序章 白い蛇を助けた日
森には、入ってよい日と、入ってはいけない日がある。
ミリアの祖母は、よくそう言った。
雨の翌日は入ってよい。草の匂いが濃く、根の薬がよく効くからだ。
風の強い日は入ってはいけない。枝が落ちるし、森のものたちが苛立っているからだ。
霧の朝も、深くまでは入ってはいけない。道が違って見えるのではなく、道のほうが本当に違うところへつながってしまうからだ。
では、空が晴れていて、風もなく、昨夜の雨が葉の先にだけ残っている朝はどうなのか。
それは、入ってよい日だった。
少なくともミリアは、そう思っていた。
ミリアは薬草籠を背負い、村の北にある森へ入った。
森の名はなかった。村人たちはただ「奥の森」と呼んでいた。森は村のすぐそばにあるのに、少し奥へ入ると別の土地のように静まり返る。木々は高く、枝は空を隠し、昼でもどこか薄暗い。けれどミリアはその暗さが嫌いではなかった。
人の家の暗さは、ときに息苦しい。
だが森の暗さは、誰かを責めない。
ミリアはその朝、痛み止めに使う月見草の根と、熱冷ましに使う青銀苔を採りに来ていた。
祖母が腰を痛めてから、薬草採りはミリアの仕事になった。村には薬師と呼べるほどの者はいない。軽い熱や傷なら、祖母の知識とミリアの手でなんとかしていた。なんとかならないものは、なんとかならないまま祈るしかなかった。
だから、採れる日に採っておく。
乾かせるものは乾かしておく。
煎じられるものは煎じておく。
それが、ミリアの暮らしだった。
森の入口から三つ目の大岩を左に曲がり、折れた樫の木を越えたところに、青銀苔の生える斜面がある。
ミリアは足元に気をつけながら斜面を下りた。昨夜の雨で土は柔らかい。靴の底が沈み、湿った匂いが上がった。膝をつき、苔を指で少しずつ剥がしていると、遠くで小さな音がした。
枝の折れる音ではなかった。
獣の走る音でもない。
もっと細い、引っかかるような音だった。
ミリアは手を止めた。
森では、聞かなかったことにしたほうがいい音もある。祖母ならきっとそう言うだろう。助けを呼ぶ声に似た鳥の鳴き声もあれば、赤ん坊の泣き声に似た狐の声もある。森は人を試す。こちらが人の心を持っているかどうかではなく、人の心に引きずられすぎるかどうかを試す。
けれど、その音は声ではなかった。
かすかに、金属が鳴った。
ミリアは立ち上がった。
籠を背負い直し、音のしたほうへ歩いた。
大きな楡の木の根元に、小さな罠があった。
村の猟師が仕掛けるものとは少し違う。輪になった針金が、枯葉の下に隠されている。兎や狐を捕るためのものだろう。雨で土が流れ、隠れていた輪が少しだけ見えていた。
そこに、白い蛇がかかっていた。
ミリアは息を呑んだ。
蛇は長くはなかった。ミリアの腕ほどの長さで、太さは親指くらいしかない。けれど、その白さは普通ではなかった。乳のような白ではなく、朝の月を水に溶かしたような白だった。鱗の一枚一枚が淡く光を含み、頭の後ろには銀の糸で結んだような模様があった。
罠の輪は、蛇の体の中ほどを締めつけていた。
蛇は逃れようとして身をよじり、そのたびに針金が食い込んだらしい。白い鱗の間に、赤い筋が見えた。
「動かないで」
ミリアはしゃがみこんだ。
蛇に人の言葉がわかるとは思わなかった。それでも、そう言わずにはいられなかった。
「今、外すから」
白い蛇は、頭を上げた。
小さな黒い目が、ミリアを見た。
蛇の目は冷たいものだと思っていた。
けれど、その目はひどく人に似ていた。痛みをこらえているようにも、何かを諦めているようにも見えた。
ミリアは腰の小刀を抜いた。
罠の針金は硬く、簡単には切れない。無理に引けば蛇の体が裂ける。ミリアは指先で針金を探り、輪の結び目を見つけた。少しずつ緩める。爪が痛んだ。泥が入り、指先が滑った。
蛇は動かなかった。
本当に、ミリアの言葉を聞いているように。
「いい子ね」
ミリアは小さく言った。
輪が緩んだ瞬間、蛇の体がふっと軽くなった。
ミリアは針金を外し、蛇を両手で受けた。思っていたより冷たくなかった。雨に濡れた草のような冷たさだった。
傷は浅くはない。
このまま放しても、狐か烏に見つかれば終わりだろう。
ミリアは籠の中から布を出した。青銀苔を少し潰し、水で湿らせ、傷口にそっと当てる。蛇は身を震わせたが、逃げなかった。
「痛いよね。ごめんね」
謝ることではない。
ミリアが傷つけたわけではない。
それでも、彼女は謝った。
白い蛇は、ミリアの手の中で細く息をした。
蛇が息をする音を、ミリアはそのとき初めて聞いた気がした。
森が、少し静かになった。
さっきまで葉の先から滴る水音があった。
見えない鳥の声があった。
遠くで虫が鳴いていた。
それらが、ふいに遠のいた。
ミリアは顔を上げた。
森は変わらずそこにあった。濡れた葉、黒い幹、柔らかい土。何も変わっていない。けれど、何かがこちらを見ているような気がした。
白い蛇が、ミリアの掌で身じろぎした。
「歩ける?」
ミリアはそう言ってから、自分で少し笑った。
「蛇だから、歩けないか」
そのときだった。
「歩けます」
声がした。
ミリアは固まった。
声は近かった。とても近い。耳元ではない。手の中からだった。
白い蛇が、ミリアを見上げていた。
「少しだけなら」
ミリアは悲鳴を上げなかった。
上げるには、驚きすぎていた。
白い蛇の口は、動いていないように見えた。けれど声は確かにそこから聞こえた。若い娘の声だった。水の中に落とした鈴のような、澄んでいて、どこか遠い声だった。
「あなた、話せるの」
「はい」
「蛇なのに」
「今は」
白い蛇はそう答えた。
今は。
ミリアはその言葉に引っかかった。
けれど、手の中の蛇は傷ついている。まずはそれが先だった。
「逃がしたほうがいい? それとも、家で手当てしたほうがいい?」
「家へは、行けません」
「どうして」
「あなたの家に入ると、あなたの家のものに迷惑がかかります」
穏やかな声だった。
まるで、あらかじめ決まっていることを読んでいるような言い方だった。
「じゃあ、ここで休む?」
「はい。少しだけ」
ミリアはあたりを見回した。
楡の木の根が張り出し、雨を避けられる隙間があった。そこに苔を敷き、白い蛇をそっと置く。
蛇は小さく身を丸めた。
白い体が、濡れた土の上でひどく目立った。
「このままだと、また何かに見つかる」
「見つかります」
「だったら」
「でも、あなたがこれ以上してはいけません」
ミリアは眉を寄せた。
「助けられるところまで助けるよ」
「もう助けてもらいました」
「傷は残ってる」
「傷だけなら治ります」
白い蛇は、ほんの少し首を傾げた。
「あなたは親切な人ですね」
「そんなことない」
「親切です。森で白い蛇を見つけたら、普通は逃げます。殺す人もいます。神さまの使いだと言って拝む人もいます。売れると思って捕まえる人もいます」
「あなたを?」
「私を」
ミリアは首を振った。
「そんなこと、考えなかった」
「だから親切なのです」
ミリアは返事に困った。
親切と言われると、どこか落ち着かない。親切でいようとして助けたわけではない。ただ、罠にかかったものを見つけて、そのままにできなかっただけだ。
森の奥から、風が来た。
木々が一斉に葉を鳴らした。
白い蛇の体が、淡く光った。
ミリアは目を細めた。
光は一瞬だけだった。見間違いかと思った。けれど、次の瞬間、蛇の輪郭がほどけるように揺らいだ。
白い鱗が、白い布になった。
細い体が、細い腕になった。
小さな頭が、少女の顔になった。
ミリアは息を止めた。
楡の木の根元に、一人の少女が座っていた。
年はミリアより少し下に見えた。十五か、十六か。白い髪が肩に落ち、濡れた葉の光を受けて銀色に見えた。肌も白く、唇だけが薄く赤い。身にまとっているのは、蛇の鱗の名残のような、光を含んだ白い衣だった。
ただ、その腹のあたりには、さっきの傷と同じ場所に赤い染みがあった。
「あなた……」
「ネリスといいます」
少女は膝をそろえ、丁寧に頭を下げた。
「助けてくださって、ありがとうございます」
ミリアは言葉を探した。
蛇が少女になった。
それだけで、普通なら逃げ出すところだ。だが不思議と、逃げたいとは思わなかった。目の前の少女は弱っていた。白い頬には血の気がなく、座っているだけで精一杯のように見えた。
「私は、ミリア」
「ミリア」
ネリスはその名を、口の中で大事に転がすように言った。
「よい名ですね」
「普通の名だよ」
「普通のものは、よいものです」
ネリスは微笑んだ。
その笑顔は美しかった。
けれど、ミリアはなぜか胸の奥が少し冷たくなった。
笑っているのに、目だけが泣きそうに見えたからだ。
「傷、痛む?」
「少し」
「やっぱり家に」
「行けません」
今度は、きっぱりと言った。
ミリアは唇を結んだ。
これ以上は、踏み込んではいけない。そう思った。森で出会ったものには、森の理がある。村の娘が勝手に手を伸ばせることと、伸ばしてはいけないことがある。
祖母ならそう言うだろう。
それでも、ミリアは聞いた。
「じゃあ、私はどうしたらいい?」
ネリスはミリアを見た。
その目がほんの一瞬、揺れた。
迷っている。
ミリアには、そう見えた。
「このまま帰ってください」
「それでいいの?」
「はい」
ネリスはうなずいた。
けれどすぐに、目を伏せた。
「でも、もし……」
声が小さくなる。
「もし、夕暮れまでに森の入口で、大きな女の人に会ったら」
「大きな女の人?」
「はい。とても大きな人です。あなたが見れば、すぐにわかります」
「その人が、あなたを迎えに来るの?」
「……母です」
ほんの少し、間があった。
ミリアはその間を聞き逃さなかった。
母と言うには、ネリスの声は硬かった。懐かしいものを呼ぶ声ではない。怖いものを、別の名前で呼んでいるような響きだった。
「お母さんが来るなら、あなたは大丈夫なの?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
ネリスはまた笑った。
やはり、泣きそうな笑顔だった。
「その人が来たら、こう言ってください」
「何を?」
「お礼をくださるなら、首飾りが欲しい、と」
ミリアは瞬きをした。
「首飾り?」
「はい」
「あなたのお母さんに?」
「はい」
「なぜ?」
ネリスは答えなかった。
白い指が、衣の胸元を握った。そこには何もない。首飾りなどなかった。けれど、ネリスは何かを触ろうとしているようだった。
「母は、たくさんの宝を持っています。金も、銀も、宝石も、魔法の布も、願いを叶える杯も」
「そんなもの、私はいらない」
「だから、首飾りを」
「首飾りならいいの?」
「はい」
「どうして?」
ネリスは顔を上げた。
「それが、いちばんよいお礼だからです」
ミリアは黙った。
森の中で助けた白い蛇が少女になり、その母が大きな女で、礼に首飾りをもらえと言う。
どう考えても、普通の話ではない。
けれど、普通ではないことが、すべて悪いとは限らない。
ミリアはそう思おうとした。
「私は、宝が欲しくて助けたわけじゃない」
「わかっています」
「なら、何もいらない」
「何もいらないと言えば、母は困ります」
「困る?」
「礼を返さなければ、母は……」
ネリスはそこで口を閉ざした。
「母は?」
「約束を破ることになります」
「誰との約束?」
「古い約束です」
ネリスの声は、森の湿った空気に溶けるほど小さかった。
「とても、古い」
ミリアはネリスを見つめた。
この少女は、何かを隠している。
それはわかった。
けれど、隠しているものが悪意なのか、恐れなのか、ミリアにはわからなかった。
「首飾りが欲しいと言えば、あなたのお母さんは困らないの?」
「困りません」
「あなたも?」
ネリスは答えるまでに、少し時間をかけた。
「はい」
「本当に?」
ミリアは思わず聞き返した。
「本当に、それでいいの?」
ネリスはミリアを見た。
風が止まった。
葉の先から、雫が一つ落ちた。
ネリスの瞳の奥に、迷いがあった。
ほんのわずかだった。瞬きをすれば消えてしまうほどの影だった。だが、ミリアには見えた。
この子は、何かを言おうとしている。
言ってはいけないことを、言いそうになっている。
そう思った。
けれど、ネリスは笑った。
「ええ」
その笑顔は、さっきよりも上手だった。
「あなたがそう言ってくれれば、みんな助かる」
「みんな?」
「はい」
「みんなって、誰?」
ネリスは目を伏せた。
「私と、母と」
「それから?」
ネリスは答えなかった。
ミリアの胸の奥に、また小さな冷たさが落ちた。
「それから、あなたも」
ネリスは遅れてそう言った。
その順番が、ミリアには少し気になった。
私と、母と。
それから、あなたも。
まるで、最後につけ足したみたいだった。
「私も助かるの?」
「はい」
「何から?」
ネリスはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと言った。
「知らないほうが、助かることもあります」
ミリアは笑えなかった。
森の奥で、また風が鳴った。
今度は、低い音だった。枝がこすれ合う音ではない。遠くで大きな獣が息を吐いたような音だった。
ネリスの肩が、かすかに震えた。
「来ます」
「お母さんが?」
「はい」
ネリスは立ち上がろうとした。
しかし、傷のせいで膝が崩れた。ミリアは慌てて手を伸ばし、彼女を支えた。
ネリスの体は軽かった。
人の娘というより、薄い布を抱いたようだった。
「無理しないで」
「ありがとうございます」
「いいよ」
ミリアはそう言った。
そう言ってから、なぜか胸が痛んだ。
ネリスの指が、ミリアの袖をつかんでいた。
その力は弱い。けれど、離したくないという意思だけははっきりしていた。
「ミリア」
「何?」
「もし、怖くなったら」
ネリスは顔を上げた。
「逃げてください」
「え?」
「でも、逃げるなら、森の外へ。道を振り返らずに」
「それなら、最初から」
「ただ」
ネリスは、そこで息を詰めた。
「逃げたら、私はもうあなたを助けられません」
ミリアは何も言えなかった。
助ける。
またその言葉だ。
ミリアは今、ネリスを助けたはずだった。
なのにネリスは、まるでこれから自分がミリアを助けるのだという顔をしている。
「あなたは、何を知っているの」
ミリアは聞いた。
ネリスは答えなかった。
答えない代わりに、ミリアの袖から手を離した。
「森の入口へ」
そう言って、かすかに微笑んだ。
「母は、森の中までは来ません。大きすぎるので」
それは冗談のようにも聞こえた。
けれどネリスの顔は、冗談を言った者の顔ではなかった。
次の瞬間、彼女の体がまた白く光った。
少女の輪郭がほどけ、白い蛇がそこに落ちた。さっきよりもずっと小さく、弱々しく見えた。
白い蛇は楡の根の下へ滑りこんだ。
ミリアは膝をつき、根の隙間を覗いた。
「ネリス」
返事はなかった。
ただ、根の奥から、細い声がした。
「忘れないで。首飾りです」
ミリアはしばらくそこにいた。
森はもう、いつもの森に戻っていた。葉の音も、水の音も、鳥の声も戻っていた。だが、さっきまでと同じには聞こえなかった。
ミリアは立ち上がった。
籠の紐を肩にかける。採った青銀苔は少なかった。月見草の根はまだ一つも掘っていない。
それでも、今日はもう帰ったほうがいい。
そう思った。
森の入口へ向かう道は、来たときよりも長く感じた。
何度も背後を振り返りそうになった。そのたびに、ネリスの言葉を思い出した。
逃げるなら、森の外へ。
道を振り返らずに。
逃げているわけではない。
ミリアは自分にそう言い聞かせた。
ただ帰っているだけだ。
薬草を採りに来て、白い蛇を助けて、少し奇妙なことがあった。それだけだ。
だが、森の出口が見えたとき、ミリアは足を止めた。
森の外に、人影があった。
人影と言ってよいのか、ミリアにはわからなかった。
それは女だった。
たしかに女の姿をしていた。
けれど、あまりにも大きかった。
森の外れに立つ古い石塔よりも高く、村の粉挽き小屋の屋根よりも肩が上にあった。黒い髪は背中ではなく、谷のように落ちている。灰色の衣をまとい、裸足で地面に立っていた。片足だけで、ミリアの家の戸口ほどもありそうだった。
雲を突くような、という言葉を、ミリアはそのとき初めて本当に理解した。
大女は、森の入口でミリアを待っていた。
その首に、巨大な首飾りがあった。
銀とも石とも骨ともつかない輪だった。
人の腕を何本も束ねたほど太く、月を曲げて作ったように鈍く光っている。宝石はついていない。飾りというにはあまりに重く、首輪というにはあまりに美しい。
ミリアは声を失った。
大女が、ゆっくりと顔を下げた。
その目は金色だった。獣の目にも、神像の目にも見えた。
「おまえが」
声が降ってきた。
地面が震えた。
「私の娘を助けた娘か」
ミリアは逃げなかった。
逃げられなかった、と言ったほうが正しい。
喉が渇いていた。
手の中が冷たい。
ネリスの傷に触れた指先だけが、まだかすかに温かかった。
「はい」
どうにか、そう答えた。
大女はしばらくミリアを見ていた。
それから、口の端を持ち上げた。
「礼をしよう」
ミリアの心臓が、一度強く鳴った。
「望むものを言え。金か。銀か。畑か。家か。男か。命か。若さか。人の心か」
どれも、欲しいとは思わなかった。
欲しいと思ってはいけないものばかりだった。
ミリアはネリスの言葉を思い出した。
首飾りです。
忘れないで。
ミリアは、大女の首を見上げた。
巨大な輪は、やはり美しかった。美しいのに、なぜか苦しそうだった。大女の喉に深く沈み、皮膚との境目がわからないほど馴染んでいる。
あれは、本当に外れるのだろうか。
ミリアはそう思った。
思ってから、自分が首飾りを望む理由を探していることに気づいた。
金でも銀でもない。
家でも畑でもない。
ただ、ネリスがそう言ったから。
それだけだった。
それだけなら、言ってもいいのだろうか。
ミリアは唇を開いた。
大女の金色の目が、細くなった。
森の奥で、白い蛇が息を殺している気がした。
ミリアは言った。
「お礼をくださるなら」
声が少し震えた。
「その首飾りが欲しいです」
大女は動かなかった。
風も止まった。
鳥も鳴かなかった。
ほんの一瞬、世界から音が消えた。
それから大女が笑った。
低く、深く、山の腹の底から響くように。
「そうか」
大女は言った。
「それが欲しいか」
ミリアは、自分が取り返しのつかないことを言ったのだと、そのとき初めて思った。
けれど、もう言葉は戻らなかった。
大女はゆっくりとうなずいた。
「わかった」
その声には、喜びとも憐れみともつかないものが混じっていた。




