第一章 魔物の首飾り
「では、差し上げよう」
大女はそう言った。
その声は、森の上を渡っていった。
葉が震え、遠くの鳥がいっせいに飛び立った。村のほうまで響いたのではないかと思うほど大きな声だったのに、不思議とミリアの耳には、すぐそばで囁かれたようにも聞こえた。
ミリアは、動けなかった。
差し上げよう。
そう言われた。
たしかに言われた。
けれど、目の前の女の喉にある首飾りは、人が身につけるものではなかった。
大女の首にすら重そうに沈んでいる。銀とも骨とも石ともつかない巨大な輪は、陽を浴びて鈍く光っていた。宝石は一つもついていない。細工もない。ただ丸いだけだった。それなのに、そこには目を離せない美しさがあった。
美しいというより、古い。
生まれる前からそこにあり、死んだあともそこに残るもののようだった。
大女は、首飾りに太い指をかけた。
ミリアは思わず一歩下がった。
あんなものが外れるはずがない。首よりも肩よりも深く、喉そのものに食い込んでいるように見える。もし本当に外そうとしたら、この大女の首が裂けるのではないかと思った。
だが、大女は平然としていた。
「怖いか」
金色の目が、ミリアを見下ろした。
「……少し」
嘘をつく余裕がなかった。
大女は笑った。
笑うと、雲が割れるように顔が歪んだ。恐ろしい顔だった。けれど、ただ恐ろしいだけではなかった。長いあいだ何かを待っていた者が、ようやくそのときに辿り着いたような笑みだった。
「怖いなら、やめてもいい」
ミリアは顔を上げた。
意外な言葉だった。
「やめても、いいのですか」
「もちろんだ」
大女は言った。
「おまえが望まぬなら、これは渡せぬ。古い決まりだ。望まぬ者に与えることはできない」
古い決まり。
ネリスも、そんな言い方をした。
礼を返さなければ、母は約束を破ることになる。
誰との約束かと聞くと、ネリスは答えなかった。
とても古い約束です、とだけ言った。
ミリアは森のほうを振り返った。
木々の奥は暗い。白い蛇の姿は見えない。ネリスは根の下に隠れているのだろうか。それとも、もう別の場所へ消えてしまったのだろうか。
忘れないで。首飾りです。
あの声は、まだ耳に残っている。
ミリアは唇を噛んだ。
やめてもいい。
大女はそう言った。
なら、やめればいいのかもしれない。
何もいりませんと言えばいい。助けた蛇がただの蛇ではなかったとしても、蛇を助けたことはそれで終わりにすればいい。森を出て、村へ帰り、祖母に今日あったことをどこまで話すか考える。薬草を採り損ねたことを謝り、明日もう一度森へ入る。
そうすれば、たぶん、すべて元に戻る。
けれど。
ネリスのあの笑顔が、ミリアの胸に引っかかっていた。
あなたがそう言ってくれれば、みんな助かる。
みんな。
あの言葉は、嘘だったのだろうか。
それとも、何かが本当に助かるのだろうか。
ミリアは大女の首飾りを見上げた。
大女は待っていた。
急かしもしない。怒りもしない。ただ、ミリアが答えを出すのを待っている。
その静けさが、かえって怖かった。
「本当に、それをいただいてもいいのですか」
ミリアは聞いた。
大女の金色の目が、わずかに細くなった。
「欲しいと言ったのは、おまえだ」
「でも、あなたの首から外れるようには見えません」
「外れる」
「痛くありませんか」
大女は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、大声で笑った。
笑い声は森の入口を揺らした。ミリアは思わず耳を押さえた。大女は腹の底から笑い、笑いながら、少しだけ苦しそうに喉を押さえた。
「痛いかと聞くか」
大女は言った。
「おまえは妙な娘だな。宝をもらうというのに、渡す相手の痛みを心配する」
「痛いなら、いりません」
そう言うと、大女の笑いが止まった。
金色の目が、まっすぐにミリアを射た。
その目に、さっきまでの愉快そうな色はなかった。
「いらぬ、とは言うな」
地面が低く鳴った。
「一度欲しいと言ったものを、簡単にいらぬと言うな」
ミリアの背筋が冷えた。
怒らせた。
そう思った。
だが、大女はすぐに顔をそらした。怒りを飲み込むように、ゆっくり息を吐く。
「いや、すまぬ。おまえを脅すつもりはない」
脅すつもりがなくて、これなのか。
ミリアはそう思ったが、言わなかった。
「この首飾りは、外れる」
大女は静かに言った。
「痛みはある。だが、それは私のものだ。おまえが気にすることではない」
「でも」
「はめてみなさい」
大女は首飾りに手をかけたまま言った。
ミリアは意味がわからず、見上げた。
「はめる?」
「そうだ。おまえが望んだものだ。受け取るなら、まずは身につけねばならぬ」
「でも、そんなに大きなもの」
「大きさなど、どうにでもなる」
大女は首を傾けた。
首飾りが、きしりと鳴った。
それは金属の音ではなかった。
石の音でも、骨の音でもない。
何かが目を覚ます音だった。
ミリアは無意識に後ずさった。
大女の指が首飾りをなぞる。すると、巨大な輪の表面に、細い光が走った。模様などないと思っていたが、違った。光が走るたび、そこに古い文字のようなものが浮かび上がる。読めない。文字なのか傷なのかもわからない。ただ、それを見ていると喉が渇いた。
大女は両手で首飾りをつかんだ。
外れるはずがない。
ミリアはそう思った。
首飾りは大女の喉に食い込んでいた。あれを外すには、首を切り落とすしかない。少なくとも、人の目にはそう見えた。
だが、首飾りはするりと動いた。
まるで水に浮いた輪を持ち上げるように、大女の喉から離れた。
皮膚が裂けることも、血が出ることもなかった。ただ、大女の喉に深く刻まれていた跡だけが残った。その跡は黒く、焼け焦げた鎖のようだった。
大女は息を吸った。
その息が、森の木々を揺らした。
「長かった」
大女は呟いた。
首飾りは彼女の手の中で、なおも大きかった。
大きな桶どころではない。ミリアなら、身体ごと中に入れてしまいそうだった。輪の内側に立っても、肩が触れないだろう。
「無理です」
ミリアは言った。
「私には大きすぎます」
「はめてみなさい」
「首飾りではなく、門みたいです」
「はめてみなさい」
同じ言葉だった。
しかし二度目の声には、逆らえない力があった。
ミリアは首飾りを見た。
大女はそれを両手で差し出している。受け取れと言われても、持てるはずがない。ミリアの両腕では抱えきれない。重さだけで潰されるだろう。
それでも、手を伸ばした。
指先が輪に触れた瞬間、首飾りが冷たく震えた。
いいえ、とミリアは心の中で思った。
冷たいのではない。
これは、飢えている。
なぜそんなことを思ったのか、自分でもわからなかった。
首飾りが、動いた。
大女の手を離れ、空中に浮いた。
そして、ミリアの目の前でゆっくりと広がった。
いや、広がったのではない。
近づいてきたのだ。
巨大な輪が、ミリアの周囲を囲むように降りてくる。ミリアは反射的に逃げようとした。だが足が動かない。地面から根が生えて靴を縫い止めたようだった。
「待って」
声が出た。
「待ってください」
大女は何も言わない。
首飾りが、ミリアの肩の高さまで降りた。
その輪の内側に、ミリアの体がすっぽり入る。あまりにも大きい。これなら首にかかるどころか、足元まで落ちてしまう。
そう思った瞬間、首飾りは縮んだ。
するすると、音もなく。
ミリアは息を呑んだ。
輪は腰の高さで止まらず、胸の高さで止まらず、肩をすり抜けるように小さくなっていく。
首に近づく。
喉に近づく。
「いや」
ミリアは手で押さえようとした。
指が輪に触れる。だが、そこには実体があるようでない。水を押すように、指が滑った。
「やめて」
首飾りはミリアの喉に触れた。
その瞬間、冷たさが走った。
氷ではなかった。
鎖だった。
首飾りはきゅっと縮み、ミリアの喉に巻きついた。
重さはなかった。けれど、外れないことだけはすぐにわかった。皮膚に触れているのではない。喉の奥、息の通り道、声の出る場所そのものに巻きついている。
ミリアは両手で首飾りをつかんだ。
細くなっていた。
さっきまで山門ほどもあった輪は、今では少女の首にぴたりと合う首飾りになっていた。指一本入る隙間もない。だが苦しいほどではなかった。ただ、逃げ道がない。
ミリアは呼吸をした。
息はできる。
声も出る。
けれど、自分の喉が自分のものではなくなったようだった。
そのとき、大女が叫んだ。
「やった!」
それは歓声だった。
あまりにも無邪気な、子供のような叫びだった。
ミリアは呆然と大女を見上げた。
大女の体が震えている。
肩が揺れ、髪がうねり、足元の土がひび割れる。彼女の喉に残っていた黒い跡が、内側から焼けるように赤く光った。
「やった、やったぞ!」
大女は両手を広げた。
「これで私は自由だ!」
森が応えた。
風が吹いた。
いや、風ではない。大女の体から何かが溢れ出したのだ。見えない力が空気を押し、木々をしならせ、雲を裂いた。遠くの山から獣の吠える声が聞こえた。地面の下で眠っていたものが目を開けたように、土が低く唸った。
ミリアは立っていられず、膝をついた。
首飾りが喉で熱くなった。
「何……」
声が掠れた。
「何をしたの」
大女はミリアを見下ろした。
さっきまでの重さが、彼女から消えていた。背は変わらず大きい。雲を突くような姿のままだ。だが、そこにあった鈍さが消えた。灰色だった衣は黒々と色を取り戻し、髪は夜の川のように流れた。金色の目は、燃えているようだった。
彼女はもう、ただ大きいだけの女ではなかった。
魔物だった。
山を抱き、村を踏み越え、夜を口に含むような、古い魔物。
「言っただろう」
大女は言った。
「差し上げる、と」
「これは、何」
「首飾りだ」
「違う」
ミリアは首飾りを握りしめた。
「これは、首輪じゃない」
大女は笑った。
「首飾りと首輪の違いなど、見る者の立場で変わる」
「外してください」
「できぬ」
「外して!」
ミリアの声が森に響いた。
その瞬間、首飾りが喉を締めた。
痛みは一瞬だった。鋭く、熱く、息を奪う痛み。ミリアは咳き込み、地面に手をついた。
大女は眉を寄せた。
「大声を出すな。まだ馴染んでいない」
「馴染むって、何」
「その首輪は、持ち主の喉で育つ」
「持ち主?」
「今の持ち主は、おまえだ」
ミリアは首を振った。
「いらない。こんなもの、いらない」
「それは言っても無駄だ」
大女の声は、もう歓喜から遠ざかっていた。
冷たいのではない。疲れているように聞こえた。自分が何をしたか、わかっている者の声だった。
「その首輪は、欲しいと言った者にしか渡せぬ。欲しいと言われて、前の持ち主が譲れば移る。外す方法は、それだけだ」
ミリアは言葉の意味を理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
「じゃあ、あなたは」
「私は、ようやく譲れた」
「私に、押しつけたの」
「おまえが欲しいと言った」
「ネリスが、そう言えって」
その名を口にした瞬間、森の奥が揺れた。
白いものが、木の陰から現れた。
小さな白蛇だった。
蛇は濡れた草の上を滑り、ミリアの前まで来た。
ミリアは息を詰めた。
蛇の体が淡く光る。
白い鱗がほどけ、白い衣になる。細い腕、白い髪、泣きそうな目。
ネリスが、そこに立っていた。
腹の傷はもう見えなかった。
けれど、顔はひどく青白かった。
「ネリス」
ミリアはその名を呼んだ。
ネリスは答えなかった。
答えないまま、ガルナのほうへ歩いた。
大女の足元に立つと、まるで人形のように小さく見えた。
「お母さん」
ミリアは言った。
「あなた、さっきこの人をお母さんだって」
ネリスの肩が震えた。
大女が、喉の奥で笑った。
「母か」
その声には、ほんの少しだけ苦いものがあった。
「私の喉で生まれ、私の息を聞き、私の痛みで育ったものなら、娘と呼べなくもない」
ミリアはネリスを見た。
「どういうこと」
ネリスは唇を開いた。
けれど、声が出ない。
大女が代わりに言った。
「その娘は、首輪の精だ」
ミリアは動けなかった。
「首輪の……」
「そうだ。私を縛っていた輪に、長い年月のうちに宿ったものだ。最初は声もなかった。形もなかった。ただ私の喉に巻きつき、私の魔力を封じるためだけのものだった」
大女は自分の喉に残る黒い跡に触れた。
「だが、百年、二百年と経つうちに、こいつは私の痛みを覚えた。私の声を覚えた。私の眠りを覚えた。そして、いつしか自分を持った」
ネリスは目を伏せた。
ミリアの喉で、首飾りがかすかに脈を打った。
まるで、ネリスの心臓がそこにあるようだった。
「じゃあ、あなたは」
ミリアは掠れた声で言った。
「私を助けたんじゃなかったの」
ネリスが顔を上げた。
「助けたかった」
「でも、騙した」
「はい」
その返事は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
ミリアは胸の奥を殴られたような気がした。
「どうして」
「そうするしか、なかったから」
「私を?」
「誰かを」
ネリスの声が震えた。
「誰かが、欲しいと言わなければ、ガルナは自由になれなかった。私も、ずっとあの喉に巻きついたままだった。ずっと、誰かを縛るためだけに生きるしかなかった」
「だから、私に」
「あなたが、助けてくれたから」
ネリスは言った。
その言葉が、ミリアにはいちばんひどく聞こえた。
助けたから。
優しくしたから。
罠から外したから。
だから選ばれた。
「そんなの」
ミリアは首飾りを握った。
「そんなの、お礼じゃない」
「ごめんなさい」
「謝れば済むと思ってるの」
「思っていません」
「じゃあ、外して」
ネリスは答えなかった。
「外してよ」
ミリアはネリスに詰め寄ろうとした。
だが首飾りが喉を締め、足が止まった。息が詰まる。痛みで目の前が白くなる。
ネリスが慌てて手を伸ばした。
「だめ、無理に逆らうと」
「触らないで!」
ミリアはその手を払った。
ネリスの手は軽かった。
あまりにも軽く、払ったこちらが傷ついたような気がした。
ネリスは手を引っ込めた。
目が潤んでいた。
泣きたいのは私だ。
ミリアはそう思った。
泣きたいのは、私のほうだ。
ガルナは二人を見下ろしていた。
その顔には、勝利の喜びがまだ残っている。だが、ミリアの怒りとネリスの沈黙を見ているうちに、少しずつ色を失っていった。
「娘」
ガルナが言った。
ネリスが振り向いた。
「行くぞ」
その言葉に、ミリアは息を呑んだ。
ネリスは何も言わない。
「待って」
ミリアは言った。
「行くって、どこへ」
「自由になったのだ」
ガルナは言った。
「どこへでも行ける」
「私は?」
「おまえは、その首輪を次の者に渡せばいい」
「どうやって」
「簡単だ。誰かに欲しいと言わせればよい」
ミリアは、耳を疑った。
「誰かに」
「そうだ」
「私と同じことを、別の誰かにしろってこと?」
「そうしなければ外れぬ」
ガルナは淡々と言った。
「この首輪は、そういうものだ。誰かが望み、誰かが譲る。望みの言葉と譲渡の意志が揃って、初めて移る。力ずくでは外れぬ。切っても焼いても砕けぬ。自分で捨てることもできぬ」
「あなたは、それを知っていて」
「知っていた」
「ネリスも?」
ネリスは目を伏せた。
それが答えだった。
ミリアは笑った。
笑うつもりはなかったのに、喉の奥から変な音が出た。
「ひどい」
その言葉は、あまりにも小さかった。
目の前の出来事に対して、ひどい、では足りなかった。
ひどい。
ずるい。
汚い。
怖い。
悲しい。
悔しい。
どの言葉も、首飾りの内側で絡まって出てこない。
「私は、あなたを助けたのに」
ミリアはネリスを見た。
「あなた、痛そうだったから。罠にかかって、血が出ていたから。だから助けたのに」
「はい」
「なのに、どうして」
「ごめんなさい」
「謝らないで」
ミリアは叫んだ。
また首飾りが締まった。けれど今度は構わなかった。
「謝るなら、外して。外せないなら謝らないで」
ネリスの顔が歪んだ。
その顔を見て、ミリアはまた傷ついた。
どうして騙した相手の痛みにまで、こちらが胸を痛めなければならないのだろう。
ガルナは大きな手を伸ばし、ネリスの肩に触れた。
触れたと言っても、その指はネリスの背ほどもある。だがネリスは慣れているのか、逃げなかった。
「行くぞ」
ガルナは繰り返した。
「もうここに用はない」
ネリスはミリアを見た。
その目に、迷いがあった。
序章の森で見た、あの一瞬の迷いと同じだった。
ミリアはそれを見て、唇を震わせた。
まだ迷うのか。
全部終わったあとで。
私を騙し終えて、首輪を押しつけ終えて、それでもまだ迷うのか。
「行けば」
ミリアは言った。
声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「自由なんでしょう。行けばいい」
ネリスの白い睫毛が震えた。
「ミリア」
「呼ばないで」
「でも」
「あなたの名前も、もう呼びたくない」
言った瞬間、ネリスの顔から色が消えた。
ミリアは、胸が痛くなった。
痛くなった自分が、さらに嫌だった。
ガルナはネリスを促した。
大女が一歩踏み出すと、地面が沈んだ。森の入口にあった草が風に倒れ、ミリアのスカートが揺れた。
ネリスはそのあとを追おうとした。
一歩。
二歩。
そして止まった。
ガルナが振り返る。
「どうした」
ネリスは答えなかった。
ミリアにも背を向けている。白い髪が、風に細く揺れていた。
「行くぞ、ネリス」
「……行けません」
その声は小さかった。
ガルナの金色の目が細くなる。
「何を言う」
「私は、行けません」
「おまえは自由になった」
「いいえ」
ネリスは首を振った。
「私は、あの首輪から離れられない」
ミリアは思わず自分の喉に触れた。
首飾りは冷たく沈黙している。
「何?」
ガルナの声が低くなった。
「どういうことだ」
「私は首輪の精です。首輪があなたからミリアへ移ったなら、私も本当はミリアのそばにいなければならない」
「だが、おまえは私の喉で生まれた」
「はい。でも、もうあなたの首輪ではありません」
ガルナの顔が、初めてはっきりと歪んだ。
怒りではなかった。
寂しさでもない。
戸惑いだった。
雲を突く大女が、道に迷った子供のような顔をした。
「では、私は」
ガルナは自分の喉に触れた。
「私は、自由になったのに」
「はい」
「おまえは、来ないのか」
ネリスは俯いた。
「行きたかったです」
その一言に、ミリアは胸を突かれた。
行きたかった。
この子は、ガルナと行きたかったのだ。
自由になったガルナと一緒に。
長いあいだ縛っていた相手と、今度こそ縛らずに。
そう思ってしまった自分が、ミリアは悔しかった。
ネリスは裏切った。
ミリアを騙した。
なのに、その一言は本当だった。
「でも、私は首輪だから」
ネリスは言った。
「誰かの喉に巻きついているかぎり、私はそこから遠く離れられません」
ミリアは首飾りを握った。
「じゃあ、あなたは」
ネリスがこちらを見た。
「私についてくるの」
「……許されるなら」
「許すと思う?」
ネリスは黙った。
ミリアの喉が苦しくなった。
首輪のせいではない。
「私に、あなたをそばに置けって言うの」
「いいえ」
「じゃあ、どうするの」
「わかりません」
それは、初めて聞くネリスの正直な言葉のように思えた。
わかりません。
罠へ誘ったとき、ネリスはすべて知っている顔をしていた。
母が来ると言ったときも、首飾りが欲しいと言えと言ったときも、みんな助かると言ったときも、彼女は何かを隠しながら、道筋だけは知っていた。
だが今は、本当にわからない顔をしていた。
ガルナが深く息を吐いた。
「ならば、三人で行くしかあるまい」
ミリアは顔を上げた。
「三人?」
「おまえは首輪を外したい。ネリスは首輪から離れられない。私は自由になったが、ネリスを置いていく気はない」
「私は一緒に行くなんて言ってません」
「では、一人で行くか」
ガルナは言った。
「その首輪の外し方も、扱い方も知らぬまま。村へ帰るか。家族の前で、首に巻きついた呪いをどう説明する。村人が欲しいと言えば渡すか。あるいは、欲しがるように仕向けるか」
ミリアは言葉を失った。
村。
祖母。
隣の家の子供たち。
薬をもらいに来る老人。
市場で会う娘たち。
誰かが、ミリアの首飾りをきれいだと言うかもしれない。
欲しいと言うかもしれない。
ミリアがそのとき、外したい一心で渡してしまわない保証があるだろうか。
自分はそんなことをしない。
そう思いたかった。
でも、首飾りは今も喉にある。冷たく、重く、動かない。これが一日、二日、一月、一年と続いたとき、自分がどうなるのか、ミリアにはわからなかった。
「次にそれを欲しがる者を探すんだ」
ガルナは言った。
「そうすれば、おまえは自由になれる」
ミリアは首輪に指をかけた。
「そんな人を、探すの?」
「探さねば外れぬ」
「私と同じ目に遭う人を?」
「そうだ」
あまりにも当然のように、ガルナは答えた。
ミリアは足元を見た。
森の入口の土には、大女の足跡が深く残っている。その横に、ネリスの小さな足跡があった。自分の足跡もある。三つの足跡は、ばらばらの向きに乱れていた。
「嫌です」
ミリアは言った。
ガルナの眉が動いた。
「嫌でも」
「嫌です」
ミリアはもう一度言った。
「外したいです。こんなもの、今すぐ外したい。でも、誰かに渡すために旅をするなんて、嫌です」
「では、死ぬまでつけているか」
「それも嫌です」
「わがままな娘だ」
「そうです」
ミリアはガルナを見上げた。
「私はわがままです。だから、私だけが助かるために、誰かを騙すのは嫌です」
ガルナはしばらく黙っていた。
それから、喉の奥で低く笑った。
「よい」
「何が」
「そのくらいでなければ、旅は退屈だ」
「旅に出るとは言ってません」
「村へは帰れぬだろう」
その言葉は、ひどく静かだった。
ミリアは息を止めた。
帰れない。
言われる前から、どこかでわかっていた。
この首飾りをつけたまま村へ戻れば、きっと何かが壊れる。祖母に心配をかける。村人に見られる。誰かが欲しがる。あるいは怖がる。隠せるものではない。喉に巻きついたこれは、もうミリアの日常に収まらない。
それでも、帰れないと言葉にされると、胸の奥が抜け落ちるようだった。
「祖母に」
ミリアは呟いた。
「何も言わずには行けません」
「なら、置き手紙でも書け」
「そんな」
「戻れば危険が増える。おまえのためではない。村の者のためだ」
ミリアは悔しかった。
ガルナの言うことが正しいのが、悔しかった。
ネリスが一歩近づいた。
「ミリア」
「何」
「私が、伝えます」
ミリアはネリスを見た。
「白い蛇の姿なら、村に近づけます。あなたのお祖母さまに、森で迷って数日戻れないと」
「嘘をつくの?」
ネリスは目を伏せた。
「……はい」
「あなた、嘘が得意だものね」
ネリスの顔が痛みに歪んだ。
ミリアはすぐに後悔した。後悔したが、謝らなかった。
謝るのは違うと思った。
「いい」
ミリアは言った。
「手紙を書く。あなたが届けて」
ネリスはうなずいた。
「はい」
「でも、中は読まないで」
「読みません」
「信じられない」
「はい」
ネリスはそう答えた。
信じられないと言われて、はい、と答えた。
その素直さがまた、ミリアを苛立たせた。
ガルナが腰を下ろした。
それだけで、近くの木が何本も揺れた。
「早くしろ。日が暮れる前に、森を離れる」
「あなた、その大きさで旅をするの?」
ミリアは思わず聞いた。
ガルナは片眉を上げた。
「不便か」
「不便です」
「そうか」
ガルナは少し考えた。
それから、体の周りに黒い風をまとった。
ミリアは目を見開いた。
大女の姿が縮んでいく。
山のようだった肩が下がり、屋根よりも高かった頭が近づき、巨木ほどあった腕が人の腕になっていく。黒い髪はそのまま長く、金色の目もそのままだったが、やがてガルナは、背の高い女の姿になった。
それでも十分に大きい。
ミリアより頭二つ分は高い。肩幅もあり、立っているだけで周囲の空気が重くなる。
だが少なくとも、村の道は歩けそうだった。
「これでよいか」
「できるなら、最初からその姿で来ればよかったのに」
「首輪があるうちは、姿を変える力も封じられていた」
ガルナは自分の手を開いたり閉じたりした。
「久しぶりだ。指が軽い」
その声には、本当に嬉しそうな響きがあった。
ミリアはそれを聞いて、胸がざわついた。
ガルナは自由になった。
それは嘘ではない。
長いあいだ縛られていた者が、ようやく息をした。その喜びまで否定できるほど、ミリアは単純ではなかった。
でも、その自由の代わりに、自分が縛られた。
その事実は、少しも軽くならない。
ミリアは籠の中から布と木炭を取り出した。
薬草を包むための古い布の端に、祖母への短い言葉を書く。
森で不思議なものに会いました。
しばらく戻れません。
心配しないでください。
心配しないで、などと書いて、心配しないはずがない。
ミリアは何度も書き直したかった。けれど布は小さい。言葉を増やしても、真実には近づかない。
最後に、こう書き足した。
必ず帰ります。
それが嘘にならないことだけを願った。
布を畳み、ネリスに渡す。
ネリスは両手で受け取った。
「届けます」
「お願い」
ミリアは言った。
お願い。
その言葉をネリスに使った自分が嫌だった。
ネリスは白い蛇になり、草の中へ消えた。
白い尾が一瞬だけ見え、それから見えなくなる。
ミリアはその方向を見つめていた。
ガルナが隣に立った。
「憎いか」
「誰が」
「ネリスが」
ミリアは答えなかった。
「私のことはどうだ」
「憎いです」
「そうか」
ガルナは少しだけ笑った。
「正直でよい」
「よくありません」
「嘘よりはよい」
ミリアはガルナを睨んだ。
「あなたに言われたくない」
「そうだな」
ガルナはあっさり認めた。
その態度にも腹が立った。
開き直られるよりはましなのかもしれない。だが、謝られても許せない。認められても楽にならない。
夕暮れが近づいていた。
森の影が長く伸び、村へ続く道と、山の向こうへ続く道を分けていた。
ミリアは村のほうを見た。
帰りたい。
その気持ちは、体の奥から湧いた。
祖母の小さな家。干した薬草の匂い。水瓶の冷たさ。朝に残してきたパン。何もかもが急に遠くなった。
帰りたい。
でも、帰れない。
首飾りが喉で、静かに重さを増した。
しばらくして、草が揺れた。
白い蛇が戻ってきた。
ミリアの足元まで来ると、蛇は少女の姿になった。
ネリスは息を切らしていた。顔色はさらに悪い。どうやら姿を変えるだけでも力を使うらしい。
「届けました」
「祖母は?」
「家の戸口に置きました。お祖母さまは中にいました。声は、かけていません」
「そう」
ミリアは目を閉じた。
祖母はきっと気づくだろう。
ミリアの布だとわかるだろう。
心配するだろう。
でも、今はそれしかできない。
「ありがとう」
言ってから、ミリアは唇を噛んだ。
ネリスは小さく首を振った。
「お礼を言われることではありません」
「そうだね」
ミリアは言った。
ネリスは俯いた。
ガルナが歩き出した。
「行くぞ」
「どこへ」
ミリアが聞くと、ガルナは西の山並みを見た。
「まずは人の多いところだ。町へ出る。首飾りを欲しがる者など、町にはいくらでもいる」
「私は渡さない」
「今はそう言える」
ガルナは振り返らずに言った。
「首輪を甘く見るな。眠るときも、食べるときも、泣くときも、笑うときも、それはおまえの喉にある。日が経てば経つほど、おまえは考えるようになる。誰か一人に渡せば終わる、と」
ミリアは何も言えなかった。
「だから探す」
ガルナは続けた。
「欲しがる者を。渡すか渡さぬかは、そのとき決めればよい」
「決めるのは私です」
「そうだ」
ガルナはようやく振り返った。
「だから、私たちはおまえについていく」
ミリアは驚いた。
「私が、ついていくんじゃないの」
「首輪の持ち主はおまえだ」
ガルナは言った。
「道を選ぶのも、おまえだ」
ミリアは首飾りに触れた。
持ち主。
その言葉は嫌だった。
こんなものの持ち主になど、なりたくなかった。
けれど今、確かにそれは自分の喉にある。
ネリスは少し離れて立っていた。
近づきたいのか、離れたいのか、自分でも決められないようだった。
ミリアは彼女を見た。
「ついてくるの?」
ネリスは小さくうなずいた。
「首輪からは、離れられません」
「私から、じゃなくて?」
ネリスは一瞬だけ顔を上げた。
「……今は、同じことです」
ミリアは目をそらした。
同じこと。
それが嫌だった。
自分と呪いが、同じ場所に置かれている。
ネリスは自分についてくるのではなく、首輪についてくる。ミリアという人間ではなく、ミリアの喉に巻きついたものに。
それなのに、なぜか完全に突き放せない。
森で白い蛇を見つけたときから、もう何かが間違っていたのだろう。
いや、罠にかかったものを助けたことが間違いだったとは思いたくなかった。
間違っていたのは、そのあとだ。
たぶん。
でも、どこからかはわからない。
ミリアは大きく息を吸った。
首飾りは、呼吸を邪魔しなかった。
それがかえって腹立たしかった。
「行きます」
ミリアは言った。
ガルナがうなずいた。
「賢い」
「勘違いしないでください。あなたたちを信じたわけじゃない」
「信じなくてよい」
「許したわけでもない」
「許さなくてよい」
「私は、誰にも渡しません」
ガルナは少し笑った。
「それは、旅をしてから言え」
ミリアは返事をしなかった。
夕暮れの道を、三人は歩き出した。
先頭をガルナが行く。背の高い黒髪の女。人の姿になっても、足音には山の重みがあった。
少し離れて、ミリアが歩く。喉には、銀とも骨とも石ともつかない首飾り。
さらに少し後ろを、ネリスが歩く。白い髪、白い衣、罪を抱えた細い影。
村の灯りは、背後で少しずつ遠ざかった。
ミリアは一度だけ振り返った。
祖母の家は見えない。森と丘に隠れている。それでも、そこに帰る場所があることだけはわかった。
帰る。
必ず帰る。
そのために、この首輪を外す。
だが、誰かを自分の代わりに縛って帰るくらいなら。
ミリアは首飾りを握った。
そんな帰り方は、しない。
道の先で、ガルナが言った。
「夜になる前に、古い祠まで行く。そこで休む」
「あなた、魔物なのに祠で休むの?」
「魔物にも、屋根は必要だ」
ミリアは少しだけ驚いた。
冗談のように聞こえたからだ。
ネリスが、後ろで小さく笑った。
ミリアは振り返らなかった。
笑わないで、と思った。
同時に、泣かないで、とも思った。
その二つの気持ちが喉のあたりでぶつかり、首飾りの冷たさに触れて、消えた。
空には、細い月が出ていた。
輪には少し足りない月だった。
三人の影が、夕暮れの道に長く伸びていた。
その影はまだ、一つには重ならなかった。




