第四章 婚約破棄された令嬢
リィナの村を出て二日目の夕方、道は急に整いはじめた。
乾いた畑と崩れかけた柵が少しずつ後ろへ遠ざかり、代わりに石を敷いた道が現れた。道端には低い生垣が続き、その向こうに麦畑や葡萄棚が広がっている。水路には澄んだ水が流れ、木の橋には白い花を絡ませた蔓が垂れていた。
同じ国の中なのに、少し歩いただけで土の色まで違う。
ミリアはそれを見て、リィナの村を思い出した。
ひび割れた畑。
干上がった水路。
売られそうになっても泣かなかった娘。
そして、自分の首飾りを見て、ここから出られるかもしれないと言った目。
ミリアは首元の布を押さえた。
首飾りは布の下にある。
隠していても、重さは消えない。
「このあたりは王都に近い」
ガルナが言った。
彼女は相変わらず先頭を歩いている。人の姿になってはいるが、背は高く、黒い髪は長く、金色の目は陽が落ちても光を失わない。道行く人が何度も振り返った。だが、誰も声はかけない。
人は、美しいものや珍しいものには近づきたがる。
けれど、本当に危ういものには、近づく前に体が止まるらしい。
「王都には行くんですか」
ミリアが聞くと、ガルナは首を横に振った。
「今はやめておけ」
「なぜ」
「欲しがる者が多すぎる」
ミリアは黙った。
王都。
金も人も噂も集まる場所。
そこへ行けば、この首飾りを欲しがる者はいくらでもいるのだろう。
美しいから。
高価に見えるから。
魔力があると気づくから。
あるいは、自分に足りないものを埋めてくれると思うから。
欲しいという言葉は、ときどき嘘をつく。
リィナは、そう教えてくれた。
「今日は手前の町に泊まる」
ガルナが続けた。
「小さいが、宿はある。王都へ入る者と出る者が使う町だ」
「人が多いんですね」
「そこそこな」
「首飾りを隠します」
「それがいい」
ミリアは布を巻き直した。
後ろを歩いていたネリスが、小さく咳をした。
ミリアは振り返る。
ネリスは白い顔で、手を口元に当てていた。白い髪が肩に落ち、夕方の光を受けて淡く透けて見える。まだ歩けてはいる。けれど、リィナの村を出てから、少女の姿を保っている時間がまた少し短くなっていた。
「蛇に戻ったほうがいいんじゃない」
ミリアが言うと、ネリスは首を振った。
「町に入るなら、この姿のほうがよいです」
「白い髪の女の子も目立つけど」
「蛇よりは」
「それはそうだけど」
ミリアは言葉を切った。
心配している。
それはもう自分でもわかっていた。
でも、それを素直に言うには、ネリスとの間にはまだ首輪がある。
騙したこと。
騙されたこと。
ミリアの喉にあるもの。
ネリスが首輪の精であること。
それらを飛び越えて、ただ大丈夫と聞けるほど、ミリアは優しくなかった。
あるいは、優しくなりすぎるのが怖かった。
「歩けなくなる前に言って」
それだけ言うと、ネリスは少しだけ目を伏せた。
「はい」
嬉しそうな顔をするな、とミリアは思った。
けれど、ネリスはやっぱり少しだけ嬉しそうだった。
*
町の名は、ベルノといった。
王都から馬車で半日の距離にあり、貴族の別邸や商人の倉が並ぶ町だった。大きな城壁はないが、街道沿いには白い石の門が立ち、門番が通行人を見ている。道は広く、宿屋もいくつかあった。旅人よりも、王都へ向かう商人や貴族の供人が多いようだった。
宿を探すために広場を抜けようとしたとき、騒ぎが起きた。
広場の中央に馬車が止まっていた。
黒塗りの立派な馬車だった。扉には金色の紋章が描かれている。白い鳥が、蔓に絡まっている紋章。その前に、若い女が立っていた。
女は美しかった。
淡い菫色のドレスを着て、薄茶の髪を高く結い、耳には小さな真珠を下げている。年は二十歳前後だろう。立ち姿は真っ直ぐで、背筋は折れていない。けれど、顔色は悪かった。唇は白く、目元には疲れがあった。
その女に向かって、若い男が何かを言っていた。
男は青い上着を着ていた。
身なりからして貴族だろう。顔立ちは整っている。だが、その整い方は、磨いた銀杯のように冷たかった。
「だから、話はもう終わったと言っている」
男は言った。
「君との婚約は解消された。家同士の合意も済んでいる。これ以上、広場で騒がれては困る」
「私は騒いでなどおりません」
女は静かに答えた。
「ただ、理由をお聞きしているだけです」
「理由?」
男は小さく笑った。
「理由は伝えたはずだ。君の家の商会は破綻しかけている。君の父上は王都での信用を失った。そんな家から妻を迎えることは、我が家にとって不利益でしかない」
周囲の人々がざわめいた。
女の顔がわずかにこわばった。
「それは父の事業の話です」
「娘は家の一部だろう」
男は当然のように言った。
「君個人を責めているわけではない。だが、結婚とは家と家の契約だ。価値の釣り合わぬ契約は結べない」
価値。
その言葉に、ミリアの喉の奥が冷えた。
リィナの村で見た帳面を思い出した。
銀貨。
利子。
娘の値。
ここでは帳面ではなく、婚約という言葉で同じことが行われている。
女は唇を噛んだ。
泣きはしなかった。
「では、私はどこへ行けばよいのですか」
「それは君の家で決めることだ」
男は退屈そうに答えた。
「だが、聞くところによれば、北の修道院へ入る話が進んでいるそうだね。よいことだと思う。静かな場所だ。君のような人には向いている」
「私のような人」
「一度婚約を破棄された女を、他家が喜んで迎えるとは思えない。修道院なら、名誉を保てる」
その言葉に、女の手が震えた。
ミリアは足を止めた。
ガルナが横目で見る。
「行くのか」
「まだ何も言ってません」
「顔が言っている」
「最近、そればかりですね」
「わかりやすい顔をするからだ」
ネリスが小さく言った。
「ミリア、ここは」
「行くなって?」
ネリスは少し黙った。
「あなたが傷つくと思います」
「もう傷ついてる」
ミリアは広場の中央へ歩き出した。
男が女に背を向け、馬車へ戻ろうとしている。
女はそこに立ったままだ。誰も近づかない。周囲の人々は興味深そうに見ている。気の毒そうな顔をする者もいる。けれど、誰も手を伸ばさない。
美しい女が、人前で価値を失うところを、みんな見ている。
「失礼します」
ミリアは女のそばに立った。
女が驚いたようにこちらを見る。
「あなたは」
「旅の者です」
ミリアは男を見た。
「今のお話、少しだけ聞こえました」
男は眉をひそめた。
「旅の娘が口を出すことではない」
「そうかもしれません」
「なら下がりなさい」
「でも、一つ聞きたいんです」
ミリアは言った。
「価値が釣り合わないと言いましたね」
「言ったが」
「誰の価値ですか」
男はミリアを見た。
そして、少し笑った。
「君には難しい話だ」
「簡単にしてください」
「婚約とは家同士の契約だ。家格、資産、信用、血筋。それらが釣り合うから成立する」
「では、この方の価値ではなく、この方の家の値段の話ですね」
周囲がざわめいた。
女がミリアを見つめる。
男の顔から笑みが消えた。
「言葉を選びなさい」
「選んでいます」
「無礼だ」
「価値をつけたのはあなたです」
ミリアの声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「人に価値があるとか、ないとか、そういう言い方をしたのはあなたです」
男は一歩近づいた。
「君は何者だ」
その瞬間、ガルナがミリアの背後に立った。
何も言わない。
ただ立っただけだ。
男の顔がわずかに引きつった。
ガルナは人の姿をしている。だが、人は本能でわかるのだろう。これは侍女でも護衛でもない。もっと古く、もっと危ないものだ。
「うちの娘に近づくな」
ガルナが言った。
ミリアは振り返った。
「うちの娘ではありません」
「では、首輪の持ち主」
「もっとやめてください」
ガルナは面白そうに笑った。
男はそのやりとりに戸惑ったようだったが、すぐに体面を取り戻した。
「この女の知り合いか」
彼は婚約破棄された女を指した。
女は静かに立っている。
顔色は悪いが、背筋はまだ伸びていた。
「今、知りました」
ミリアは答えた。
「名も知らぬ相手のために、私に口を出すのか」
「はい」
「馬鹿げている」
「そうかもしれません」
ミリアは女を見た。
「お名前は?」
女は一瞬迷い、それから答えた。
「ロゼリア・フェルンです」
「ミリアです」
ミリアは軽く頭を下げた。
「ロゼリアさん。あなたは、この人にまだ何か聞きたいことがありますか」
ロゼリアは元婚約者を見た。
男は苛立った顔をしている。
馬車の御者も、供人も、早くこの場を去りたい様子だった。
ロゼリアはしばらく黙っていた。
そして、首を横に振った。
「もう、ありません」
その声は静かだった。
「聞いても、同じ言葉が返ってくるだけでしょうから」
「では、行きましょう」
ミリアが言うと、ロゼリアは困惑した。
「行く?」
「ここにいると、みんなが見ます」
ミリアは周囲を見た。
見物人たちは目を逸らした。
だが、いなくなる者はいない。
「見られる理由なんて、あなたにはない」
ロゼリアの唇が少し震えた。
それでも彼女はうなずいた。
ミリアはロゼリアの手を取ろうとした。
その瞬間、ロゼリアが小さく身を引いた。
「あ」
ミリアは手を止めた。
「ごめんなさい」
「いえ」
ロゼリアは自分の手を見た。
「人前で手を取られることに、慣れていないだけです」
その言葉が、ミリアには妙に悲しく聞こえた。
ガルナが先に歩き出す。
ネリスがロゼリアの横に並んだ。
「こちらへ」
ネリスが柔らかく言うと、ロゼリアは少し安心したように歩き出した。
ミリアは最後に男を見た。
男は不快そうに眉をひそめていた。
「君は、自分が何をしたかわかっているのか」
「広場で一人の女性が値踏みされるのを止めました」
「フェルン家の問題に口を出した」
「それもしました」
「後悔するぞ」
ミリアは首元の布を押さえた。
「もうしています」
そう言って、彼女は背を向けた。
*
ロゼリアは、町外れの小さな宿に部屋を取っていた。
本来なら、婚約者の家の別邸に滞在するはずだったという。だが、婚約破棄の知らせが届いた朝、彼女の荷物は別邸から出され、宿へ運ばれていた。宿代は三日分だけ支払われている。そのあとは、フェルン家から迎えが来る予定だった。
迎え。
それは北の修道院へ向かう馬車のことらしい。
「修道院は悪いところではありません」
宿の小部屋で、ロゼリアはそう言った。
部屋は狭かった。
だが、清潔だった。窓際に小さな机があり、そこに手紙が何通も置かれている。封を切ったものと、切っていないもの。いずれも上質な紙だった。けれど、紙の白さがかえって冷たく見えた。
「貴族の娘が身を寄せることもあります。教育も受けられますし、祈りの生活は静かだと聞いています」
「行きたいんですか」
ミリアが聞くと、ロゼリアは黙った。
それが答えだった。
ガルナは壁にもたれている。
狭い部屋では、彼女はますます大きく見えた。ネリスは窓際に立っている。白い髪が夕明かりに溶けそうだった。
ロゼリアは椅子に腰掛け、手を膝の上で重ねていた。
その姿は整っている。美しく、礼儀正しく、崩れていない。
崩れることを許されていないのだろう、とミリアは思った。
「私の家は、王都で香料と染料を扱う商会でした」
ロゼリアはゆっくり話し始めた。
「祖父の代までは順調でした。父は新しい航路に手を出し、失敗しました。船が二隻戻らず、借金が残り、取引先が離れました」
「それで婚約を?」
「もともと、私の婚約は家を立て直すためのものでした。相手の家は古い爵位を持っていますが、資金が必要だった。こちらは資金と商会の繋がりを出す。向こうは家名を出す。そういう話です」
ロゼリアは淡く笑った。
「釣り合っていたころは、私はよい花嫁でした」
その言い方が、ミリアの胸に刺さった。
「今は?」
「今は、損をする花嫁です」
「あなたが?」
「私の家が」
「でも、その言い方だと、同じことになりませんか」
ロゼリアは少し驚いた顔をした。
ミリアは言葉を探した。
「あなたの家の価値と、あなた自身の価値が、ずっと同じところに置かれているように聞こえます」
ロゼリアは目を伏せた。
「貴族の娘は、そういうものです」
「そういうものって、誰が決めたんですか」
ロゼリアは答えなかった。
代わりに、机の上の手紙を一つ取った。
封は切られている。
「父からです」
ロゼリアは言った。
「婚約破棄は残念だが、おまえが騒げば家名にさらに傷がつく。修道院へ入れば、フェルン家の娘として最低限の名誉は保たれる。そう書いてありました」
「最低限の名誉」
「はい」
「あなたの気持ちは?」
ロゼリアは手紙を見つめた。
「書く場所が、ありませんでした」
部屋が静かになった。
ミリアはその言葉を、しばらく胸の中で転がした。
書く場所がない。
それは、ないのと同じではない。
あるのに、置き場所を与えられていないということだ。
リィナは、自分の首を帳面に書かれそうになっていた。
ロゼリアは、手紙の中に気持ちを書く場所がなかった。
形は違う。
でも、どこかで繋がっている。
「あなたは、どうしたいんですか」
ミリアが聞くと、ロゼリアは小さく笑った。
「その質問は、難しいですね」
「難しいですか」
「ええ。今まで、あまり聞かれませんでしたから」
ロゼリアは窓の外を見た。
「子供のころは、父の役に立ちたいと思っていました。母が亡くなったあと、家の女主人のように振る舞うことがよいことだと教わりました。礼儀、刺繍、帳簿、客のもてなし、手紙の書き方、笑い方。全部、よい嫁になるためでした」
「笑い方も?」
「はい」
ロゼリアは微笑んでみせた。
美しい笑みだった。
けれど、さっき広場で見た笑みと同じだった。
泣きそうなのに、笑う顔。
ミリアはその笑みに、少し腹が立った。
ロゼリアにではない。
その笑い方を教えたものに。
「もう笑わなくていいんじゃないですか」
ミリアが言うと、ロゼリアは目を瞬いた。
「笑わないと、失礼になります」
「今、ここには失礼を気にする人はいません」
ミリアはガルナを見た。
「少なくとも、この人は気にしません」
「私は失礼をする側だからな」
ガルナが言った。
「胸を張らないでください」
ネリスが小さく笑った。
ロゼリアも、ほんの少し笑った。
それはさっきまでの笑みとは違った。
形は崩れていて、少しだけ息が混じっていた。
その瞬間、ロゼリアの目がミリアの首元へ向かった。
布が少しずれていたらしい。
首飾りの一部が見えていた。
ロゼリアの視線が、そこに止まる。
ミリアはすぐに布を直そうとした。
だが、遅かった。
「きれい」
ロゼリアが呟いた。
首輪が、喉の奥で小さく鳴った。
ミリアの指が止まる。
「それは」
ロゼリアは息を呑むように言った。
「銀ですか。いいえ、銀ではないですね。真珠でも、骨でもない。何でしょう。見たことがありません」
「見ないほうがいい」
ミリアは言った。
だが、ロゼリアの目は離れなかった。
「ごめんなさい。失礼でした」
「そうじゃなくて」
ミリアは布で首飾りを隠した。
「これは、よいものじゃない」
「でも」
ロゼリアは膝の上で手を握った。
「それがあれば」
ミリアの喉が冷えた。
その言葉を、もう知っている。
リィナも言った。
そんなものがあれば、ここから出られるのかな、と。
ロゼリアは少しうつむいた。
「それがあれば、私はまだ価値ある女に見えるかしら」
首輪が熱くなった。
欲しい、とは言っていない。
けれど、近い。
ミリアは息を止めた。
ガルナの目が細くなる。
ネリスが、ミリアのほうを見た。
「価値ある女」
ミリアは繰り返した。
ロゼリアは、はっとしたように顔を上げた。
「すみません。変なことを」
「変です」
ミリアは言った。
ロゼリアの顔がこわばる。
ミリアは続けた。
「でも、あなたが変なんじゃない。そう言わせるものが変です」
ロゼリアは黙った。
「首飾りがあれば、価値があるように見える。美しいドレスがあれば、価値があるように見える。家名があれば、価値があるように見える。婚約者がいれば、価値があるように見える」
ミリアは自分の喉に触れた。
「そんなふうに見えるだけのものが、どうしてあなたの価値を決めるんですか」
ロゼリアの唇が震えた。
「でも、実際に決まります」
その声は静かだった。
静かだからこそ、重かった。
「社交界では、誰の娘か。誰の婚約者か。どれほどの持参金があるか。どの家と繋がるか。そういうことで扱いが変わります。私個人が何を読んだか、何を考えたか、何が好きかなど、誰も聞きません」
「誰も?」
「誰も」
ロゼリアは微笑もうとして、失敗した。
「だから、私も自分に聞いたことがありませんでした」
ミリアは何も言えなかった。
ロゼリアの目が、また首元へ行く。
「その首飾りは、不思議ですね」
「見ないで」
「見ると、言葉が浮かんでしまう」
ミリアの背筋が冷えた。
「どんな言葉」
ロゼリアは少し苦しそうに目を細めた。
「欲しい、と」
首輪が強く脈を打った。
ミリアは椅子から立ち上がった。
ネリスが一歩前に出る。
「だめです」
ロゼリアは驚いたようにネリスを見た。
「ごめんなさい。私、また失礼なことを」
「違います」
ネリスの声は震えていた。
「それは、あなたの本当の望みではありません」
「ネリス」
ミリアは低く言った。
「私が言う」
ネリスは唇を噛んだ。
ミリアはロゼリアの前に立った。
「ロゼリアさん」
「はい」
「あなたは、この首飾りが欲しいんじゃない」
ロゼリアの目が揺れた。
「そうでしょうか」
「そうです」
「でも、あれば私は」
「誰に見せたいの?」
ロゼリアは答えられなかった。
「元婚約者? お父さま? 修道院へ送ろうとする親戚? 広場で見ていた人たち?」
ミリアは言った。
「その人たちに、まだ価値があると思わせたいの?」
ロゼリアの顔が歪んだ。
「思わせたいです」
その答えは、痛いほど正直だった。
「思わせたい。後悔させたい。あの人に、惜しいことをしたと思わせたい。父に、まだ私は使えると言わせたい。親戚たちに、修道院へ送るには惜しい娘だと思わせたい」
ロゼリアの声が震え始める。
「だって、そうでもなければ、私は何だったのですか」
涙が一粒、頬を落ちた。
「十五のときから、あの家に嫁ぐために生きてきました。好きでもない香を覚え、苦手な舞踏を習い、相手の母君の好みに合わせて髪型まで変えました。あの方が青い服を好むと聞けば青を着て、明るすぎる女は軽いと言われれば声を落とし、利口すぎる女は可愛げがないと言われれば知らないふりをしました」
ミリアは、息をするのを忘れた。
「それで捨てられるなら」
ロゼリアは笑った。
泣きながら、笑った。
「私の価値は、どこに残るのですか」
部屋には、しばらく誰の声もなかった。
ミリアの首輪は熱い。
ロゼリアの言葉に反応している。
欲しい。
価値が欲しい。
見返したい。
捨てられたくない。
それは首輪の好きな味なのだろう。
ミリアはそう思った。
首輪は、苦しんでいる人の願いを見つける。
そして、簡単な形を与える。
これがあれば。
これを持てば。
これを身につければ。
あなたは変われる。
それは嘘ではないのかもしれない。
首輪を得れば、確かに人生は変わる。
ただし、悪いほうへ。
「私も」
ミリアは静かに言った。
「あなたに渡せば、自由になれるかもしれない」
ロゼリアが息を呑む。
「この首飾りは、呪いです。誰かが欲しいと言って、私が譲れば、その人に移ります。私の首からは外れる。その代わり、その人の首に巻きつく」
ロゼリアの顔から血の気が引いた。
ミリアは続けた。
「あなたが今、欲しいと言ったら、私は助かるかもしれない」
「ミリア」
ネリスが小さく言った。
ミリアは振り返らなかった。
「でも、渡さない」
ロゼリアは首元に手を当てた。
「どうして」
「あなたが私と同じ顔をするから」
ミリアは答えた。
「リィナにもそう思った。あなたにも思う。首輪が巻きついた瞬間、自分が何を失ったのかわからない顔になる。私はそれを、もう見たくない」
ロゼリアは涙を拭かなかった。
「でも、あなたは苦しいのでしょう」
「苦しいです」
「なら」
「苦しいからって、あなたを使っていい理由にはならない」
ミリアは首飾りを握った。
「あなたは、価値が欲しいんじゃない。価値を誰かに返してほしいんだと思う。あなたを値踏みした人たちに、間違っていたと言わせたいんだと思う。でも、その人たちに価値があると言わせるために、呪いを首につける必要はない」
ロゼリアは震える声で言った。
「では、どうすればいいのですか」
「わかりません」
ミリアは正直に答えた。
ロゼリアが瞬きをした。
「わからない?」
「はい。私は貴族のことも、王都のことも、修道院のこともよく知りません。あなたの家を立て直す方法も、元婚約者を後悔させる方法も知りません」
「では」
「でも、少なくとも、あなたを修道院へ送るかどうかを、あなた以外の人だけで決めるのは変です」
ミリアは机の上の手紙を見た。
「返事を書いたらどうですか」
「返事?」
「お父さまに。親戚に。修道院に。元婚約者にも」
ロゼリアは呆然とした。
「何を書くのですか」
「あなたの気持ちを書く場所がなかったなら、自分で作ればいい」
その言葉に、ロゼリアの目が揺れた。
「そんなこと」
「してはいけないと、誰が決めたんですか」
ロゼリアは黙った。
「手紙の書き方は習ったんでしょう」
「はい」
「なら、書けます」
「でも、何を」
ミリアは少し考えた。
「まず、修道院へは行きたくない、と」
ロゼリアの肩が震えた。
「その一文だけでもいい」
「それだけで、何かが変わるでしょうか」
「わかりません」
ミリアは言った。
「でも、あなたが何も言わないまま行くよりは、違う」
ロゼリアは机の上の白い紙を見た。
その紙は、まだ何も書かれていなかった。
空白だった。
彼女は長い間、その空白を見つめていた。
やがて、ゆっくり椅子から立ち上がり、机の前に座った。
ペンを取る。
手が震えている。
ミリアは黙って見ていた。
ロゼリアはしばらく書けなかった。
ペン先が紙の上で止まったままだ。
やがて、一文字目が落ちた。
それは小さな文字だった。
けれど、確かにロゼリア自身の手で書かれたものだった。
私は、修道院へ行きたくありません。
書いた瞬間、ロゼリアの肩から力が抜けた。
彼女はペンを置き、両手で顔を覆った。
声を殺して泣いた。
今度は、広場で泣けなかったぶんまで。
ネリスが一歩近づきかけて、止まった。
ミリアを見た。
ミリアは小さくうなずいた。
ネリスはロゼリアのそばへ行き、そっと水差しを差し出した。
「ありがとうございます」
ロゼリアは泣きながら受け取った。
ネリスは優しく微笑んだ。
その笑みは、いつもの泣きそうな笑みではなかった。
少しだけ、本当に優しかった。
ミリアはそれを見て、胸が痛んだ。
*
夜になって、ロゼリアは何通もの手紙を書いた。
父へ。
叔父へ。
修道院長へ。
元婚約者へ。
ミリアは横で、インク壺が倒れないように押さえたり、蝋燭の火を継ぎ足したりした。ガルナは途中で退屈したのか窓辺に座り、外を見ていた。ネリスは何度か白蛇の姿に戻りながらも、ロゼリアが書いた封筒を丁寧に並べた。
ロゼリアの手紙は、最初は硬かった。
私は、修道院へ行きたくありません。
私は、婚約破棄の理由について、家の事情だけでなく、私自身への扱いを問いたいと思います。
私は、父の娘ですが、父の負債そのものではありません。
書いては止まり、泣き、また書く。
途中で、ロゼリアは笑った。
「私、こんな失礼な手紙を書いたのは初めてです」
「失礼ですか」
「たぶん」
「誰に」
「みんなに」
「なら、たまにはいいんじゃないですか」
ミリアが言うと、ロゼリアはまた笑った。
今度の笑みは、きれいではなかった。
目は赤く、鼻も少し赤い。髪も乱れている。完璧な令嬢の顔ではない。
でも、ミリアはその顔のほうが好きだった。
夜更け近くになって、最後の手紙を書き終えたロゼリアは椅子にもたれた。
「このあと、どうなるでしょう」
「わかりません」
「ミリアさんは、本当によくわからないと言いますね」
「わからないので」
「でも、不思議です」
ロゼリアは封をした手紙を見た。
「わからないと言われるほうが、安心することもあるのですね。大丈夫だと言われるより」
ミリアはネリスを見た。
ネリスがよく言う言葉。
大丈夫です。
その言葉は、たいてい大丈夫ではないときに出る。
ネリスも視線に気づいたようだった。
少しだけ気まずそうに目を伏せる。
ロゼリアは首飾りを見ないようにしている。
けれど、時折、視線がそこへ引かれそうになるのがわかった。そのたびに彼女は自分で目をそらした。
「まだ、欲しいと思いますか」
ミリアが聞くと、ロゼリアは正直に頷いた。
「少し」
首輪が、布の下で微かに動いた。
「でも」
ロゼリアは自分の書いた手紙に触れた。
「今は、これを届けたいほうが大きいです」
「そう」
「はい」
ロゼリアは少し考え、続けた。
「私は、自分に価値があると思いたかったのではなく、自分で自分を差し出さずに済む場所が欲しかったのかもしれません」
ミリアはその言葉を覚えておこうと思った。
自分で自分を差し出さずに済む場所。
首輪とは反対の場所だ。
ガルナが窓辺で低く言った。
「迎えが来る」
ミリアは振り返った。
「今?」
「宿の前に馬車が止まった。男が三人。家の紋章つきだ」
ロゼリアの顔が青ざめた。
「叔父の家の者かもしれません」
「どうする」
ガルナが聞いた。
ミリアではなく、ロゼリアに。
ロゼリアは一瞬、助けを求めるようにミリアを見た。
ミリアは何も言わなかった。
ここは、ロゼリアが決めるところだと思った。
ロゼリアは立ち上がった。
まだ少し震えている。けれど、手紙をまとめて胸に抱いた。
「会います」
そう言った。
宿の一階に降りると、玄関に男たちがいた。
一人は中年で、残り二人は若い従者らしい。中年の男はロゼリアを見ると、眉をひそめた。
「ロゼリア様。困ります。勝手に宿を移られては」
「移っていません」
「明日の朝、北へ向かいます。荷物はまとめてください」
「行きません」
ロゼリアは言った。
中年の男は聞き間違えたような顔をした。
「何と?」
「北の修道院へは行きません」
「それは、旦那様とご親族の決定です」
「私の決定ではありません」
「ロゼリア様」
男の声が低くなる。
「あなたのお立場をお考えください。婚約は破棄されました。王都に残れば噂になります。フェルン家にこれ以上の恥を」
「恥は、私がここで自分の意思を言うことではありません」
ロゼリアの声は震えていた。
それでも、言葉は途切れなかった。
「父の負債を、私の沈黙で隠そうとすることです」
男の顔が赤くなった。
「誰にそのような口を」
「私が考えました」
ロゼリアは手紙の束を差し出した。
「父に届けてください。叔父にも。修道院長にも。そして、クレストン卿にも」
元婚約者の名だろうか。
男は受け取ろうとしなかった。
「そのようなもの」
ガルナが一歩前に出た。
「受け取れ」
男はガルナを見上げた。
そして、すぐに手紙を受け取った。
実に素直だった。
「返事が来るまで、私はこの町に残ります」
ロゼリアは言った。
「宿代は」
「私の耳飾りを売ります」
「それは奥様の形見では」
「母は、私を黙らせるために真珠を残したわけではありません」
ロゼリアの声が、少しだけ強くなった。
男は言葉を失った。
ミリアは、ロゼリアの横顔を見た。
まだ不安そうだ。
怖いのだろう。
明日どうなるかもわからない。
それでも、広場で値踏みされていた女とは違って見えた。
価値を取り戻したのではない。
価値を決める相手を、少しだけ変えたのだ。
男たちは結局、手紙を持って帰った。
宿の前で馬車が走り去る音がしたあと、ロゼリアはその場にへたり込んだ。
「怖かった」
彼女は言った。
「とても」
「怖くても、言った」
ミリアが言うと、ロゼリアは頷いた。
「はい」
そして、少し笑った。
「私、修道院に向いていないかもしれません」
「行きたくないなら、向いていなくていいと思います」
「そうですね」
ロゼリアは泣き笑いの顔で言った。
「初めて、そう思いました」
*
その夜、宿の裏庭で、ミリアは一人になろうとした。
空には細い月が出ている。
輪にはまだ足りない月だ。
首飾りを見るたび、月の形が気になるようになった。満ちれば輪になる。欠ければ輪ではなくなる。なのに、空の月は欠けていても自由に見える。
首輪は、輪であることから逃げられない。
ミリアは井戸のそばに腰を下ろし、布を外した。
夜気に触れると、首飾りが少し冷たくなる。
「また渡さなかったな」
ガルナの声がした。
ミリアは振り返らなかった。
「見てたんですか」
「見ていた」
「趣味が悪い」
「首輪の行方に関わる」
「それだけですか」
「それだけではない」
ガルナは井戸の反対側に立った。
「おまえは、自由になる気があるのか」
「あります」
「なら、なぜ渡さない」
「またそれですか」
「何度でも聞く。おまえは毎回、別の理由で渡さぬ」
ミリアは首飾りに触れた。
「今回は、ロゼリアさんが欲しがっていたものが、首飾りじゃなかったから」
「リィナのときもそう言った」
「そうですね」
「では、誰かが本当に首飾りを欲しがったら渡すのか」
ミリアは答えられなかった。
ガルナは静かに続けた。
「力が欲しい者。美が欲しい者。永遠が欲しい者。呪いだと知ってなお、自分なら使いこなせると思う者。そういう者が現れたら」
「わかりません」
「そうか」
「でも」
ミリアは首飾りを握った。
「今は、渡したくない」
「今は?」
「一生渡さないと言えるほど、私は強くない」
ガルナは黙った。
「今日だって、一瞬思いました。ロゼリアさんに渡せば、私は楽になるって。彼女はきれいだし、貴族だし、私より上手にこれを隠せるかもしれない。そういう言い訳が、すぐに浮かんだ」
ミリアは唇を噛んだ。
「自分が嫌になります」
「それは首輪が喜ぶ」
「でしょうね」
「だが、嫌になれるうちは、まだ首輪に食われてはいない」
ミリアはガルナを見た。
「それは慰めですか」
「事実だ」
「あなたの慰めは、事実の形をしてるんですね」
「嘘の慰めは嫌いだ」
ガルナは自分の喉に触れた。
「長く縛られていると、嘘の慰めだけが増える。いつか外れる。いつか報われる。誰かが助けてくれる。そういう言葉は、首輪より重くなることがある」
ミリアは、初めてガルナの横顔をじっと見た。
魔物。
大女。
自分を犠牲にして自由になった者。
それは事実だ。
でも、それだけではない。
ガルナもまた、長い間首に輪をかけられていた。
そのことを思うたび、ミリアの怒りは行き場を失う。
「あなたを許したわけじゃありません」
ミリアは言った。
「知っている」
「でも、あなたが苦しかったことまで、なかったことにしたいわけじゃない」
ガルナは何も言わなかった。
その沈黙が、少しだけ柔らかかった。
そこへ、ネリスが来た。
白い衣が夜の中でぼんやり光っている。
彼女は少し離れたところで立ち止まった。
「来ていたの」
ミリアが言うと、ネリスはうなずいた。
「お話が聞こえました」
「盗み聞き?」
「はい」
あまりに素直に認めるので、ミリアは怒るタイミングを失った。
「悪いと思ってる?」
「思っています」
「なら、近くに来ればよかったのに」
「近くに行ってよいのか、わかりませんでした」
ネリスの声は静かだった。
ミリアは目をそらした。
よいとも、悪いとも、まだ言えない。
ネリスは井戸の縁に手を置いた。
その指先は、昼間より少し薄く見えた。
「ミリア」
「何」
「あなたは、その人を救っているつもりで、自分を殺しています」
ミリアは息を止めた。
ガルナが目を細める。
「リィナさんのときも、ロゼリアさんのときも。あなたは渡せば助かるのに、渡さない。渡さないたびに、首輪はあなたの中へ深く入っていく」
ネリスは続けた。
「あなたは優しい。でも、その優しさで、自分を少しずつ削っています」
ミリアはネリスを見た。
胸の奥に、冷たい怒りが湧いた。
「じゃあ、あなたは」
声が低くなった。
「自分が助かるために、私を殺したんだね」
ネリスの顔から色が消えた。
言葉は、井戸の底へ落ちたように重く響いた。
ミリアは言った瞬間、自分でも痛かった。
でも、止まらなかった。
「あなたは私を選んだ。私が心配するってわかっていたから。私が断れないって思ったから。自分とガルナが自由になるために、私の喉へ首輪を移した」
ネリスは何も言わない。
「それは、私を殺したのと同じじゃないの」
夜風が吹いた。
井戸の水面が、かすかに揺れた。
ネリスは唇を開いた。
でも、声は出なかった。
言い返せない。
ミリアはそれを見て、少しも気持ちよくならなかった。
むしろ、自分の喉を自分で締めたようだった。
ガルナが低く言った。
「ミリア」
「何ですか」
「今の言葉は、刃だ」
「知っています」
「知っていて使ったか」
「はい」
ガルナはそれ以上言わなかった。
ネリスは俯いたまま、両手を胸元で握った。
「はい」
ようやく、それだけ言った。
ミリアは動けなかった。
「私は、あなたを殺したのだと思います」
ネリスの声は小さかった。
「死んでほしいと思ったわけではありません。苦しんでほしいと思ったわけでもありません。でも、私が助かるために、あなたを選びました。あなたが苦しむと知っていて、選びました」
白い睫毛が震える。
「だから、あなたの言葉は正しいです」
ミリアは喉元を押さえた。
首飾りが冷たかった。
怒りはある。
確かにある。
でも、ネリスがそれを否定しないと、怒りの置き場所がなくなる。
「正しいって言わないで」
ミリアは言った。
「私がひどいことを言ったみたいになる」
「ひどいことです」
ネリスは顔を上げた。
「でも、嘘ではありません」
ミリアは息を呑んだ。
その目は泣いていなかった。
泣きそうではあった。
けれど、逃げていなかった。
ガルナが静かに二人を見ている。
ネリスは続けた。
「私は、あなたに許されたいと思っていました」
ミリアは何も言わなかった。
「あなたが優しいから、いつか許してくれるのではないかと、心のどこかで思っていました。怒っていても、私が弱れば手を伸ばしてくれる。私が苦しめば、見捨てないでくれる。そう思っていました」
ミリアの胸が痛んだ。
「それも、ずるいことでした」
ネリスの声が震える。
「あなたの優しさを、また使おうとしていました」
「ネリス」
「ごめんなさい」
ミリアは反射的に言いそうになった。
謝らないで、と。
でも、言わなかった。
今の謝罪まで止める権利は、自分にはないような気がした。
ネリスは深く頭を下げた。
「許さなくていいです」
その言葉は、これまでの謝罪と少し違っていた。
「私を嫌っていい。憎んでいい。置いていけるなら、置いていっていい」
「置いていけないでしょう。あなたは首輪から離れられない」
「はい」
ネリスは小さく笑った。
「だから、なおさら嫌ですね」
その笑みは、ひどく寂しかった。
ミリアは拳を握った。
置いていけない。
許せない。
見捨てたくない。
近づきたくない。
全部が同じ場所で絡まっている。
「今は」
ミリアはようやく言った。
「今は、あなたと話したくない」
ネリスはうなずいた。
「はい」
「でも」
ミリアは唇を噛んだ。
「消えないで」
ネリスの目が揺れた。
「それは、命令ですか」
「違う」
「お願いですか」
「それも違う」
ミリアは首飾りに触れた。
「私が、そう思ってしまうだけ」
ネリスは小さく息を吸った。
泣くかと思った。
でも、泣かなかった。
「わかりました」
それだけ言って、彼女は白い蛇の姿になった。
草の上に小さく落ち、しばらく動かなかったあと、井戸の影へ滑り込んだ。
ミリアはそれを見送った。
ガルナが言った。
「痛い章だな」
「章?」
ミリアが振り返ると、ガルナは何食わぬ顔をしていた。
「いや、何でもない」
「変なことを言わないでください」
「そうだな」
ガルナは夜空を見上げた。
「だが、必要な痛みではあった」
「必要なら、痛くしていいんですか」
「よくはない」
ガルナは答えた。
「だが、痛みを避けていると、腐るものもある」
ミリアは井戸の水面を見た。
月が映っている。
輪にはまだ足りない月。
「私は、嫌な人間になっていますか」
「なっている」
ガルナは即答した。
ミリアは睨んだ。
「少しは迷ってください」
「だが、嫌な人間にならずに済む者は、たいてい他人に嫌な役目を押しつけている」
ガルナは続けた。
「おまえは今、自分で嫌な言葉を使った。だから、その痛みも自分のものだ」
ミリアは何も言えなかった。
優しいだけではいられない。
怒らなければ、自分が壊れる。
でも怒れば、誰かを傷つける。
首輪は、喉にあるだけではない。
言葉にも絡んでいる。
ミリアはその夜、初めてそう思った。
*
翌朝、ロゼリアは昨日とは違う服を着ていた。
菫色のドレスではなく、旅用の灰色の服だった。
髪も簡単に結び直している。真珠の耳飾りはなかった。売ったのだろう。代わりに、小さな革袋を腰に下げていた。
「出るんですか」
ミリアが聞くと、ロゼリアはうなずいた。
「王都へ行きます」
「王都?」
「父に会います。手紙だけでは、逃げられると思いました」
その言い方に、少しだけ強さがあった。
「一人で?」
「護衛を雇います。この町で、商隊に同行できるよう頼むつもりです。耳飾りを売ったお金がありますから」
「危なくないですか」
「修道院へ黙って連れて行かれるよりは、危なくても自分で歩くほうがいいです」
ミリアは頷いた。
「そうですね」
ロゼリアは微笑んだ。
今度の笑みは、昨日より自然だった。
「ミリアさん」
「はい」
「私はまだ、自分に価値があると思えてはいません」
ロゼリアは正直に言った。
「でも、誰かに価値を決められるのを、少しだけ待たせることはできるかもしれません」
「待たせる」
「はい」
ロゼリアは小さく笑った。
「今すぐ自分で決めるのは難しいです。でも、他人に決められるのを少し止める。それくらいなら、できそうです」
ミリアは、その言葉がとても好きだと思った。
救われた、と言うには早い。
自由になった、と言うにはまだ遠い。
でも、少し止める。
他人が自分の価値を決める手を、少しだけ止める。
それは、十分に始まりだった。
「あなたも」
ロゼリアはミリアの首元を見た。
もう首飾りを欲しがる目ではなかった。
「いつか、それを外せますように」
「はい」
「でも、そのために誰かへ渡したら、私、怒ります」
ミリアは驚いた。
ロゼリアは少し照れたように続けた。
「私は一度、それを欲しいと言いかけました。だから、言う権利が少しだけあると思います」
ミリアは笑った。
「怒られたくないので、渡さないようにします」
「そうしてください」
ロゼリアはネリスにも頭を下げた。
「昨日、水をありがとうございました」
ネリスは昨夜のことがあったせいか、少し遠慮がちに頷いた。
「どうか、お気をつけて」
「あなたも」
ロゼリアはネリスを見た。
「あなたは、とても悲しそうに笑いますね」
ネリスが固まった。
ミリアも思わずネリスを見る。
ロゼリアは静かに続けた。
「昨日までの私も、そうでした」
ネリスは何も言えなかった。
「だから、いつか、違う笑い方ができますように」
そう言って、ロゼリアは宿を出ていった。
ミリアたちは表まで見送った。
朝の光の中で、ロゼリアは商隊のほうへ歩いていく。背筋はまだまっすぐだった。けれど昨日のように、折れてはいけないから伸ばしている背ではなかった。
彼女は一度だけ振り返り、手を振った。
ミリアも手を振った。
ガルナが隣で言う。
「渡さなかったな」
「はい」
「今回も、自由にはならなかった」
「はい」
「後悔しているか」
ミリアは首飾りに触れた。
布の下で、首輪は静かだった。
機嫌を損ねているのか、次の機会を待っているのかはわからない。
「しています」
ミリアは言った。
ガルナがこちらを見る。
「しているのか」
「はい。外れなかったことを、少し後悔しています。でも、渡さなかったことは、後悔していません」
ガルナはしばらく黙った。
「ややこしい娘だ」
「知っています」
ネリスが少し離れたところに立っている。
昨日から、ミリアとの距離を測りかねているようだった。
ミリアも、どう声をかければいいかわからなかった。
許していない。
でも、消えてほしくない。
話したくない。
でも、黙っていられるのも痛い。
ロゼリアは言った。
他人に決められるのを少し止める。
なら、ミリアも少しだけ止めたいと思った。
怒りに全部決められるのも。
同情に全部決められるのも。
首輪に全部決められるのも。
少しだけ、止めたい。
「ネリス」
ミリアは呼んだ。
ネリスが顔を上げた。
「はい」
「今日は、歩けなくなる前に言って」
それだけだった。
許しではない。
仲直りでもない。
でも、昨日の言葉をなかったことにもしないまま、今日の道を歩くための言葉だった。
ネリスはしばらくミリアを見つめ、それから小さくうなずいた。
「はい」
ガルナが歩き出した。
「次は神殿町へ向かう」
「神殿?」
「白鐘の神殿がある。水も宿もある。巡礼者も多い」
「首飾りを欲しがる人も?」
「いるだろうな」
ミリアは深く息を吸った。
怖い。
そう思った。
でも、足は動いた。
リィナが言った。
私が欲しかったのは、それじゃなかったことを思い出して、と。
ロゼリアが言った。
誰かに価値を決められるのを、少しだけ待たせることはできるかもしれない、と。
二人の言葉が、ミリアの中に残っている。
首輪だけが、喉にあるのではない。
誰かが言った言葉も、喉の奥に残る。
それなら、まだ歩ける。
ミリアは布で首飾りを隠し、ガルナの後を追った。
ネリスが少し離れてついてくる。
その距離はまだ遠い。
けれど、昨日よりは少しだけ、同じ道の上にいる気がした。




