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第三章 売られる娘と銀の首

 町へ向かう道は、思っていたよりも乾いていた。

 山を下れば畑が増え、水路が増え、人の声が増えるものだとミリアは思っていた。村の近くではそうだった。森と山の境を越えると、畑が広がり、ところどころに小屋があり、鶏が鳴き、子供が走っている。そういう景色を、当たり前のように想像していた。

 だが、三人が歩いている道の両側にあったのは、ひび割れた土だった。

 畑はある。

 しかし、作物はまばらだった。麦は低く、葉は黄ばんでいる。豆の支柱は立っているのに、絡む蔓は細く、実はほとんどついていない。水路には水が流れていた跡だけがあり、底の泥が白く乾いていた。

 風が吹くと、土埃が上がる。

 ミリアは布で口元を押さえた。

 首元には、いつものように薬草を包むための布を巻いている。その下に首飾りがある。隠しているのに、隠しきれていない気がした。布越しにも、喉の奥に冷たい輪があるとわかる。

「このあたりは、水が少ないんですか」

 ミリアが聞くと、先を歩くガルナは周囲を見回した。

「昔はそうでもなかった」

「昔?」

「私が山にいたころ、このあたりには川が二本あった」

「今は?」

「一本は上流で堰き止められた。もう一本は鉱山へ引かれた」

「鉱山」

 ミリアは遠くを見た。

 道の先、低い丘の向こうに、黒い煙が上がっている。

 村の煮炊きの煙ではない。もっと重く、地面に近く、空に溶けずに滞るような煙だった。

「銀を掘っている」

 ガルナが言った。

「銀?」

「そうだ。人間は光る石が好きだな」

「銀は薬にも使います」

「なら、薬だけに使えばよい」

 ガルナの声には、軽い棘があった。

 ミリアは言い返せなかった。

 銀が金になることも、金が人を動かすことも知っている。村の薬草でさえ、市場で売れば値がつく。値がつけば欲しがる者が増え、欲しがる者が増えれば、どこかで誰かが泣く。

 それでも、銀のために川を変えるというのは、ミリアにはうまく飲み込めなかった。

 水は流れるものだ。

 川は勝手に道を選ぶものだ。

 それを人が止め、別の場所へ向かわせる。

 首輪と似ている。

 そう思ってしまい、ミリアは喉に触れた。

「痛むのですか」

 後ろからネリスが聞いた。

 ミリアは手を下ろした。

「痛くありません」

「そうですか」

「あなたこそ、歩けるの?」

 聞いてから、少し強すぎたと思った。

 ネリスは朝から、何度か白蛇の姿に戻っていた。少女の姿を保てる時間が短くなっているように見える。今は白い髪の少女として歩いているが、足取りは軽いというより、体重が足りないように見えた。

「歩けます」

 ネリスは答えた。

「無理をしているなら」

「無理はしています」

 正直に言われ、ミリアは言葉に詰まった。

 ネリスは少しだけ微笑んだ。

「でも、歩けます」

「そう」

 ミリアは前を向いた。

 それ以上聞くと、心配していることになる。

 心配してはいけない、とまではもう思わない。けれど、心配していると悟られるのは嫌だった。

 ガルナが振り返った。

「昼前には村に着く」

「宿がありますか」

「ないだろうな」

「なら、なぜ寄るんですか」

「水を補う」

「水路は干上がっていました」

「井戸ならある」

 ガルナはそう言ったが、声には確信が薄かった。

 やがて道の先に、村が見えてきた。

 村というより、乾いた土地にしがみつくような家の集まりだった。

 土壁の家が十数軒。屋根は藁葺きだが、ところどころ穴が開いている。畑の周りには低い柵があり、その柵にも隙間が多かった。村の中央に井戸がある。だが、人々が集まっているのは井戸ではなく、その少し手前だった。

 言い争う声が聞こえた。

「また遅れるのか」

 男の声だった。

 太く、湿っている。怒鳴っているのに、どこか楽しそうでもある。

「先月もそう言った。来月には払う、次の収穫には払う、娘が働きに出れば払う。いつまで待たせる気だ」

「本当に、次の月には」

 別の声がする。

 年配の女の声だった。掠れて、切羽詰まっている。

「今度こそ、少しは返せます。だから、その子だけは」

「その子だけは?」

 男が笑った。

「その子が一番値になるんだよ」

 ミリアは足を止めた。

 村の中央に、数人の男がいた。

 身なりはこの村の者よりずっといい。革の胴衣に、磨いた靴。腰には短剣。商人にも見えるが、商人というには目が荒い。彼らの後ろには荷車があり、荷車の横には鉄の輪や縄が積まれていた。

 男たちの前に、年配の女が膝をついている。

 そのそばに、若い娘が立っていた。

 ミリアと同じくらいか、少し下だろう。

 痩せていた。頬がこけ、腕は細い。けれど、目だけは大きく、まっすぐだった。茶色の髪を後ろで一つに結び、色の抜けた青い服を着ている。服は古いが、襟元だけはきちんと縫い直されていた。

 娘は泣いていなかった。

 泣いていないことが、かえって痛々しかった。

「行きます」

 娘が言った。

「リィナ!」

 膝をついていた女が叫ぶ。

「母さん、もういいよ」

 リィナと呼ばれた娘は、母親の肩に手を置いた。

「これ以上、待ってもらえないよ」

「でも」

「弟たちがいる」

 その言葉に、母親は声を失った。

 ミリアは、胸の奥が重くなるのを感じた。

 借金。

 売られる娘。

 弟たち。

 聞かなくても、大体のことはわかってしまう。

 ガルナが少しだけ顎を上げた。

「行くぞ」

「待って」

 ミリアは言った。

「見ていく必要はない」

「見たくて見ているわけじゃありません」

「なら、なおさら行け。人間の揉め事だ」

「あなたも今は人の姿をしてます」

「姿だけだ」

 ガルナは淡々と言った。

「それに、これは珍しいことではない。貧しい村には借金があり、借金には担保があり、担保にできるものが尽きれば、人が担保になる」

「珍しくないなら、放っておいていいんですか」

「珍しいかどうかと、放っておくべきかどうかは別だ」

「じゃあ」

「おまえに何ができる」

 その言葉は鋭かった。

 ミリアは口を閉じた。

 何ができる。

 薬草を採ることならできる。

 傷に苔を当てることならできる。

 熱を下げる煎じ薬を作ることならできる。

 でも、借金を消すことはできない。

 男たちを追い払う力もない。

 この村の干上がった畑に水を戻すこともできない。

 自分にできることなど、ほとんどない。

 ミリアはそれを知っている。

 それでも、足は動かなかった。

「見てるだけなら、邪魔だよ」

 声がした。

 リィナだった。

 彼女はいつのまにか、ミリアたちを見ていた。

 村人たちもこちらに気づき始めている。ガルナの黒髪と金色の目、ネリスの白い姿は、こんな村では目立ちすぎた。ミリアだけなら旅の娘で済んだかもしれないが、この三人では無理だった。

 借金取りらしい男が、ミリアたちを見た。

「何だ、おまえら」

 ガルナが一歩前へ出た。

 それだけで、男は少し身を引いた。

 人の姿とはいえ、ガルナは背が高い。肩も広い。黙って立つだけで、剣を抜く前の戦士のような圧がある。金色の目で見下ろされると、普通の人間なら言葉を選びたくなるだろう。

「旅の者だ」

 ガルナは言った。

「水をもらいに寄った」

「水?」

 男は鼻で笑った。

「この村に水が余ってるように見えるか」

「見えぬ」

「なら、通り過ぎろ」

「そうしたいのは山々だ」

 ガルナはミリアを見た。

「だが、うちの娘が足を止めた」

 うちの娘。

 ミリアは思わずガルナを睨んだ。

「誰が」

「では何だ。首輪の持ち主か」

「黙ってください」

 小声で言ったつもりだったが、ガルナには聞こえたらしい。少しだけ笑った。

 リィナがミリアを見ている。

 その目は警戒していた。助けを求める目ではなかった。むしろ、余計なことをするなと言っているようだった。

「あなた」

 ミリアはリィナに声をかけた。

「本当に行くの?」

「行くしかないから」

「どこへ連れていかれるの」

 リィナは笑った。

 乾いた笑いだった。

「知ってどうするの」

「知りたいから」

「銀山の町。女中か、洗濯か、運が悪ければ坑夫たちの宿の仕事」

 母親が泣き崩れた。

 リィナは見なかった。

 見れば、決心が崩れるからだろう。

「借金はいくら」

 ミリアが聞くと、借金取りの男が声を荒げた。

「旅の娘に関係ない」

「聞いているだけです」

「聞くな」

 男はリィナの腕をつかんだ。

 その瞬間、ガルナの目が細くなった。

 空気が変わった。

 男は気づかなかった。

 だが、ミリアにはわかった。ネリスもわかったのだろう。白い顔をさらに白くし、ガルナを見た。

 ガルナは、まだ動いていない。

 けれど、その内側で何かが起きかけている。

 魔物だ。

 ミリアは初めて、隣にいる女が本当に魔物なのだと思い出した。

「離せ」

 ガルナが言った。

 低い声だった。

 男は顔をしかめた。

「あ?」

「その娘の腕を離せ」

「何様だ」

「今は、ただの旅人だ」

「なら口を出すな」

 男がリィナの腕をさらに強く引いた。

 リィナが顔を歪める。

 ミリアが一歩踏み出そうとしたとき、ガルナの手が動いた。

 速かった。

 男の手首をつかむ。

 ただそれだけだった。

 骨が軋む音がした。

 男が悲鳴を上げた。

 ガルナは表情を変えない。握り潰すのではなく、逃げられない程度に締めているようだった。それでも、男の顔は青くなった。

「離せと言った」

 ガルナが言う。

 男の指が開き、リィナの腕から離れた。

 ガルナも手を放す。

 男は後ろへよろめき、仲間たちが慌てて支えた。

「この女」

 一人が短剣に手をかけた。

 ミリアは息を呑んだ。

 ガルナが笑った。

 笑っただけだった。

 だが、男たちは動けなくなった。

 金色の目が、ほんの少しだけ人のものではなくなった。

 瞳孔が縦に裂け、口元から白い牙が覗いた。黒い髪が風もないのに持ち上がる。彼女の背後に、山ほどもある影が一瞬だけ立ち上がった。

 借金取りたちは凍りついた。

 村人たちも、声を失った。

 ミリアも動けなかった。

 ガルナは静かに言った。

「剣を抜くなら、こちらも少しだけ本気を出す」

 少しだけ。

 その言葉が、いちばん怖かった。

 男たちは短剣から手を離した。

 先ほど手首をつかまれた男が、脂汗を浮かべながら呻く。

「魔女か」

「違う」

 ガルナは言った。

「魔物だ」

 なぜ正直に言うのか。

 ミリアは頭を抱えたくなった。

 男たちはさらに青ざめた。

 村人の何人かが悲鳴を上げる。子供が泣いた。母親が娘を背に庇う。

 リィナだけが、ガルナを見上げていた。

 怖がっていないわけではない。

 体は震えている。

 だが、その目は逸れていなかった。

「魔物でも」

 リィナは言った。

「借金は消えないよ」

 ガルナがリィナを見る。

「度胸があるな」

「度胸じゃない。知ってるだけ」

 リィナは自分の腕を押さえた。

「この人たちが帰っても、また来る。別の人たちが来るかもしれない。もっと悪い人たちが来るかもしれない。魔物が一度脅かしたくらいで、帳面の字は消えない」

 その言葉に、村人たちが俯いた。

 ミリアはリィナを見た。

 この娘は、全部わかっている。

 自分が連れていかれることも、逃げられないことも、助けられても一時しのぎにしかならないことも。

 だから泣かないのだ。

 泣けば、自分が可哀想になってしまうから。

「帳面はどこ」

 ミリアは借金取りに聞いた。

 男は答えなかった。

 ガルナが一歩近づいた。

「帳面はどこだそうだ」

 男は慌てて荷車の中を指した。

 仲間の一人が革袋から帳面を取り出す。

 ガルナはそれを受け取り、ミリアに渡した。

「読めるか」

「少しは」

 ミリアは帳面を開いた。

 数字と名前が並んでいる。村の家々の名前。借りた銀貨の額。利子。返済日。遅延。追い貸し。知らない言葉も多い。

 だが、一つだけわかった。

「多すぎる」

 ミリアは呟いた。

 リィナの家の借りた額は、最初はそれほど大きくない。

 干ばつの年に種麦を買うための銀貨。弟の熱の薬代。母親の足の怪我で働けなかった月の食料。

 だが、利子が重なっている。

 返せないからまた借りる。

 借りるからさらに増える。

 首輪だ。

 ミリアはそう思った。

 一度かかると、外せない。

 外すために別のものを差し出す。

 差し出しても終わらず、むしろ強くなる。

 違う形の首輪が、この村にもある。

「この利子はおかしいです」

 ミリアが言うと、男は鼻で笑った。

「契約だ。本人たちが指印を押してる」

「読めない人たちに?」

「読めないなら、読める者に聞けばよかったんだ」

「ひどい」

「ひどいかどうかじゃない。契約だ」

 男は痛む手首を押さえながら言った。

「銀山の商会は、こういう村に種も薬も貸してやってる。返せないなら、働いて返す。当然だろう」

「娘を売るのが当然なんですか」

「売るんじゃない。奉公に出すんだ」

「戻れるの?」

 男は笑った。

「働き次第だな」

 戻れない。

 その笑い方でわかった。

 ミリアは帳面を握りしめた。

 ガルナなら、ここにいる男たちを追い払える。

 荷車を壊し、帳面を燃やし、短剣を折ることもできるだろう。

 でも、それで終わるのか。

 リィナの言う通り、別の者が来る。

 商会が来る。

 もっと強い武装をした者が来る。

 それでも、今リィナを連れて行かせることはできない。

 ミリアは首元の布を押さえた。

 その下で、首飾りが冷たく光った気がした。

 ガルナがこちらを見た。

「どうする」

「どうするって」

「渡すか」

 ミリアは顔を上げた。

 ガルナの声は低かった。

 だが、村人には聞こえないほどではない。ネリスが息を呑んだ。

「何を」

「首飾りだ」

 ミリアは凍りついた。

「今、その話をするんですか」

「今だからする」

 ガルナはリィナを見た。

「この娘はここから出たい。おまえの首飾りは美しい。力もあるように見える。欲しいと言わせるのは難しくない」

「最低です」

「首輪を外すとは、そういうことだ」

 ガルナの目は揺れなかった。

「目の前に都合のよい相手が現れる。苦しんでいる相手なら、なおよい。相手は自分から欲しがる。こちらは譲るだけで自由になる。罪の形は、少しだけぼやける」

「ぼやけません」

「そうか?」

 ガルナは静かに言った。

「おまえは今、考えなかったか。この娘が欲しがってくれれば、と」

 ミリアは、すぐに否定できなかった。

 その沈黙が、自分で怖かった。

 考えなかったわけではない。

 一瞬だけ、思った。

 この娘が欲しいと言えば。

 自分が譲れば。

 首輪は外れる。

 そうすれば、自分は自由になる。

 同時に、この娘は別の場所へ行けるかもしれない。

 首輪の力で、売られずに済むかもしれない。

 この村から出られるかもしれない。

 そんな都合のいい言い訳まで、ほんの一瞬で浮かんだ。

 首輪がそうさせたのか。

 それとも、自分の心がもともとそうだったのか。

 ミリアにはわからなかった。

 布の下で、首飾りが少し温かくなった。

「ミリア」

 ネリスが言った。

 その声は、かすれていた。

「だめです」

 ミリアは振り返った。

「あなたが言うの?」

 ネリスは唇を噛んだ。

「はい」

「あなたが、だめって言うの?」

「はい」

「私にそれをしたあなたが?」

 ネリスの顔が歪んだ。

 ミリアは自分の声がひどいとわかっていた。

 でも止まらなかった。

「それとも、この子に渡されたら困るの? 私のそばにいられなくなるから?」

「違います」

「じゃあ何」

「あなたが、後悔するからです」

 ミリアは息を止めた。

 ネリスの目は潤んでいた。

 泣きそうな目。

 森で見た目。

 嘘をつく前の目。

「あなたは、私を恨んでいます。それでいいです。恨んでください。でも、同じことをしたら、あなたは私を恨むだけではいられなくなる。自分も恨むことになります」

 ネリスの声が震えた。

「それは、だめです」

 ミリアは何も言えなかった。

 リィナが、二人を見ていた。

「首飾り?」

 彼女の目が、ミリアの首元へ向かう。

 ミリアは反射的に布を押さえた。

 だが、少し遅かった。歩いているうちに布がずれ、首飾りの一部が見えていたのだろう。銀とも骨とも石ともつかない細い輪が、襟元から覗いている。

 リィナの目が、それに吸い寄せられた。

「きれい」

 小さな声だった。

 ミリアの喉が締まった。

 首輪が反応したのではない。自分が息を止めたのだ。

 リィナは一歩近づいた。

「それ、何?」

 ミリアは答えられなかった。

 ガルナは黙っている。

 ネリスも黙っている。

 借金取りたちも、村人たちも、何が起きているのかわからず見ている。

「首飾り?」

 リィナは言った。

「うん」

 ミリアはようやく答えた。

「首飾り」

「高そう」

「高くない」

 嘘だった。

 値段などつけられないだろう。

 人の人生より高い。あるいは、人の人生そのものを値にするものだ。

 リィナは笑った。

 初めて、少しだけ年相応の顔になった。

「高くないわけないよ。そんなの、この村じゃ誰も見たことない」

 彼女は自分の首に触れた。

 細い首だった。日に焼け、少し埃に汚れている。そこには何も巻かれていない。

「私も、そんなものがあれば」

 リィナは呟いた。

「ここから出られるのかな」

 世界が、少し静かになった。

 ミリアの首飾りが、布の下で脈を打った。

 欲しい。

 まだその言葉は出ていない。

 けれど近い。

 とても近い。

 リィナは首飾りを見ている。

 そこに宝を見ているのか、力を見ているのか、逃げ道を見ているのか、ミリアにはわからない。

 いや、わかる。

 リィナは首飾りが欲しいのではない。

 ここから出たいのだ。

 売られるのではなく、自分の足で。

 誰かの帳面に名前を書かれない自分が欲しいのだ。

 弟たちを人質にされない自分が欲しいのだ。

 母親を泣かせずに済む自分が欲しいのだ。

 首飾りは、その形に見えただけだ。

「欲しいか」

 ガルナが言った。

 ミリアは振り返った。

「ガルナ!」

 ガルナはリィナを見ている。

「その首飾りが、欲しいか」

 リィナは戸惑った。

 村人たちもざわめく。

「何を言ってるんだ」

 借金取りの男が言った。

「その娘の装飾品まで担保にしようってのか」

 ガルナは男を見なかった。

 リィナはミリアを見る。

 そして、首飾りを見る。

 その瞳に、痛いほどの羨望が浮かんだ。

 ミリアは息ができなかった。

 言わないで。

 心の中で思った。

 言ってくれれば外れる。

 その声も同時に、胸の奥で囁いた。

 言わないで。

 言って。

 言わないで。

 どれが自分の声かわからない。

 首輪が温かい。

 いや、熱い。

 布の下で、まるで生きもののように震えている。

 リィナは唇を開いた。

「欲しい」

 小さな声だった。

 ミリアは目を閉じた。

 条件は、一つ満たされた。

 誰かが欲しいと言った。

 あとは、今の持ち主が譲ればいい。

 ミリアが言えばいい。

 では、差し上げよう。

 ただそれだけで、首輪は外れる。

 喉が自由になる。

 息が自分のものになる。

 夢に出る輪も、声を食べる呪いも、自分から離れる。

 そして、リィナの喉に巻きつく。

 ミリアは目を開けた。

 リィナは真っ直ぐこちらを見ていた。

 期待している顔ではない。

 何かをもらえると思っている顔でもない。

 ただ、言ってしまった自分に驚いている顔だった。

 欲しい。

 その一言が、自分の口から出たことに、リィナ自身が戸惑っている。

 ミリアは、一歩近づいた。

 ネリスが息を呑む。

 ガルナは見ている。

 首飾りが、少し緩んだ気がした。

 今なら外れる。

 そんな感覚があった。

 首輪がミリアを誘っている。言え、と。差し出せ、と。これは救いだ、と。おまえも助かり、この娘も何かを得るかもしれない、と。

 ミリアはリィナの前に立った。

「リィナ」

 名前を呼ぶと、リィナはびくりとした。

「何」

「あなたは、これが欲しいの?」

 ミリアは布を外した。

 首飾りが露わになる。

 村人たちが息を呑んだ。

 借金取りたちも目を見開く。

 陽を受けた首飾りは、美しかった。

 銀よりも白く、骨よりも滑らかで、石よりも冷たい光を放っている。細い輪なのに、見る者の目を縛るような力があった。

 リィナの目が揺れた。

「……欲しい」

 彼女はもう一度言った。

 首輪がさらに熱くなる。

「これがあれば、あなたはどうなると思う?」

「わからない」

「ここから出られると思った?」

「思った」

「売られずに済むと思った?」

 リィナは黙った。

「強くなれると思った?」

 リィナの唇が震えた。

「思った」

 ミリアはうなずいた。

「私も、そう思いそうになった」

「え?」

「あなたがこれを欲しいと言えば、私は助かると思った。あなたに渡せば、私が自由になれると思った。しかも、あなたもここから出られるかもしれないって、都合のいいことまで考えた」

 リィナはわけがわからない顔をした。

 ミリアは首飾りに触れた。

「でも、違う」

 首輪が、喉を締めた。

 言うな。

 そんな声が聞こえた気がした。

 ミリアは歯を食いしばった。

「あなたが欲しいのは、これじゃない」

 リィナの目が見開かれる。

「あなたが欲しいのは、売られない自分だよ」

 村が静まり返った。

 リィナの顔が歪んだ。

「そんなの」

 声が震える。

「そんなの、あるわけない」

「ある」

「ないよ!」

 リィナが叫んだ。

「借金がある。畑はだめになった。弟たちは小さい。母さんは足が悪い。父さんは銀山で死んだ。あるわけないよ。売られない私なんて、どこにもない」

「なら、作る」

 ミリアは言った。

 言ってから、自分で驚いた。

 何を言っているのだろう。

 作る?

 どうやって?

 ガルナがわずかに眉を上げた。

 ネリスがミリアを見ている。

 リィナは、泣きそうな顔で笑った。

「旅の人は簡単に言うね」

「簡単じゃない」

「じゃあ、どうするの」

 ミリアは借金取りを見た。

 男たちは警戒している。ガルナには怯えているが、まだ逃げてはいない。帳面がある限り、自分たちは正しいと思っている顔だった。

 契約。

 借金。

 帳面。

 それらは、首輪に似ている。

 なら、首輪と同じように考えればいい。

 誰かが望み、誰かが譲る。

 条件が揃って、呪いは移る。

 この借金も、条件でできているはずだ。

 帳面に書かれた字。利子。担保。奉公。商会の名前。

 ミリアは帳面を開いた。

「この村の水を止めたのは、銀山の商会ですか」

 借金取りの男が顔をしかめる。

「何の話だ」

「川を鉱山へ引いた。畑がだめになった。作物が採れない。だから村は借りるしかなかった」

「それは領主が許可したことだ」

「でも、この帳面では不作を理由に貸している」

「だから何だ」

「原因を作った商会が、困った村に高い利子で貸している」

 男は鼻で笑った。

「小娘が、賢そうな口を利くな」

「小娘でも読めるくらい、わかりやすいです」

 ミリアは帳面の一部を指した。

「ここ。リィナの家は最初の借り入れの倍以上をもう返している。それなのに元金が減っていない。利子が利子を生んでいるから」

「契約だと言った」

「この契約は、誰が読んで説明したんですか」

「村長だ」

 村人たちの中から、老人がびくりと肩を震わせた。

 村長らしい。痩せた老人で、目を伏せている。

 ミリアは老人を見た。

「本当に説明しましたか」

 老人は答えない。

「読めるんですか」

 老人の唇が動いた。

「少しは」

「少し?」

 ミリアは帳面を持ち上げた。

「これを少し読める人が、村中の借金を説明したんですか」

 借金取りの男が苛立ったように舌打ちした。

「だから何だ。村長が印を押した。各家も押した。契約は成立している」

 ガルナがミリアの横に来た。

「帳面を燃やすか」

「だめです」

「なぜ」

「それをしたら、この人たちはもっと悪い証文を持ってくる」

「では、男たちを埋めるか」

「もっとだめです」

「面倒だな」

「面倒なんです、人間は」

 ミリアはそう言ってから、ガルナを見た。

「あなたも今は巻き込まれています」

「そうだったな」

 ガルナは少しだけ楽しそうだった。

 ミリアは深呼吸した。

 考える。

 何ができるか。

 力で追い払うだけではだめ。

 帳面を燃やすだけでもだめ。

 借金を代わりに払う金もない。

 なら、相手が困るものは何か。

「この村の人たちは、銀山で働いているんですか」

 ミリアが聞くと、リィナが答えた。

「男の人は何人か。父さんも行ってた」

「亡くなったの?」

「坑道が崩れた。補償は出なかった。契約外の作業だったって」

 リィナの声は乾いていた。

 何度も自分に言い聞かせた言葉のようだった。

「女の人は?」

「洗濯や炊事に行ってる人もいる。でも、戻れなくなる人もいる」

「戻れなくなる?」

 リィナは答えなかった。

 答えなくてもわかる。

 わかりたくないが、わかった。

 ミリアは借金取りを見た。

「この人たちを全員連れて行くと、村はどうなりますか」

「知るか」

「畑はさらに荒れる。井戸を守る人も減る。あなたたちは来年、もっと貸すことになる」

「それが仕事だ」

「でも、働き手がいなくなれば、返す人もいなくなる」

 男は少しだけ黙った。

 ミリアは続けた。

「銀山に必要なのは、働く人ですか。それとも、逃げ出しそうな娘ですか」

「何が言いたい」

「この村から、季節ごとに働き手を出す契約に変えればいい。家ごとに一人ずつ、期間を決めて。借金はその賃金から引く。でも、娘を一人連れて行くのはだめです」

 村人たちがざわめいた。

 リィナも驚いた顔をしている。

 借金取りは笑った。

「小娘が商売の話をするな。そんな条件、誰が飲む」

「あなたたちは飲まなくてもいい。でも、商会は考えるかもしれない」

「なぜ」

「この村には、魔物が来たからです」

 ミリアはガルナを見た。

 ガルナが片眉を上げる。

「私か」

「あなたです」

「私を使うのか」

「使えるものは使います」

 ガルナは声を立てて笑った。

「よい。少し気に入った」

 ミリアは借金取りに向き直った。

「銀山の商会に伝えてください。この村から娘を一人連れて行けば、魔物が怒る。けれど、村ごと働く契約に変えるなら、魔物は黙っている」

「そんな脅しが」

 男が言い終える前に、ガルナが本当の姿の影を広げた。

 姿そのものが巨大化したわけではない。

 だが、背後の影だけが膨らんだ。山ほどの大女の影。雲を突く肩。金色の目。村の家々が、その影に呑まれる。

 風が逆巻き、乾いた土が舞った。

 男たちの荷車が軋む。

 馬がいれば逃げ出しただろう。幸い、荷車を引いていたのは痩せた驢馬で、腰を抜かしてその場に伏せただけだった。

「怒るぞ」

 ガルナが言った。

 短い言葉だった。

 十分だった。

 借金取りたちは顔を引きつらせた。

「商会が信じると思うか」

「信じさせるものを渡します」

 ミリアは言った。

「何を」

 ミリアはガルナを見た。

「何か、魔物らしいものをください」

「雑な頼みだな」

「急いでます」

 ガルナは少し考え、自分の黒い髪を一本抜いた。

 その髪は抜かれた瞬間、細い黒蛇のようにうねった。ガルナが息を吹きかけると、髪は固まり、黒銀色の針になった。

「これを商会の帳場に刺せ」

 ガルナは借金取りに投げた。

 男は慌てて受け取り、すぐに悲鳴を上げた。針は冷たいのか熱いのか、彼の掌で煙を上げている。

「抜けば、煙は消える。捨てれば、私が行く」

「な、何を」

「商会に伝えろ。川を返せとは言わぬ。だが、村を殺して銀を掘るな。娘を首輪にして金を返させるな」

 娘を首輪に。

 ミリアはガルナを見た。

 ガルナは、わざとそう言ったのだろうか。

 借金取りは震えながら頷いた。

「わ、わかった。伝える。伝えるから」

「帳面は置いていけ」

 ガルナが言った。

「それは」

「写しはあるのだろう」

 男は言葉に詰まった。

 あるのだ。

 ミリアは苦く思った。

 やはり帳面を燃やしても終わらなかった。

「置いていけ」

 ガルナがもう一度言うと、男は帳面を投げ出した。

「今日のところは帰る。だが、これで済むと思うなよ」

 捨て台詞は震えていた。

 それでも言わずにはいられないのだろう。

 男たちは荷車を引き、逃げるように村を出ていった。

 驢馬だけが立ち上がるのに少し時間がかかり、最後に荷車をがたがた揺らして道の向こうへ消えた。

 村には、静けさが残った。

 誰もすぐには声を出さなかった。

 リィナの母親が、リィナに抱きついた。

 その瞬間、リィナの体から力が抜けた。泣いていなかった娘が、初めて泣いた。声を殺して、母親の肩に顔を埋めた。

 ミリアはそれを見て、少しだけ息を吐いた。

 終わっていない。

 何も解決していない。

 商会が本当に条件を変えるかどうかもわからない。もっと悪いことになるかもしれない。

 それでも、今日リィナは連れて行かれない。

 それだけは、確かだった。

 ガルナがミリアの横に立った。

「おまえは自由になる気があるのか」

 低い声だった。

 ミリアは首飾りに触れた。

「あるよ」

「なら、なぜ渡さない」

 ガルナはリィナを見た。

「あの娘は欲しいと言った。条件は揃いかけた。おまえが譲れば外れたかもしれぬ」

「揃いかけただけです」

「譲れば揃った」

「譲りません」

「なぜ」

 ミリアはリィナを見た。

 母親に抱かれ、ようやく泣いている娘。

 さっきまで、自分の足で売られに行こうとしていた娘。

 首飾りを見て、ここから出られるかもしれないと言った娘。

 あの顔を知っている。

 森の入口で、首輪が喉に巻きついたときの自分の顔。

 何が起きたかわからず、助けたはずの相手に騙されたと知り、怒りと恐怖と絶望が一度に押し寄せた顔。

 あんな顔を、誰かにさせるのか。

 ミリアは首飾りから手を離した。

「私と同じ顔をする人を、見たくないから」

 ガルナは黙った。

 ネリスも、何も言わなかった。

 少しして、リィナが近づいてきた。

 目元は赤い。けれど、泣き顔を見られたくないのか、顎を上げている。

「ありがとう」

 リィナは言った。

「まだ何も終わってない」

 ミリアは答えた。

「そうだね」

 リィナはうなずいた。

「でも、今日は連れて行かれなかった」

「うん」

「それは、ありがとう」

 ミリアは返事に困った。

 リィナの目が、ミリアの首飾りへ向かう。

 もう布で隠していない。

 リィナはゆっくり言った。

「さっき、欲しいって言った」

「うん」

「本当は、怖かった」

 ミリアはリィナを見た。

「欲しいって言った瞬間、自分が自分じゃなくなる気がした。変だね。ただの首飾りなのに」

「ただの首飾りじゃないから」

 ミリアは小さく言った。

 リィナは、深くは聞かなかった。

 聞かない優しさというものもあるのだと、ミリアはそのとき知った。

「でも、あなたの言ったこと、少しわかった」

「何を」

「私が欲しかったのは、それじゃないってこと」

 リィナは自分の首に触れた。

「私は、私の首を誰かの帳面に書かれたくなかったんだと思う」

 銀の首。

 ミリアは、その言葉を思い浮かべた。

 銀山の借金。

 銀貨の利子。

 銀のように光る首飾り。

 そして、売られそうになった娘の細い首。

 どれも同じところへ繋がっているようだった。

「これから、どうするの」

 ミリアが聞くと、リィナは母親のほうを見た。

「村長に、帳面を読める人を探してもらう。できれば、隣町の書記に頼む。商会の人が来る前に、みんなで何を返して、何が増えてるのか確かめる」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃない」

 リィナは少し笑った。

「でも、売られるよりはまし」

 その笑い方が、ミリアには眩しかった。

 救った、などとは言えない。

 ただ、時間を稼いだだけだ。

 それでも、その時間の中でリィナは次のことを考えている。

 売られない自分を、作ろうとしている。

 リィナはネリスを見た。

「あなた、大丈夫?」

 ネリスが驚いたように顔を上げた。

「私ですか」

「さっきから、顔色が悪いから」

 ミリアは息を止めた。

 ネリスは一瞬、ミリアを見た。

 そして、リィナに微笑んだ。

「大丈夫です」

「嘘っぽい」

 リィナは即座に言った。

 ミリアは思わず吹き出しそうになった。

 ネリスは困った顔をした。

「よく言われます」

「誰に?」

 リィナが聞く。

 ネリスは少し迷い、ミリアを見た。

「最近、よく」

 ミリアは目をそらした。

 ガルナが低く笑った。

 村人たちは、まだガルナを遠巻きにしていた。

 魔物だと名乗ったのだから当然だろう。だが、リィナだけはあまり怖がっていないようだった。

「あの」

 リィナはガルナを見上げた。

「魔物さま」

「さまはいらぬ」

「じゃあ、魔物さん」

「それも妙だ」

「では、ガルナさん」

 ガルナは少し考えた。

「まあよい」

「ありがとうございました」

「私は少し脅しただけだ」

「それが助かりました」

「そうか」

 ガルナはリィナを見た。

「おまえは、あの首飾りを欲しがった」

 リィナは緊張したように頷いた。

「うん」

「二度と欲しがるな」

「うん」

「美しいものが、すべて救いとは限らぬ」

 リィナはミリアの首飾りを見た。

 それから、ミリアを見た。

「わかった」

 その返事は、真剣だった。

 ミリアは首元に布を巻き直した。

 村人たちが井戸の水を分けてくれた。

 本当に余裕がないのだろう。桶に半分ほどの水だった。それでも、ミリアは深く頭を下げた。リィナの母親が乾いたパンを一つ持たせてくれようとしたが、ミリアは断った。断ると母親が悲しそうな顔をしたので、結局三分の一だけ受け取った。

「全部持っていって」

 母親は言った。

「いえ」

「助けてもらったから」

「全部はもらえません」

 ミリアはパンを三つに割った。

「これで十分です」

 そのうち一つをネリスに渡そうとして、手を止めた。

 ネリスは食べないと言っていた。

 だが、ネリスはその小さな欠片を見ていた。

「食べられる?」

 ミリアは聞いた。

 ネリスは少し驚いたあと、うなずいた。

「少しなら」

 ミリアは欠片を差し出した。

 ネリスは両手で受け取った。

 まるで、とても大事なものをもらったように。

「ありがとうございます」

「お礼じゃない」

「はい」

「食べないと、歩けないかもしれないから」

「はい」

 ネリスは小さくかじった。

 本当に小さく。

 それでも、少しだけ頬に色が戻ったように見えた。

 気のせいかもしれない。

 ミリアはそう思うことにした。

 村を出るとき、リィナが見送りに来た。

「ねえ」

 彼女はミリアに声をかけた。

「あなた、名前は?」

「ミリア」

「ミリア」

 リィナはその名を繰り返した。

「私はリィナ」

「知ってる」

「そうだった」

 リィナは少し笑った。

「ミリア。あなたは、その首飾りを外したいんだよね」

 ミリアは頷いた。

「うん」

「でも、私には渡さなかった」

「渡せなかった」

「渡さなかったんだよ」

 リィナは言った。

「そこは、ちゃんと言って」

 ミリアはリィナを見た。

 リィナの目は、泣いたあとなのに強かった。

「渡さなかった」

 ミリアは言い直した。

 リィナはうなずいた。

「なら、きっと次も渡さないよ」

「わからない」

「わからなくても、私はそう思う」

 そう言って、リィナは自分の首を指で押さえた。

「私、たぶん一生、今日のことを思い出す。きれいなものを見て、それが欲しいと思ったとき。誰かに言われたものが、自分の欲しいものだと思いそうになったとき。あの首飾りを思い出す」

 ミリアは何も言えなかった。

「だから、あなたも思い出して」

「何を」

「私が、欲しいって言ったけど、欲しかったのはそれじゃなかったこと」

 リィナはそう言って、村のほうへ戻っていった。

 ミリアはその背を見送った。

 ガルナが隣で言った。

「面白い娘だったな」

「売ろうとしてましたよね」

「売ろうとはしていない。渡せるか試した」

「同じです」

「違う」

「私には同じです」

 ガルナは少し黙った。

「おまえは、あれでよかったと思っているのか」

「わかりません」

「助けたつもりか」

「それもわかりません」

「では、何をした」

 ミリアは道の先を見た。

 遠くには、まだ黒い煙が上がっている。

 銀山の煙。

 リィナの父が死んだ場所。

 この村の水を奪った場所。

「今日は、渡さなかった」

 ミリアは言った。

「それだけです」

 ガルナは、珍しく何も言わなかった。

 ネリスが少し後ろを歩いている。

 パンの欠片を両手で持ち、少しずつ食べている。白い髪が風に揺れ、その輪郭は朝よりもいくらかはっきりして見えた。

 ミリアは前を向いた。

 首飾りはまだ喉にある。

 外れていない。

 冷たく、重く、離れない。

 だが、ほんの少しだけ、首輪が機嫌を損ねたような気がした。

 それでいい。

 ミリアは思った。

 私が苦しむのなら、せめておまえも思い通りにはならないで。

 道は続いている。

 町はまだ遠い。

 次に誰が首飾りを欲しがるのか、ミリアにはわからない。

 それでも、一つだけ覚えておこうと思った。

 欲しいという言葉は、ときどき嘘をつく。

 人は、自分が本当に欲しいものの名前を、いつも正しく言えるわけではない。

 だから、聞かなければならない。

 あなたが欲しいのは、本当にこれなのか。

 自分自身にも、いつか同じことを聞かなければならないのだろう。

 私は、何が欲しいのか。

 首輪から自由になりたい。

 村へ帰りたい。

 祖母に会いたい。

 ネリスを許したくない。

 でも、消えてほしくもない。

 その最後の一つを思い浮かべてしまい、ミリアは眉を寄せた。

 まだ違う。

 まだ、そこまで考える必要はない。

 前を歩くガルナが言った。

「急げ。日が傾く前に、次の宿場へ入る」

「はい」

 ミリアは歩き出した。

 後ろでネリスが小さく咳をした。

 ミリアは振り返らなかった。

 ただ、歩く速さをほんの少しだけ落とした。


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