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第七章 女騎士の誓い

 山を越えると、空気の匂いが変わった。

 湿った土と針葉樹の匂いが遠ざかり、代わりに乾いた草と馬の匂いが混じり始めた。山道はやがて広い街道へ合流し、車輪の跡が深く刻まれた土の上を、荷馬車がいくつも行き交っていた。

 ガルナの言う古い街は、この先にあるらしい。

 契約術師たちの記録が残っているかもしれない。

 そう聞かされて、ミリアはずっと喉元の首飾りを意識していた。

 外し方。

 ネリスを消さずに済む方法。

 誰かを次の犠牲者にしなくて済む方法。

 それらが、本当に記録にあるのかはわからない。

 だが、わからないからといって立ち止まれば、首輪の望むままになる気がした。

 袖の中では、白蛇の姿のネリスが眠っている。

 山を下りてから、ネリスは少女の姿で歩く時間がまた減っていた。本人は大丈夫だと言う。けれど、ミリアはもうその言葉を信用していない。

 大丈夫です。

 ネリスがそう言うときは、たいてい大丈夫ではない。

 それでも、袖の中にいるあいだ、ネリスの体温は少しだけ安定しているようだった。

 冷たいが、生きている冷たさだ。

 ミリアはときどき、袖口から中を覗きたくなる。

 けれど、覗かない。

 許したわけではない。

 ただ、落ちていないか確認したいだけだ。

 そう自分に言い聞かせていた。

「この先に関所がある」

 ガルナが言った。

 彼女はいつものように先頭を歩いている。山の祭壇を越えてから、喉の黒い痕はわずかに薄くなったように見えた。完全に消えたわけではない。だが、そこに触れる回数は減っている。

「関所?」

 ミリアは顔を上げた。

「このあたりは、ヴァルド侯の領地だ」

「王領ではないんですか」

「王領だった。今は侯爵家に任されている」

「任されている?」

「王都の連中は、山や古い街に直接手を出すのを嫌がる。呪いも古い契約も、いまだに残っているからな。だから、周辺の領主に管理させる」

「便利ですね」

「責任を誰か一人に押しつけるのは、人間の得意技だ」

 ガルナの声には皮肉があった。

 ミリアは首飾りに触れた。

 責任。

 役目。

 忠誠。

 契約。

 最近、その言葉ばかり聞いている気がする。

 リィナは家族のために売られそうになった。

 ロゼリアは家の名誉のために修道院へ送られそうになった。

 イリゼは町の浄化のために器にされていた。

 ガルナは山を封じるために首輪をかけられた。

 ネリスは誰かを縛るためだけに生まれた。

 そして自分は、誰かに渡せば自由になれる首輪を喉に巻いている。

 道の先に、木の柵が見えてきた。

 街道を横切るように、簡素な関所が作られている。左右には杭を並べた柵。中央には通行人を止める横木。脇には小さな詰所があり、灰色の旗が掲げられていた。旗には黒い狼の紋章が描かれている。

 関所の前には、荷馬車が数台止められていた。

 旅人たちが列を作り、兵士らしい男たちに荷を調べられている。

 だが、空気が妙だった。

 ただの検問ではない。

 押し殺した怒りと恐れが、列の中に溜まっていた。

「通行税が上がっているな」

 ガルナが言った。

「わかるんですか」

「商人の顔が腐った果物のようだ」

「それは見ればわかります」

「なら、おまえにもわかる」

 ミリアは列の先を見た。

 兵士たちは横柄だった。

 荷を乱暴に開け、布袋を放り投げ、農夫らしい男から銅貨を余分に取り上げている。抵抗した者は槍の柄で押され、子供が泣いていた。

 その横に、一人の女騎士が立っていた。

 銀灰色の鎧を身につけている。

 年は三十に届かないくらいだろう。背は高く、黒に近い青い髪を後ろで結んでいる。顔立ちは鋭い。美しいというより、刃のような印象だった。腰には長剣。左肩にはヴァルド侯の黒狼の紋章。

 だが、ミリアの目が止まったのは、彼女の首元だった。

 鎧の襟の内側、喉に近い場所に、青黒い紋様が浮かんでいる。

 首輪ではない。

 しかし、輪に近い形だった。

 細い蔓が絡むような文様が、首の半分を覆っている。まるで見えない鎖の跡のようだった。

 ミリアの首飾りが、小さく鳴った。

 ちりん。

 女騎士がこちらを向いた。

 聞こえたのだ。

 ミリアは息を止めた。

 女騎士の視線は、まっすぐミリアの喉元に来ていた。布で隠しているはずなのに、その下にあるものを見ているようだった。

 ガルナが低く言った。

「誓約魔法だ」

「誓約?」

「忠誠の術だ。主君に剣を捧げ、命令に背けぬようにする」

 ミリアは女騎士を見る。

 彼女は通行人に乱暴を働いている兵士たちを、止めようとしていない。

 しかし、見ていないわけでもない。

 その顔には、怒りがあった。

 怒っているのに、動けない顔だった。

「また」

 ミリアは呟いた。

「また、そういうもの」

 ガルナがこちらを見た。

「行くなと言っても行くのだろう」

「まだ何も言ってません」

「顔が言っている」

「本当にそればかりですね」

「便利だからな」

 ミリアはため息をついた。

 袖の中で、白蛇が身じろぎした。

「ミリア」

 ネリスの小さな声がした。

「気をつけてください。あの方の誓約は、神殿の契約とは違います。もっと鋭い」

「鋭い?」

「命令が出れば、体が先に動きます。心が反対しても」

 ミリアは女騎士を見た。

 心が反対しても、体が動く。

 それは、どんな感覚なのだろう。

 ミリアたちの番が来た。

 兵士の一人が、ガルナを見て眉をひそめた。

「旅券は」

「ない」

 ガルナが答える。

「ない?」

「山から来た」

「山から?」

 兵士はガルナの金色の目を見て、少し身を引いた。

 それから、ミリアを見る。

「そっちの娘は」

「薬草採りです」

 ミリアは答えた。

「薬草?」

 兵士は籠を開けようと手を伸ばした。

 その手つきが乱暴だったので、ミリアは少し身を引く。

 その瞬間、女騎士が言った。

「丁寧に扱え」

 兵士の手が止まる。

「しかし、隊長」

「薬草は潰せば使えなくなる」

 女騎士の声は低く、よく通った。

「確認だけでよい」

 兵士は不満そうだったが、従った。

 籠を軽く覗き、荷物を戻す。

 隊長。

 そう呼ばれた女騎士は、ミリアの前に立った。

「名は」

「ミリアです」

「どこへ行く」

「古い街へ」

 女騎士の目がわずかに動いた。

「何の用で」

「探し物です」

「何を」

 ミリアは迷った。

 正直に言うべきか。

 首輪の外し方を探している、と言えるはずもない。

 しかし、女騎士の目はすでに気づいているようだった。

「契約の記録を」

 ミリアは言った。

 女騎士の表情が変わった。

 ほんの一瞬だった。

 だが、確かに。

「通行税は三人分」

 彼女は声を戻した。

「銀貨三枚」

「高すぎる」

 ガルナが言った。

「先ほどの商人は銅貨で通っていた」

「領主令です」

「領主令なら、何でもよいのか」

 ガルナの金色の目が細くなる。

 女騎士の顎が少し硬くなった。

「よいかどうかは、私が決めることではありません」

「では、誰が決める」

「主君です」

「おまえの主君は、あの泣いている子供からも銅貨を取らせるのか」

 女騎士の目が揺れた。

 少し離れたところで、兵士が子供連れの母親から袋を取り上げている。母親は何かを訴えているが、兵士は聞かない。

 女騎士はそちらを見た。

 手が剣の柄に触れる。

 だが、動かなかった。

 首元の青黒い紋様が、わずかに光った。

「領主令です」

 彼女は繰り返した。

 その声は、さっきより掠れていた。

 ミリアは一歩前へ出た。

「あなたは、止めたいんですね」

 女騎士の視線が鋭くなる。

「何を」

「兵士たちを」

「旅人が勝手なことを言うな」

「違いますか」

「違う」

 即答だった。

 だが、女騎士の拳は震えていた。

 兵士が苛立ったように言った。

「隊長、この者たちを早く」

 そのとき、詰所の中から別の声がした。

「騒がしいな」

 出てきたのは、太った男だった。

 上等な服を着ている。腹の前で指を組み、顔には油のような笑みを浮かべていた。兵士たちがすぐに姿勢を正す。

「代官さま」

 女騎士も膝をついた。

 ミリアはその動きの速さに違和感を覚えた。

 本人の意思より、体が先に動いたようだった。

 代官は女騎士を見下ろした。

「セレナ隊長。通行人相手に手間取っているのか」

「いえ」

「最近、おまえは民に甘い」

 代官の声は柔らかかった。

 だが、その柔らかさが気持ち悪かった。

「ヴァルド侯は、古い街の調査費用を必要としておられる。通行税を上げるのは当然だ。山道を守る兵にも金がいる。領民が少しずつ差し出せば済む話だ」

 まただ。

 ミリアは思った。

 少しずつ差し出せば済む。

 誰か一人が引き受ければ済む。

 言葉は違っても、同じ匂いがする。

 セレナと呼ばれた女騎士は、膝をついたまま俯いている。

 代官の目がミリアへ移った。

「旅の娘。何を揉めていた」

「揉めてはいません」

「ならば銀貨三枚を払え。払えぬなら荷を置いていけ」

「薬草しかありません」

「では、その首に巻いているものでもよい」

 ミリアの体が固まった。

 代官の目は、布の下を見ていた。

「なかなか珍しいものを持っているようだ」

 首飾りが鳴った。

 ちりん。

 セレナが顔を上げる。

 彼女にも聞こえたのだろう。

 代官は笑った。

「隠すな。見せてみろ」

 ガルナが一歩前に出た。

「見る必要はない」

「何だ、おまえは」

「ただの旅人だ」

「ただの旅人にしては背が高いな」

「よく言われる」

 代官は不快そうに目を細めた。

「セレナ」

 彼が言った。

 女騎士の体がびくりと震えた。

「その娘の首の飾りを確認しろ」

 セレナの顔が青ざめる。

「代官さま、それは」

「命令だ」

 首元の誓約紋が青黒く光った。

 セレナの手が、勝手に剣から離れ、ミリアへ向かって伸びた。

 彼女の目は苦しそうだった。

「逃げてください」

 小さな声だった。

 だが、体は近づいてくる。

 ミリアは下がろうとした。

 ガルナがセレナとの間に入る。

「手を出すな」

 セレナの手が止まる。

 止めたのは彼女の意思ではない。ガルナの気配に体が怯んだのだろう。

 代官が声を荒げた。

「セレナ、命令を実行しろ」

 誓約紋がさらに光る。

 セレナの顔が歪んだ。

 汗が額に浮かぶ。

「やめて」

 ミリアは言った。

「あなたの意思じゃない」

「意思など」

 セレナは歯を食いしばった。

「誓約の前では、役に立たない」

 その言葉が、ミリアの胸に刺さった。

 セレナは剣を抜いた。

 周囲が悲鳴を上げる。

 兵士たちも驚いたように後ずさった。代官だけが満足そうに笑っている。

「よい。逆らう旅人を拘束しろ」

 セレナはミリアへ踏み込んだ。

 速かった。

 騎士の動きだった。

 剣はミリアを斬るのではなく、首元の布を切る軌道で走った。

 ガルナが素手で剣を受けた。

 金属が悲鳴を上げた。

 ミリアは息を呑んだ。

 ガルナの手のひらに、浅い傷がついている。

 だが、剣は止まっていた。

「悪くない腕だ」

 ガルナが言った。

 セレナは苦しそうに顔を歪めた。

「止めてください」

「おまえが止まれ」

「止まれない」

 セレナは剣を引き、次の一撃を放った。

 今度はガルナの肩を狙う。

 ガルナは身を沈め、剣の腹を指で弾いた。音が響き、セレナの腕が跳ね上がる。

 しかし、彼女はすぐに体勢を戻した。

 強い。

 ミリアはそう思った。

 誓約に縛られていても、剣は本物だ。

 ガルナの目が金色に燃えた。

「人の姿では少し狭いな」

 彼女の背後に巨大な影が立つ。

 雲を突く大女の影。黒い髪が風のように広がり、関所の旗がばさりと揺れた。

 兵士たちが悲鳴を上げた。

「ま、魔物」

 代官が後ずさる。

 ガルナは笑った。

「正解だ」

 その一言で、兵士たちの何人かが槍を取り落とした。

 セレナだけは逃げなかった。

 逃げられないのかもしれない。

 誓約紋が彼女の首で燃えている。

 剣がまた走る。

 ガルナはそれを受け流しながら、ミリアに言った。

「下がれ」

「でも」

「これは殺し合いではない。あの騎士を壊すな」

「私に言ってますか」

「私自身にも言っている」

 ガルナはセレナの剣を弾き、拳を振るった。

 だが、その拳はセレナの顔の横で止まる。風だけが彼女の髪を乱した。

 セレナは一瞬動きを止めた。

 その隙に、ガルナは彼女の剣を持つ手首をつかんだ。

「なぜ抵抗せぬ」

「している!」

 セレナは叫んだ。

「ずっと、している!」

 その声に、場が静まり返った。

 セレナの目には涙が浮かんでいた。

 怒りの涙だった。

「民から余分に税を取るなと言った。薬を運ぶ商人を止めるなと言った。逃げてきた農民を返すなと言った。だが、命令が出れば体が従う。剣が抜ける。膝が折れる。口が『承知しました』と言う」

 青黒い誓約紋が、首を締めるように光る。

「私は、毎日抵抗している」

 セレナは吐き出すように言った。

「だが、誓いは私より強い」

 ミリアはその言葉に動けなくなった。

 首輪の内側で、何かが鳴る。

 同情ではない。

 共鳴だった。

 ガルナが手を離す。

 セレナはふらつき、剣を下ろした。

 代官が怒鳴る。

「何をしている、セレナ! その魔物と旅人を捕らえろ!」

 誓約紋がまた燃えた。

 セレナの体が跳ねる。

 意志に反して、剣が上がる。

 そのとき、ミリアは布を外した。

 首飾りが露わになる。

 場の空気が変わった。

 セレナの目が、そこへ吸い寄せられた。

 ミリアの首飾りは、陽の下で静かに光っていた。銀でも骨でも石でもない、古い輪。美しいのに、見る者の喉を冷たくするもの。

 セレナが呟いた。

「それは」

 ミリアは黙っていた。

 セレナはゆっくり近づいた。

 剣を持つ手はまだ震えている。だが、目は首飾りから離れなかった。

「それほど強い縛りなら」

 彼女は掠れた声で言った。

「私の誓いを上書きできるのではないか」

 ミリアの喉が冷えた。

 セレナは本気だった。

「私にください」

 その言葉に、首輪が熱くなった。

 欲しい。

 条件が近づく。

「それが呪いでも構わない」

 セレナは続けた。

「今の誓約より強いなら、それでいい。主君の命令を聞かなくて済むなら、別の首輪でも構わない」

「構います」

 ミリアは言った。

 声が震えた。

「構うよ」

「あなたは外れるのでしょう」

 セレナはミリアを見る。

「私はこの誓約から逃れられるかもしれない。あなたも自由になる。なら、悪い取引ではない」

 悪い取引ではない。

 その言葉は、ひどく理にかなって聞こえた。

 ミリアは喉元に手を置いた。

 セレナは望んでいる。

 騙されているわけではない。

 呪いだと知って、それでも欲しいと言っている。

 リィナやロゼリアとは違う。

 彼女は首飾りそのものの危うさを感じてなお、今の誓約よりましだと思っている。

 なら、渡してもいいのか。

 ミリアは一瞬、そう思った。

 自分は自由になる。

 セレナも、主君の誓約から逃れられるかもしれない。

 誰も騙していない。

 本人が望んでいる。

 その瞬間、首輪がミリアの喉で甘く緩んだ気がした。

 差し上げよう。

 言えば、外れる。

 ミリアは唇を開きかけた。

「ミリア」

 袖の中から、ネリスの声がした。

 白蛇が袖口から顔を出している。

 黒い小さな目が、ミリアを見ていた。

「その人は、救いを欲しがっています」

 ネリスの声は弱い。

「首輪を欲しがっているのではありません」

 ミリアは息を止めた。

 救い。

 リィナは、売られない自分が欲しかった。

 ロゼリアは、自分の価値を誰かに決められない場所が欲しかった。

 イリゼは、助けたいけれど器にはされたくなかった。

 セレナは、誓いから逃れたい。

 自分の剣を、自分の意思に戻したい。

 首輪が欲しいのではない。

 でも、今は首輪が救いに見えている。

「別の首輪で、今の首輪を上書きしても」

 ミリアは言った。

「それは自由じゃない」

 セレナの顔が歪んだ。

「では、どうすればいい!」

 彼女は叫んだ。

「私は誓った。ヴァルド侯に忠誠を。領を守る剣となると。民を守るためだと思っていた。だが今、私の剣は民から奪うために使われている」

 誓約紋が光る。

 セレナは苦しそうに喉を押さえた。

「命令が出れば逆らえない。拒めば首が焼ける。眠っていても、主君の命令で目が覚める。私は、私の体の中に閉じ込められている」

 ミリアは首飾りを握った。

 わかる、などとは言えない。

 でも、その言葉は喉の奥に刺さった。

 自分の体の中に閉じ込められている。

「誓いの言葉を覚えていますか」

 ミリアは聞いた。

 セレナは苦しげに顔を上げる。

「何?」

「あなたが誓った言葉」

「覚えている」

「言えますか」

 セレナは代官を見た。

 代官は怒りで顔を赤くしている。

「言う必要はない!」

 代官が叫ぶ。

「セレナ、命令だ。その首飾りを奪え!」

 誓約紋が燃えた。

 セレナの体が動く。

 剣が上がる。

 ミリアは逃げなかった。

 ガルナが前へ出ようとする。

「来ないで!」

 ミリアは叫んだ。

 首輪が喉を締める。

 でも、叫んだ。

 セレナの剣がミリアの首元へ向かう。

 ネリスが袖の中で悲鳴を上げた。

 刃が布を裂いた。

 首飾りに当たる直前、セレナの腕が止まった。

 止まったというより、彼女自身が全身で押さえ込んだのだ。

 額に汗が浮かび、腕が震えている。誓約紋が青黒く燃える。

「言って」

 ミリアは、剣の刃を目の前にして言った。

「誓いの言葉を」

 セレナは歯を食いしばった。

「我が名は、セレナ・リューク」

 声が震える。

「我が剣を、ヴァルド侯家に捧げる」

 代官が叫んだ。

「やめろ!」

 ガルナが代官の前に立った。

「黙れ」

 その一言で、代官は声を失った。

 セレナは続ける。

「我が命を、主の命に従わせる」

 誓約紋がさらに燃える。

 首筋から血が一筋、流れた。

「我が力を、領と民を守るために」

 そこで、セレナの声が止まった。

 ミリアは息を呑んだ。

 領と民を守るために。

 その言葉が、他の言葉と違っていた。

「もう一度」

 ミリアは言った。

「最後を、もう一度」

 セレナの目が揺れる。

「我が力を」

 彼女は言った。

「領と民を守るために」

 誓約紋が乱れた。

 ミリアはその光を見た。

 これは、ただ主君に従う誓いではない。

 その奥に、別の言葉がある。

 領と民を守るために。

 ならば、民を傷つける命令は、誓いの外にあるはずだ。

「あなたの誓いは」

 ミリアは言った。

「主君のものですか。それとも、領と民を守るためのものですか」

 セレナは息を止めた。

「私は」

 誓約紋が首を締める。

「私は、侯家に」

「侯家が民を傷つけるなら?」

 ミリアは聞いた。

「あなたの剣は、誰を守るためにあるの?」

 セレナの手が震えた。

 剣が落ちた。

 金属音が関所に響いた。

 代官が真っ青になった。

「セレナ! 命令だ、剣を拾え!」

 セレナの体が動こうとする。

 だが、膝が踏みとどまった。

 誓約紋が激しく光る。

 首筋から血が増える。

 それでも、彼女は剣を拾わなかった。

「我が剣は」

 セレナは絞り出すように言った。

「領と民を守るためにある」

 誓約紋に亀裂が入った。

 ミリアの首輪が鳴る。

 ネリスが苦しそうに身を捩る。

「侯爵家への忠誠は」

 セレナは続けた。

「そのために誓った」

 青黒い紋が裂ける。

「民を害する命令は」

 彼女の声が強くなった。

「私の誓いではない」

 その瞬間、誓約紋が砕けた。

 青い光が、首元から散った。

 セレナは膝をつき、激しく咳き込んだ。だが、すぐに自分の手を見た。剣を拾おうとしない手。命令を待たない手。

 彼女は震える指で、自分の喉に触れた。

「動く」

 小さな声だった。

「自分で」

 ミリアはその言葉を聞いて、深く息を吐いた。

 首輪は外れていない。

 けれど、少しだけ遠くで不機嫌そうに鳴った。

 代官が後ずさった。

「馬鹿な。誓約が」

 ガルナが近づく。

「さて」

 金色の目が楽しそうに光っている。

「今度はこちらの番だな」

「兵ども! この者たちを捕らえろ!」

 代官が叫ぶ。

 兵士たちは戸惑った。セレナの誓約が砕けたのを見て、誰に従うべきかわからなくなっている。

 それでも数人が槍を構えた。

 ガルナが笑った。

「よい。運動になる」

 彼女の姿が揺らいだ。

 完全な大女には戻らない。

 しかし、背後の影が膨らみ、腕が長く見え、髪が黒い炎のように広がった。槍を構えた兵士たちの足元に影が伸びる。

 兵士の一人が突いてきた。

 ガルナは槍の柄を掴み、軽くひねった。

 柄が折れた。

 別の兵士が斬りかかる。

 ガルナはその剣を二本の指で挟み、ぱきりと折った。

 ミリアは呆然とした。

「本当に少ししか本気を出してないんですね」

「少しだ」

 ガルナは楽しそうだった。

 セレナが立ち上がった。

 落とした剣を拾う。

 今度は、自分の意思で。

「兵たち」

 セレナの声が響いた。

「武器を下ろせ」

 何人かが従った。

 迷っている者もいた。

 代官が叫ぶ。

「セレナ、貴様、反逆だぞ!」

 セレナは振り向いた。

「いいえ」

 声は静かだった。

「領と民を守るための誓いに戻っただけです」

「詭弁だ!」

「詭弁で民の荷を奪っていたのは、あなたです」

 セレナは剣を代官へ向けた。

「代官殿。あなたを拘束します」

「誰の命令で!」

「私の判断です」

 その言葉を、セレナは少し噛みしめるように言った。

 私の判断。

 それは、彼女にとって新しい言葉だったのだろう。

 兵士たちの中から、年若い一人が武器を下ろした。

 続いて二人目、三人目。

 代官は逃げようとした。

 だが、ガルナの影に足を取られ、みっともなく転んだ。ガルナはその襟首をつまみ上げる。

「軽いな」

 ガルナが言った。

「中身が少ない」

「た、助け」

「助ける。殺すと面倒だからな」

 そう言って、代官をセレナの前に落とした。

 関所は一気に騒がしくなった。

 兵士たちは武器を集められ、通行人たちはざわめきながら遠巻きに見ている。セレナは数人の部下に指示を出し、過剰に徴収した金品を返すよう命じた。

 最初、兵士たちは戸惑っていた。

 だが、セレナが自分の声で命じると、少しずつ動き始めた。

 彼女の声には、もう誓約の強制はなかった。

 それでも従う者がいた。

 ミリアはそれを見て、不思議な気持ちになった。

 縛らなくても、人は従うことがある。

 命令ではなく、信頼で。

 それは当たり前のことなのかもしれない。

 でも、最近のミリアには、とても遠いものに見えた。

     *

 騒ぎが収まるころには、日が傾き始めていた。

 セレナは詰所の横で、ミリアたちに頭を下げた。

「礼を言う」

「私は、少し言葉をかけただけです」

 ミリアは答えた。

「それで十分だった」

 セレナは首元に触れた。

 誓約紋は消えてはいない。薄い痕だけが残っている。ガルナの喉の痕と、少し似ていた。

「痕は残るんですね」

 ミリアが言うと、セレナは頷いた。

「残るほうがいい。忘れない」

 どこかで聞いた言葉だった。

 ミリアはガルナを見た。

 ガルナは少しだけ口元を上げている。

「似た者同士ですね」

 ミリアが言うと、ガルナとセレナが同時に嫌そうな顔をした。

 それがおかしくて、ミリアは少しだけ笑った。

 セレナはミリアの首飾りを見た。

 今はもう布で隠していない。関所の騒ぎの中で、隠す暇もなくなっていた。

「私は、それを欲しがった」

 セレナは言った。

「はい」

「本気だった」

「わかっています」

「今も、少し思う。もしあれを身につけていれば、別の形ででも誓約から逃げられたのではないかと」

 ミリアは首飾りに触れた。

「それは、首輪が喜ぶ考えだと思います」

「そうか」

「でも、思ってしまうことまでは、止められない」

 ミリアは言った。

「私も何度も思います。誰かに渡せば楽になるって」

 セレナはまっすぐミリアを見た。

「渡さなかったな」

「はい」

「なぜ」

 ミリアは少し考えた。

「あなたが欲しかったのは、これじゃなかったから」

「では、私は何を欲しがった」

「自分の剣を、自分の手に戻したかったんだと思います」

 セレナは黙った。

 それから、ゆっくり頷いた。

「そうだな」

 彼女は剣の柄に手を置いた。

「これは、私の手に戻った」

 その声には、静かな重みがあった。

 ネリスがミリアの袖から顔を出した。

 白蛇の姿のまま、セレナを見ている。

 セレナは少し驚いた。

「蛇?」

「旅の連れです」

 ミリアが言うと、ガルナが横から言った。

「首輪の精だ」

「言わなくていいです」

「隠すことでもない」

「相手が驚くでしょう」

 セレナはしばらく白蛇を見つめた。

 それから、意外にも真面目に頭を下げた。

「あなたにも礼を言う。止めてくれた」

 ネリスは小さく身じろぎした。

「私は、少し言っただけです」

「その少しで、私は首輪を受け取らずに済んだ」

 ネリスは返事をしなかった。

 だが、白い体が少しだけ緩んだように見えた。

 セレナはガルナにも向き直った。

「あなたには、剣を止めてもらった」

「折ってもよかったが、よい剣だった」

「祖母の剣だ」

「なら、折らなくてよかった」

 ガルナがそう言うと、セレナは少しだけ笑った。

「魔物に剣を褒められる日が来るとは思わなかった」

「私は剣を見る目はある」

「では、人を見る目は?」

「最近、鍛えている」

 ミリアは思わずガルナを見た。

 ガルナは何でもない顔をしている。

 だが、少しだけ照れ隠しのようにも見えた。

 セレナは関所の向こうを見た。

「私は、ヴァルド侯のもとへ報告に行く。代官を拘束した以上、ただでは済まない」

「危なくないですか」

「危ない」

 彼女はあっさり言った。

「だが、今度は自分で選ぶ危険だ」

 ミリアはその言葉を覚えておこうと思った。

 自分で選ぶ危険。

 縛られて安全に見える場所より、そのほうがずっと生きているように聞こえた。

「もし侯が民を守る気を失っているなら」

 セレナは言った。

「私は侯に従わない。騎士団の中にも、同じように苦しんでいる者がいるはずだ。まずは、その者たちに話す」

「誓約があるのでは」

「だから、誓いの言葉を思い出させる」

 セレナはミリアを見た。

「あなたがしたように」

 ミリアは首を横に振った。

「私は、聞いただけです」

「聞く者がいなければ、人は自分の言葉を忘れる」

 セレナはそう言った。

 その言葉も、ミリアの中に残った。

 リィナの言葉。

 ロゼリアの言葉。

 イリゼの言葉。

 ガルナの言葉。

 セレナの言葉。

 首輪だけが、喉にあるのではない。

 誰かから受け取った言葉もまた、喉の奥に残っていく。

 それなら、少しは歩ける。

 ミリアはそう思った。

     *

 その夜、関所近くの詰所の一部を借りて休むことになった。

 代官は縛られ、兵士たちに見張られている。泣いていた子供と母親には、取り上げられた袋が返された。商人たちはまだ不安そうだったが、それでも馬車を進めることができた。

 火のそばで、ミリアは喉元の布を外した。

 首飾りは静かだった。

 静かすぎるほどだった。

「怒っているのかな」

 ミリアが呟くと、袖の中からネリスが顔を出した。

「首輪がですか」

「うん」

「たぶん」

「やっぱり」

「セレナさんは、かなり強く欲しがっていました。譲渡も成立しかけていました。首輪にとっては、よい機会だったと思います」

 ミリアは苦い顔をした。

「よい機会って、嫌な言い方」

「すみません」

「謝らなくていい。首輪にとっては、そうなんだと思う」

 ネリスは袖から出て、白蛇の姿から少女の姿に変わった。

 少し透けている。だが、昨日よりは顔色がよいようにも見えた。

「ミリア」

「何」

「あなたは、迷いましたね」

 ミリアは火を見た。

「迷った」

「はい」

「セレナさんは、呪いだと知っても欲しいと言った。私が渡せば、彼女は今の誓約から逃げられるかもしれなかった。私は自由になれた」

「はい」

「だから迷った」

 ミリアは首飾りに触れた。

「今までで、一番迷った」

 ネリスは静かに頷いた。

「本人が望むなら、渡していいのかって思った」

「それは」

 ネリスは言葉を探した。

「難しいです」

「あなたなら、どうする?」

 ミリアが聞くと、ネリスは少し驚いた顔をした。

「私に、聞くのですか」

「聞いたらだめ?」

「いえ」

 ネリスは俯いた。

「私は、前にそれをしました」

「うん」

「あなたが本当に望んでいたわけではないと、知っていました。あなたが私を心配してくれるから、言ってくれるのだとわかっていました。それでも、欲しいと言わせました」

「うん」

「だから、私は偉そうなことは言えません」

 ネリスは少しだけ顔を上げた。

「でも、今なら、たぶん止めます」

「どうして」

「人は、苦しいとき、自分を縛るものを救いだと思うことがあります」

 その言葉は、静かだった。

「私もそうでした。首輪から出たいのに、首輪がなければ自分が消えると思っていました。ガルナを縛っているものなのに、それでも私の居場所でもあった」

 ネリスは自分の手を見た。

「だから、苦しんでいる人が首輪を欲しがるとき、その人は首輪を望んでいるのではなく、苦しみから逃げる出口を望んでいるのだと思います」

 ミリアは火を見つめた。

「出口に見えるんだね」

「はい」

「でも、出口じゃない」

「別の部屋に入るだけです」

 ミリアは小さく息を吐いた。

 別の部屋。

 別の首輪。

 別の名前の束縛。

 それを救いと呼んではいけない。

「ネリス」

「はい」

「止めてくれて、ありがとう」

 ネリスの目が見開かれた。

 ミリアは慌てて言った。

「お礼じゃない」

「でも、ありがとうと」

「言ったけど、お礼じゃない」

「それは、難しいです」

「難しいの」

 ミリアは少しだけ笑った。

 ネリスも、ほんの少し笑った。

 今度は、泣きそうな笑みではなかった。ぎこちなく、慣れていない笑い方だった。

 ガルナが近くに腰を下ろした。

「今日は、なかなか見ものだった」

「あなた、楽しんでましたね」

「少しな」

「人が真剣に悩んでいるときに」

「私は兵士たちの槍を折るので忙しかった」

「楽しそうでした」

「楽しかった」

「隠さないんですね」

「嘘の慰めは嫌いだ」

 ミリアは呆れた。

 でも、今日のガルナは頼もしかった。

 セレナを傷つけずに止め、兵士を殺さずに無力化し、代官を捕らえた。力があるのに、力を使いすぎなかった。

 それは、山の祭壇で過去を見たあとだからだろうか。

「ガルナ」

「何だ」

「今日は、壊しすぎませんでしたね」

 ガルナは少しだけ目を細めた。

「壊すのは簡単だからな」

「前は?」

「前は、壊すことしか考えなかった」

 彼女は火の奥を見た。

「山を壊す者は敵だった。敵なら潰せばよいと思っていた」

「今は?」

「今も、潰したいときはある」

「正直ですね」

「だが、潰すと後片づけが面倒だ」

「理由がそれですか」

「半分はな」

 ガルナはミリアを見た。

「もう半分は、おまえが嫌な顔をする」

 ミリアは言葉に詰まった。

「私の顔で決めるんですか」

「おまえはわかりやすい顔をする」

「またそれ」

「便利だからな」

 ミリアはため息をついた。

 けれど、少しだけ笑ってしまった。

 首輪はまだある。

 外れない。

 セレナに渡していれば、もしかしたら外れたかもしれない。

 その後悔は、確かにある。

 でも、渡さなかったことを後悔してはいない。

 その二つは、同時に存在できる。

 ロゼリアのときにも思ったことだった。

 今日は、それをもっと強く感じた。

 火の向こうで、セレナが部下たちに指示を出している。

 彼女の首には、薄い誓約の痕が残っている。

 けれど、彼女の声は彼女自身のものだった。

 ミリアはその声を聞きながら、首飾りを布で隠した。

 明日には、また古い街へ向かう。

 契約術師の記録があるかもしれない場所へ。

 そこで何がわかるのかは知らない。

 けれど、今日ひとつだけわかった。

 首輪は、罠の顔だけで現れるわけではない。

 ときには救いの顔をして現れる。

 自分で望んだと思わせる。

 これを選べば、今よりましになると囁く。

 だから、もっとよく聞かなければならない。

 あなたが欲しいのは、本当にそれなのか。

 そして、自分にも。

 私が欲しいのは、本当に自由なのか。

 それとも、ただこの痛みを誰かへ移したいだけなのか。

 ミリアは火に手をかざした。

 その問いは熱かった。

 でも、持っていかなければならない問いだった。

 夜の関所に、セレナの声が響いた。

「明朝、過剰に徴収した分を返す。記録をすべて出せ。隠した者は、私が斬る」

 兵士たちが慌てて返事をする。

 ガルナが満足そうに頷いた。

「いい声だ」

「剣の人ですね」

「そうだな」

 ネリスが小さく言った。

「でも、もう誰かの鞘に閉じ込められてはいない」

 ミリアはネリスを見た。

 その比喩は少し不器用だった。

 でも、悪くなかった。

「うん」

 ミリアは答えた。

「たぶん、そうだね」

 火が小さく鳴った。

 首輪は鳴らなかった。


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