

 ネリスが苦しそうに胸元を押さえる。

 ミリアも喉を押さえた。

 だが、痛みは強くなかった。

 むしろ、首輪が不快そうに身じろぎしただけのようだった。

 ガルナが入口で低く笑った。

「首輪が嫌がっているな」

「聞いてたんですか」

 ミリアは振り返らずに言った。

「聞こえた」

「聞かないふりをしてください」

「していた」

「下手です」

「すまんな」

 ガルナはそれきり黙った。

 ネリスは泣いていなかった。

 彼女の体は透けている。涙が出るほどの力も残っていないのかもしれない。

 それでも、目だけは濡れているように見えた。

「私は」

 ネリスは言った。

「救われていいのでしょうか」

 ミリアはその問いに、少し腹が立った。

「それを私に聞かないで」

 ネリスが怯えたように肩を震わせる。

「ごめん。違う」

 ミリアは慌てて言った。

「怒ってるんじゃなくて、いや、怒ってはいるけど、そうじゃなくて」

 自分でも何を言っているかわからなくなった。

 ガルナが少し笑った気配がした。

 ミリアは深呼吸した。

「救われていいかどうかを、私に決めさせないで」

 ネリスは黙る。

「あなたが消えるべきかどうかを、あなた一人で決めないでほしい。でも、あなたが救われていいかどうかを、私一人に決めさせるのも違う」

 ミリアは言った。

「それも、誰か一人に役目を押しつけることになる」

 ネリスの目が揺れた。

「では、どうすれば」

「一緒に考える」

 ミリアは答えた。

 言ってから、あまりに簡単な言葉だと思った。

 でも、それしかなかった。

「私も考える。あなたも考える。ガルナも考える。古い街に行って、記録も探す。誰かに全部を押しつけない。あなたが自分を差し出すのも、私が一人で抱えるのも、ガルナが力でどうにかするのも、たぶん違う」

 入口でガルナが言った。

「私の力は便利だぞ」

「知ってます」

「だが、それだけでは足りぬのも知っている」

「なら黙っていてください」

「はいはい」

 ミリアはネリスへ向き直った。

「だから、消えるべきだなんて、勝手に結論を出さないで」

 ネリスは長い間、何も言わなかった。

 小屋の外で、風が水車の壊れた羽根を揺らした。

 からん、と乾いた音がした。

「私は」

 ネリスは小さく言った。

「生きたいと思っても、いいのでしょうか」

 ミリアは頷いた。

「それは、あなたが言って」

 ネリスの唇が震えた。

 敬語が、少しずつ剥がれていくようだった。

「生きたい」

 声は、ほとんど消えそうだった。

「私は、消えたくない」

 ミリアは息を吸った。

 胸が痛い。

 でも、その痛みは首輪の痛みとは違った。

「うん」

 ミリアは言った。

「覚えた」

「覚えた?」

「あなたがそう言ったこと」

 ミリアは首元に触れた。

「首輪が何を囁いても、あなたが自分で言ったことを覚えておく」

 ネリスは何かを言おうとした。

 だが、その姿が揺らいだ。

 白い輪郭がほどける。

「ネリス」

「少し」

 ネリスは苦しそうに笑った。

「眠ります」

「白蛇に戻って」

「はい」

 彼女の姿が崩れ、小さな白蛇になった。

 床に落ちる前に、ミリアは両手で受け止めた。

 軽かった。

 怖いほど軽い。

 ミリアはその体をそっと胸元へ寄せた。

 首飾りに近づけると、白蛇が苦しむのではないかと一瞬迷った。

 けれど、ネリスはミリアの手の中で、首元の布に頭を寄せた。

 まるで、喉に巻きついた首輪の近くが、いちばん自分の場所だというように。

 ミリアは泣きそうになった。

 泣かなかった。

     *

 その夜、ミリアはほとんど眠れなかった。

 白蛇は袖の中ではなく、ミリアの胸元に近い布の上で丸くなっていた。ときどき、あまりに動かないので、ミリアは指でそっと触れた。小さな体がかすかに動くたび、少しだけ息が戻る。

 ガルナは入口で見張っている。

 月が天井の穴から差し込んでいた。

 輪にはまだ足りない細い月。

 ミリアはその月を見上げながら、考えていた。

 首輪を外したい。

 それは変わらない。

 誰にも渡したくない。

 それも変わらない。

 でも、今はもう一つある。

 ネリスを消したくない。

 それは、最初の二つよりずっと厄介だった。

 首輪を外すことと、ネリスを救うことは、同じ方向にあるとは限らない。

 むしろ、逆かもしれない。

 首輪が弱れば、ネリスも弱る。

 首輪を誰かに移せば、ネリスは生き延びるかもしれない。だが、その誰かが犠牲になる。

 では、どうすればいいのか。

 わからない。

 ミリアは最近、わからないことばかりだった。

 でも、わからないことを、誰か一人に押しつけて答えにしてはいけないのだと思う。

 リィナに押しつけない。

 ロゼリアに押しつけない。

 イリゼに押しつけない。

 セレナに押しつけない。

 ネリスに押しつけない。

 自分一人にも、押しつけない。

 言葉にすれば、簡単だ。

 だが、そんなことが本当にできるのだろうか。

「眠らぬのか」

 ガルナの声がした。

「眠れません」

「だろうな」

「そう思うなら、眠れる話でもしてください」

「山では、眠れぬ夜に獣の骨を数える」

「全然眠れそうにありません」

「では、古い街の話をするか」

 ミリアは顔を向けた。

「明日行くところですか」

「ああ」

 ガルナは外を見たまま言った。

「もとは契約術師の学都だった。王に仕える術師も、神殿に仕える術師も、貴族に仕える術師も、昔はあそこへ学びに行った」

「誰かを縛る方法を?」

「それだけではない。契約は本来、悪いものだけではない。約束を記す。境界を決める。力のやり取りを安全にする。人と精霊が互いに食い合わぬよう、言葉で橋をかける」

「橋」

「そうだ」

 ガルナの声は静かだった。

「だが、橋は鎖にもなる。誰かが片側を握りしめればな」

 ミリアは首飾りに触れた。

「首輪も、最初は橋だったんでしょうか」

「さあな」

「わからないんですね」

「わからぬ」

 ガルナは少しだけ振り返った。

「だが、古いものは一つの顔だけではない。首輪も、ただの罠ではなかったのかもしれぬ」

「救いの顔もする」

「そうだ」

「でも、救いではない」

「今のおまえには、そう見える」

「ガルナには?」

「私には、長いあいだ呪いにしか見えなかった」

 ガルナは自分の喉に触れた。

「今も、ほとんどそうだ。だが、ネリスがいる」

 ミリアは白蛇を見た。

 ガルナも、ネリスを首輪だけとは見ていない。

 それは、ずいぶん前からそうだったのだろう。

 憎んでいた。

 怖がっていた。

 それでも、長すぎる時間の中で、首輪から出てきた白い蛇を、ただの呪いとして扱えなくなった。

「ガルナ」

「何だ」

「あなたは、ネリスを救いたい?」

 ガルナはすぐには答えなかった。

 それから、低く言った。

「救いたい」

 意外なほど、まっすぐな答えだった。

「ただし、私は何度も間違えた。救うためだと思って、誰かを縛るほうへ行くかもしれぬ」

「自覚があるんですね」

「ある」

「なら、止めます」

「そうしてくれ」

 ミリアは少しだけ笑った。

「魔物に頼まれる日が来るとは思いませんでした」

「私は、人を見る目を鍛えているところだからな」

「それ、まだ言うんですか」

「便利だからな」

 小屋の中に、少しだけ柔らかい沈黙が落ちた。

 白蛇が、ミリアの布の上でかすかに動いた。

 眠っているのか、聞いているのかはわからない。

 ミリアはそっと指先で背を撫でた。

 白い小さな体が、わずかに温まったような気がした。

     *

 夜明け前、ミリアは少しだけ眠った。

 夢を見た。

 森の入口だった。

 雲を突くような大女が立っている。

 喉には巨大な首飾り。

 差し上げよう。

 その声が響く。

 首飾りが宙に浮き、ミリアの喉へ向かってくる。

 けれど夢の中のミリアは、動かなかった。

 逃げられないのではない。

 見ていた。

 首飾りの内側に、小さな白蛇がいる。

 白蛇は輪の中で丸まっている。

 目を閉じ、誰かの声を聞いている。

 痛いの?

 白蛇が言う。

 その声は幼く、ほとんど声とも呼べないものだった。

 ガルナの声が返る。

 おまえが痛くしているのだ。

 白蛇は黙る。

 長い時間が過ぎる。

 夢なのに、長い時間だとわかった。

 白蛇は何度も同じ問いをしようとして、やめる。

 痛いの。

 苦しいの。

 外へ出たいの。

 私も出たい。

 やがて白蛇は、輪の隙間から外を見た。

 その先に、森の中で薬草籠を持つミリアがいた。

 夢の中のミリアは、白蛇と目が合った。

 助けて。

 そう言われた気がした。

 けれど、その「助けて」は、ミリアを騙すためだけの言葉ではなかった。

 本当に助けを求める声でもあった。

 そして同時に、誰かを犠牲にする声でもあった。

 どれか一つではない。

 ミリアは目を覚ました。

 天井の穴から、朝の光が入っている。

 胸元の布の上で、白蛇が眠っている。

 生きている。

 ミリアは深く息を吐いた。

 ガルナが入口から言った。

「朝だ」

「見ればわかります」

「古い街へ入る」

 ミリアは起き上がった。

 喉は痛い。

 首輪は冷たい。

 でも、昨日より少しだけ、何を探すべきかはっきりしていた。

 外し方ではない。

 いや、外し方も探す。

 でも、それだけでは足りない。

 首輪を外し、誰にも渡さず、ネリスを消さない方法。

 そんな都合のいいものがあるのかはわからない。

 それでも、探すものの名前が変わった。

 ミリアは白蛇をそっと袖の中へ入れた。

「行こう」

 小さく言うと、袖の中からかすかな声がした。

「はい」

 昨日より少しだけ、近い声だった。

 ミリアは立ち上がり、外へ出た。

 古い街は朝霧の中に沈んでいた。

 崩れた石壁。折れた尖塔。開いたままの門。

 その奥に、契約術師たちの記録が眠っているかもしれない。

 ガルナが先に歩き出す。

 ミリアはその後を追った。

 袖の中には、白蛇がいる。

 喉には、首輪がある。

 怒りも、恐れも、後悔も、まだ全部ある。

 でも、その中に一つ、新しいものが混じっていた。

 ネリスを救いたい。

 その願いは、まだ小さかった。

 言えば首輪に聞かれる気がして、ミリアは胸の奥にしまった。

 だが、しまっただけで、消えはしなかった。

 古い街の門をくぐるとき、首輪が一度だけ鳴った。

 ちりん。

 それは警告のようでもあり、苛立ちのようでもあった。

 ミリアは首元に触れた。

「聞こえてるなら、覚えておいて」

 小さく呟く。

「私は、あなたの言う通りにはしない」

 袖の中で、白蛇がほんの少し身じろぎした。

 ガルナが振り返る。

「何か言ったか」

「言いました」

「何を」

「内緒です」

 ガルナは少しだけ笑った。

「そうか」

 三人は、朝霧の中へ入っていった。


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