第七章 女騎士の誓い
山を越えると、空気の匂いが変わった。
湿った土と針葉樹の匂いが遠ざかり、代わりに乾いた草と馬の匂いが混じり始めた。山道はやがて広い街道へ合流し、車輪の跡が深く刻まれた土の上を、荷馬車がいくつも行き交っていた。
ガルナの言う古い街は、この先にあるらしい。
契約術師たちの記録が残っているかもしれない。
そう聞かされて、ミリアはずっと喉元の首飾りを意識していた。
外し方。
ネリスを消さずに済む方法。
誰かを次の犠牲者にしなくて済む方法。
それらが、本当に記録にあるのかはわからない。
だが、わからないからといって立ち止まれば、首輪の望むままになる気がした。
袖の中では、白蛇の姿のネリスが眠っている。
山を下りてから、ネリスは少女の姿で歩く時間がまた減っていた。本人は大丈夫だと言う。けれど、ミリアはもうその言葉を信用していない。
大丈夫です。
ネリスがそう言うときは、たいてい大丈夫ではない。
それでも、袖の中にいるあいだ、ネリスの体温は少しだけ安定しているようだった。
冷たいが、生きている冷たさだ。
ミリアはときどき、袖口から中を覗きたくなる。
けれど、覗かない。
許したわけではない。
ただ、落ちていないか確認したいだけだ。
そう自分に言い聞かせていた。
「この先に関所がある」
ガルナが言った。
彼女はいつものように先頭を歩いている。山の祭壇を越えてから、喉の黒い痕はわずかに薄くなったように見えた。完全に消えたわけではない。だが、そこに触れる回数は減っている。
「関所?」
ミリアは顔を上げた。
「このあたりは、ヴァルド侯の領地だ」
「王領ではないんですか」
「王領だった。今は侯爵家に任されている」
「任されている?」
「王都の連中は、山や古い街に直接手を出すのを嫌がる。呪いも古い契約も、いまだに残っているからな。だから、周辺の領主に管理させる」
「便利ですね」
「責任を誰か一人に押しつけるのは、人間の得意技だ」
ガルナの声には皮肉があった。
ミリアは首飾りに触れた。
責任。
役目。
忠誠。
契約。
最近、その言葉ばかり聞いている気がする。
リィナは家族のために売られそうになった。
ロゼリアは家の名誉のために修道院へ送られそうになった。
イリゼは町の浄化のために器にされていた。
ガルナは山を封じるために首輪をかけられた。
ネリスは誰かを縛るためだけに生まれた。
そして自分は、誰かに渡せば自由になれる首輪を喉に巻いている。
道の先に、木の柵が見えてきた。
街道を横切るように、簡素な関所が作られている。左右には杭を並べた柵。中央には通行人を止める横木。脇には小さな詰所があり、灰色の旗が掲げられていた。旗には黒い狼の紋章が描かれている。
関所の前には、荷馬車が数台止められていた。
旅人たちが列を作り、兵士らしい男たちに荷を調べられている。
だが、空気が妙だった。
ただの検問ではない。
押し殺した怒りと恐れが、列の中に溜まっていた。
「通行税が上がっているな」
ガルナが言った。
「わかるんですか」
「商人の顔が腐った果物のようだ」
「それは見ればわかります」
「なら、おまえにもわかる」
ミリアは列の先を見た。
兵士たちは横柄だった。
荷を乱暴に開け、布袋を放り投げ、農夫らしい男から銅貨を余分に取り上げている。抵抗した者は槍の柄で押され、子供が泣いていた。
その横に、一人の女騎士が立っていた。
銀灰色の鎧を身につけている。
年は三十に届かないくらいだろう。背は高く、黒に近い青い髪を後ろで結んでいる。顔立ちは鋭い。美しいというより、刃のような印象だった。腰には長剣。左肩にはヴァルド侯の黒狼の紋章。
だが、ミリアの目が止まったのは、彼女の首元だった。
鎧の襟の内側、喉に近い場所に、青黒い紋様が浮かんでいる。
首輪ではない。
しかし、輪に近い形だった。
細い蔓が絡むような文様が、首の半分を覆っている。まるで見えない鎖の跡のようだった。
ミリアの首飾りが、小さく鳴った。
ちりん。
女騎士がこちらを向いた。
聞こえたのだ。
ミリアは息を止めた。
女騎士の視線は、まっすぐミリアの喉元に来ていた。布で隠しているはずなのに、その下にあるものを見ているようだった。
ガルナが低く言った。
「誓約魔法だ」
「誓約?」
「忠誠の術だ。主君に剣を捧げ、命令に背けぬようにする」
ミリアは女騎士を見る。
彼女は通行人に乱暴を働いている兵士たちを、止めようとしていない。
しかし、見ていないわけでもない。
その顔には、怒りがあった。
怒っているのに、動けない顔だった。
「また」
ミリアは呟いた。
「また、そういうもの」
ガルナがこちらを見た。
「行くなと言っても行くのだろう」
「まだ何も言ってません」
「顔が言っている」
「本当にそればかりですね」
「便利だからな」
ミリアはため息をついた。
袖の中で、白蛇が身じろぎした。
「ミリア」
ネリスの小さな声がした。
「気をつけてください。あの方の誓約は、神殿の契約とは違います。もっと鋭い」
「鋭い?」
「命令が出れば、体が先に動きます。心が反対しても」
ミリアは女騎士を見た。
心が反対しても、体が動く。
それは、どんな感覚なのだろう。
ミリアたちの番が来た。
兵士の一人が、ガルナを見て眉をひそめた。
「旅券は」
「ない」
ガルナが答える。
「ない?」
「山から来た」
「山から?」
兵士はガルナの金色の目を見て、少し身を引いた。
それから、ミリアを見る。
「そっちの娘は」
「薬草採りです」
ミリアは答えた。
「薬草?」
兵士は籠を開けようと手を伸ばした。
その手つきが乱暴だったので、ミリアは少し身を引く。
その瞬間、女騎士が言った。
「丁寧に扱え」
兵士の手が止まる。
「しかし、隊長」
「薬草は潰せば使えなくなる」
女騎士の声は低く、よく通った。
「確認だけでよい」
兵士は不満そうだったが、従った。
籠を軽く覗き、荷物を戻す。
隊長。
そう呼ばれた女騎士は、ミリアの前に立った。
「名は」
「ミリアです」
「どこへ行く」
「古い街へ」
女騎士の目がわずかに動いた。
「何の用で」
「探し物です」
「何を」
ミリアは迷った。
正直に言うべきか。
首輪の外し方を探している、と言えるはずもない。
しかし、女騎士の目はすでに気づいているようだった。
「契約の記録を」
ミリアは言った。
女騎士の表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
だが、確かに。
「通行税は三人分」
彼女は声を戻した。
「銀貨三枚」
「高すぎる」
ガルナが言った。
「先ほどの商人は銅貨で通っていた」
「領主令です」
「領主令なら、何でもよいのか」
ガルナの金色の目が細くなる。
女騎士の顎が少し硬くなった。
「よいかどうかは、私が決めることではありません」
「では、誰が決める」
「主君です」
「おまえの主君は、あの泣いている子供からも銅貨を取らせるのか」
女騎士の目が揺れた。
少し離れたところで、兵士が子供連れの母親から袋を取り上げている。母親は何かを訴えているが、兵士は聞かない。
女騎士はそちらを見た。
手が剣の柄に触れる。
だが、動かなかった。
首元の青黒い紋様が、わずかに光った。
「領主令です」
彼女は繰り返した。
その声は、さっきより掠れていた。
ミリアは一歩前へ出た。
「あなたは、止めたいんですね」
女騎士の視線が鋭くなる。
「何を」
「兵士たちを」
「旅人が勝手なことを言うな」
「違いますか」
「違う」
即答だった。
だが、女騎士の拳は震えていた。
兵士が苛立ったように言った。
「隊長、この者たちを早く」
そのとき、詰所の中から別の声がした。
「騒がしいな」
出てきたのは、太った男だった。
上等な服を着ている。腹の前で指を組み、顔には油のような笑みを浮かべていた。兵士たちがすぐに姿勢を正す。
「代官さま」
女騎士も膝をついた。
ミリアはその動きの速さに違和感を覚えた。
本人の意思より、体が先に動いたようだった。
代官は女騎士を見下ろした。
「セレナ隊長。通行人相手に手間取っているのか」
「いえ」
「最近、おまえは民に甘い」
代官の声は柔らかかった。
だが、その柔らかさが気持ち悪かった。
「ヴァルド侯は、古い街の調査費用を必要としておられる。通行税を上げるのは当然だ。山道を守る兵にも金がいる。領民が少しずつ差し出せば済む話だ」
まただ。
ミリアは思った。
少しずつ差し出せば済む。
誰か一人が引き受ければ済む。
言葉は違っても、同じ匂いがする。
セレナと呼ばれた女騎士は、膝をついたまま俯いている。
代官の目がミリアへ移った。
「旅の娘。何を揉めていた」
「揉めてはいません」
「ならば銀貨三枚を払え。払えぬなら荷を置いていけ」
「薬草しかありません」
「では、その首に巻いているものでもよい」
ミリアの体が固まった。
代官の目は、布の下を見ていた。
「なかなか珍しいものを持っているようだ」
首飾りが鳴った。
ちりん。
セレナが顔を上げる。
彼女にも聞こえたのだろう。
代官は笑った。
「隠すな。見せてみろ」
ガルナが一歩前に出た。
「見る必要はない」
「何だ、おまえは」
「ただの旅人だ」
「ただの旅人にしては背が高いな」
「よく言われる」
代官は不快そうに目を細めた。
「セレナ」
彼が言った。
女騎士の体がびくりと震えた。
「その娘の首の飾りを確認しろ」
セレナの顔が青ざめる。
「代官さま、それは」
「命令だ」
首元の誓約紋が青黒く光った。
セレナの手が、勝手に剣から離れ、ミリアへ向かって伸びた。
彼女の目は苦しそうだった。
「逃げてください」
小さな声だった。
だが、体は近づいてくる。
ミリアは下がろうとした。
ガルナがセレナとの間に入る。
「手を出すな」
セレナの手が止まる。
止めたのは彼女の意思ではない。ガルナの気配に体が怯んだのだろう。
代官が声を荒げた。
「セレナ、命令を実行しろ」
誓約紋がさらに光る。
セレナの顔が歪んだ。
汗が額に浮かぶ。
「やめて」
ミリアは言った。
「あなたの意思じゃない」
「意思など」
セレナは歯を食いしばった。
「誓約の前では、役に立たない」
その言葉が、ミリアの胸に刺さった。
セレナは剣を抜いた。
周囲が悲鳴を上げる。
兵士たちも驚いたように後ずさった。代官だけが満足そうに笑っている。
「よい。逆らう旅人を拘束しろ」
セレナはミリアへ踏み込んだ。
速かった。
騎士の動きだった。
剣はミリアを斬るのではなく、首元の布を切る軌道で走った。
ガルナが素手で剣を受けた。
金属が悲鳴を上げた。
ミリアは息を呑んだ。
ガルナの手のひらに、浅い傷がついている。
だが、剣は止まっていた。
「悪くない腕だ」
ガルナが言った。
セレナは苦しそうに顔を歪めた。
「止めてください」
「おまえが止まれ」
「止まれない」
セレナは剣を引き、次の一撃を放った。
今度はガルナの肩を狙う。
ガルナは身を沈め、剣の腹を指で弾いた。音が響き、セレナの腕が跳ね上がる。
しかし、彼女はすぐに体勢を戻した。
強い。
ミリアはそう思った。
誓約に縛られていても、剣は本物だ。
ガルナの目が金色に燃えた。
「人の姿では少し狭いな」
彼女の背後に巨大な影が立つ。
雲を突く大女の影。黒い髪が風のように広がり、関所の旗がばさりと揺れた。
兵士たちが悲鳴を上げた。
「ま、魔物」
代官が後ずさる。
ガルナは笑った。
「正解だ」
その一言で、兵士たちの何人かが槍を取り落とした。
セレナだけは逃げなかった。
逃げられないのかもしれない。
誓約紋が彼女の首で燃えている。
剣がまた走る。
ガルナはそれを受け流しながら、ミリアに言った。
「下がれ」
「でも」
「これは殺し合いではない。あの騎士を壊すな」
「私に言ってますか」
「私自身にも言っている」
ガルナはセレナの剣を弾き、拳を振るった。
だが、その拳はセレナの顔の横で止まる。風だけが彼女の髪を乱した。
セレナは一瞬動きを止めた。
その隙に、ガルナは彼女の剣を持つ手首をつかんだ。
「なぜ抵抗せぬ」
「している!」
セレナは叫んだ。
「ずっと、している!」
その声に、場が静まり返った。
セレナの目には涙が浮かんでいた。
怒りの涙だった。
「民から余分に税を取るなと言った。薬を運ぶ商人を止めるなと言った。逃げてきた農民を返すなと言った。だが、命令が出れば体が従う。剣が抜ける。膝が折れる。口が『承知しました』と言う」
青黒い誓約紋が、首を締めるように光る。
「私は、毎日抵抗している」
セレナは吐き出すように言った。
「だが、誓いは私より強い」
ミリアはその言葉に動けなくなった。
首輪の内側で、何かが鳴る。
同情ではない。
共鳴だった。
ガルナが手を離す。
セレナはふらつき、剣を下ろした。
代官が怒鳴る。
「何をしている、セレナ! その魔物と旅人を捕らえろ!」
誓約紋がまた燃えた。
セレナの体が跳ねる。
意志に反して、剣が上がる。
そのとき、ミリアは布を外した。
首飾りが露わになる。
場の空気が変わった。
セレナの目が、そこへ吸い寄せられた。
ミリアの首飾りは、陽の下で静かに光っていた。銀でも骨でも石でもない、古い輪。美しいのに、見る者の喉を冷たくするもの。
セレナが呟いた。
「それは」
ミリアは黙っていた。
セレナはゆっくり近づいた。
剣を持つ手はまだ震えている。だが、目は首飾りから離れなかった。
「それほど強い縛りなら」
彼女は掠れた声で言った。
「私の誓いを上書きできるのではないか」
ミリアの喉が冷えた。
セレナは本気だった。
「私にください」
その言葉に、首輪が熱くなった。
欲しい。
条件が近づく。
「それが呪いでも構わない」
セレナは続けた。
「今の誓約より強いなら、それでいい。主君の命令を聞かなくて済むなら、別の首輪でも構わない」
「構います」
ミリアは言った。
声が震えた。
「構うよ」
「あなたは外れるのでしょう」
セレナはミリアを見る。
「私はこの誓約から逃れられるかもしれない。あなたも自由になる。なら、悪い取引ではない」
悪い取引ではない。
その言葉は、ひどく理にかなって聞こえた。
ミリアは喉元に手を置いた。
セレナは望んでいる。
騙されているわけではない。
呪いだと知って、それでも欲しいと言っている。
リィナやロゼリアとは違う。
彼女は首飾りそのものの危うさを感じてなお、今の誓約よりましだと思っている。
なら、渡してもいいのか。
ミリアは一瞬、そう思った。
自分は自由になる。
セレナも、主君の誓約から逃れられるかもしれない。
誰も騙していない。
本人が望んでいる。
その瞬間、首輪がミリアの喉で甘く緩んだ気がした。
差し上げよう。
言えば、外れる。
ミリアは唇を開きかけた。
「ミリア」
袖の中から、ネリスの声がした。
白蛇が袖口から顔を出している。
黒い小さな目が、ミリアを見ていた。
「その人は、救いを欲しがっています」
ネリスの声は弱い。
「首輪を欲しがっているのではありません」
ミリアは息を止めた。
救い。
リィナは、売られない自分が欲しかった。
ロゼリアは、自分の価値を誰かに決められない場所が欲しかった。
イリゼは、助けたいけれど器にはされたくなかった。
セレナは、誓いから逃れたい。
自分の剣を、自分の意思に戻したい。
首輪が欲しいのではない。
でも、今は首輪が救いに見えている。
「別の首輪で、今の首輪を上書きしても」
ミリアは言った。
「それは自由じゃない」
セレナの顔が歪んだ。
「では、どうすればいい!」
彼女は叫んだ。
「私は誓った。ヴァルド侯に忠誠を。領を守る剣となると。民を守るためだと思っていた。だが今、私の剣は民から奪うために使われている」
誓約紋が光る。
セレナは苦しそうに喉を押さえた。
「命令が出れば逆らえない。拒めば首が焼ける。眠っていても、主君の命令で目が覚める。私は、私の体の中に閉じ込められている」
ミリアは首飾りを握った。
わかる、などとは言えない。
でも、その言葉は喉の奥に刺さった。
自分の体の中に閉じ込められている。
「誓いの言葉を覚えていますか」
ミリアは聞いた。
セレナは苦しげに顔を上げる。
「何?」
「あなたが誓った言葉」
「覚えている」
「言えますか」
セレナは代官を見た。
代官は怒りで顔を赤くしている。
「言う必要はない!」
代官が叫ぶ。
「セレナ、命令だ。その首飾りを奪え!」
誓約紋が燃えた。
セレナの体が動く。
剣が上がる。
ミリアは逃げなかった。
ガルナが前へ出ようとする。
「来ないで!」
ミリアは叫んだ。
首輪が喉を締める。
でも、叫んだ。
セレナの剣がミリアの首元へ向かう。
ネリスが袖の中で悲鳴を上げた。
刃が布を裂いた。
首飾りに当たる直前、セレナの腕が止まった。
止まったというより、彼女自身が全身で押さえ込んだのだ。
額に汗が浮かび、腕が震えている。誓約紋が青黒く燃える。
「言って」
ミリアは、剣の刃を目の前にして言った。
「誓いの言葉を」
セレナは歯を食いしばった。
「我が名は、セレナ・リューク」
声が震える。
「我が剣を、ヴァルド侯家に捧げる」
代官が叫んだ。
「やめろ!」
ガルナが代官の前に立った。
「黙れ」
その一言で、代官は声を失った。
セレナは続ける。
「我が命を、主の命に従わせる」
誓約紋がさらに燃える。
首筋から血が一筋、流れた。
「我が力を、領と民を守るために」
そこで、セレナの声が止まった。
ミリアは息を呑んだ。
領と民を守るために。
その言葉が、他の言葉と違っていた。
「もう一度」
ミリアは言った。
「最後を、もう一度」
セレナの目が揺れる。
「我が力を」
彼女は言った。
「領と民を守るために」
誓約紋が乱れた。
ミリアはその光を見た。
これは、ただ主君に従う誓いではない。
その奥に、別の言葉がある。
領と民を守るために。
ならば、民を傷つける命令は、誓いの外にあるはずだ。
「あなたの誓いは」
ミリアは言った。
「主君のものですか。それとも、領と民を守るためのものですか」
セレナは息を止めた。
「私は」
誓約紋が首を締める。
「私は、侯家に」
「侯家が民を傷つけるなら?」
ミリアは聞いた。
「あなたの剣は、誰を守るためにあるの?」
セレナの手が震えた。
剣が落ちた。
金属音が関所に響いた。
代官が真っ青になった。
「セレナ! 命令だ、剣を拾え!」
セレナの体が動こうとする。
だが、膝が踏みとどまった。
誓約紋が激しく光る。
首筋から血が増える。
それでも、彼女は剣を拾わなかった。
「我が剣は」
セレナは絞り出すように言った。
「領と民を守るためにある」
誓約紋に亀裂が入った。
ミリアの首輪が鳴る。
ネリスが苦しそうに身を捩る。
「侯爵家への忠誠は」
セレナは続けた。
「そのために誓った」
青黒い紋が裂ける。
「民を害する命令は」
彼女の声が強くなった。
「私の誓いではない」
その瞬間、誓約紋が砕けた。
青い光が、首元から散った。
セレナは膝をつき、激しく咳き込んだ。だが、すぐに自分の手を見た。剣を拾おうとしない手。命令を待たない手。
彼女は震える指で、自分の喉に触れた。
「動く」
小さな声だった。
「自分で」
ミリアはその言葉を聞いて、深く息を吐いた。
首輪は外れていない。
けれど、少しだけ遠くで不機嫌そうに鳴った。
代官が後ずさった。
「馬鹿な。誓約が」
ガルナが近づく。
「さて」
金色の目が楽しそうに光っている。
「今度はこちらの番だな」
「兵ども! この者たちを捕らえろ!」
代官が叫ぶ。
兵士たちは戸惑った。セレナの誓約が砕けたのを見て、誰に従うべきかわからなくなっている。
それでも数人が槍を構えた。
ガルナが笑った。
「よい。運動になる」
彼女の姿が揺らいだ。
完全な大女には戻らない。
しかし、背後の影が膨らみ、腕が長く見え、髪が黒い炎のように広がった。槍を構えた兵士たちの足元に影が伸びる。
兵士の一人が突いてきた。
ガルナは槍の柄を掴み、軽くひねった。
柄が折れた。
別の兵士が斬りかかる。
ガルナはその剣を二本の指で挟み、ぱきりと折った。
ミリアは呆然とした。
「本当に少ししか本気を出してないんですね」
「少しだ」
ガルナは楽しそうだった。
セレナが立ち上がった。
落とした剣を拾う。
今度は、自分の意思で。
「兵たち」
セレナの声が響いた。
「武器を下ろせ」
何人かが従った。
迷っている者もいた。
代官が叫ぶ。
「セレナ、貴様、反逆だぞ!」
セレナは振り向いた。
「いいえ」
声は静かだった。
「領と民を守るための誓いに戻っただけです」
「詭弁だ!」
「詭弁で民の荷を奪っていたのは、あなたです」
セレナは剣を代官へ向けた。
「代官殿。あなたを拘束します」
「誰の命令で!」
「私の判断です」
その言葉を、セレナは少し噛みしめるように言った。
私の判断。
それは、彼女にとって新しい言葉だったのだろう。
兵士たちの中から、年若い一人が武器を下ろした。
続いて二人目、三人目。
代官は逃げようとした。
だが、ガルナの影に足を取られ、みっともなく転んだ。ガルナはその襟首をつまみ上げる。
「軽いな」
ガルナが言った。
「中身が少ない」
「た、助け」
「助ける。殺すと面倒だからな」
そう言って、代官をセレナの前に落とした。
関所は一気に騒がしくなった。
兵士たちは武器を集められ、通行人たちはざわめきながら遠巻きに見ている。セレナは数人の部下に指示を出し、過剰に徴収した金品を返すよう命じた。
最初、兵士たちは戸惑っていた。
だが、セレナが自分の声で命じると、少しずつ動き始めた。
彼女の声には、もう誓約の強制はなかった。
それでも従う者がいた。
ミリアはそれを見て、不思議な気持ちになった。
縛らなくても、人は従うことがある。
命令ではなく、信頼で。
それは当たり前のことなのかもしれない。
でも、最近のミリアには、とても遠いものに見えた。
*
騒ぎが収まるころには、日が傾き始めていた。
セレナは詰所の横で、ミリアたちに頭を下げた。
「礼を言う」
「私は、少し言葉をかけただけです」
ミリアは答えた。
「それで十分だった」
セレナは首元に触れた。
誓約紋は消えてはいない。薄い痕だけが残っている。ガルナの喉の痕と、少し似ていた。
「痕は残るんですね」
ミリアが言うと、セレナは頷いた。
「残るほうがいい。忘れない」
どこかで聞いた言葉だった。
ミリアはガルナを見た。
ガルナは少しだけ口元を上げている。
「似た者同士ですね」
ミリアが言うと、ガルナとセレナが同時に嫌そうな顔をした。
それがおかしくて、ミリアは少しだけ笑った。
セレナはミリアの首飾りを見た。
今はもう布で隠していない。関所の騒ぎの中で、隠す暇もなくなっていた。
「私は、それを欲しがった」
セレナは言った。
「はい」
「本気だった」
「わかっています」
「今も、少し思う。もしあれを身につけていれば、別の形ででも誓約から逃げられたのではないかと」
ミリアは首飾りに触れた。
「それは、首輪が喜ぶ考えだと思います」
「そうか」
「でも、思ってしまうことまでは、止められない」
ミリアは言った。
「私も何度も思います。誰かに渡せば楽になるって」
セレナはまっすぐミリアを見た。
「渡さなかったな」
「はい」
「なぜ」
ミリアは少し考えた。
「あなたが欲しかったのは、これじゃなかったから」
「では、私は何を欲しがった」
「自分の剣を、自分の手に戻したかったんだと思います」
セレナは黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「そうだな」
彼女は剣の柄に手を置いた。
「これは、私の手に戻った」
その声には、静かな重みがあった。
ネリスがミリアの袖から顔を出した。
白蛇の姿のまま、セレナを見ている。
セレナは少し驚いた。
「蛇?」
「旅の連れです」
ミリアが言うと、ガルナが横から言った。
「首輪の精だ」
「言わなくていいです」
「隠すことでもない」
「相手が驚くでしょう」
セレナはしばらく白蛇を見つめた。
それから、意外にも真面目に頭を下げた。
「あなたにも礼を言う。止めてくれた」
ネリスは小さく身じろぎした。
「私は、少し言っただけです」
「その少しで、私は首輪を受け取らずに済んだ」
ネリスは返事をしなかった。
だが、白い体が少しだけ緩んだように見えた。
セレナはガルナにも向き直った。
「あなたには、剣を止めてもらった」
「折ってもよかったが、よい剣だった」
「祖母の剣だ」
「なら、折らなくてよかった」
ガルナがそう言うと、セレナは少しだけ笑った。
「魔物に剣を褒められる日が来るとは思わなかった」
「私は剣を見る目はある」
「では、人を見る目は?」
「最近、鍛えている」
ミリアは思わずガルナを見た。
ガルナは何でもない顔をしている。
だが、少しだけ照れ隠しのようにも見えた。
セレナは関所の向こうを見た。
「私は、ヴァルド侯のもとへ報告に行く。代官を拘束した以上、ただでは済まない」
「危なくないですか」
「危ない」
彼女はあっさり言った。
「だが、今度は自分で選ぶ危険だ」
ミリアはその言葉を覚えておこうと思った。
自分で選ぶ危険。
縛られて安全に見える場所より、そのほうがずっと生きているように聞こえた。
「もし侯が民を守る気を失っているなら」
セレナは言った。
「私は侯に従わない。騎士団の中にも、同じように苦しんでいる者がいるはずだ。まずは、その者たちに話す」
「誓約があるのでは」
「だから、誓いの言葉を思い出させる」
セレナはミリアを見た。
「あなたがしたように」
ミリアは首を横に振った。
「私は、聞いただけです」
「聞く者がいなければ、人は自分の言葉を忘れる」
セレナはそう言った。
その言葉も、ミリアの中に残った。
リィナの言葉。
ロゼリアの言葉。
イリゼの言葉。
ガルナの言葉。
セレナの言葉。
首輪だけが、喉にあるのではない。
誰かから受け取った言葉もまた、喉の奥に残っていく。
それなら、少しは歩ける。
ミリアはそう思った。
*
その夜、関所近くの詰所の一部を借りて休むことになった。
代官は縛られ、兵士たちに見張られている。泣いていた子供と母親には、取り上げられた袋が返された。商人たちはまだ不安そうだったが、それでも馬車を進めることができた。
火のそばで、ミリアは喉元の布を外した。
首飾りは静かだった。
静かすぎるほどだった。
「怒っているのかな」
ミリアが呟くと、袖の中からネリスが顔を出した。
「首輪がですか」
「うん」
「たぶん」
「やっぱり」
「セレナさんは、かなり強く欲しがっていました。譲渡も成立しかけていました。首輪にとっては、よい機会だったと思います」
ミリアは苦い顔をした。
「よい機会って、嫌な言い方」
「すみません」
「謝らなくていい。首輪にとっては、そうなんだと思う」
ネリスは袖から出て、白蛇の姿から少女の姿に変わった。
少し透けている。だが、昨日よりは顔色がよいようにも見えた。
「ミリア」
「何」
「あなたは、迷いましたね」
ミリアは火を見た。
「迷った」
「はい」
「セレナさんは、呪いだと知っても欲しいと言った。私が渡せば、彼女は今の誓約から逃げられるかもしれなかった。私は自由になれた」
「はい」
「だから迷った」
ミリアは首飾りに触れた。
「今までで、一番迷った」
ネリスは静かに頷いた。
「本人が望むなら、渡していいのかって思った」
「それは」
ネリスは言葉を探した。
「難しいです」
「あなたなら、どうする?」
ミリアが聞くと、ネリスは少し驚いた顔をした。
「私に、聞くのですか」
「聞いたらだめ?」
「いえ」
ネリスは俯いた。
「私は、前にそれをしました」
「うん」
「あなたが本当に望んでいたわけではないと、知っていました。あなたが私を心配してくれるから、言ってくれるのだとわかっていました。それでも、欲しいと言わせました」
「うん」
「だから、私は偉そうなことは言えません」
ネリスは少しだけ顔を上げた。
「でも、今なら、たぶん止めます」
「どうして」
「人は、苦しいとき、自分を縛るものを救いだと思うことがあります」
その言葉は、静かだった。
「私もそうでした。首輪から出たいのに、首輪がなければ自分が消えると思っていました。ガルナを縛っているものなのに、それでも私の居場所でもあった」
ネリスは自分の手を見た。
「だから、苦しんでいる人が首輪を欲しがるとき、その人は首輪を望んでいるのではなく、苦しみから逃げる出口を望んでいるのだと思います」
ミリアは火を見つめた。
「出口に見えるんだね」
「はい」
「でも、出口じゃない」
「別の部屋に入るだけです」
ミリアは小さく息を吐いた。
別の部屋。
別の首輪。
別の名前の束縛。
それを救いと呼んではいけない。
「ネリス」
「はい」
「止めてくれて、ありがとう」
ネリスの目が見開かれた。
ミリアは慌てて言った。
「お礼じゃない」
「でも、ありがとうと」
「言ったけど、お礼じゃない」
「それは、難しいです」
「難しいの」
ミリアは少しだけ笑った。
ネリスも、ほんの少し笑った。
今度は、泣きそうな笑みではなかった。ぎこちなく、慣れていない笑い方だった。
ガルナが近くに腰を下ろした。
「今日は、なかなか見ものだった」
「あなた、楽しんでましたね」
「少しな」
「人が真剣に悩んでいるときに」
「私は兵士たちの槍を折るので忙しかった」
「楽しそうでした」
「楽しかった」
「隠さないんですね」
「嘘の慰めは嫌いだ」
ミリアは呆れた。
でも、今日のガルナは頼もしかった。
セレナを傷つけずに止め、兵士を殺さずに無力化し、代官を捕らえた。力があるのに、力を使いすぎなかった。
それは、山の祭壇で過去を見たあとだからだろうか。
「ガルナ」
「何だ」
「今日は、壊しすぎませんでしたね」
ガルナは少しだけ目を細めた。
「壊すのは簡単だからな」
「前は?」
「前は、壊すことしか考えなかった」
彼女は火の奥を見た。
「山を壊す者は敵だった。敵なら潰せばよいと思っていた」
「今は?」
「今も、潰したいときはある」
「正直ですね」
「だが、潰すと後片づけが面倒だ」
「理由がそれですか」
「半分はな」
ガルナはミリアを見た。
「もう半分は、おまえが嫌な顔をする」
ミリアは言葉に詰まった。
「私の顔で決めるんですか」
「おまえはわかりやすい顔をする」
「またそれ」
「便利だからな」
ミリアはため息をついた。
けれど、少しだけ笑ってしまった。
首輪はまだある。
外れない。
セレナに渡していれば、もしかしたら外れたかもしれない。
その後悔は、確かにある。
でも、渡さなかったことを後悔してはいない。
その二つは、同時に存在できる。
ロゼリアのときにも思ったことだった。
今日は、それをもっと強く感じた。
火の向こうで、セレナが部下たちに指示を出している。
彼女の首には、薄い誓約の痕が残っている。
けれど、彼女の声は彼女自身のものだった。
ミリアはその声を聞きながら、首飾りを布で隠した。
明日には、また古い街へ向かう。
契約術師の記録があるかもしれない場所へ。
そこで何がわかるのかは知らない。
けれど、今日ひとつだけわかった。
首輪は、罠の顔だけで現れるわけではない。
ときには救いの顔をして現れる。
自分で望んだと思わせる。
これを選べば、今よりましになると囁く。
だから、もっとよく聞かなければならない。
あなたが欲しいのは、本当にそれなのか。
そして、自分にも。
私が欲しいのは、本当に自由なのか。
それとも、ただこの痛みを誰かへ移したいだけなのか。
ミリアは火に手をかざした。
その問いは熱かった。
でも、持っていかなければならない問いだった。
夜の関所に、セレナの声が響いた。
「明朝、過剰に徴収した分を返す。記録をすべて出せ。隠した者は、私が斬る」
兵士たちが慌てて返事をする。
ガルナが満足そうに頷いた。
「いい声だ」
「剣の人ですね」
「そうだな」
ネリスが小さく言った。
「でも、もう誰かの鞘に閉じ込められてはいない」
ミリアはネリスを見た。
その比喩は少し不器用だった。
でも、悪くなかった。
「うん」
ミリアは答えた。
「たぶん、そうだね」
火が小さく鳴った。
首輪は鳴らなかった。




