第五章 魔力を搾られる聖女
ロゼリアの町を出てから、ミリアは何度も首元に手をやった。
首飾りはそこにある。
相変わらず冷たく、相変わらず美しく、相変わらず外れない。
だが、リィナの前で「渡さなかった」あとから、少しだけ様子が違っていた。
締めつけるのではない。
痛むのでもない。
ただ、ときどき、喉の内側で小さく鳴る。
金属の音ではなかった。
飢えた獣が、歯を鳴らすような音だった。
「聞こえるか」
ガルナが前を歩きながら言った。
ミリアは返事をしなかった。
「聞こえるのだな」
「あなたには?」
「聞こえぬ」
「なら、どうしてわかるんですか」
「顔に出ている」
ミリアは腹立たしくなり、首元の布を強く巻き直した。
「私は大丈夫です」
「大丈夫な者は、そう頻繁に喉を触らぬ」
「あなたに言われたくありません」
ガルナは、自分の喉に残る黒い痕に触れた。
人の姿をしていても、その痕だけは消えない。首輪が長い時間をかけて刻みつけた焼け跡のように、皮膚の奥に沈んでいる。
「私は大丈夫ではなかった」
ガルナは淡々と言った。
「だから、譲った」
ミリアは言葉を失った。
責めるつもりで見たのに、ガルナはそれを責めとして受け取らなかった。事実として置いただけだった。
そういうところが、ずるい。
罪を軽くしようともしない。言い訳もしない。
ただ、自分のしたことの重さを、重いまま持って歩いている。
だからといって、許せるわけではない。
後ろから、小さな咳が聞こえた。
ミリアは振り返った。
ネリスが白い顔をして歩いている。片手を口元に当て、もう片方の手で胸元を押さえていた。白い髪が乾いた風に揺れている。昨日よりも、輪郭が薄い。
「また蛇に戻れば」
ミリアは言った。
「歩けます」
「そうじゃなくて」
「大丈夫です」
「それも違う」
ネリスは困ったように笑った。
「では、何と言えばいいのでしょう」
ミリアは返事に詰まった。
自分でもわからなかった。
心配していると言いたくない。
無理をするなとも言いたくない。
かといって、黙って消えそうな顔で歩かれるのも嫌だった。
「……歩けなくなる前に言って」
それだけ言うと、ネリスは少し驚いた顔をした。
「はい」
嬉しそうにしないでほしい。
ミリアはそう思った。
でも、ネリスは少しだけ嬉しそうだった。
道は少しずつ広くなっていった。
銀山の煙は遠ざかり、代わりに白い塔が見えてきた。丘の上に建っている。塔の先には鐘が吊られ、風が吹くたびに音もなく揺れていた。
その下に町があった。
白い壁の家々。
石畳の広場。
水路には水が流れている。
リィナの村とは違い、ここには潤いがあった。市場には布や果物や陶器が並び、巡礼者らしい人々が列を作って歩いている。
「神殿町だ」
ガルナが言った。
「神殿?」
「あの白い塔の下にある」
ミリアは丘の上を見た。
塔の根元に、大きな建物がある。白い石で造られ、入り口には細い柱が並んでいた。壁には蔦のような模様が彫られている。遠目には美しかった。
けれど、近づくにつれ、ミリアの首飾りが冷たく鳴り始めた。
ちり、と。
喉の奥で、細い針が触れるように。
ミリアは足を止めた。
「どうした」
ガルナが振り返る。
「首輪が」
その言葉を口にした瞬間、また音が鳴った。
今度ははっきりと。
ちりん。
鐘の音に似ていた。
丘の上の白い塔には、まだ風しか触れていない。鐘は鳴っていない。
なのに、ミリアの喉の内側で、見えない鐘が鳴った。
ネリスが両手で耳を押さえた。
「ネリス?」
ミリアが声をかけると、ネリスは苦しそうに首を振った。
「ここは……近いです」
「近い?」
「首輪に」
ミリアは白い神殿を見上げた。
「神殿が?」
ガルナの金色の目が細くなった。
「なるほどな」
「何がですか」
「古い契約の匂いがする」
「契約」
その言葉に、ミリアは嫌なものを感じた。
首輪もまた、契約で動く。
誰かが欲しいと言い、持ち主が譲る。
言葉と意志が揃って、呪いが移る。
この神殿にも、似たものがあるのだろうか。
「避けましょう」
ネリスが言った。
声が小さかった。
「ここには入らないほうがいいです」
「なぜ」
「首輪が反応しています。たぶん、神殿の中に同じ種類の術があります」
「同じ種類?」
「誰か一人に、何かを背負わせる術です」
ミリアは丘の上を見た。
神殿の門には、白い服を着た少女たちが並んでいる。
巡礼者に水を配り、足の悪い老人を支え、泣いている子供の額に手を当てている。その姿は清らかに見えた。美しく、優しく、どこか作り物のように静かだった。
その中央に、一人の少女がいた。
他の少女たちより、少し年上に見える。
十七か、十八か。薄い金色の髪を編み、額に白い布を巻いている。胸元には、銀の小さな環が下がっていた。首飾りというより、祈りの印のようだった。
彼女が老人の手を取ると、老人の曲がっていた背が少し伸びた。
子供の額に触れると、子供の泣き声が止んだ。
巡礼者たちが口々に感謝を述べる。
少女は笑っていた。
けれど、ミリアはその笑顔を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
ネリスの笑顔に似ていたからだ。
泣きそうなのに、笑う顔。
「聖女候補だな」
ガルナが言った。
「候補?」
「まだ正式な聖女ではない。だが力を持っている」
「力」
「人の痛みや病を受け、浄め、神殿へ捧げる力。人間はそう呼ぶ」
ミリアは少女を見た。
彼女はまた別の巡礼者の手を取っている。触れた瞬間、巡礼者の顔色がよくなった。周囲が歓声を上げる。
その直後、少女の肩が小さく揺れた。
誰も気づかない。
ミリアだけが見た。
「受けているんじゃないですか」
ミリアは言った。
「痛みを」
ガルナは答えなかった。
ネリスが白い顔で呟いた。
「行きましょう」
「ネリス」
「行きましょう、ミリア」
その声には、珍しく焦りがあった。
「ここにいると、首輪が起きます」
「もう起きている」
ミリアは言った。
喉の内側で、首飾りが鳴っている。
ちりん。
ちりん。
神殿の見えない鐘に呼ばれているようだった。
そのとき、門の前の少女がふらついた。
隣にいた白衣の女が、すぐに彼女の腕を支える。
女は優しそうに笑いながら、少女の耳元で何かを囁いた。
少女はうなずいた。
そして、また巡礼者の前に立った。
「休ませないんだ」
ミリアの声は低くなった。
ガルナがミリアを見た。
「やめておけ」
「何を」
「足を止めるな」
「まだ何もしていません」
「顔がしている」
「どんな顔ですか」
「罠にかかった蛇を見つけたときの顔だ」
ミリアは息を呑んだ。
ネリスが俯いた。
「私は」
ミリアは喉元を押さえた。
「私は、もう同じ間違いはしません」
「同じかどうかは、終わってみなければわからぬ」
ガルナはそう言った。
「だが、行くのだろう」
ミリアは神殿へ歩き出した。
門に近づくと、白衣の女がこちらに気づいた。
歳は三十過ぎだろうか。整った顔に柔らかい笑みを浮かべている。首からは金の鎖を下げ、袖口には白い刺繍があった。神殿の上位の者らしい。
「巡礼の方ですか」
女は穏やかに言った。
「旅の者です」
ミリアは答えた。
「水をいただけると聞いて」
「もちろんです。白鐘の神殿は、すべての旅人を歓迎いたします」
女はミリア、ガルナ、ネリスの順に目を向けた。
ガルナを見たとき、ほんの少しだけ笑みが固くなった。ネリスを見たときは、目の奥に興味が浮かんだ。
そして、ミリアの首元を見た。
布で隠している。
だが、女の目はその下に何かを見たようだった。
「立派なものをお持ちですね」
ミリアは首元を押さえた。
「何のことですか」
「いいえ」
女は笑った。
「この町には、古い祈りに呼ばれて来る方が多いのです」
その言い方が、ミリアは嫌だった。
呼ばれて来た。
たしかに首輪は鳴っている。
だが、自分で来たつもりだった。呼ばれたのだと言われると、足元から自分の意思を抜かれるような気がした。
「私は呼ばれていません」
「そうですか」
女は否定しなかった。
「私は祭司長のオルファと申します。こちらは聖女候補のイリゼ」
門の中央にいた少女が、こちらを向いた。
近くで見ると、イリゼはミリアより少し年下だった。
薄金の髪。透き通るような肌。長い睫毛。美しいというより、薄い。触れれば消えてしまいそうな薄さだった。
「旅の方ですね」
イリゼは微笑んだ。
声は澄んでいた。
でも、弱かった。
「お水を」
彼女が水差しを取ろうとしたので、ミリアは慌てて手で制した。
「自分でできます」
「でも」
「あなたは座ってください」
イリゼが驚いた顔をする。
祭司長オルファも、少し目を細めた。
「お優しいのですね」
オルファが言った。
「ですが、イリゼは自分の務めを喜んで果たしております。ねえ、イリゼ」
イリゼは一瞬だけ目を伏せた。
それから、うなずいた。
「はい。私は、皆さまのお役に立ちたいのです」
その言葉はきれいだった。
きれいすぎた。
ミリアは、リィナの言葉を思い出した。
私も、そんなものがあれば、ここから出られるのかな。
人は、自分が本当に欲しいものの名前を、いつも正しく言えるわけではない。
「役に立ちたいことと、倒れるまで力を使うことは同じですか」
ミリアが言うと、周囲の空気が変わった。
オルファの笑みが薄くなる。
「旅の方。神殿の務めには、外からはわからぬこともございます」
「そうでしょうね」
「イリゼの力は天から与えられたものです。その力で苦しむ方々を救うことは、彼女自身の望みでもあります」
「本人に聞いてもいいですか」
オルファの目が、わずかに冷えた。
「もちろんです」
その声は、もちろんと言いながら、聞くなと言っていた。
ミリアはイリゼを見る。
「あなたは、救いたいの?」
イリゼはすぐにうなずいた。
「はい」
「では、休みたい?」
イリゼの唇が、少し開いた。
答えは出てこなかった。
その沈黙を、オルファが埋める。
「聖女候補に休みは必要です。ですが、今日の巡礼者は遠方から」
「私は、イリゼに聞いています」
ミリアは言った。
オルファの顔から、笑みが消えた。
イリゼは胸元の銀の環を握った。
それは小さな飾りだった。だが、よく見ると、首輪に浮かんだものと似た文様が刻まれている。蔦のようで、鎖のようで、文字のような模様。
ミリアの首飾りが熱くなった。
ちりん。
見えない鐘が鳴る。
イリゼも、はっとしたようにミリアの喉元を見た。
「あなたの、それ」
イリゼが呟いた。
「鳴っています」
ミリアは息を止めた。
「聞こえるの?」
「はい」
イリゼは一歩近づいた。
「不思議。神殿の鐘と同じ音がする。でも、もっと古い」
ネリスがミリアの袖をつかんだ。
「だめです」
小声だった。
「ミリア、ここは」
言い終える前に、イリゼが言った。
「きれい」
その言葉に、首輪が反応した。
布の下で、輪が震える。
ミリアは喉を押さえた。
イリゼは夢を見るような目で、ミリアの首元を見ていた。
「私の環より、ずっときれい」
オルファの目に、鋭い光が走った。
「イリゼ」
名前を呼ばれ、イリゼは我に返ったように肩を震わせた。
「すみません」
ミリアは布を押さえたまま言った。
「これは、きれいなものじゃない」
「でも」
「あなたの環も、きれいなものじゃない」
イリゼの顔がこわばった。
オルファが前へ出る。
「旅の方。これ以上は」
「この環は何ですか」
ミリアはイリゼの胸元を指した。
「聖女候補の証です」
オルファが答える。
「証というより、契約ですね」
ガルナが低く言った。
オルファが初めて、はっきりとガルナを見た。
「あなたは」
「ただの旅人だ」
「ただの旅人は、そのような目をしておりません」
「おまえもただの祭司ではないな」
ガルナの金色の目が細くなる。
「古い術の臭いがする。花嫁契約、聖女契約、忠誠契約、王家の血契約。人間は、名を変えて同じ鎖を作る」
オルファの顔が固まった。
「不敬です」
「事実だ」
ガルナは神殿を見上げた。
「この建物は祈りで白いのではない。押しつけた役目を白く塗っているだけだ」
周囲の巡礼者たちがざわめいた。
神殿の下働きの少女たちが顔を見合わせる。何人かの神官が門の奥から出てきた。
オルファは声を低くした。
「お引き取りください」
「その子を休ませたら帰ります」
ミリアは言った。
「イリゼは休む必要など」
「ある」
今度はイリゼ自身が言った。
オルファが振り返る。
「イリゼ?」
イリゼは震えていた。
でも、ミリアを見ていた。
「少しだけ、座りたいです」
その一言に、神殿の空気が凍った。
たったそれだけ。
座りたい。
それだけの言葉が、まるで禁じられた呪文のようだった。
オルファの笑みが戻った。
だが、それはもう優しいものではなかった。
「もちろんです。ですが、あと三人だけ癒やせば」
「今、座りたいです」
イリゼは言った。
声は震えていた。
けれど、二度目は少し強かった。
ミリアはイリゼの横に立った。
「座ろう」
イリゼがうなずく。
その瞬間、胸元の銀の環が白く光った。
イリゼの体が硬直する。
ミリアの首輪も同時に鳴った。
ちりん。
今度は痛みを伴っていた。
ミリアは思わず喉を押さえる。
イリゼは胸元を押さえ、膝をついた。
「イリゼ!」
オルファが叫ぶ。
だが、その声は心配よりも焦りに近かった。
「契約に逆らうからです」
オルファは言った。
「聖女候補は、求められた癒やしを拒めません。そう誓ったのですから」
「誓った?」
ミリアはイリゼの肩を支えた。
「いつ」
イリゼは苦しそうに息をした。
「七つのとき」
「七つ?」
「妹が、選ばれそうだったから」
イリゼは目を閉じた。
「私が言いました。私でいいって。妹ではなく、私でいいって」
ミリアの胸が痛んだ。
私でいい。
それは望みだろうか。
それとも、誰かを守るために自分の首を差し出した言葉だろうか。
オルファが言った。
「立派な誓いです。イリゼは幼くして、自分の役目を理解しておりました」
「違う」
ミリアは言った。
喉が痛む。
首輪が反応している。
この神殿の契約と、首輪は近い。
言葉と意志を縛る術。
誰か一人に役目を押しつけ、その人の我慢を燃料にして周囲が助かる仕組み。
形が違うだけだ。
「それは、望みじゃない」
ミリアは言った。
「妹を守るために、自分を差し出しただけだよ」
イリゼが目を開けた。
オルファの声が鋭くなる。
「黙りなさい」
「黙りません」
「部外者が、聖女契約を侮辱することは許されません」
「その契約は、本人が今休みたいと言っただけで罰を与えるものなんですか」
オルファは答えなかった。
代わりに、神殿の奥で鐘が鳴った。
今度は本物の鐘だった。
白い塔の鐘が、重く鳴り響く。
その音に合わせて、イリゼの銀の環が強く光った。
ミリアの首輪も熱くなる。
ネリスが悲鳴を上げた。
ミリアは振り返った。
ネリスが喉を押さえて膝をついていた。
「ネリス!」
ミリアが駆け寄ろうとすると、首輪が強く締まった。
息が止まる。
同時に、ネリスも苦しそうに身を折った。
ミリアはそこで、初めて気づいた。
自分の痛みと、ネリスの痛みが重なっている。
首輪が締まると、ネリスも苦しむ。
首輪が鳴ると、ネリスも揺れる。
同じ輪に、二人が繋がっている。
「やめろ」
ガルナの声が響いた。
彼女の背後に、巨大な影が立ち上がる。
神殿の白い柱が、びりびりと震えた。
オルファは引かなかった。
「魔物が神殿を脅すのですか」
「脅しではない」
ガルナの目が金色に燃えた。
「警告だ」
そのとき、イリゼがミリアの手をつかんだ。
「私」
声は細かった。
「私は、助けたいです」
ミリアはイリゼを見た。
「うん」
「でも」
イリゼの目から涙が落ちた。
「吸われ続けたいとは、言ってない」
その言葉が落ちた瞬間、銀の環に亀裂が入った。
小さな音だった。
だが、神殿の鐘よりもはっきり聞こえた。
オルファの顔色が変わる。
「イリゼ、取り消しなさい」
「いいえ」
イリゼは首を振った。
「私は、助けたい。苦しんでいる人がいたら、手を伸ばしたい。でも、休みたい。眠りたい。痛いときは、痛いと言いたい」
銀の環の光が乱れる。
「私は、器じゃない」
亀裂が広がった。
神殿全体が揺れた。
白い壁に刻まれた蔦模様が光り始める。
それは飾りではなかった。契約の文字だった。壁、柱、床、鐘楼。神殿全体が、一つの大きな契約具だったのだ。
オルファが叫ぶ。
「止めなさい! 聖女契約が切れれば、この町の浄化が止まります。病も穢れも、誰が引き受けるのです!」
ミリアは立ち上がった。
「誰か一人じゃなくていい」
「何を」
「みんなで少しずつ引き受ければいい」
自分で言いながら、まだ形になっていない考えだった。
だが、リィナの村で思ったことと同じだった。
一人の娘を売れば家族が助かる。
一人の聖女が痛みを引き受ければ町が助かる。
一人の魔物に首輪をかければ山が静まる。
一人の自分が誰かに首輪を渡せば自由になる。
どれも同じだ。
誰か一人の首に、みんなの重さをかける。
それを美しい言葉で呼んでいるだけだ。
「契約を切る」
ミリアは言った。
ガルナがこちらを見た。
「おまえに切れるのか」
「わからない」
「正直だな」
「でも、この首輪は反応してる」
ミリアは喉に触れた。
「同じ種類なら、近づけるかもしれない」
ネリスが顔を上げた。
「だめです」
「またそれ?」
「本当にだめです。神殿の契約が流れ込めば、あなたの首輪が受けます。あなたが」
ネリスは息を詰めた。
「壊れます」
「イリゼはもう壊れかけてる」
「だからって、あなたが」
「あなたも痛むんだよね」
ネリスが黙った。
その沈黙が答えだった。
ミリアは胸の奥が冷えるのを感じた。
やはり、繋がっている。
「どうして言わなかったの」
「言えば」
ネリスの声が震えた。
「あなたは、私を気にするから」
「気にしないと思った?」
「気にしてほしくなかった」
「勝手に決めないで」
ミリアの声が強くなった。
「私が何を気にするか、あなたが決めないで」
ネリスは目を見開いた。
泣きそうな顔だった。
ミリアはイリゼの銀の環に手を伸ばした。
オルファが叫ぶ。
「触れてはいけません!」
ガルナが一歩前に出た。
それだけで、オルファは動けなくなった。
「触れ」
ガルナが言った。
「倒れたら拾ってやる」
「もっと優しい言い方はないんですか」
「生きていたら考える」
ミリアは少しだけ笑いそうになった。
こんなときなのに。
それから、イリゼの胸元の銀の環に触れた。
世界が反転した。
音が消えた。
代わりに、無数の声が流れ込んできた。
助けて。
痛い。
苦しい。
治して。
清めて。
祈って。
あなたならできる。
聖女でしょう。
選ばれたのでしょう。
あなたが受ければ、みんな助かる。
声は、水ではなかった。
泥だった。
喉に入り、胸に入り、腹に入り、体の内側を重くしていく。ミリアは息ができなかった。首輪が焼けるように熱くなり、喉を締め上げる。
イリゼが叫んだ。
ネリスも叫んだ。
同じ痛みが、三人の間を走った。
ミリアは手を離そうとした。
離れない。
銀の環と首輪が繋がっている。
神殿の契約が、ミリアの首輪を新しい器として見つけたのだ。
来るな。
ミリアは心の中で叫んだ。
これは私の首輪だ。
いや、違う。
私のものではない。
でも、この首輪を使って、また誰かを縛らせるわけにはいかない。
イリゼの痛みが流れてくる。
町の祈りが流れてくる。
神殿の白い壁に染み込んだ、何年分もの「誰かが引き受ければよい」という願いが流れ込んでくる。
ミリアは歯を食いしばった。
引き受けない。
押しつけない。
でも、見捨てない。
その言葉が、胸の奥で形になった。
首輪が激しく鳴った。
ちりん、ではない。
割れるような音だった。
ミリアはイリゼの手を握った。
「言って」
声は掠れていた。
「あなたの言葉で」
イリゼは泣きながら頷いた。
「私は」
銀の環が白く燃える。
「私は、助けたい」
神殿の鐘が鳴る。
「でも、私だけが器になる契約は、いらない」
その瞬間、銀の環が砕けた。
白い光が広場に散った。
神殿の壁の文字が一斉に消え、塔の鐘が音もなく揺れた。巡礼者たちは悲鳴を上げ、神官たちは膝をついた。オルファが何かを叫んだが、ミリアには聞こえなかった。
首輪が喉を締めた。
さっきまでとは違う。
殺すつもりの締め方だった。
ミリアは息ができず、膝から崩れ落ちた。
遠くで、ネリスの声がした。
「ミリア!」
それが聞こえたのを最後に、ミリアの視界は白く閉じた。
*
目を覚ますと、石の天井が見えた。
白い天井ではない。
古い宿の、煤けた天井だった。
ミリアは息を吸った。
喉が痛い。焼けたように痛む。けれど、息は入ってきた。
首飾りはまだあった。
外れてはいない。
ミリアはそのことに、落胆したのか安堵したのか、自分でもわからなかった。
「起きたか」
ガルナの声がした。
ミリアは顔を横に向けた。
宿の部屋だった。窓は閉じられ、薄い夕明かりが差している。ガルナは椅子に腰掛けている。腕を組み、眠っていたわけでもないのに、少し疲れた顔をしていた。
「イリゼは」
ミリアが聞くと、喉が痛んだ。
「生きている」
「契約は」
「切れた」
ミリアは目を閉じた。
よかった。
そう思った瞬間、体の力が抜けた。
「ただし、神殿は大騒ぎだ。聖女契約が壊れ、町の浄化が止まり、祭司長は怒り、巡礼者は泣き、下働きの娘たちは少し笑っていた」
「最後だけ、よかった」
「そうだな」
ガルナは言った。
「祭司長は?」
「私が少し脅した」
「少し」
「少しだ」
ミリアは深く聞かないことにした。
部屋の隅に、ネリスがいた。
白蛇の姿で、小さく丸まっている。
いつもよりさらに小さく見えた。
「ネリス」
ミリアは起き上がろうとした。
喉と胸に痛みが走る。ガルナが手を伸ばし、無理に起きるなと言うように押し戻した。
「動くな」
「ネリスは」
「生きている」
「そうじゃなくて」
「おまえが倒れたとき、あれも倒れた」
ガルナは白蛇を見た。
「首輪が締まれば、ネリスも締まる。おまえが契約を受けかけたとき、ネリスにも流れた」
ミリアは唇を噛んだ。
「知っていたんですか」
「確かではなかった」
「今は?」
「確かになった」
ミリアは白蛇を見つめた。
白蛇は動かない。
息はしている。かすかに、体が上下している。だが、弱い。
「同じエネルギーを共有しているんですね」
ミリアは言った。
ガルナがわずかに眉を上げた。
「そこまで気づいたか」
「首輪が痛むと、ネリスも痛む。首輪が神殿の契約に反応すると、ネリスも苦しむ」
ミリアは喉元に触れた。
「この首輪の呪いが弱れば、ネリスも弱るんですか」
ガルナは答えなかった。
沈黙が答えだった。
ミリアは目を閉じた。
わかってしまった。
誰にも渡さなければ、首輪は弱る。
それはミリアにとって救いのはずだった。
けれど、首輪から生まれたネリスもまた、同じ力で生きている。
首輪が飢えれば、ネリスも飢える。
首輪が弱れば、ネリスも消えていく。
誰も犠牲にしないための旅。
そう呼んだ。
でもその「誰も」の中に、ネリスは入っていなかったのか。
白蛇が小さく身じろぎした。
ミリアはそっと手を伸ばした。
途中で止める。
触れていいのかわからなかった。
ネリスは、ミリアを騙した。
首輪を押しつけた。
許したわけではない。
でも、消えてほしいわけでもない。
ミリアの指先が震えた。
「触れればいい」
ガルナが言った。
「許すことにはならぬ」
ミリアはガルナを見た。
「あなた、時々すごく嫌なことを正しく言いますね」
「得意だ」
「褒めてません」
ミリアは白蛇に触れた。
冷たかった。
でも、生きている冷たさだった。
白蛇は目を開けた。
黒い小さな目が、ミリアを見る。
「ミリア」
声は、ほとんど息だった。
「ごめんなさい」
ミリアは小さく息を吐いた。
「謝らないでって、何度言えばいいの」
「でも」
「謝る力があるなら、寝て」
ネリスは少しだけ目を細めた。
笑ったのかもしれない。
「怒っていますか」
「怒ってる」
「はい」
「でも、死なれたら困る」
ミリアは言った。
言ってから、胸が痛くなった。
ネリスは返事をしなかった。
ただ、小さく体を丸め、ミリアの指先に頭を預けた。
それは、信頼というには弱すぎた。
赦しというには早すぎた。
けれど、拒絶ではなかった。
ガルナが窓の外を見た。
「神殿の契約は切れた。だが、この町はこれから揉める」
「イリゼは?」
「神殿を出るそうだ。下働きの娘たちの何人かも一緒に行くらしい。癒やしをやめるわけではない。ただ、神殿に吸われるのをやめると言っていた」
「強いね」
「おまえが言わせた」
「私は、少し手を貸しただけ」
「少しで人は変わることもある」
ミリアは黙った。
リィナも、イリゼも、少しだけ何かが変わった。
だが、ミリア自身はどうだろう。
首輪はまだある。
外れていない。
むしろ、今日のことで喉の奥に深く根を張った気もする。
それでも、一つだけ変わったことがある。
ミリアはもう、首輪だけを敵だと思えなくなっていた。
首輪は呪いだ。
けれど、その呪いの中にネリスがいる。
首輪を弱らせれば、ネリスも弱る。
首輪を誰かに渡せば、ネリスは生き延びるかもしれない。けれど、別の誰かがミリアと同じ顔をする。
ミリアは天井を見上げた。
答えは、さらに遠くなった。
でも、はっきりしたこともある。
誰か一人を器にする仕組みは、どこにでもある。
村の借金にも。
神殿の契約にも。
魔物の首輪にも。
それを一つずつ見てしまった以上、もう知らないふりはできない。
「ガルナ」
「何だ」
「首輪は、誰が作ったんですか」
ガルナはすぐには答えなかった。
「私を封じた人間たちが使った。だが、あれを一から作ったのは、おそらくもっと古い者たちだ」
「古い者たち」
「誰か一人に役目を押しつければ、世界は簡単になる。そう考えた者たちだ」
ミリアは喉元に触れた。
「簡単にされた側は、たまらないね」
「そうだな」
ガルナの声は静かだった。
白蛇が、ミリアの指先で眠っている。
ミリアはその小さな体温を感じながら、目を閉じた。
首輪は、まだ外れない。
外し方もわからない。
外せばネリスがどうなるのかもわからない。
それでも、今日わかった。
これは自分一人の首輪ではない。
ミリアの喉にある小さな輪は、この世界のあちこちにある大きな輪と繋がっている。
その輪を、誰か一人の首から外すだけでは足りない。
誰かを器にしなければ回らない仕組みそのものを、どこかで壊さなければならない。
そんなことが自分にできるとは、まだ思えなかった。
けれど、イリゼは言った。
私は助けたい。
でも、私だけが器になる契約は、いらない。
ミリアはその言葉を、喉の痛みと一緒に覚えておこうと思った。
夜が深くなるころ、遠くで白鐘が一度だけ鳴った。
今度は、首輪は鳴らなかった。
ただ、ミリアの指先で眠る白蛇が、小さく震えた。




