第二章 次の犠牲者を探す旅――三人旅の始まり――
祠は、森と山道の境にあった。
かつては人が通った道なのだろう。石を敷いた跡が、草の下にところどころ残っている。だが今では、石は割れ、土に沈み、草の根に持ち上げられていた。道の脇には背の低い木々が茂り、その奥で虫が鳴いている。
祠は小さかった。
屋根の半分は苔に覆われ、柱は傾き、扉は片方が外れかけている。中に祀られているものは、もう顔のわからない石像だった。神なのか、精霊なのか、道祖神なのかもわからない。ただ、人が昔ここで手を合わせていたことだけはわかった。
ガルナは祠の前で立ち止まった。
「今夜はここだ」
そう言って、当然のように腰を下ろす。
人の姿になっていても、ガルナは大きかった。背が高く、肩も広い。黒い髪は背の半ばまで落ち、金色の目は夕闇の中でもかすかに光って見えた。村で見れば、誰もが振り返るだろう。旅人だと思う前に、近づいてはいけないものだと知る顔だった。
ミリアは、少し離れて立っていた。
喉には首飾りがある。
森の入口で巻きついたそれは、歩いているうちに少し形を変えていた。最初は冷たい輪だった。今は肌に馴染むように薄く、細くなっている。銀の鎖のようにも、白い骨を磨いた飾りのようにも見えた。だが、指をかけるとまったく動かない。皮膚に乗っているのではなく、喉そのものの一部になったようだった。
息はできる。
話すこともできる。
水も飲める。
けれど、首を動かすたびに、そこにあるとわかる。
誰かの悪意が形になって巻きついている。
そう考えると、呼吸まで汚れたように感じた。
「座れ」
ガルナが言った。
「立っていても外れぬぞ」
「知っています」
「なら座れ。足が震えている」
ミリアは返事をしなかった。
震えているのは、疲れのせいだ。
そう思いたかった。
森を出てから、どれくらい歩いただろう。日が落ちるまでに祠へ着くと言ったガルナの歩幅は大きく、普通の娘の足に合わせる気があるのかないのかわからなかった。何度か置いていかれそうになり、そのたびにネリスが振り返った。
ネリスが振り返るたび、ミリアは腹が立った。
心配している顔をするな、と思った。
心配するくらいなら、最初から騙さなければよかったのに。
ネリスは祠の横に立っていた。
白い髪と白い衣が、薄闇の中でぼんやり浮いている。傷は消えていた。罠にかかった白蛇だったときの赤い筋は、どこにもない。ただ、顔色は悪かった。白い肌がさらに白く、血の気がない。
ミリアはそれを見て、すぐに目をそらした。
心配してはいけない。
心配すれば、また同じことになる。
森で白い蛇を見つけたときも、そうだった。
罠にかかって血を流している姿を見て、そのままにできなかった。その結果が、これだ。
優しさは、使われる。
ミリアはそのことを、今日初めて知った。
「火を起こす」
ガルナが言った。
彼女は手近な枝を何本か拾い、祠の前に投げた。太い指を一度鳴らす。すると、枝の先に黒い火がついた。
ミリアは一歩下がった。
火は黒かった。
けれど、辺りは明るくなった。赤い火よりも、ずっと静かな光だった。燃えているのに熱くない。いや、近づくと温かい。だが、煙も臭いもない。
「それは何ですか」
「火だ」
「普通の火には見えません」
「普通の火ではない」
「祠の前で、そんなものを焚いていいんですか」
ガルナは石像を見た。
顔の削れた古い像は、黒い火に照らされても何も言わない。
「この祠の主は、もういない」
「どうしてわかるんですか」
「匂いがない」
「神さまにも匂いがあるんですか」
「ある。生きているものにも、死んだものにも、忘れられたものにも匂いはある。ここにあるのは、忘れられた匂いだけだ」
ガルナはそう言って、枝を火の中へ押し込んだ。
「忘れられたものは、怒らぬ。怒る力も残っていない」
ミリアは祠の石像を見た。
顔のない神。
忘れられたもの。
今の自分が手を合わせるには、ちょうどよすぎる気がした。
ミリアは祠から少し離れた石に腰を下ろした。
足が痛い。靴の中で指がこわばっている。肩も痛い。薬草籠は途中でネリスが持つと言ったが、ミリアは渡さなかった。彼女に何かを持たせることすら嫌だった。
ネリスは、それ以上言わなかった。
今も、少し離れたところに立っている。
火のそばへ来ればいいのに、とミリアは一瞬思った。
すぐに、その考えを消した。
ガルナが懐から何かを取り出した。
黒い布に包まれた干し肉だった。人の食べ物か、魔物の食べ物か、ミリアにはわからなかった。ガルナはそれを短剣で薄く削り、火にかざした。
「食え」
ミリアの膝の前に、干し肉が落ちた。
「いりません」
「腹が鳴っている」
「鳴っていません」
その直後、腹が小さく鳴った。
ガルナが笑った。
ミリアは顔が熱くなった。
「食え。毒など入っていない」
「そういう問題じゃありません」
「では、どういう問題だ」
「あなたからもらいたくありません」
ガルナは少し考えた。
「では、奪ったと思え」
「余計に嫌です」
「面倒な娘だ」
「誰のせいですか」
「私だな」
ガルナはあっさり言った。
それがまた腹立たしかった。
悪いと思っているのか、いないのか。
思っていないのだろう。少なくともミリアの知っている「悪いと思う」とは違う。
ミリアは干し肉を見下ろした。
空腹ではあった。朝、家を出る前に薄いパンを食べただけだ。森で採った薬草も、途中で飲んだ水も、腹を満たすものではない。
食べなければ歩けない。
歩けなければ、この首輪を外す方法も探せない。
ミリアは干し肉を拾った。
指先で泥を払い、少しかじる。
硬かった。
塩気が強い。
けれど、食べ物だった。
悔しいことに、体は少し楽になった。
「水は」
ガルナが言う。
「あります」
ミリアは籠から革袋を出した。
村の井戸で汲んだ水だ。朝には何でもなかったその水が、ひどく懐かしいものに思えた。
ひと口飲む。
首輪は水を通した。喉が鳴る。その感覚に、ミリアは少しだけほっとした。
まだ生きている。
まだ自分の体だ。
そう思いたかった。
ネリスが、火の向こうからミリアを見ていた。
「何ですか」
ミリアが言うと、ネリスはびくりとした。
「いえ」
「言いたいことがあるなら言えば」
ネリスはしばらく迷った。
それから、小さく口を開いた。
「首が、痛みませんか」
ミリアは首飾りに触れた。
「痛いと言ったら、外してくれるの?」
ネリスは黙った。
「外せないんでしょう」
「はい」
「なら聞かないで」
ネリスは唇を結んだ。
ミリアは自分の言葉が鋭すぎたとわかった。
わかったが、取り消さなかった。
ネリスは火から少し離れた石に腰を下ろした。
座り方が、妙にきちんとしている。膝を揃え、手を重ね、背筋を伸ばしている。森の中で罠にかかっていた白蛇と、同じものとは思えない。
けれど、どちらも本当なのだろう。
蛇。
少女。
首輪の精。
どれが本当で、どれが嘘なのか、ミリアにはもうわからない。
「教えてください」
ミリアは言った。
ガルナが顔を上げた。
ネリスもこちらを見る。
「この首輪のこと。知っていることを、全部」
ガルナは干し肉を噛みながら言った。
「全部は長い」
「なら、必要なことを」
「必要なことか」
ガルナは喉の跡に触れた。
首輪が外れたあとも、黒い痕は残っている。人の姿になっても、それは消えなかった。喉の周りを一周する焼け跡のような痕。あれを見るたび、ミリアの首飾りも同じものを刻むのではないかと思ってしまう。
「まず、その首輪は力ずくでは外れぬ」
「それは聞きました」
「切れぬ。焼けぬ。祈っても外れぬ。呪いを解く水も、聖職者の祝福も、魔女の刃も役に立たぬ」
「試したんですか」
「試した」
ガルナは短く答えた。
その声に、わずかな重さがあった。
「何度もな」
ミリアは黙った。
ガルナが百年も二百年もそれをつけていたという話を、さっき聞いた。信じられない話だった。だが、今ここにいるガルナの喉の痕を見ると、嘘とは思えない。
「外す方法は一つだけだ」
ガルナは続けた。
「次の持ち主へ渡すこと」
「次の持ち主」
「誰かがそれを欲しいと言う。今の持ち主が譲る。二つが揃えば移る」
「欲しいと言わせるだけではだめなんですか」
「だめだ」
「私が譲らなければ?」
「移らぬ」
ミリアは首飾りを握った。
少しだけ、息が楽になった。
誰かが欲しいと言っただけで勝手に移るのなら、恐ろしすぎる。町にも村にも、きれいなものを欲しがる人はいくらでもいる。子供なら、深く考えずに言うだろう。娘なら、飾りを羨むこともあるだろう。
でも、ミリアが譲らなければ移らない。
そこだけは、自分で決められる。
「なら、私は譲りません」
「今はな」
ガルナは言った。
「またそれですか」
「事実だ。持ち主はみな、最初はそう言う」
「みな?」
ミリアの声が低くなった。
「あなたの前にも、持ち主がいたんですか」
ガルナは火の中を見た。
「いた」
ネリスの肩が、かすかに揺れた。
「何人」
「数えていない」
「数えていない?」
「私が知るより前からある首輪だ。私に巻きつく前にも、誰かを縛っていた。私の前に何人いたかは知らぬ。私のあとがおまえだ」
ミリアはぞっとした。
自分が始まりではない。
それはわかっていたはずなのに、改めて聞くと怖かった。
この首飾りは、何人もの喉を渡ってきた。
誰かが欲しいと言い、誰かが譲り、また誰かが縛られた。
欲しいと言った者は、みな最初は何を思ったのだろう。
宝だと思ったのか。
救いだと思ったのか。
力だと思ったのか。
それとも、ミリアのように、誰かに言われた通りにしただけだったのか。
「次の持ち主に移ると、前の持ち主はどうなるんですか」
「自由になる」
ガルナは言った。
「私のように」
その言葉には、隠しようのない喜びがあった。
ミリアはそれを聞いて、胸が冷えた。
自由。
良い言葉のはずだった。
誰もが欲しがるもののはずだった。
なのに今は、ひどく汚れた言葉に聞こえる。
「では、次の人は」
「縛られる」
「その人も、また次の誰かに渡せば自由になる」
「そうだ」
「それを、ずっと繰り返してきたんですか」
「そうだ」
「誰かが終わらせようとはしなかったんですか」
ガルナはミリアを見た。
「終わらせようとした者はいた」
「どうなったんですか」
「死んだ」
黒い火が、小さく鳴った。
ミリアは指先が冷えるのを感じた。
「首輪は、ただ飾りとして首にあるだけではない。持ち主の恐れ、後悔、怒り、逃げたいという願いを食う。はじめは耐えられる。だが年を重ねるほど、首輪は持ち主の中に根を張る」
ガルナの声は淡々としていた。
だが、ミリアにはその淡々とした声がかえって怖かった。
「根?」
「声に絡む。息に絡む。夢に絡む。誰かを見れば、考えるようになる。あの者なら欲しがるだろうか、と。美しい娘を見れば、似合うだろうと思う。傲慢な者を見れば、あいつなら罰を受けて当然だと思う。自分を傷つけた者を見れば、あいつに渡せばよいと思う」
「そんな」
「思うだけなら、人は自分を許せる」
ガルナは言った。
「だが、首輪はその思いを食う。そして育つ。いつか、思うだけでは済まなくなる」
ミリアは喉を押さえた。
首飾りは静かだった。何も言わない。締めつけもしない。
だからこそ怖かった。
今はただの冷たい飾りに見える。
でも、この中にそんなものが眠っているのだ。
「では、あなたも」
ミリアはガルナを見た。
「私を見て、そう思ったんですか」
ガルナは答えるまで少し間を置いた。
「そうだ」
ミリアは息を呑んだ。
「おまえなら欲しがるかもしれぬと思った。正確には、ネリスがおまえなら言うかもしれぬと言った」
ネリスが顔を伏せた。
ミリアはネリスを見た。
「私なら、言うと思ったの」
ネリスは小さく頷いた。
「なぜ」
「あなたは、私を助けたから」
「それは理由にならない」
「なります」
ネリスは初めて、少しだけ強く言った。
「欲が深い人なら、金や宝石を望みます。畑や屋敷を望む人もいる。力や若さや美しさを望む人もいる。でも、そういう願いはガルナが叶えてしまえる。首飾りを選ばせるには、別のものが必要でした」
「別のもの?」
「相手を心配する気持ちです」
ミリアは固まった。
「私は、ガルナの首が痛そうに見えたら、あなたが気にすると思いました。私がそれを欲しいと言えばみんな助かると言えば、あなたは考えると思いました。自分の得ではなく、私とガルナのことを」
ネリスの声は震えていた。
「だから、あなたを選びました」
ミリアは目の前が暗くなるようだった。
宝を欲しがったからではない。
力を欲しがったからでもない。
心配したから。
助けたいと思ったから。
痛むのではないかと気にしたから。
だから選ばれた。
「それを聞いて、私が納得すると思う?」
「思いません」
「じゃあ、なぜ言ったの」
「必要なことを言えと、あなたが言ったからです」
ミリアは言い返せなかった。
黒い火が、枝を燃やす音もなく揺れている。
祠の石像は、顔のないまま三人を見ていた。
ガルナが口を開いた。
「首輪は移るたびに力を取り戻す」
ミリアはガルナを見た。
「力を?」
「持ち主が変わるとき、前の持ち主の解放と、次の持ち主の絶望が混ざる。その瞬間、首輪は新しくなる。古い垢を落とし、新しい喉に食いつく。だから長く続いてきた」
「移らなければ?」
「弱る」
その言葉に、ミリアは少し身を乗り出した。
「弱れば、外れるんですか」
「さあな」
「さあなって」
「私は外れる前に譲った。外れるまで耐えた者の話は、知らぬ」
「死んだと言いました」
「死んだ者はいる。だが、首輪が弱ったから死んだのか、弱る前に持ち主が壊れたのかは知らぬ」
ミリアは唇を噛んだ。
「何も知らないんですね」
「知らぬことは知らぬと言う」
「都合のいいときだけ正直なんですね」
ガルナは少し笑った。
「おまえはよく刺す」
「刺されるようなことをしたからです」
「そうだな」
また、それだ。
認めるなら、何か変えてほしい。
そう思うのに、ガルナは認めるだけだ。まるで罪がそこにあることと、自分が歩くことは別のことだと言うように。
「弱るなら」
ミリアは首飾りに触れた。
「誰にも渡さなければいい」
「簡単に言う」
「違いますか」
「違わぬ」
ガルナは言った。
「だが、首輪が弱るということは、持ち主から吸う力が増えるということでもある」
「どういうことですか」
「飢えた獣は、おとなしく寝てはくれぬ」
ミリアの指が、首飾りの上で止まった。
「飢えると、何をするんですか」
「まず夢に出る。次に声を聞かせる。やがて、おまえの目で人を見るようになる」
「脅しているんですか」
「説明している」
「同じです」
「違う」
ガルナは火を見たまま言った。
「脅しは、おまえを動かすための言葉だ。説明は、おまえが選ぶための言葉だ」
ミリアは黙った。
憎い相手の言葉なのに、少しだけ筋が通っているのが嫌だった。
ネリスが小さく咳をした。
ほんの小さな音だった。
けれど、ミリアは気づいた。
ネリスは片手を口元に当てている。白い指が震えていた。
「大丈夫ですか」
ミリアは反射的に言ってしまった。
言ってから、しまったと思った。
ネリスは目を見開いた。
そして、すぐに首を振った。
「大丈夫です」
「そう」
ミリアはそっけなく返した。
それでも一度出た言葉は戻らない。
ガルナがネリスを見た。
「姿を保つのがつらいか」
「少しだけです」
「蛇に戻れ」
「でも」
「戻れ」
ネリスはうなずいた。
白い光が揺れ、少女の姿がほどける。次の瞬間、火の向こうに小さな白蛇がいた。
ミリアはそれを見て、胸がざわついた。
森で助けた白蛇。
自分を騙した少女。
首輪の精。
白蛇は火のそばで丸くなった。細い体が、黒い火の光を受けて淡く光っている。眠っているのか、目を閉じているように見えた。
「どうして弱ってるんですか」
ミリアは聞いた。
ガルナは干し肉を噛み切った。
「首輪が移ったからだろう」
「私の首に来たから?」
「私の喉で長く育った。私の魔力に慣れていた。おまえの体は人間だ。まだ馴染んでおらぬ」
「それだけ?」
ガルナはミリアを見た。
金色の目が、黒い火を映している。
「今は、それだけだと思っておけ」
「また隠すんですか」
「隠しているのではない。確かなことだけ言っている」
「信じられません」
「信じなくてよい」
ガルナは同じ言葉を繰り返した。
「信じなくても、旅はできる」
「できません。旅は、信じられる人とするものです」
「それは平和な者の考えだ」
ガルナは祠の屋根を見上げた。
「逃げる者、追われる者、呪われた者は、信じられぬ相手とも道を同じくする」
ミリアは返事をしなかった。
黒い火が揺れる。
白蛇が丸くなる。
ガルナが大きな影を落とす。
その中に、自分がいる。
今日の朝まで、ミリアは村の娘だった。
薬草を採り、祖母の薬を煎じ、雨の翌日には森へ入り、風の強い日には入らない。そんな暮らしの中にいた。
それが、今はどうだ。
魔物と、首輪の精と、顔のない神の祠で夜を過ごしている。
喉には呪いがある。
帰る家は、背後の闇の中に遠ざかった。
ミリアは膝を抱えた。
「私は、これからどうすればいいんですか」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ガルナが答えた。
「まず眠れ」
「そういうことじゃありません」
「眠らぬ者は、明日まともに考えられぬ」
「明日、考えればいいんですか」
「今日考えても、答えは出ぬ」
ミリアは笑った。
乾いた笑いだった。
「魔物に正しいことを言われると、腹が立ちますね」
「よく言われる」
「誰に」
「私を封じた連中に」
ガルナの声に、わずかに棘が混じった。
ミリアは顔を上げた。
「あなたを封じたのは、誰ですか」
「人間だ」
「なぜ」
「私が魔物だったからだ」
「それだけ?」
「人間にとっては、それだけで十分な理由になる」
ミリアは黙った。
ガルナは火の中に枝を足した。
黒い火は、枝を食べても大きくならない。ただ、深くなる。
「昔、私は山にいた。今より大きく、今より強かった。山の獣も、木も、水も、私の息を知っていた。人間は山へ入り、木を切り、石を掘り、川の流れを変えた。私は怒った」
「それで、人を襲ったんですか」
「襲った」
ガルナは隠さなかった。
「何人も?」
「何人も」
ミリアは息を呑んだ。
「なら、封じられて当然だったのでは」
言ってから、少し怖くなった。
ガルナは魔物だ。怒らせれば、ミリアなど片手で潰せるかもしれない。
だがガルナは怒らなかった。
「そう思う者もいただろう」
「あなたは違うんですか」
「私は、私の山を守っただけだと思っていた」
「でも、殺した」
「そうだ」
「だから、首輪をかけられた」
「そうだ」
ガルナは自分の喉に触れた。
「ただし、首輪をかけた者たちは、私を殺さなかった。殺せなかったのか、殺したくなかったのかは知らぬ。私の魔力を封じ、山の境に縛りつけた。私は長いあいだ、そこから動けなかった」
「それで、ネリスが生まれた」
「そうだ」
白蛇が火のそばで小さく動いた。
聞こえているのかもしれない。
「最初、こいつはただの輪だった。冷たいだけの、憎い輪だった。私は何度も噛み砕こうとした。爪で裂こうとした。火で焼いた。水に沈めた。岩に打ちつけた。何をしても外れなかった」
ガルナの声は遠かった。
「そのうち、輪が私の声を真似るようになった」
「声を?」
「私が眠ると、喉の奥で私の名を呼んだ。私が怒ると、怒りを返した。私が泣くと」
ガルナはそこで口を閉ざした。
ミリアは、ガルナが泣く姿を想像できなかった。
だが、できないと思ったことが、少しだけ傲慢に感じた。
「ある日、白い蛇がいた」
ガルナは続けた。
「私の喉のそばに。どこから来たのかと思った。だが、そいつは首輪から出てきた。私を縛るものが、私の息で生きるものになっていた」
火のそばの白蛇が、少し身を縮めた。
「私はそいつを憎んだ。そいつも私を怖がった。だが、長い時間があった。憎むにも、怖がるにも、長すぎる時間だ」
ミリアは白蛇を見た。
長いあいだ誰かを縛るためだけに存在していたもの。
自分でそう思ったわけではない。だが、その言葉が胸に浮かんだ。
ネリスは、何だったのだろう。
被害者なのか。
加害者なのか。
道具なのか。
娘なのか。
どれか一つなら、憎むのは簡単だった。
ガルナがミリアを見た。
「だから私は自由になりたかった」
「そのために、私を犠牲にした」
「そうだ」
「ネリスも」
「そうだ」
ミリアは火を見つめた。
「正直に言えば許されると思わないでください」
「思っていない」
「あなたは、ずるいです」
「そうだな」
「ネリスも、ずるい」
白蛇がわずかに震えた。
「でも」
ミリアは言葉を飲み込もうとした。
飲み込めなかった。
「ずるい人が、ずっと苦しくなかったとは限らないんですね」
言ってから、自分で驚いた。
許したかったわけではない。
慰めたかったわけでもない。
ただ、そう思ってしまった。
ガルナは何も言わなかった。
白蛇も動かなかった。
夜が深くなっていく。
ミリアは祠の柱に背を預けた。
眠れるはずがないと思った。けれど、疲れは体の奥に沈んでいた。まぶたが重くなる。
「寝るなら、首輪に手をかけて寝るな」
ガルナが言った。
「どうして」
「夢の中で外そうとする者が多い。爪で喉を傷つける」
ミリアは反射的に首から手を離した。
「……ありがとう」
礼を言ってしまった。
今日二度目だ。
ガルナは少し笑った。
「礼を言う相手は選べ」
「今のは取り消します」
「遅い」
ミリアは腹が立ったが、少しだけ力が抜けた。
黒い火の向こうで、白蛇が丸まっている。
ガルナは祠の入口に座り、夜の道を見張るように目を開けている。
この二人を信じてはいけない。
信じられない。
それでも、今夜だけは、この火のそばで眠るしかなかった。
ミリアは目を閉じた。
夢を見た。
夢の中で、彼女は森にいた。
雨上がりの森だ。葉の先に雫が光り、青銀苔が斜面に生えている。どこかで金属が鳴る。
ミリアは音のほうへ行く。
楡の木の根元に、白い蛇がいる。
罠にかかっている。
助けなければ。
そう思って手を伸ばす。
だが、罠にかかっていたのは白い蛇ではなかった。
自分だった。
喉に輪がかかり、地面に伏せている。
森の道を、誰かが歩いてくる。
顔は見えない。
でも、その人は優しそうだった。
助けて。
ミリアは言おうとした。
声が出ない。
代わりに、首輪が喋った。
首飾りが欲しいと言って。
ミリアは目を覚ました。
夜明け前だった。
空はまだ暗く、東の端だけが少し青い。黒い火は小さくなっているが、消えていない。
ミリアは喉を押さえた。
首飾りはそこにある。夢の中よりもずっと静かだった。
指先に、汗がついていた。
「悪い夢か」
ガルナの声がした。
彼女は一晩中起きていたようだった。祠の入口に座ったまま、金色の目を細くしている。
「見張っていたんですか」
「魔物はあまり眠らぬ」
「便利ですね」
「不便でもある」
ミリアは起き上がった。
体の節々が痛い。石にもたれて眠ったせいだ。首輪のせいで眠れないかと思ったが、結局眠ってしまった自分が少し情けなかった。
火のそばにいた白蛇が、いつのまにか少女の姿に戻っていた。
ネリスは膝を抱えて座っている。目を閉じているが、眠っているのかどうかわからない。朝の薄明かりの中で、その輪郭が少し透けて見えた。
ミリアは目を凝らした。
透けている?
瞬きをすると、普通に見えた。
気のせいかもしれない。
ネリスが目を開けた。
「おはようございます」
小さな声だった。
ミリアは一瞬迷い、短く答えた。
「おはよう」
ネリスの顔に、かすかな驚きが浮かんだ。
「挨拶くらいはします」
ミリアは言った。
「許したわけじゃありません」
「はい」
ネリスはうなずいた。
「わかっています」
「わかっているなら、その顔をしないで」
「どんな顔ですか」
「嬉しそうな顔」
ネリスは慌てて目を伏せた。
「すみません」
「謝らないで」
ミリアは立ち上がった。
「謝られると、私が許さなきゃいけないみたいになる」
ネリスは何も言わなかった。
朝の空気は冷たかった。
ミリアは革袋の水で顔を洗い、残った干し肉を少しかじった。ガルナが出したものだと思うと嫌だったが、食べなければ歩けない。そう言い聞かせる。
ネリスは何も食べなかった。
蛇の姿なら虫でも食べるのか、少女の姿なら人の食べ物が必要なのか、ミリアにはわからない。
「あなたは食べないの」
また聞いてしまった。
ネリスは首を横に振った。
「私は、あまり食べません」
「あまり?」
「ときどき、水を」
ミリアは革袋を差し出しかけた。
途中で手を止める。
ネリスはそれを見て、静かに笑った。
「大丈夫です」
「そう」
ミリアは革袋をしまった。
なぜ自分が悪いことをしたような気分にならなければならないのだろう。
ミリアは腹が立った。
祠を離れる前に、ミリアは顔のない石像を見た。
手を合わせるか迷った。
ここで手を合わせたところで、何に祈ればいいのかわからない。家へ帰れますように。首輪が外れますように。祖母が心配しすぎませんように。ネリスを憎みきれますように。あるいは、憎みきれなくても壊れませんように。
どれも、祈りにするには形が悪かった。
ミリアは結局、軽く頭だけ下げた。
ガルナがそれを見ていた。
「信心深いのか」
「礼儀です」
「顔も名も失った神にか」
「顔も名も失ったなら、なおさらです」
ガルナは少しだけ黙った。
「妙な娘だ」
「昨日も聞きました」
「何度でも言う」
三人は道へ戻った。
朝の山道は静かだった。
木々の間から細い光が差し、草についた露が光っている。遠くで鳥が鳴いた。昨日までなら、綺麗だと思ったかもしれない。
今は、すべてが少し遠い。
ガルナが先頭を歩く。
ミリアがその後ろを行く。
ネリスはさらに後ろだったが、時折ふっと白蛇の姿になり、草の上を滑るように進んだ。しばらくするとまた少女の姿に戻る。そのたびに、少し息が荒くなっているように見えた。
ミリアは見ないふりをした。
見ないふりをしている自分を、見ないふりできなかった。
「町まではどれくらいですか」
ミリアはガルナに聞いた。
「歩けば二日」
「人の足で?」
「今は人の足に合わせている」
「本当ですか」
「おまえは疑い深いな」
「誰のせいですか」
「私とネリスだ」
「わかっているなら、もう少し申し訳なさそうにしてください」
「申し訳なさそうな顔をすれば、首輪が外れるのか」
「外れません」
「なら無駄だ」
ミリアは深く息を吸った。
怒りで体力を使う。
この女と話していると、歩くより疲れる。
「町で、何をするんですか」
「首飾りを欲しがる者を探す」
「私は渡しません」
「知っている」
「なら探す意味がありません」
「意味はある」
「どんな」
「おまえが本当に渡さないと言えるか、試せる」
ミリアは立ち止まりかけた。
「私を試すために、人を探すんですか」
「人は放っておいても欲しがる。こちらが探さなくとも、首飾りは目を引く」
ガルナは振り返った。
「布で隠してもよい。だが、隠せば隠すほど欲しがる者もいる。宝とはそういうものだ。呪いもまた、宝の顔をしている」
ミリアは首飾りに触れた。
たしかに、これは美しい。
恐ろしいほどに。
自分でさえ、森の入口で見上げたとき、一瞬だけ美しいと思った。
美しいからこそ、欲しいという言葉が口に出たのかもしれない。ネリスに言われたからだけではない。どこかで、自分も惹かれていたのかもしれない。
そのことを認めるのは、苦しかった。
「もし誰かが欲しいと言ったら」
ミリアは聞いた。
「私は、何と言えば移るんですか」
ネリスが後ろで息を止めた気配がした。
ガルナは答えた。
「差し上げよう、と言えばよい」
その言葉に、ミリアの喉がひやりとした。
森の入口で聞いた言葉。
では、差し上げよう。
あの一言で、首輪はガルナからミリアへ移った。
「他の言い方でも?」
「譲る意志があれば、言葉は多少違ってもよい。だが、首輪は古い言葉を好む」
「好む?」
「呪いにも癖はある」
ミリアは背筋が冷えた。
首輪が好む。
まるで、生きもののようだ。
いや、首輪には精がいる。
ネリスがいる。
なら、この首輪は生きているのか。
ネリスとは別に。
ミリアは振り返った。
ネリスは少し離れて歩いていた。
顔色は悪い。けれど、ミリアと目が合うと、すぐに姿勢を正した。
「あなたは」
ミリアは言った。
「首輪そのものなの?」
ネリスは少し迷った。
「そうでもあり、そうではありません」
「わからない」
「私にも、うまく言えません。私は首輪から生まれました。首輪の中にいます。でも、首輪のすべてではありません」
「では、首輪が私に夢を見せたり、声を聞かせたりするとき、それはあなたなの?」
「違います」
ネリスはすぐに首を振った。
その答えだけは早かった。
「私は、あなたを苦しめたくありません」
ミリアは笑った。
自分でも嫌な笑い方だと思った。
「もう苦しめています」
「はい」
ネリスは俯いた。
「でも、これ以上は」
「あなたが望まなくても、首輪はするんでしょう」
「……はい」
「なら、あなたと首輪は違う」
ネリスが顔を上げた。
ミリアは前を向いた。
「違うなら、そう言ってくれないとわかりません」
「ミリア」
「呼ばないで、と言いました」
「すみません」
「謝らないで、とも言いました」
ネリスは口を閉じた。
ガルナが前で笑っている。
「何がおかしいんですか」
「いや」
「笑いましたよね」
「おまえたちは、もう十分に会話していると思ってな」
「していません」
「している」
「これは会話ではなく、確認です」
「そうか」
ガルナは楽しそうだった。
ミリアは腹が立った。
だが、少しだけ、この旅の形が見えた気もした。
ガルナは悪びれない。
ネリスは謝る。
ミリアは怒る。
それでも道は続く。
足を止めれば、首輪は外れない。
昼頃、三人は小さな沢に出た。
水は冷たく澄んでいた。ミリアは革袋に水を足し、顔を洗った。首飾りに水が触れると、表面がかすかに光った。ミリアは慌てて布で拭った。
「水に濡れても平気ですか」
「平気だ」
ガルナが答える。
「火も水も刃も効かぬと言った」
「便利ですね」
「呪いに便利と言う者は珍しい」
「褒めてません」
ネリスは沢のそばにしゃがみ、水に指を浸していた。
その指先が、水に溶けるように薄く見えた。
ミリアは見てしまった。
今度は気のせいではない。
「ネリス」
呼んでから、しまったと思った。
ネリスがこちらを見る。
「手」
ミリアは言った。
「透けてる」
ネリスは自分の手を見た。
そして、すぐに袖の中へ隠した。
「光のせいです」
「違う」
「光のせいです」
ネリスは繰り返した。
ミリアはガルナを見た。
ガルナは沢の向こうを見ている。聞こえていないはずがない。だが、何も言わない。
「本当に?」
ミリアが聞くと、ネリスは微笑んだ。
「本当です」
嘘だ。
ミリアにはわかった。
ネリスは嘘が下手ではない。
むしろ、上手なのだと思う。
でも、ミリアはもうネリスの嘘を一つ知っている。白い蛇の傷も、母という言葉も、みんな助かるという言葉も、その中に混じっていた隠しごとを見てしまった。
一度見てしまうと、見える。
「また嘘」
ミリアは言った。
ネリスは何も言わなかった。
「もういい」
ミリアは立ち上がった。
「言いたくないなら、言わなくていい。私も聞きません」
そう言って歩き出した。
沢の石を踏み、向こう岸へ渡る。
胸の奥が重かった。
怒っている。
たしかに怒っている。
でも、それだけではなかった。
ネリスが透けて見えたことが、怖かった。
消えそうに見えたことが、怖かった。
なぜ怖いのか、考えたくなかった。
午後になると、道は少しずつ開けてきた。
山の木々が低くなり、遠くに畑が見えた。民家の煙が細く上がっている。村ではない。通り沿いに家が点在する、小さな宿場のようだった。
「今日はあそこまでだ」
ガルナが言った。
「町まで二日では」
「あれは町ではない。道端の集まりだ」
「人がいます」
「いるな」
「首飾りを見られたら」
「布で隠せ」
ガルナはあっさり言った。
ミリアは籠から布を出し、首元に巻いた。
薬草を包む布だ。きれいではないが、喉を隠すには足りる。首飾りの上に布が触れると、かすかに冷たさが増した。
「嫌がってるみたい」
ミリアが呟くと、ガルナが言った。
「見せびらかされるほうを好む」
「趣味が悪い」
「呪いだからな」
宿場へ近づくにつれ、人の声が聞こえてきた。
荷車の軋む音。犬の吠える声。鍋を叩く音。誰かが笑う声。
ミリアは足を止めた。
人がいる。
普通の人たちがいる。
その中に入るのが、こんなに怖いとは思わなかった。
昨日まで、自分もその普通の側にいたのに。
「どうした」
ガルナが聞いた。
「首飾りを欲しがる人がいたら、どうしようと思って」
「譲らなければよい」
「簡単に言わないで」
「簡単な理屈だ。難しいのは、おまえの心だ」
ミリアは黙った。
その通りだった。
だから腹が立つ。
ネリスがそっと近づいた。
「私が、あなたの前に立ちます」
「何のために」
「首元を見られにくくするために」
「あなたは白すぎて、余計に目立つ」
ネリスは困った顔をした。
ミリアは少しだけ言いすぎたと思った。
「……でも、ありがとう」
ネリスが顔を上げた。
「お礼じゃありません。今のは、ただの返事です」
「はい」
ネリスは小さく頷いた。
その顔がまた嬉しそうで、ミリアは目をそらした。
三人は宿場へ入った。
ガルナは目立った。
背が高く、黒い髪が長く、金色の目をしている。誰もが一度は見る。だが、その迫力のせいか、近づいてくる者はいなかった。
ネリスも目立った。
白い髪、白い肌、白い衣。病人にも、精霊にも見える。子供が指をさしかけ、母親に手を引かれていった。
ミリアは、二人の間に挟まれる形で歩いた。
首元には布。喉の内側には冷たい輪。
小さな宿を取ることになった。
ガルナがどこから出したのか、古い金貨を一枚出した。宿の女主人は金貨を見て目を丸くし、すぐに奥の部屋を用意した。ミリアはその金がどこから来たのか聞きたかったが、聞くのが怖かった。
部屋は一つだった。
「なぜ一つなんですか」
ミリアが言うと、ガルナは当然のように答えた。
「離れると面倒だ」
「何が」
「首輪の持ち主を見失う」
「私は逃げません」
「逃げてもよいが、逃げるなら首輪ごとだ」
ミリアは返事に詰まった。
逃げても、首輪はついてくる。
ネリスも、たぶんついてくる。
ガルナも追ってくるだろう。
逃げ道など、最初からなかった。
部屋に入ると、ミリアは布を外した。
首飾りが空気に触れた瞬間、ほっとしたように冷たさを緩めた気がした。
気のせいだと思いたい。
ネリスは窓辺に立ち、外を見ていた。
宿場の道を、若い娘が二人通り過ぎていく。布を売る行商人の娘だろうか。明るい声で笑っている。
そのうちの一人が、ふと窓の中を見た。
ミリアと目が合った。
正確には、ミリアの喉元と。
娘の目が、少し大きくなった。
「きれい」
唇が、そう動いた。
声は窓越しで聞こえなかった。
だが、ミリアにはわかった。
心臓が跳ねた。
ミリアは反射的に首元を押さえた。
娘は友人に袖を引かれ、笑いながら歩いていった。何も起こらなかった。欲しいとは言っていない。ミリアも譲っていない。
ただ、きれい、と言っただけだ。
それだけなのに、膝が震えた。
ガルナが後ろで言った。
「わかったか」
ミリアは振り返らなかった。
「何がですか」
「この世には、欲しがる者がいくらでもいる」
ミリアは首飾りを握った。
ネリスが静かに窓を閉めた。
「今日はもう、外を見ないほうがいいかもしれません」
「あなたに言われたくない」
「はい」
「でも、閉めて」
「閉めました」
ミリアは寝台に腰を下ろした。
柔らかい寝台だった。
祠の石とは違う。
それなのに、体は少しも休まらなかった。
ガルナは椅子に腰掛け、長い脚を組んだ。
「明日、もう少し大きな町へ行く」
「そこで、また探すんですか」
「探すというより、向こうから見つけるだろう」
「誰が」
「首輪を欲しがる者が」
ミリアは首を横に振った。
「私は渡しません」
「聞いた」
「何度でも言います」
「言えばよい」
ガルナは目を閉じた。
「首輪にも聞かせておけ」
ミリアは喉に手を当てた。
冷たい輪の奥で、何かがほんのかすかに動いた気がした。
まるで、聞いている、と答えるように。
ネリスが窓辺から離れ、部屋の隅に座った。
また少しだけ、輪郭が薄く見えた。
ミリアはそれに気づいた。
気づかないふりをした。
今はまだ、聞かない。
聞いたら、自分の中の何かがまた動いてしまう。
その夜、ミリアは寝台に横になった。
ガルナは椅子に座ったまま眠るのか眠らないのかわからない。
ネリスは部屋の隅で白蛇になり、小さく丸まっている。
ミリアは首飾りに手をかけないよう、両手を胸の上で組んだ。
眠る前に、心の中で言った。
私は渡さない。
誰にも渡さない。
たとえ、この首輪が夢に出ても。
たとえ、誰かがきれいだと言っても。
たとえ、欲しいと言われても。
私は、誰かを私の代わりにはしない。
首飾りは何も答えなかった。
だが、遠くのほうで、白蛇が小さく咳をした。
ミリアは目を開けた。
暗い部屋の隅を見る。
白蛇は丸まったまま動かない。
気のせいかもしれない。
そう思おうとした。
けれど、ミリアはもう知っていた。
この旅で、本当に怖いのは、首輪の痛みだけではない。
騙した相手が弱っていくのを見ても、まだ怒り続けられるのか。
助けたいと思ってしまったら、自分はまた利用されるのではないか。
それでも、見捨てることができるのか。
その問いが、首輪よりも深く、ミリアの喉の奥に巻きついた。
翌朝、三人は宿場を出た。
道の先には、昨日より大きな町があるという。
人が集まり、商人が集まり、金と宝と噂が集まる町。
首飾りを欲しがる者も、きっといる。
ミリアは首元に布を巻き直した。
ガルナが先を歩く。
ネリスが少し後ろを歩く。
ミリアはその間で、喉の冷たさを感じながら歩き出した。
次の犠牲者を探す旅。
ガルナはそう呼ぶのだろう。
けれどミリアは、心の中で別の名をつけた。
誰も犠牲にしないための旅。
今はまだ、それができるかどうかもわからない。
それでも、そう呼ばなければ、一歩も進めなかった。




