表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/17

第六章 ガルナはなぜ縛られたか

 白鐘の神殿を出てから、ガルナはしばらく無口だった。

 もともとよく喋る女ではない。

 けれど、その沈黙はいつものものとは少し違っていた。道を選ぶときの声も短く、宿を取るときも、食事を頼むときも、必要なことしか言わない。金色の目は遠くを見ているようで、ミリアにもネリスにも、あまり向けられなかった。

 イリゼの聖女契約が砕けたあと、ミリアは二日ほどまともに歩けなかった。

 首輪に神殿の契約が流れ込もうとしたとき、喉の内側が焼けた。外傷はほとんどない。だが、声を出すたびに、焼け残った鐘が喉の奥で鳴るような痛みがあった。

 ネリスも弱っていた。

 白蛇の姿でいる時間が増えた。少女の姿に戻っても、輪郭が薄く、夕暮れの中では向こう側の景色が透けるように見えるときがある。

 そのたびにミリアは胸が痛んだ。

 許したわけではない。

 まだ怒っている。

 ネリスを見れば、森の入口で首飾りが喉に巻きついた瞬間を思い出す。

 それでも、彼女が消えかけているのを見るのは嫌だった。

 嫌だと思ってしまう自分にも、まだ慣れなかった。

 三人は神殿町を離れ、北西の山道へ入った。

 王都へ向かう街道から外れた、古い道だった。石畳はところどころ崩れ、草に埋もれている。行き交う人は少なく、昼でも木々の影が濃かった。

「この道でいいんですか」

 ミリアが聞くと、ガルナは短く答えた。

「ああ」

「どこへ向かっているんですか」

「山だ」

「山なら、どこにでもあります」

「私の山だ」

 その言葉に、ミリアは足を止めかけた。

 ネリスも顔を上げた。

 白い髪が風に揺れる。

「ガルナの山?」

 ミリアが聞くと、ガルナは振り返らずにうなずいた。

「昔、そう呼ばれていた」

「今は?」

「王領だ」

 それだけだった。

 ミリアはそれ以上聞けなかった。

 聞きたいことはあった。いくつもあった。けれど、ガルナの背中は、今は聞くなと言っているように見えた。

 山道は少しずつ険しくなった。

 木々が変わっていく。

 低い広葉樹から、黒い針葉樹へ。土の色も赤茶から灰色へ。空気は冷え、どこか鉄の匂いがした。遠くで水の音がする。川だろう。けれど、その水音は軽やかではなく、岩を削るように低かった。

 夕方近く、三人は古い石柱の並ぶ場所へ出た。

 道の両側に、折れた柱が立っていた。

 柱には文字が刻まれている。ほとんど風化して読めない。だが、ミリアの首輪はそこへ近づいた瞬間、かすかに震えた。

 ネリスが小さく息を呑む。

「ここは」

 ミリアが聞くと、ガルナは立ち止まった。

「山の境だ」

「境?」

「ここから先は、昔は人間の道ではなかった」

 ガルナの声は低かった。

「獣の道でもない。水と木と岩のものだった。人間は入ってもよかった。だが、持ち帰るものには限りがあった。枝を拾うなら三本まで。薬草を採るなら根は残す。獣を狩るなら腹の子を持つ雌は逃がす。水を引くなら、元の流れを殺さない」

「決まりがあったんですね」

「あった」

 ガルナは折れた柱に触れた。

「人間が作った決まりではない。山に入る者が、入るために覚えた決まりだ」

 ミリアは周囲を見た。

 折れた柱。

 崩れた道。

 苔に覆われた石。

 ここはもう、決まりが守られていた場所には見えない。

「その決まりを破ったから、あなたは怒ったんですか」

 ガルナは手を下ろした。

「そうだ」

「人を襲った」

「そうだ」

 彼女は少しも隠さなかった。

 ミリアは喉元に触れた。

 ガルナが人を襲ったこと。

 人間に首輪をかけられたこと。

 ネリスがその首輪から生まれたこと。

 それらは聞いていた。

 だが、ここへ来るまで、それはまだ話だった。誰かから聞いた昔話のように、少し遠かった。

 今、足元の石が、その昔話を現実にしている。

「今夜はここで休む」

 ガルナが言った。

「ここで?」

「先へ進むには日が悪い」

「日が悪いって」

「夜になると、古いものが起きる」

 ミリアは周囲を見回した。

「怖いことを普通に言わないでください」

「怖いなら火を焚け」

「焚いたら寄ってきたりしませんか」

「寄ってきたものは、私が追い払う」

「頼もしいのか怖いのかわかりません」

「両方でよい」

 ガルナはそう言って、折れた柱の近くに荷を下ろした。

 ネリスは少し離れた石の上に座った。

 顔色が悪い。

 ミリアは革袋を差し出した。

「水」

 ネリスは驚いたように顔を上げた。

「ありがとうございます」

「お礼じゃない」

「はい」

 もう何度目かわからないやりとりだった。

 けれど、ネリスはそのたびに同じように受け取る。申し訳なさそうに。少しだけ嬉しそうに。

 ミリアはその顔を見ないようにして、火を起こす準備をした。

 普通の火は、ミリアが起こした。

 ガルナの黒い火は便利だが、いつまでも頼るのは癪だった。乾いた枝を集め、火打ち石で火花を飛ばす。何度か失敗したあと、小さな火がついた。

 ネリスがそれを見ていた。

「上手ですね」

「普通です」

「私は、火をつけられません」

「蛇だから?」

「首輪だったからです」

 ミリアの手が止まった。

 ネリスはすぐに目を伏せた。

「すみません。変なことを言いました」

「変じゃない」

 ミリアは枝を足した。

「ただ、少し驚いただけ」

 火が広がった。

 赤い光が石柱を照らす。刻まれた文字が、影の中で浮かび上がった。

 その瞬間、ミリアの首輪が鳴った。

 ちり、と。

 ネリスが胸元を押さえる。

 ガルナがこちらを見た。

「読めるのですか」

 ミリアが石柱を指すと、ガルナは頷いた。

「少しは」

「何と書いてあるんですか」

 ガルナはしばらく黙っていた。

 それから、低く読んだ。

「山は王のもの。水は王のもの。獣は王のもの。石は王のもの。山に棲むものもまた、王のもの」

 ミリアは息を呑んだ。

 その言葉は、首輪に似ていた。

 欲しいと言った者が、誰かを自分のものにする言葉。

「誰が刻んだんですか」

「王の軍だ」

 ガルナは火の前に腰を下ろした。

「私を縛った者たちだ」

 その声は静かだった。

 けれど、火の色が少し暗くなったように見えた。

     *

 ガルナは、昔から魔物と呼ばれていたわけではなかった。

 火のそばで、彼女はそう話し始めた。

「山の者、と呼ばれていた」

 ガルナは言った。

「名はなかった。今の名も、人間がつけたものだ。ガルナ山に棲むものだから、ガルナ。単純な名だ」

「自分の名前ではないんですか」

「名を必要としなかった」

 ガルナは火の向こうを見た。

「私は山だった。山の一部だった。岩の眠りも、木の伸びる音も、水の濁る日も、獣が子を産む穴も知っていた。私が歩けば、鹿は道をあけた。熊は唸ったが、向かってはこなかった。人間は祈ったり、逃げたり、供物を置いたりした」

「守り神みたいですね」

 ミリアが言うと、ガルナは少しだけ笑った。

「人間は、自分に都合のよいときは神と呼ぶ。都合が悪くなると魔物と呼ぶ」

「あなたは、どちらだと思っていたんですか」

「どちらでもなかった」

 ガルナは答えた。

「私は私だった。山を守るというより、山が壊されれば痛かった。川がせき止められれば息苦しかった。木が切られすぎれば皮膚を剥がされるようだった。だから止めた」

「最初から人を殺したんですか」

「いいや」

 ガルナは首を横に振った。

「最初は迷わせた。道をずらし、霧を出し、道具を錆びさせ、火を消した。人間はしばらく恐れた。だが、王の旗が来た」

「王の旗」

「山には銀があった。鉄もあった。白い石もあった。王都が大きくなるには、山が必要だった。木も、石も、水も、すべて必要だった」

 リィナの村を思い出した。

 銀山に川を奪われた村。

 帳面に首をかけられそうになった娘。

 あれは、この山から始まっていたのかもしれない。

「王の軍は、道を拓いた。木を切った。石を割った。川を曲げた。祈りの言葉も持ってきた。契約の術師も連れてきた」

「契約の術師」

 ミリアは喉元を押さえた。

「首輪を作った人たち?」

「使った者たちだ」

 ガルナは訂正した。

「あの首輪は、もっと古い。王の術師たちは、それを倉の奥から持ち出しただけだろう。彼らに一から作れるものではない」

「では、誰が」

「知らぬ」

 ガルナの声が低くなる。

「だが、あれを作った者は、人をよく知っていた」

「人を?」

「あれは力だけでは動かぬ。言葉で動く。望みで動く。差し出す者と、受け取る者の間にある隙間へ入り込む」

 ミリアは首飾りを握った。

 誰かが欲しいと言い、持ち主が譲る。

 リィナも、ロゼリアも、イリゼも、それぞれ別の形でその隙間に近づいた。

「王の術師たちは、山の境に祭壇を作った」

 ガルナは折れた柱の奥を見た。

「ここから少し上だ。彼らは山を王のものにするため、まず山の声を封じようとした」

「山の声」

「私だ」

 火が小さく鳴った。

「私は怒った。霧で兵を迷わせた。岩を落とした。川を溢れさせた。馬を怯えさせた。何人も死んだ」

 ミリアは黙った。

 何人も死んだ。

 その言葉を、ガルナは淡々と口にした。

 そこに後悔がないわけではない。

 だが、人間が人間を殺したときのような言い方ではなかった。山が崩れて人が死んだ。川が溢れて人が流された。そういう自然の側の声に近かった。

「それで、人間はあなたを封じた」

「そうだ」

「あなたは、それを不当だと思っているんですか」

 ガルナはミリアを見た。

「おまえはどう思う」

「わかりません」

 ミリアは正直に答えた。

「山を壊されたあなたが怒ったのはわかります。でも、死んだ人たちは、たぶん命令で来ただけの兵もいた。木を切るしかなかった人もいたかもしれない」

「いた」

 ガルナは言った。

「私には、区別がつかなかった」

 ミリアは息を止めた。

「王と兵と木こりと鉱夫と術師。みな同じ匂いがした。山を裂く匂いだ。だから、私は同じように追い払った」

「それは」

「間違いだったか」

 ガルナの声は静かだった。

 ミリアはすぐに答えられなかった。

 間違い。

 その言葉は簡単すぎる。

 ガルナは山を守ろうとした。

 でも人を殺した。

 人間は山を支配しようとした。

 でも、殺された人の中には、自分で決めていない者もいた。

 どちらが正しいかなど、ミリアには言えなかった。

「たぶん」

 ミリアはゆっくり言った。

「どこかから、間違っていたんだと思います」

「どこからだ」

「わかりません」

「便利な答えだ」

「でも、嘘ではありません」

 ガルナは少しだけ笑った。

「そうだな」

 ネリスは火のそばで膝を抱えていた。

 彼女の顔は白く、目はガルナの喉の痕に向けられている。

 その痕が、火の光で赤く見えた。

「封じられたときのことは」

 ネリスが小さく言った。

「私は、覚えていません」

 ガルナがネリスを見た。

「おまえはまだ、おまえではなかった」

「はい」

 ネリスは自分の胸元に手を置いた。

「でも、ときどき、音だけを覚えています」

「音?」

 ミリアが聞くと、ネリスは頷いた。

「鐘ではありません。鎖でもありません。喉の奥で、何かが閉じる音です」

 ミリアは自分の喉を押さえた。

 森の入口で首飾りが巻きついたときの感覚が蘇る。

 息はできる。声も出る。

 でも、自分の喉が自分だけのものではなくなる。

「首輪をかけられたとき」

 ガルナはゆっくり言った。

「私は祭壇に誘い込まれた」

「どうやって」

「子供の声を使われた」

 ミリアは顔を上げた。

 ガルナの目は火を見ている。

「山で迷った子供が泣いている声だった。私は声のほうへ行った。今思えば、術で作った声だったのだろう。だが、そのときは本物に聞こえた」

 ミリアは胸が痛んだ。

 罠にかかった白蛇。

 泣きそうな少女。

 痛むものを見つけてしまったとき、人は足を止める。

 ガルナも同じだったのか。

「そこに祭壇があった」

 ガルナは続けた。

「白い石で作られた輪の祭壇だ。術師たちは私を囲み、王の名を唱えた。山は王のもの。水は王のもの。獣は王のもの。山に棲むものもまた、王のもの」

 石柱の文字と同じだ。

「私は笑った」

「笑ったんですか」

「ああ。人間が山を所有できると思っていたからな」

 ガルナの声に、遠い怒りが混じる。

「だが、首輪は笑わなかった」

 火が揺れた。

「術師の一人が首輪を掲げた。巨大な輪だった。私の首にも大きすぎるほどの輪だ。だが、それは空中で縮み、私の喉へ向かった。私は砕こうとした。爪で裂こうとした。火を吐いた。岩を呼んだ。水を呼んだ」

「だめだったんですね」

「だめだった」

 ガルナは自分の喉に触れた。

「輪が触れた瞬間、山の声が遠くなった。川の音が聞こえなくなった。木の根がどこへ伸びているか、わからなくなった。獣の息も、土の熱も、私から離れた」

 彼女の指が、黒い痕をなぞる。

「私は山ではなくなった」

 その言葉は、ミリアには重すぎた。

 ガルナは首輪をかけられた。

 それは、ただ魔力を封じられたということではない。

 彼女が自分だと思っていたものから、切り離されたのだ。

「それから、どれくらい」

「長い」

「百年?」

「もっとかもしれぬ。私は途中から数えなくなった」

 ミリアは言葉を失った。

 百年。

 それ以上。

 自分なら、一月でも耐えられるかわからない。すでに数日で、喉の冷たさに眠りを乱されている。

 ガルナはそれを、百年以上。

 それでも。

 ミリアは首飾りを握った。

 それでも、ガルナが自分を犠牲にしたことは消えない。

「首輪をかけられてから」

 ガルナは言った。

「私は山の境から出られなくなった。体は大きいままだったが、力は半分も使えなかった。姿を変えることもできず、遠くを見ることもできず、眠っても首輪の痛みで目が覚めた」

「ネリスは?」

 ミリアが聞くと、ガルナはネリスを見た。

「最初はいなかった」

 ネリスは小さく頷いた。

「私は、ただの輪でした」

「覚えているの?」

「いいえ」

 ネリスは首を横に振った。

「ただ、そうだったとわかるだけです。最初の私は、何も見ていません。何も聞いていません。ガルナの喉を締めるためだけにありました」

 誰かを縛るためだけに存在してきた。

 ミリアはその言葉を、心の中で繰り返した。

「ある夜」

 ガルナが言った。

「首輪が私の声を返した」

「声を?」

「ああ。私が『殺してやる』と言った。首輪が同じ声で『殺してやる』と返した」

 ミリアは息を呑んだ。

「最初は術の反響だと思った。次は『痛い』と言った。すると首輪が『痛い』と返した。何年もそうだった。私の言葉をただ返すだけだ」

 ネリスは顔を伏せている。

「そのうち、少し違うことを言うようになった」

「何を」

 ガルナは少しだけ目を細めた。

「痛いの?」

 ネリスの肩が震えた。

「首輪が、そう聞いたんですか」

「そうだ」

 ガルナは火を見つめた。

「私は怒った。おまえが痛くしているのだ、と言った。首輪は黙った。次の日も、次の年も、私は罵った。首輪はときどき、私の言葉を真似た。ときどき、私の痛みを聞いた」

 長すぎる時間だったのだろう。

 憎むにも、怖がるにも、長すぎる時間。

 以前ガルナがそう言った意味が、少しだけわかった気がした。

「白い蛇になったのは」

 ネリスが小さく言った。

「ずっと後です」

 ミリアはネリスを見た。

「私は、外に出たかったのだと思います。首輪は喉に巻きついているだけです。でも、ガルナの声を聞いて、息を聞いて、夢を聞いているうちに、私は喉の外に何があるのか知りたくなりました」

「それで蛇に?」

「はい。最初は、喉の痕に小さな白い影が出るだけでした。ガルナが寝ているときに、首輪から少しだけ出て、また戻る。声もなく、目もほとんど見えませんでした」

「私は噛み潰そうとした」

 ガルナが言った。

 ネリスは苦笑した。

「何度も」

「当然だ。私を縛るものが、私の喉から蛇になって出てきたのだ」

「怖かったです」

「私も不愉快だった」

「不愉快で済ませるんですね」

 ミリアが言うと、ガルナは少し笑った。

「今だからな。当時はもっと悪い言葉を使った」

 ネリスがかすかに笑った。

 その笑みに、ミリアは奇妙なものを感じた。

 ガルナとネリスの間には、長い時間がある。

 憎しみも、恐れも、苛立ちも、その中にある。けれど、それだけではない。

 ずっと同じ首輪の内側にいた者たちだけが持つ、歪んだ親しさのようなものがある。

 それを見て、ミリアは胸が少しざわついた。

 自分はその外側にいる。

 でも今は、自分の喉に首輪がある。

 ネリスは自分から離れられない。

 自分もいつか、その長さの中に入ってしまうのだろうか。

「私は、ガルナを縛るために生まれました」

 ネリスは言った。

 火の光が白い横顔を照らしている。

「それ以外の役目はありませんでした。ガルナが怒れば、首輪は強く締まりました。ガルナが力を使おうとすれば、私はそれを止める側にいました。止めたくなくても、そうなりました」

「あなたの意思ではなく?」

「最初は」

 ネリスは答えた。

「でも、だんだん意思ができました。意思ができると、苦しくなりました。ガルナが痛むと、私も痛い。ガルナが自由になりたいと思うと、私も外へ出たいと思う。でも私は、ガルナを縛るものでもある」

 ミリアは黙って聞いていた。

「ガルナを助けたいと思うことと、ガルナを縛っている自分を否定することが、同じになりました」

 ネリスの声が震えた。

「だから、私はずっと、どうすればいいのかわかりませんでした」

「そして、私を選んだ」

 ミリアの声は、自分でも驚くほど静かだった。

 ネリスは顔を上げた。

「はい」

 ガルナもミリアを見た。

 火の音だけが、少し大きく聞こえた。

「あなたたちが苦しかったことは、少しわかりました」

 ミリアは言った。

「少しだけです。全部はわかりません。百年も縛られることも、誰かを縛るために生まれることも、私にはわかりません」

 ネリスは何も言わない。

 ミリアは続けた。

「でも、わかったからといって、私に首輪を移してよかったことにはならない」

 ガルナが静かに頷いた。

「ならぬ」

「あなたは、被害者だった」

 ミリアはガルナを見た。

「でも、私を犠牲にした」

「そうだ」

「ネリスも、誰かを縛るためだけに生まれた」

 今度はネリスを見る。

「でも、私を騙した」

「はい」

「それは、消えません」

「消えぬ」

 ガルナが答えた。

 ネリスは唇を噛んだ。

「消えなくていい」

 ミリアは言った。

 ネリスが顔を上げる。

「消えなくていいんですか」

「消えたら、私が怒る場所もなくなる」

 ミリアは首飾りに触れた。

「私はまだ怒っていたい。あなたたちの苦しさを知っても、怒っていたい。怒っていいはずだから」

 ガルナは少しだけ目を細めた。

「いい」

 短い言葉だった。

「怒れ。怒られずに済むとは思っていない」

 ネリスは小さく震えた。

「私も」

 声がかすれる。

「私にも、怒っていてください」

 ミリアはその言葉に、胸が痛んだ。

「頼まれなくても怒ってる」

「はい」

「でも」

 ミリアは言葉を探した。

「怒っている相手の話を、聞いてしまっただけ」

 ネリスは泣きそうに笑った。

 いつもの笑顔だった。

 それがまた痛かった。

「その笑い方、やめられないの?」

 ミリアが言うと、ネリスは驚いた顔をした。

「え?」

「泣きそうなのに笑う顔」

 ネリスは口元に手をやった。

「そういう顔を、していますか」

「してる」

「ロゼリアさんにも言われました」

「うん」

 ミリアは火に枝を足した。

「見ているほうも、少し疲れる」

 ネリスは困ったように眉を下げた。

 それから、笑おうとして、途中でやめた。

 ただ、泣きそうな顔だけが残った。

 ミリアはそれを見て、胸がまた痛んだ。

 でも、そのほうがいいと思った。

     *

 夜が深くなると、ガルナは立ち上がった。

「行くぞ」

 ミリアは顔を上げた。

「どこへ」

「祭壇だ」

「夜になると古いものが起きるって言ってませんでしたか」

「起きているから行く」

「意味がわかりません」

「見せておく」

 ガルナはそう言って、火を小さくした。

 ミリアは不安になったが、ついていかないという選択はなかった。

 ネリスも白蛇の姿になり、ミリアの足元を滑るようについてくる。

 石柱の奥へ進むと、道はさらに荒れた。

 木の根が石畳を割り、ところどころに黒い岩が突き出している。空には細い月があった。輪にはまだ足りない月。月明かりだけでは暗かったが、ガルナの金色の目と、ネリスの白い体が道を示していた。

 やがて、開けた場所へ出た。

 そこには、円形の祭壇があった。

 白い石で作られた輪の祭壇。

 中心は空洞で、周囲に十二本の石柱が立っている。そのうち半分は折れ、残りもひび割れていた。石には古い文字が刻まれている。ミリアの首輪が、静かに鳴った。

 ちりん。

 ネリスが身を縮める。

 ガルナは祭壇の前で立ち止まった。

「ここだ」

 その声は低かった。

「ここで、私は首輪をかけられた」

 ミリアは祭壇を見た。

 白い石は月光を受けて淡く光っている。

 美しい場所だった。

 だからこそ、嫌だった。

 美しいものが、救いとは限らない。

 ガルナが一歩、祭壇へ足を踏み入れた。

 その瞬間、石柱の文字が青白く光った。

 ミリアは息を呑む。

 ガルナの喉の黒い痕も、同じように光り始めた。

 すでに首輪は外れているはずなのに、その痕だけが再び締めつけられるように赤黒く浮かび上がる。

「ガルナ!」

 ミリアが呼ぶと、ガルナは片手を上げた。

「来るな」

「でも」

「これは痕だ。首輪ではない」

 ガルナの声は苦しそうだった。

 痕でも、痛むのだ。

 ミリアはそれを見て、喉を押さえた。

 自分の首飾りも熱くなっている。

 祭壇の中央に、影が立ち上がった。

 人の形をしていた。

 何人もいる。顔はない。王の兵か、術師か、昔ここで首輪をかけた者たちの残り香か。青白い影は、口を開き、声もなく同じ言葉を繰り返しているようだった。

 山は王のもの。

 水は王のもの。

 獣は王のもの。

 山に棲むものもまた、王のもの。

 声は聞こえない。

 なのに、意味だけが頭に入ってくる。

 ミリアは吐き気を覚えた。

「まだ残っているんですか」

「契約の残りだ」

 ガルナは言った。

「術師たちは死んだ。王も死んだ。だが、言葉は残る」

 ミリアは首飾りを握った。

 言葉は残る。

 価値がない。

 修道院へ行け。

 器になれ。

 欲しいと言え。

 差し上げよう。

 言葉は、消えずに人の内側へ残る。

 ネリスが白蛇の姿で震えている。

 ミリアはしゃがみ、そっと手を差し出した。白蛇は一瞬ためらい、それからミリアの手首に細く絡んだ。

 首輪が鳴る。

 だが、今度は少しだけ違った。

 ミリアの喉だけではなく、手首に触れたネリスの体を通して、音が響いている。

 同じ輪に繋がっている。

 ガルナは祭壇の中央へ進んだ。

 影たちが彼女を囲む。

 ガルナの姿が揺らいだ。

 人の姿の背後に、巨大な影が広がる。雲を突く大女。山そのもののような魔物。その喉に、見えない輪が再びかかろうとしている。

「ガルナ、戻って!」

 ミリアは叫んだ。

「見るだけだと言ったでしょう!」

「見るだけでは足りぬ」

 ガルナは影たちを見下ろした。

「私は、ここを避けていた。首輪が外れても、この場所には近づかなかった」

「なぜ今」

「おまえが、誰か一人を器にする仕組みを壊したいと言った」

 ミリアは息を止めた。

「その仕組みは、こういう場所に根を持つ」

 ガルナは自分の喉に触れた。

「私は逃げただけだ。首輪から逃げ、山から逃げ、自分がされたことから逃げるために、おまえを使った」

 影たちがガルナの周囲で揺れる。

「だが、ここを見ずに済ませれば、私はまた同じことをする」

 ガルナの声が低く響いた。

「だから見る。私を縛ったものを。私が誰かを縛って逃げた始まりを」

 ミリアは何も言えなかった。

 ガルナの喉の痕から、黒い煙のようなものが上がる。

 それは苦しみなのか、怒りなのか、ミリアにはわからない。

 ネリスがミリアの手首で震えた。

「ガルナ」

 白蛇の口から、小さな声が漏れた。

 ガルナが振り返る。

 金色の目が、少しだけ柔らかくなった。

「ネリス」

「もう、戻って」

 ネリスの声は弱かった。

「私は、あなたを縛っていました」

「そうだ」

「でも、あなたがもう一度縛られるのは嫌です」

「そうか」

「はい」

 ガルナは少し笑った。

「それを聞けただけでも、来た甲斐があった」

 その瞬間、祭壇の文字が強く光った。

 影たちが一斉にガルナへ手を伸ばす。

 見えない首輪が、彼女の喉へかかろうとする。

 ミリアの首飾りが激しく鳴った。

 ちりん。

 ちりん。

 ちりん。

 喉が痛む。

 だが、ミリアは立ち上がった。

「やめて!」

 叫んだ瞬間、首輪が締まる。

 息が詰まった。

 同時に、ネリスが手首で苦しそうに身を捩る。

 それでも、ミリアは祭壇に一歩踏み込んだ。

 ガルナが振り向く。

「来るなと言った!」

「あなたも、行くなと言われて行ったでしょう!」

 ミリアは喉の痛みに耐えながら言った。

「人のことを言えません!」

 ガルナが一瞬、呆れたような顔をした。

 こんなときに。

 ミリアは影たちを睨んだ。

「山は王のものじゃない」

 影たちの動きが止まった。

 声が、頭の中でざわめく。

 山は王のもの。

 水は王のもの。

 獣は王のもの。

「違う」

 ミリアは言った。

「ガルナも、王のものじゃない」

 首輪が喉を締める。

 言葉を遮ろうとしている。

 でも、ミリアは続けた。

「でも、ガルナが私を犠牲にしていい理由にもならない」

 ガルナの目が見開かれた。

「誰かを所有する言葉も、誰かを犠牲にして逃げる言葉も、同じくらい嫌だ」

 影たちが揺らぐ。

 ネリスが手首から少女の姿へ戻った。

 不安定な姿だった。輪郭が透け、立っているだけで消えそうだ。それでも彼女はミリアの横に立った。

「私は、首輪でした」

 ネリスが言った。

 声は小さい。

 だが、祭壇に響いた。

「誰かを縛るためだけに生まれました。ガルナを縛り、ミリアを騙し、また誰かを縛る道を探そうとしました」

 彼女は自分の胸元を押さえる。

「でも、私はもう、それだけではいたくありません」

 祭壇の文字がひび割れたように光を乱す。

 ガルナがゆっくり息を吐いた。

「私は」

 彼女の声は、山鳴りのようだった。

「縛られていた。だから、誰かを縛ってもよいと思った」

 影たちがざわめく。

「だが、それでは私を縛った者たちと同じだった」

 その言葉が落ちた瞬間、ガルナの喉の黒い痕から光が消えた。

 祭壇の影たちが崩れ始める。

 完全に消えるのではない。だが、形を保てなくなり、石の間へ染み込むように薄れていく。

 最後に残った一つの影が、ガルナへ手を伸ばした。

 首輪をかけようとする手だった。

 ガルナはその手を掴んだ。

「もう遅い」

 そう言って、握り潰した。

 音はしなかった。

 ただ、祭壇の石柱の一本が、根元から崩れた。

 静けさが戻った。

 ミリアはその場に膝をついた。

 喉が痛む。息が荒い。ネリスも隣で倒れかけていたので、ミリアは反射的に腕を伸ばし、支えた。

 支えてから、少し気まずくなった。

 ネリスも同じようだった。

 けれど、今は離れなかった。

 ガルナが二人を見下ろした。

「無茶をする」

「あなたにだけは言われたくありません」

「それもそうだ」

 ガルナは祭壇を見回した。

「完全には消えていない」

「わかります」

 ミリアは喉に触れた。

 首輪はまだ鳴っている。

 ただ、さっきよりは遠い音だった。

「でも、少しは壊れましたか」

「少しは」

 ガルナは答えた。

「この場所は、もう私を縛れぬ」

「よかったですね」

 ミリアが言うと、ガルナは彼女を見た。

「おまえのおかげだとは言わぬぞ」

「言われたら怖いです」

「だが」

 ガルナは少しだけ口元を緩めた。

「おまえが来なければ、私はまた一人で耐えようとしただろう」

 ミリアは目を伏せた。

「一人で耐えるの、好きですね」

「慣れている」

「慣れないほうがいいです」

 ガルナは黙った。

 ネリスが小さく言った。

「私も、慣れていました」

 ミリアはネリスを見る。

「ガルナを縛るものとしていることに。謝ることに。許されない場所に立つことに。慣れていると思っていました」

「今は?」

「慣れたくありません」

 ネリスは答えた。

 ミリアは何も言わなかった。

 許しではない。

 和解でもない。

 けれど、三人は今、同じ祭壇の上にいた。

 誰かを縛るための場所に。

 誰も新しく縛らずに立っていた。

     *

 夜明け前、三人は石柱の場所へ戻った。

 火はほとんど消えかけていた。

 ミリアは灰の中に残った赤い火を枝でつつき、少しだけ炎を戻した。

 体は疲れていた。

 喉も痛い。

 ネリスは白蛇の姿で、ミリアのそばに丸まっている。ガルナは少し離れて、折れた石柱にもたれていた。

 しばらく、誰も喋らなかった。

 朝の青い光が、山の端から少しずつ広がっていく。

 ミリアはガルナの喉を見た。

 黒い痕はまだある。

 消えたわけではない。

 だが、昨日より少しだけ薄くなったように見えた。

「それ」

 ミリアは指で示した。

「少し薄くなりました?」

 ガルナは自分の喉に触れた。

「そうかもしれぬ」

「痛みは」

「ある」

「消えないんですね」

「消えなくてよい」

 ガルナは言った。

「消えれば、また忘れる」

 ミリアはその言葉を黙って受け取った。

 忘れないための痕。

 それは重い。

 でも、たぶん必要なのだろう。

「ガルナ」

「何だ」

「あなたは、山へ戻りたいんですか」

 ガルナは山の奥を見た。

 長い沈黙があった。

「わからぬ」

 意外な答えだった。

「戻りたいと思っていた。首輪が外れれば、山へ戻るのだと思っていた。だが、山はもう昔の山ではない。川も変わった。木も変わった。私も変わった」

「そうですか」

「それに」

 ガルナはミリアと、ミリアのそばで眠る白蛇を見た。

「まだ、おまえたちを放ってはおけぬ」

 ミリアは眉を寄せた。

「責任を感じているんですか」

「少しはな」

「少し」

「大きく言うと嘘になる」

 ミリアは呆れた。

「本当に、嘘の慰めが嫌いなんですね」

「嫌いだ」

「でも、少しでも責任を感じているなら、十分です」

 ガルナは不思議そうな顔をした。

「十分なのか」

「今は」

 ミリアは首飾りを触った。

「全部をいきなり求めたら、重すぎます」

 リィナの村でも、ロゼリアの町でも、イリゼの神殿でも、そうだった。

 一度で全部を変えることはできない。

 でも、一つだけ止めることはできる。

 少しだけ待たせることはできる。

 言葉を一つ、自分のものに戻すことはできる。

 ガルナの責任も、ネリスの謝罪も、ミリアの怒りも、一度に形をつけるには重すぎる。

 だから、今は少しでいい。

 ネリスが目を覚ました。

 白蛇の黒い目が、ミリアを見上げる。

「起きた?」

 ミリアが聞くと、白蛇は小さく頷いた。

「少し、眠りました」

「そのままでもいいよ」

「はい」

 白蛇はまた丸くなった。

 けれど、今度はミリアの袖の近くへ寄ってきた。

 ミリアは少し迷い、袖口を開けた。

 白蛇はさらに迷った。

 そして、そっと袖の中へ入った。

 冷たい体が、手首の内側に触れる。

 ミリアは何も言わなかった。

 ネリスも何も言わなかった。

 許したわけではない。

 ただ、朝の山は冷えた。

 それだけでいいことにした。

 ガルナが立ち上がった。

「行くぞ」

「どこへ」

 ミリアが聞く。

「山を越えた先に、古い街がある。契約術師たちの記録が残っているかもしれぬ」

「首輪のことが?」

「少しは」

「本当ですか」

「本当かどうか、行けばわかる」

 ミリアはため息をついた。

「あなたも、よくわからないと言いますね」

「わからぬものは、わからぬ」

「ガルナが言うと、腹が立つけど安心もします」

「複雑だな」

「複雑なんです」

 ミリアは立ち上がった。

 首飾りはまだ喉にある。

 冷たく、外れない。

 だが、山の朝の空気を吸うと、少しだけ喉が広がる気がした。

 祭壇は壊れきっていない。

 首輪も外れていない。

 ネリスは弱っている。

 ガルナの罪も消えない。

 何も解決していない。

 それでも、三人の間にあったものは、少しだけ形を変えた。

 被害者であることは、加害の免罪符にはならない。

 加害者であることは、苦しんだ過去を消すわけでもない。

 許せない相手でも、隣で倒れたら手を伸ばしてしまうことがある。

 その全部を抱えたまま、歩くしかない。

 ミリアは袖の中の白蛇をつぶさないように気をつけながら、ガルナの後を追った。

 折れた石柱の間を抜けるとき、首輪が一度だけ鳴った。

 ちりん。

 けれど、その音は昨日より小さかった。

 まるで、首輪自身が少しだけ不機嫌になっているようだった。

 ミリアは小さく笑った。

「思い通りにならないのは、そっちも同じだよ」

 誰にも聞こえないように呟く。

 すると袖の中で、白蛇がほんの少し身じろぎした。

 聞こえていたのかもしれない。

 ミリアは何も言わず、山道を歩き出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ