第六章 ガルナはなぜ縛られたか
白鐘の神殿を出てから、ガルナはしばらく無口だった。
もともとよく喋る女ではない。
けれど、その沈黙はいつものものとは少し違っていた。道を選ぶときの声も短く、宿を取るときも、食事を頼むときも、必要なことしか言わない。金色の目は遠くを見ているようで、ミリアにもネリスにも、あまり向けられなかった。
イリゼの聖女契約が砕けたあと、ミリアは二日ほどまともに歩けなかった。
首輪に神殿の契約が流れ込もうとしたとき、喉の内側が焼けた。外傷はほとんどない。だが、声を出すたびに、焼け残った鐘が喉の奥で鳴るような痛みがあった。
ネリスも弱っていた。
白蛇の姿でいる時間が増えた。少女の姿に戻っても、輪郭が薄く、夕暮れの中では向こう側の景色が透けるように見えるときがある。
そのたびにミリアは胸が痛んだ。
許したわけではない。
まだ怒っている。
ネリスを見れば、森の入口で首飾りが喉に巻きついた瞬間を思い出す。
それでも、彼女が消えかけているのを見るのは嫌だった。
嫌だと思ってしまう自分にも、まだ慣れなかった。
三人は神殿町を離れ、北西の山道へ入った。
王都へ向かう街道から外れた、古い道だった。石畳はところどころ崩れ、草に埋もれている。行き交う人は少なく、昼でも木々の影が濃かった。
「この道でいいんですか」
ミリアが聞くと、ガルナは短く答えた。
「ああ」
「どこへ向かっているんですか」
「山だ」
「山なら、どこにでもあります」
「私の山だ」
その言葉に、ミリアは足を止めかけた。
ネリスも顔を上げた。
白い髪が風に揺れる。
「ガルナの山?」
ミリアが聞くと、ガルナは振り返らずにうなずいた。
「昔、そう呼ばれていた」
「今は?」
「王領だ」
それだけだった。
ミリアはそれ以上聞けなかった。
聞きたいことはあった。いくつもあった。けれど、ガルナの背中は、今は聞くなと言っているように見えた。
山道は少しずつ険しくなった。
木々が変わっていく。
低い広葉樹から、黒い針葉樹へ。土の色も赤茶から灰色へ。空気は冷え、どこか鉄の匂いがした。遠くで水の音がする。川だろう。けれど、その水音は軽やかではなく、岩を削るように低かった。
夕方近く、三人は古い石柱の並ぶ場所へ出た。
道の両側に、折れた柱が立っていた。
柱には文字が刻まれている。ほとんど風化して読めない。だが、ミリアの首輪はそこへ近づいた瞬間、かすかに震えた。
ネリスが小さく息を呑む。
「ここは」
ミリアが聞くと、ガルナは立ち止まった。
「山の境だ」
「境?」
「ここから先は、昔は人間の道ではなかった」
ガルナの声は低かった。
「獣の道でもない。水と木と岩のものだった。人間は入ってもよかった。だが、持ち帰るものには限りがあった。枝を拾うなら三本まで。薬草を採るなら根は残す。獣を狩るなら腹の子を持つ雌は逃がす。水を引くなら、元の流れを殺さない」
「決まりがあったんですね」
「あった」
ガルナは折れた柱に触れた。
「人間が作った決まりではない。山に入る者が、入るために覚えた決まりだ」
ミリアは周囲を見た。
折れた柱。
崩れた道。
苔に覆われた石。
ここはもう、決まりが守られていた場所には見えない。
「その決まりを破ったから、あなたは怒ったんですか」
ガルナは手を下ろした。
「そうだ」
「人を襲った」
「そうだ」
彼女は少しも隠さなかった。
ミリアは喉元に触れた。
ガルナが人を襲ったこと。
人間に首輪をかけられたこと。
ネリスがその首輪から生まれたこと。
それらは聞いていた。
だが、ここへ来るまで、それはまだ話だった。誰かから聞いた昔話のように、少し遠かった。
今、足元の石が、その昔話を現実にしている。
「今夜はここで休む」
ガルナが言った。
「ここで?」
「先へ進むには日が悪い」
「日が悪いって」
「夜になると、古いものが起きる」
ミリアは周囲を見回した。
「怖いことを普通に言わないでください」
「怖いなら火を焚け」
「焚いたら寄ってきたりしませんか」
「寄ってきたものは、私が追い払う」
「頼もしいのか怖いのかわかりません」
「両方でよい」
ガルナはそう言って、折れた柱の近くに荷を下ろした。
ネリスは少し離れた石の上に座った。
顔色が悪い。
ミリアは革袋を差し出した。
「水」
ネリスは驚いたように顔を上げた。
「ありがとうございます」
「お礼じゃない」
「はい」
もう何度目かわからないやりとりだった。
けれど、ネリスはそのたびに同じように受け取る。申し訳なさそうに。少しだけ嬉しそうに。
ミリアはその顔を見ないようにして、火を起こす準備をした。
普通の火は、ミリアが起こした。
ガルナの黒い火は便利だが、いつまでも頼るのは癪だった。乾いた枝を集め、火打ち石で火花を飛ばす。何度か失敗したあと、小さな火がついた。
ネリスがそれを見ていた。
「上手ですね」
「普通です」
「私は、火をつけられません」
「蛇だから?」
「首輪だったからです」
ミリアの手が止まった。
ネリスはすぐに目を伏せた。
「すみません。変なことを言いました」
「変じゃない」
ミリアは枝を足した。
「ただ、少し驚いただけ」
火が広がった。
赤い光が石柱を照らす。刻まれた文字が、影の中で浮かび上がった。
その瞬間、ミリアの首輪が鳴った。
ちり、と。
ネリスが胸元を押さえる。
ガルナがこちらを見た。
「読めるのですか」
ミリアが石柱を指すと、ガルナは頷いた。
「少しは」
「何と書いてあるんですか」
ガルナはしばらく黙っていた。
それから、低く読んだ。
「山は王のもの。水は王のもの。獣は王のもの。石は王のもの。山に棲むものもまた、王のもの」
ミリアは息を呑んだ。
その言葉は、首輪に似ていた。
欲しいと言った者が、誰かを自分のものにする言葉。
「誰が刻んだんですか」
「王の軍だ」
ガルナは火の前に腰を下ろした。
「私を縛った者たちだ」
その声は静かだった。
けれど、火の色が少し暗くなったように見えた。
*
ガルナは、昔から魔物と呼ばれていたわけではなかった。
火のそばで、彼女はそう話し始めた。
「山の者、と呼ばれていた」
ガルナは言った。
「名はなかった。今の名も、人間がつけたものだ。ガルナ山に棲むものだから、ガルナ。単純な名だ」
「自分の名前ではないんですか」
「名を必要としなかった」
ガルナは火の向こうを見た。
「私は山だった。山の一部だった。岩の眠りも、木の伸びる音も、水の濁る日も、獣が子を産む穴も知っていた。私が歩けば、鹿は道をあけた。熊は唸ったが、向かってはこなかった。人間は祈ったり、逃げたり、供物を置いたりした」
「守り神みたいですね」
ミリアが言うと、ガルナは少しだけ笑った。
「人間は、自分に都合のよいときは神と呼ぶ。都合が悪くなると魔物と呼ぶ」
「あなたは、どちらだと思っていたんですか」
「どちらでもなかった」
ガルナは答えた。
「私は私だった。山を守るというより、山が壊されれば痛かった。川がせき止められれば息苦しかった。木が切られすぎれば皮膚を剥がされるようだった。だから止めた」
「最初から人を殺したんですか」
「いいや」
ガルナは首を横に振った。
「最初は迷わせた。道をずらし、霧を出し、道具を錆びさせ、火を消した。人間はしばらく恐れた。だが、王の旗が来た」
「王の旗」
「山には銀があった。鉄もあった。白い石もあった。王都が大きくなるには、山が必要だった。木も、石も、水も、すべて必要だった」
リィナの村を思い出した。
銀山に川を奪われた村。
帳面に首をかけられそうになった娘。
あれは、この山から始まっていたのかもしれない。
「王の軍は、道を拓いた。木を切った。石を割った。川を曲げた。祈りの言葉も持ってきた。契約の術師も連れてきた」
「契約の術師」
ミリアは喉元を押さえた。
「首輪を作った人たち?」
「使った者たちだ」
ガルナは訂正した。
「あの首輪は、もっと古い。王の術師たちは、それを倉の奥から持ち出しただけだろう。彼らに一から作れるものではない」
「では、誰が」
「知らぬ」
ガルナの声が低くなる。
「だが、あれを作った者は、人をよく知っていた」
「人を?」
「あれは力だけでは動かぬ。言葉で動く。望みで動く。差し出す者と、受け取る者の間にある隙間へ入り込む」
ミリアは首飾りを握った。
誰かが欲しいと言い、持ち主が譲る。
リィナも、ロゼリアも、イリゼも、それぞれ別の形でその隙間に近づいた。
「王の術師たちは、山の境に祭壇を作った」
ガルナは折れた柱の奥を見た。
「ここから少し上だ。彼らは山を王のものにするため、まず山の声を封じようとした」
「山の声」
「私だ」
火が小さく鳴った。
「私は怒った。霧で兵を迷わせた。岩を落とした。川を溢れさせた。馬を怯えさせた。何人も死んだ」
ミリアは黙った。
何人も死んだ。
その言葉を、ガルナは淡々と口にした。
そこに後悔がないわけではない。
だが、人間が人間を殺したときのような言い方ではなかった。山が崩れて人が死んだ。川が溢れて人が流された。そういう自然の側の声に近かった。
「それで、人間はあなたを封じた」
「そうだ」
「あなたは、それを不当だと思っているんですか」
ガルナはミリアを見た。
「おまえはどう思う」
「わかりません」
ミリアは正直に答えた。
「山を壊されたあなたが怒ったのはわかります。でも、死んだ人たちは、たぶん命令で来ただけの兵もいた。木を切るしかなかった人もいたかもしれない」
「いた」
ガルナは言った。
「私には、区別がつかなかった」
ミリアは息を止めた。
「王と兵と木こりと鉱夫と術師。みな同じ匂いがした。山を裂く匂いだ。だから、私は同じように追い払った」
「それは」
「間違いだったか」
ガルナの声は静かだった。
ミリアはすぐに答えられなかった。
間違い。
その言葉は簡単すぎる。
ガルナは山を守ろうとした。
でも人を殺した。
人間は山を支配しようとした。
でも、殺された人の中には、自分で決めていない者もいた。
どちらが正しいかなど、ミリアには言えなかった。
「たぶん」
ミリアはゆっくり言った。
「どこかから、間違っていたんだと思います」
「どこからだ」
「わかりません」
「便利な答えだ」
「でも、嘘ではありません」
ガルナは少しだけ笑った。
「そうだな」
ネリスは火のそばで膝を抱えていた。
彼女の顔は白く、目はガルナの喉の痕に向けられている。
その痕が、火の光で赤く見えた。
「封じられたときのことは」
ネリスが小さく言った。
「私は、覚えていません」
ガルナがネリスを見た。
「おまえはまだ、おまえではなかった」
「はい」
ネリスは自分の胸元に手を置いた。
「でも、ときどき、音だけを覚えています」
「音?」
ミリアが聞くと、ネリスは頷いた。
「鐘ではありません。鎖でもありません。喉の奥で、何かが閉じる音です」
ミリアは自分の喉を押さえた。
森の入口で首飾りが巻きついたときの感覚が蘇る。
息はできる。声も出る。
でも、自分の喉が自分だけのものではなくなる。
「首輪をかけられたとき」
ガルナはゆっくり言った。
「私は祭壇に誘い込まれた」
「どうやって」
「子供の声を使われた」
ミリアは顔を上げた。
ガルナの目は火を見ている。
「山で迷った子供が泣いている声だった。私は声のほうへ行った。今思えば、術で作った声だったのだろう。だが、そのときは本物に聞こえた」
ミリアは胸が痛んだ。
罠にかかった白蛇。
泣きそうな少女。
痛むものを見つけてしまったとき、人は足を止める。
ガルナも同じだったのか。
「そこに祭壇があった」
ガルナは続けた。
「白い石で作られた輪の祭壇だ。術師たちは私を囲み、王の名を唱えた。山は王のもの。水は王のもの。獣は王のもの。山に棲むものもまた、王のもの」
石柱の文字と同じだ。
「私は笑った」
「笑ったんですか」
「ああ。人間が山を所有できると思っていたからな」
ガルナの声に、遠い怒りが混じる。
「だが、首輪は笑わなかった」
火が揺れた。
「術師の一人が首輪を掲げた。巨大な輪だった。私の首にも大きすぎるほどの輪だ。だが、それは空中で縮み、私の喉へ向かった。私は砕こうとした。爪で裂こうとした。火を吐いた。岩を呼んだ。水を呼んだ」
「だめだったんですね」
「だめだった」
ガルナは自分の喉に触れた。
「輪が触れた瞬間、山の声が遠くなった。川の音が聞こえなくなった。木の根がどこへ伸びているか、わからなくなった。獣の息も、土の熱も、私から離れた」
彼女の指が、黒い痕をなぞる。
「私は山ではなくなった」
その言葉は、ミリアには重すぎた。
ガルナは首輪をかけられた。
それは、ただ魔力を封じられたということではない。
彼女が自分だと思っていたものから、切り離されたのだ。
「それから、どれくらい」
「長い」
「百年?」
「もっとかもしれぬ。私は途中から数えなくなった」
ミリアは言葉を失った。
百年。
それ以上。
自分なら、一月でも耐えられるかわからない。すでに数日で、喉の冷たさに眠りを乱されている。
ガルナはそれを、百年以上。
それでも。
ミリアは首飾りを握った。
それでも、ガルナが自分を犠牲にしたことは消えない。
「首輪をかけられてから」
ガルナは言った。
「私は山の境から出られなくなった。体は大きいままだったが、力は半分も使えなかった。姿を変えることもできず、遠くを見ることもできず、眠っても首輪の痛みで目が覚めた」
「ネリスは?」
ミリアが聞くと、ガルナはネリスを見た。
「最初はいなかった」
ネリスは小さく頷いた。
「私は、ただの輪でした」
「覚えているの?」
「いいえ」
ネリスは首を横に振った。
「ただ、そうだったとわかるだけです。最初の私は、何も見ていません。何も聞いていません。ガルナの喉を締めるためだけにありました」
誰かを縛るためだけに存在してきた。
ミリアはその言葉を、心の中で繰り返した。
「ある夜」
ガルナが言った。
「首輪が私の声を返した」
「声を?」
「ああ。私が『殺してやる』と言った。首輪が同じ声で『殺してやる』と返した」
ミリアは息を呑んだ。
「最初は術の反響だと思った。次は『痛い』と言った。すると首輪が『痛い』と返した。何年もそうだった。私の言葉をただ返すだけだ」
ネリスは顔を伏せている。
「そのうち、少し違うことを言うようになった」
「何を」
ガルナは少しだけ目を細めた。
「痛いの?」
ネリスの肩が震えた。
「首輪が、そう聞いたんですか」
「そうだ」
ガルナは火を見つめた。
「私は怒った。おまえが痛くしているのだ、と言った。首輪は黙った。次の日も、次の年も、私は罵った。首輪はときどき、私の言葉を真似た。ときどき、私の痛みを聞いた」
長すぎる時間だったのだろう。
憎むにも、怖がるにも、長すぎる時間。
以前ガルナがそう言った意味が、少しだけわかった気がした。
「白い蛇になったのは」
ネリスが小さく言った。
「ずっと後です」
ミリアはネリスを見た。
「私は、外に出たかったのだと思います。首輪は喉に巻きついているだけです。でも、ガルナの声を聞いて、息を聞いて、夢を聞いているうちに、私は喉の外に何があるのか知りたくなりました」
「それで蛇に?」
「はい。最初は、喉の痕に小さな白い影が出るだけでした。ガルナが寝ているときに、首輪から少しだけ出て、また戻る。声もなく、目もほとんど見えませんでした」
「私は噛み潰そうとした」
ガルナが言った。
ネリスは苦笑した。
「何度も」
「当然だ。私を縛るものが、私の喉から蛇になって出てきたのだ」
「怖かったです」
「私も不愉快だった」
「不愉快で済ませるんですね」
ミリアが言うと、ガルナは少し笑った。
「今だからな。当時はもっと悪い言葉を使った」
ネリスがかすかに笑った。
その笑みに、ミリアは奇妙なものを感じた。
ガルナとネリスの間には、長い時間がある。
憎しみも、恐れも、苛立ちも、その中にある。けれど、それだけではない。
ずっと同じ首輪の内側にいた者たちだけが持つ、歪んだ親しさのようなものがある。
それを見て、ミリアは胸が少しざわついた。
自分はその外側にいる。
でも今は、自分の喉に首輪がある。
ネリスは自分から離れられない。
自分もいつか、その長さの中に入ってしまうのだろうか。
「私は、ガルナを縛るために生まれました」
ネリスは言った。
火の光が白い横顔を照らしている。
「それ以外の役目はありませんでした。ガルナが怒れば、首輪は強く締まりました。ガルナが力を使おうとすれば、私はそれを止める側にいました。止めたくなくても、そうなりました」
「あなたの意思ではなく?」
「最初は」
ネリスは答えた。
「でも、だんだん意思ができました。意思ができると、苦しくなりました。ガルナが痛むと、私も痛い。ガルナが自由になりたいと思うと、私も外へ出たいと思う。でも私は、ガルナを縛るものでもある」
ミリアは黙って聞いていた。
「ガルナを助けたいと思うことと、ガルナを縛っている自分を否定することが、同じになりました」
ネリスの声が震えた。
「だから、私はずっと、どうすればいいのかわかりませんでした」
「そして、私を選んだ」
ミリアの声は、自分でも驚くほど静かだった。
ネリスは顔を上げた。
「はい」
ガルナもミリアを見た。
火の音だけが、少し大きく聞こえた。
「あなたたちが苦しかったことは、少しわかりました」
ミリアは言った。
「少しだけです。全部はわかりません。百年も縛られることも、誰かを縛るために生まれることも、私にはわかりません」
ネリスは何も言わない。
ミリアは続けた。
「でも、わかったからといって、私に首輪を移してよかったことにはならない」
ガルナが静かに頷いた。
「ならぬ」
「あなたは、被害者だった」
ミリアはガルナを見た。
「でも、私を犠牲にした」
「そうだ」
「ネリスも、誰かを縛るためだけに生まれた」
今度はネリスを見る。
「でも、私を騙した」
「はい」
「それは、消えません」
「消えぬ」
ガルナが答えた。
ネリスは唇を噛んだ。
「消えなくていい」
ミリアは言った。
ネリスが顔を上げる。
「消えなくていいんですか」
「消えたら、私が怒る場所もなくなる」
ミリアは首飾りに触れた。
「私はまだ怒っていたい。あなたたちの苦しさを知っても、怒っていたい。怒っていいはずだから」
ガルナは少しだけ目を細めた。
「いい」
短い言葉だった。
「怒れ。怒られずに済むとは思っていない」
ネリスは小さく震えた。
「私も」
声がかすれる。
「私にも、怒っていてください」
ミリアはその言葉に、胸が痛んだ。
「頼まれなくても怒ってる」
「はい」
「でも」
ミリアは言葉を探した。
「怒っている相手の話を、聞いてしまっただけ」
ネリスは泣きそうに笑った。
いつもの笑顔だった。
それがまた痛かった。
「その笑い方、やめられないの?」
ミリアが言うと、ネリスは驚いた顔をした。
「え?」
「泣きそうなのに笑う顔」
ネリスは口元に手をやった。
「そういう顔を、していますか」
「してる」
「ロゼリアさんにも言われました」
「うん」
ミリアは火に枝を足した。
「見ているほうも、少し疲れる」
ネリスは困ったように眉を下げた。
それから、笑おうとして、途中でやめた。
ただ、泣きそうな顔だけが残った。
ミリアはそれを見て、胸がまた痛んだ。
でも、そのほうがいいと思った。
*
夜が深くなると、ガルナは立ち上がった。
「行くぞ」
ミリアは顔を上げた。
「どこへ」
「祭壇だ」
「夜になると古いものが起きるって言ってませんでしたか」
「起きているから行く」
「意味がわかりません」
「見せておく」
ガルナはそう言って、火を小さくした。
ミリアは不安になったが、ついていかないという選択はなかった。
ネリスも白蛇の姿になり、ミリアの足元を滑るようについてくる。
石柱の奥へ進むと、道はさらに荒れた。
木の根が石畳を割り、ところどころに黒い岩が突き出している。空には細い月があった。輪にはまだ足りない月。月明かりだけでは暗かったが、ガルナの金色の目と、ネリスの白い体が道を示していた。
やがて、開けた場所へ出た。
そこには、円形の祭壇があった。
白い石で作られた輪の祭壇。
中心は空洞で、周囲に十二本の石柱が立っている。そのうち半分は折れ、残りもひび割れていた。石には古い文字が刻まれている。ミリアの首輪が、静かに鳴った。
ちりん。
ネリスが身を縮める。
ガルナは祭壇の前で立ち止まった。
「ここだ」
その声は低かった。
「ここで、私は首輪をかけられた」
ミリアは祭壇を見た。
白い石は月光を受けて淡く光っている。
美しい場所だった。
だからこそ、嫌だった。
美しいものが、救いとは限らない。
ガルナが一歩、祭壇へ足を踏み入れた。
その瞬間、石柱の文字が青白く光った。
ミリアは息を呑む。
ガルナの喉の黒い痕も、同じように光り始めた。
すでに首輪は外れているはずなのに、その痕だけが再び締めつけられるように赤黒く浮かび上がる。
「ガルナ!」
ミリアが呼ぶと、ガルナは片手を上げた。
「来るな」
「でも」
「これは痕だ。首輪ではない」
ガルナの声は苦しそうだった。
痕でも、痛むのだ。
ミリアはそれを見て、喉を押さえた。
自分の首飾りも熱くなっている。
祭壇の中央に、影が立ち上がった。
人の形をしていた。
何人もいる。顔はない。王の兵か、術師か、昔ここで首輪をかけた者たちの残り香か。青白い影は、口を開き、声もなく同じ言葉を繰り返しているようだった。
山は王のもの。
水は王のもの。
獣は王のもの。
山に棲むものもまた、王のもの。
声は聞こえない。
なのに、意味だけが頭に入ってくる。
ミリアは吐き気を覚えた。
「まだ残っているんですか」
「契約の残りだ」
ガルナは言った。
「術師たちは死んだ。王も死んだ。だが、言葉は残る」
ミリアは首飾りを握った。
言葉は残る。
価値がない。
修道院へ行け。
器になれ。
欲しいと言え。
差し上げよう。
言葉は、消えずに人の内側へ残る。
ネリスが白蛇の姿で震えている。
ミリアはしゃがみ、そっと手を差し出した。白蛇は一瞬ためらい、それからミリアの手首に細く絡んだ。
首輪が鳴る。
だが、今度は少しだけ違った。
ミリアの喉だけではなく、手首に触れたネリスの体を通して、音が響いている。
同じ輪に繋がっている。
ガルナは祭壇の中央へ進んだ。
影たちが彼女を囲む。
ガルナの姿が揺らいだ。
人の姿の背後に、巨大な影が広がる。雲を突く大女。山そのもののような魔物。その喉に、見えない輪が再びかかろうとしている。
「ガルナ、戻って!」
ミリアは叫んだ。
「見るだけだと言ったでしょう!」
「見るだけでは足りぬ」
ガルナは影たちを見下ろした。
「私は、ここを避けていた。首輪が外れても、この場所には近づかなかった」
「なぜ今」
「おまえが、誰か一人を器にする仕組みを壊したいと言った」
ミリアは息を止めた。
「その仕組みは、こういう場所に根を持つ」
ガルナは自分の喉に触れた。
「私は逃げただけだ。首輪から逃げ、山から逃げ、自分がされたことから逃げるために、おまえを使った」
影たちがガルナの周囲で揺れる。
「だが、ここを見ずに済ませれば、私はまた同じことをする」
ガルナの声が低く響いた。
「だから見る。私を縛ったものを。私が誰かを縛って逃げた始まりを」
ミリアは何も言えなかった。
ガルナの喉の痕から、黒い煙のようなものが上がる。
それは苦しみなのか、怒りなのか、ミリアにはわからない。
ネリスがミリアの手首で震えた。
「ガルナ」
白蛇の口から、小さな声が漏れた。
ガルナが振り返る。
金色の目が、少しだけ柔らかくなった。
「ネリス」
「もう、戻って」
ネリスの声は弱かった。
「私は、あなたを縛っていました」
「そうだ」
「でも、あなたがもう一度縛られるのは嫌です」
「そうか」
「はい」
ガルナは少し笑った。
「それを聞けただけでも、来た甲斐があった」
その瞬間、祭壇の文字が強く光った。
影たちが一斉にガルナへ手を伸ばす。
見えない首輪が、彼女の喉へかかろうとする。
ミリアの首飾りが激しく鳴った。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
喉が痛む。
だが、ミリアは立ち上がった。
「やめて!」
叫んだ瞬間、首輪が締まる。
息が詰まった。
同時に、ネリスが手首で苦しそうに身を捩る。
それでも、ミリアは祭壇に一歩踏み込んだ。
ガルナが振り向く。
「来るなと言った!」
「あなたも、行くなと言われて行ったでしょう!」
ミリアは喉の痛みに耐えながら言った。
「人のことを言えません!」
ガルナが一瞬、呆れたような顔をした。
こんなときに。
ミリアは影たちを睨んだ。
「山は王のものじゃない」
影たちの動きが止まった。
声が、頭の中でざわめく。
山は王のもの。
水は王のもの。
獣は王のもの。
「違う」
ミリアは言った。
「ガルナも、王のものじゃない」
首輪が喉を締める。
言葉を遮ろうとしている。
でも、ミリアは続けた。
「でも、ガルナが私を犠牲にしていい理由にもならない」
ガルナの目が見開かれた。
「誰かを所有する言葉も、誰かを犠牲にして逃げる言葉も、同じくらい嫌だ」
影たちが揺らぐ。
ネリスが手首から少女の姿へ戻った。
不安定な姿だった。輪郭が透け、立っているだけで消えそうだ。それでも彼女はミリアの横に立った。
「私は、首輪でした」
ネリスが言った。
声は小さい。
だが、祭壇に響いた。
「誰かを縛るためだけに生まれました。ガルナを縛り、ミリアを騙し、また誰かを縛る道を探そうとしました」
彼女は自分の胸元を押さえる。
「でも、私はもう、それだけではいたくありません」
祭壇の文字がひび割れたように光を乱す。
ガルナがゆっくり息を吐いた。
「私は」
彼女の声は、山鳴りのようだった。
「縛られていた。だから、誰かを縛ってもよいと思った」
影たちがざわめく。
「だが、それでは私を縛った者たちと同じだった」
その言葉が落ちた瞬間、ガルナの喉の黒い痕から光が消えた。
祭壇の影たちが崩れ始める。
完全に消えるのではない。だが、形を保てなくなり、石の間へ染み込むように薄れていく。
最後に残った一つの影が、ガルナへ手を伸ばした。
首輪をかけようとする手だった。
ガルナはその手を掴んだ。
「もう遅い」
そう言って、握り潰した。
音はしなかった。
ただ、祭壇の石柱の一本が、根元から崩れた。
静けさが戻った。
ミリアはその場に膝をついた。
喉が痛む。息が荒い。ネリスも隣で倒れかけていたので、ミリアは反射的に腕を伸ばし、支えた。
支えてから、少し気まずくなった。
ネリスも同じようだった。
けれど、今は離れなかった。
ガルナが二人を見下ろした。
「無茶をする」
「あなたにだけは言われたくありません」
「それもそうだ」
ガルナは祭壇を見回した。
「完全には消えていない」
「わかります」
ミリアは喉に触れた。
首輪はまだ鳴っている。
ただ、さっきよりは遠い音だった。
「でも、少しは壊れましたか」
「少しは」
ガルナは答えた。
「この場所は、もう私を縛れぬ」
「よかったですね」
ミリアが言うと、ガルナは彼女を見た。
「おまえのおかげだとは言わぬぞ」
「言われたら怖いです」
「だが」
ガルナは少しだけ口元を緩めた。
「おまえが来なければ、私はまた一人で耐えようとしただろう」
ミリアは目を伏せた。
「一人で耐えるの、好きですね」
「慣れている」
「慣れないほうがいいです」
ガルナは黙った。
ネリスが小さく言った。
「私も、慣れていました」
ミリアはネリスを見る。
「ガルナを縛るものとしていることに。謝ることに。許されない場所に立つことに。慣れていると思っていました」
「今は?」
「慣れたくありません」
ネリスは答えた。
ミリアは何も言わなかった。
許しではない。
和解でもない。
けれど、三人は今、同じ祭壇の上にいた。
誰かを縛るための場所に。
誰も新しく縛らずに立っていた。
*
夜明け前、三人は石柱の場所へ戻った。
火はほとんど消えかけていた。
ミリアは灰の中に残った赤い火を枝でつつき、少しだけ炎を戻した。
体は疲れていた。
喉も痛い。
ネリスは白蛇の姿で、ミリアのそばに丸まっている。ガルナは少し離れて、折れた石柱にもたれていた。
しばらく、誰も喋らなかった。
朝の青い光が、山の端から少しずつ広がっていく。
ミリアはガルナの喉を見た。
黒い痕はまだある。
消えたわけではない。
だが、昨日より少しだけ薄くなったように見えた。
「それ」
ミリアは指で示した。
「少し薄くなりました?」
ガルナは自分の喉に触れた。
「そうかもしれぬ」
「痛みは」
「ある」
「消えないんですね」
「消えなくてよい」
ガルナは言った。
「消えれば、また忘れる」
ミリアはその言葉を黙って受け取った。
忘れないための痕。
それは重い。
でも、たぶん必要なのだろう。
「ガルナ」
「何だ」
「あなたは、山へ戻りたいんですか」
ガルナは山の奥を見た。
長い沈黙があった。
「わからぬ」
意外な答えだった。
「戻りたいと思っていた。首輪が外れれば、山へ戻るのだと思っていた。だが、山はもう昔の山ではない。川も変わった。木も変わった。私も変わった」
「そうですか」
「それに」
ガルナはミリアと、ミリアのそばで眠る白蛇を見た。
「まだ、おまえたちを放ってはおけぬ」
ミリアは眉を寄せた。
「責任を感じているんですか」
「少しはな」
「少し」
「大きく言うと嘘になる」
ミリアは呆れた。
「本当に、嘘の慰めが嫌いなんですね」
「嫌いだ」
「でも、少しでも責任を感じているなら、十分です」
ガルナは不思議そうな顔をした。
「十分なのか」
「今は」
ミリアは首飾りを触った。
「全部をいきなり求めたら、重すぎます」
リィナの村でも、ロゼリアの町でも、イリゼの神殿でも、そうだった。
一度で全部を変えることはできない。
でも、一つだけ止めることはできる。
少しだけ待たせることはできる。
言葉を一つ、自分のものに戻すことはできる。
ガルナの責任も、ネリスの謝罪も、ミリアの怒りも、一度に形をつけるには重すぎる。
だから、今は少しでいい。
ネリスが目を覚ました。
白蛇の黒い目が、ミリアを見上げる。
「起きた?」
ミリアが聞くと、白蛇は小さく頷いた。
「少し、眠りました」
「そのままでもいいよ」
「はい」
白蛇はまた丸くなった。
けれど、今度はミリアの袖の近くへ寄ってきた。
ミリアは少し迷い、袖口を開けた。
白蛇はさらに迷った。
そして、そっと袖の中へ入った。
冷たい体が、手首の内側に触れる。
ミリアは何も言わなかった。
ネリスも何も言わなかった。
許したわけではない。
ただ、朝の山は冷えた。
それだけでいいことにした。
ガルナが立ち上がった。
「行くぞ」
「どこへ」
ミリアが聞く。
「山を越えた先に、古い街がある。契約術師たちの記録が残っているかもしれぬ」
「首輪のことが?」
「少しは」
「本当ですか」
「本当かどうか、行けばわかる」
ミリアはため息をついた。
「あなたも、よくわからないと言いますね」
「わからぬものは、わからぬ」
「ガルナが言うと、腹が立つけど安心もします」
「複雑だな」
「複雑なんです」
ミリアは立ち上がった。
首飾りはまだ喉にある。
冷たく、外れない。
だが、山の朝の空気を吸うと、少しだけ喉が広がる気がした。
祭壇は壊れきっていない。
首輪も外れていない。
ネリスは弱っている。
ガルナの罪も消えない。
何も解決していない。
それでも、三人の間にあったものは、少しだけ形を変えた。
被害者であることは、加害の免罪符にはならない。
加害者であることは、苦しんだ過去を消すわけでもない。
許せない相手でも、隣で倒れたら手を伸ばしてしまうことがある。
その全部を抱えたまま、歩くしかない。
ミリアは袖の中の白蛇をつぶさないように気をつけながら、ガルナの後を追った。
折れた石柱の間を抜けるとき、首輪が一度だけ鳴った。
ちりん。
けれど、その音は昨日より小さかった。
まるで、首輪自身が少しだけ不機嫌になっているようだった。
ミリアは小さく笑った。
「思い通りにならないのは、そっちも同じだよ」
誰にも聞こえないように呟く。
すると袖の中で、白蛇がほんの少し身じろぎした。
聞こえていたのかもしれない。
ミリアは何も言わず、山道を歩き出した。




