表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/12

第九章 首輪を欲しがる王女

 古い街の記録庫で、ミリアたちは三日を過ごした。

 街は、かつて契約術師たちの学都だったという。

 今では人の住む家は少なく、崩れかけた塔と、半分埋もれた広場と、壁だけになった講堂が風の中に残っているだけだった。だが、石造りの記録庫だけはまだ立っていた。窓は細く、扉は重く、地下へ下りる階段は冷たかった。

 そこには、古い契約の写しが眠っていた。

 花嫁契約。

 聖女契約。

 忠誠契約。

 王家の血契約。

 山を封じる契約。

 川を曲げる契約。

 精霊と人間の間に橋をかける契約。

 そして、橋だったものを鎖に変えた契約。

 ミリアは、文字の海の中で何度も息苦しくなった。

 契約とは、約束の形だ。

 そう書かれている本があった。

 約束は、人と人の間に橋をかける。

 だが、橋の片側を誰かが握りしめたとき、橋は鎖になる。

 その一文を読んだとき、ガルナはしばらく黙っていた。

 ネリスは白蛇の姿で、ミリアの袖の中にいた。

 首輪についての記録は、断片しかなかった。

 古い名は「継承環」。

 役目を次の者へ移すための環。

 最初は、死にゆく守り手から次の守り手へ、力と記憶を渡すものだったらしい。望む者が受け取り、渡す者が認めることで、役目が移る。

 そこまでは、橋だった。

 だが、いつからか変わった。

 役目は力になり、力は支配になり、支配は呪いになった。

 誰かが欲しいと言い、持ち主が譲れば移る。

 受け取る者の恐怖、後悔、怒り、逃げたい願いを食って、環は新しくなる。

 橋は、鎖になった。

「だから」

 記録庫の薄暗い机の上で、ミリアは呟いた。

「首輪は、救いの顔もできるんだ」

 袖の中で、白蛇がかすかに動いた。

「はい」

 ネリスの声は弱い。

 けれど、前より少し近かった。

 古い街へ入った日から、ネリスはほとんど白蛇の姿で過ごしている。少女の姿に戻れる時間は短い。それでも、ミリアが「消えないで」と言ったあの日から、ネリスは大丈夫ですという言葉を少しだけ減らした。

 怖いときは、怖いと言う。

 疲れたときは、眠りたいと言う。

 それだけのことが、二人の間ではまだ新しかった。

 ガルナは別の本を読んでいた。

 読んでいるというより、睨んでいると言ったほうが近い。

「王家の血契約が出てきた」

 ガルナが言った。

 ミリアは顔を上げる。

「王家?」

「ああ。この国の古い契約だ。王の血を国境に結び、王家の者が代々その力を受ける。外敵を防ぎ、土地の霊脈を安定させ、飢饉や疫病の広がりを抑える」

「いい契約に聞こえます」

「最初はな」

 ガルナは本を閉じた。

「だが、今はどうだろうな」

 そのとき、記録庫の扉が叩かれた。

 重い音が地下に響く。

 ミリアは身を硬くした。

 ガルナが立ち上がる。ネリスが袖の中で震えた。

 扉が開き、灰色の外套を着た男が入ってきた。

 年は四十ほど。腰には剣を帯びているが、騎士というより宮廷の使者に見えた。彼はガルナを見た瞬間、喉を鳴らしたが、逃げはしなかった。

「ミリア殿」

 男はそう言った。

 ミリアは眉をひそめた。

「私を知っているんですか」

「関所のセレナ隊長より報告が上がっております。白鐘の神殿の件も、すでに王都へ届いております」

「早いですね」

「王都は噂を食べておりますので」

 男は深く頭を下げた。

「第一王女リュシエラ殿下が、あなた方にお会いしたいと仰せです」

 ミリアはガルナを見た。

 ガルナは面白くなさそうに目を細めている。

「断ったら?」

 ミリアが聞くと、使者は少し困った顔をした。

「断ることはできます。ただ、殿下は古い契約について、あなた方が探しているものに関わる情報をお持ちです」

「首輪のことを知っているんですか」

 男の視線が、ミリアの首元へ向かった。

 布で隠している。

 それでも、彼はそこに何かがあることを知っていた。

「おそらく」

 彼は答えた。

「殿下ご自身も、契約に縛られておられますので」

     *

 王都へ向かう馬車は、静かすぎた。

 使者が手配した馬車は広く、窓には厚い布がかけられ、座席は柔らかかった。だが、ミリアは落ち着かなかった。柔らかい椅子は、かえって身動きが取れないような気がした。

 ガルナは向かいに座っている。

 背の高い彼女には、馬車の中は少し狭い。金色の目は窓の外へ向けられているが、興味があるようには見えなかった。

 ネリスは袖の中ではなく、ミリアの膝の上にいた。

 白蛇の姿で、小さく丸まっている。馬車の揺れに合わせて、細い体がかすかに動く。

「王女って、どんな人だろう」

 ミリアが呟くと、ガルナが答えた。

「人間だ」

「それは知っています」

「王族は、自分が人間だと忘れやすい」

「偏見ですか」

「経験だ」

 ガルナは窓の外を見たまま言った。

「王の旗の下で、私の山は奪われた。王の名で、私は首輪をかけられた。王の血をありがたがる者に、ろくな思い出はない」

 ミリアは何も言えなかった。

 ガルナの怒りは、ただの偏見ではない。

 彼女は実際に王の名で縛られた。

 それでも、これから会う王女が同じだとは限らない。

 そう思いたい。

 だが、首輪が布の下でかすかに鳴った。

 ちりん。

 まるで、甘いものを嗅ぎつけた獣のように。

「反応してる」

 ミリアは喉元を押さえた。

 ネリスが膝の上で頭を上げた。

「王家の契約が近いのだと思います」

「王都はまだ先でしょう」

「血契約は、土地に広がっています。王都へ近づくほど濃くなるのかもしれません」

「ネリスは大丈夫?」

 白蛇は少し黙った。

「少し、ざわざわします」

「ざわざわ?」

「首輪が、何かを聞いています」

 ミリアは喉元を強く押さえた。

「何を」

「たぶん」

 ネリスの声が遠くなる。

「似た声です」

 ミリアは答えを待った。

 だが、ネリスはそれ以上言わず、また丸くなった。

 似た声。

 首輪と王家の契約が、同じような声を持っているということだろうか。

 誰か一人に役目を押しつける声。

 自分から差し出せば尊いのだと囁く声。

 救いの顔をした鎖の声。

 ミリアは窓の外を見た。

 王都の城壁が見え始めていた。

 白い石の壁。

 高い尖塔。

 王の旗が風に翻っている。

 美しい都だった。

 だから、少し怖かった。

     *

 王宮は、光を集めるように建っていた。

 白い石の階段。

 金の縁取りをした扉。

 水盤の並ぶ庭。

 柱には蔦と星の模様が彫られ、天井には王家の歴史が描かれていた。

 だが、ミリアはその美しさを見るほど、喉が苦しくなった。

 首輪が反応している。

 王宮の床にも、壁にも、天井にも、見えない契約の線が張り巡らされているようだった。白鐘の神殿ほど露骨ではない。だが、もっと古く、もっと深い。

 ガルナも不機嫌そうだった。

「王の家は、どれも似た匂いがする」

「腐った蜜ですか」

「それに鉄を混ぜた匂いだ」

「嫌な表現を更新しないでください」

 ガルナは少しだけ口元を上げた。

 ミリアは緊張している自分に気づいた。

 冗談に近い言葉を交わせるだけで、少し呼吸が戻る。

 案内されたのは、謁見の間ではなかった。

 王宮の奥、庭に面した小さな書室だった。

 大きな窓から午後の光が入り、壁には本棚が並んでいる。机の上には地図と書類が広げられ、床には子供用の木馬が一つ、隅に寄せられていた。

 そこに、王女はいた。

 第一王女リュシエラ。

 年は二十代半ばだろう。

 銀に近い金髪を低く結い、濃い青のドレスを着ている。宝石は少ない。けれど、立っているだけで、部屋の中の光が彼女を中心に集まるようだった。

 美しい人だった。

 だが、ミリアが最初に見たのは、その美しさではなかった。

 王女の首元だ。

 細い金の鎖がかかっている。

 その下、皮膚の内側に、赤い光を帯びた紋様が見えた。首に巻く輪ではない。喉から鎖骨へ、さらに胸元の奥へ沈んでいく血の文字のような模様。

 王家の契約。

 ミリアはそう思った。

 王女はゆっくり頭を下げた。

「来てくださって、ありがとう」

 その声は、低く澄んでいた。

 王族らしい威厳はある。

 しかし、どこか疲れていた。

「私はリュシエラ。この国の第一王女です」

「ミリアです」

「知っています」

 王女は微笑んだ。

「白蛇を助け、魔物の首飾りを受け取り、売られそうな娘を救い、婚約を破棄された令嬢に手紙を書かせ、聖女契約を壊し、女騎士の誓約をほどいた旅の娘」

 ミリアは顔が熱くなった。

「そんなふうに言われると、私がすごいことをしているみたいです」

「違うのですか」

「私は、いつも少し口を出しただけです」

「少し口を出す人が、世界には足りません」

 王女は静かに言った。

 その言葉は、褒め言葉のようで、どこか痛かった。

 ガルナが前へ出た。

「王女。用件を言え」

 使者が息を呑んだ。

 だが、王女は怒らなかった。

「あなたがガルナですね」

「そう呼ばれている」

「かつてガルナ山にいた守りのもの」

 ガルナの金色の目が鋭くなる。

「その名を、王宮で聞くとはな」

「王宮の記録にも、あなたのことは残っています。もっとも、記録には『山魔鎮定』と書かれていますが」

「気に入らぬ言葉だ」

「私もそう思います」

 王女は答えた。

 ガルナは少しだけ黙った。

 リュシエラはミリアの袖へ視線を向けた。

「そして、あなたがネリス」

 袖の中で白蛇が動いた。

 ミリアは袖口を開けた。

 白蛇がゆっくり顔を出す。

「首輪の精です」

 ネリスの声は弱い。

 王女はその小さな白蛇にも、きちんと頭を下げた。

「あなたにも、来てくださってありがとう」

 ネリスは驚いたように固まった。

「私にまで礼を言うのですか」

「ええ」

「私は、呪いです」

「私も、似たようなものです」

 王女はそう言って、自分の胸元に触れた。

 赤い紋様が、皮膚の下で淡く光った。

「王家の血契約。国を守るため、王族の血に結ばれた古い契約です」

 ミリアは王女を見た。

「国を守るため」

「はい。外敵の侵入を緩め、国境の霊脈を安定させ、疫病や飢饉の広がりを抑える。そう記録されています」

「いい契約に聞こえます」

「ええ」

 王女は微笑んだ。

「記録では、いつもそうです」

 その声に、苦さがあった。

 彼女は机の上の地図を示した。

 地図には国境線が引かれている。その線に沿って、赤い小さな印がいくつも打たれていた。

「この契約は、王家の血を持つ者に負荷を分けます。昔は王と王妃、成人した王子王女たちで少しずつ受けていたそうです。でも今、王は病に伏せ、王子は幼く、王妃は亡くなりました」

 王女の指が、地図の端で止まる。

「私には妹が三人います」

 扉の向こうから、子供の笑い声がかすかに聞こえた。

 ミリアは書室の隅の木馬を見た。

「一番下は、まだ八つです」

 王女は言った。

「しかし、王家の契約は年齢を待ちません。血を持つ者がいれば、負荷は流れます。最近、妹たちの体にも紋様が出始めました」

 ミリアの胸が重くなる。

「それで」

 王女は静かに言った。

「私は、あなたの首飾りが欲しいのです」

 首輪が鳴った。

 ちりん。

 部屋の空気が、一瞬で変わる。

 ミリアは首元を押さえた。

 袖の中でネリスが苦しそうに身を縮める。

 ガルナの目が細くなった。

「王女」

 彼女の声は低かった。

「それが何か知って言っているのか」

「知っています」

 リュシエラは答えた。

「誰かが欲しいと言い、今の持ち主が譲れば移る。前の持ち主は自由になる。次の持ち主は縛られる。呪いは新しい持ち主の恐怖や後悔を食べて力を取り戻す」

 ミリアは息を呑んだ。

「どこで」

「王宮の禁書庫です」

 王女は言った。

「継承環。役目を集め、次の器へ移す古い環。今では呪いと呼ばれていますね」

「知っていて、欲しいと言うんですか」

「はい」

 王女は一歩近づいた。

「私がそれを受け取れば、王家の契約を私一人に集められるかもしれません」

 ミリアは言葉を失った。

「妹たちを自由にできます」

 王女の声は震えていなかった。

「私の体に王家の契約を集め、国境の負荷も、霊脈の痛みも、血の重さも、すべて私が受ける。そうすれば、妹たちはただの王女でいられる。政略の道具にも、契約の器にもならずに済む」

 首輪が、布の下で熱を帯びた。

 強い望み。

 はっきりした願い。

 自分から差し出される首。

 首輪にとって、これほど甘いものはないのだろう。

 ミリアは息が苦しくなった。

「あなたは」

 ミリアはやっと言った。

「それがどういうことかわかっているんですか」

「わかっています」

「たぶん、一生外れない」

「構いません」

「苦しいかもしれない」

「今も苦しいです」

「死ぬかもしれない」

「王家に生まれてから、私はずっと少しずつ死んでいます」

 その声は静かだった。

 だから、余計に怖かった。

 王女は覚悟している。

 誰かに無理やり言わされているのではない。

 騙されているのでもない。

 呪いだと知り、危険だと知り、それでも欲しいと言っている。

 これまでの誰よりも、条件に近い。

 ミリアが譲れば、首輪は移るかもしれない。

 自分は自由になる。

 王女は妹たちを救えるかもしれない。

 国も守られるかもしれない。

 悪い取引ではない。

 その言葉が、どこかで聞こえた気がした。

 セレナも同じことを言った。

 悪い取引ではない、と。

「私は」

 王女は続けた。

「逃げたいわけではありません。国を捨てたいわけでもない。私は王女です。国を守る役目があります」

「役目」

 ミリアはその言葉を繰り返した。

「はい」

「妹さんたちは?」

「守りたい」

「国は?」

「守りたい」

「あなた自身は?」

 王女は黙った。

 その沈黙に、ミリアは胸が痛くなった。

「あなた自身は、何を望んでいるんですか」

 リュシエラは少しだけ微笑んだ。

「その質問は、贅沢ですね」

「贅沢?」

「王家の者には、あまり許されない問いです」

「許されないだけで、答えがないわけじゃない」

 王女はミリアを見つめた。

 その瞳は、疲れていた。

 けれど、澄んでいた。

「私は、庭で妹たちと菓子を食べたい」

 彼女は言った。

 ひどく小さな願いだった。

「春には花を摘んで、夏には水盤に足を入れて叱られて、秋には落ち葉を集めて、冬には暖炉の前で本を読みたい。国境の痛みが胸に刺さる夜に、一人で地図を見るのではなく、眠りたい」

 ミリアは何も言えなかった。

「でも、それはできません」

 王女は静かに続けた。

「だから、妹たちにそれを残したいのです」

 首輪がまた鳴った。

 ちりん。

 今度は甘く、低く。

 ミリアは唇を噛んだ。

 渡せばいいのか。

 この人は覚悟している。

 妹たちを救おうとしている。

 国も守ろうとしている。

 自分から犠牲になると言っている。

 リィナのように勘違いしているわけではない。

 ロゼリアのように価値を取り戻したいのでもない。

 イリゼのように幼いころに選ばされたのでもない。

 セレナのように別の首輪を救いだと思っているのとも少し違う。

 王女は、わかっている。

 それでも。

「誰かが自分から首を差し出したら」

 ミリアは言った。

「縛っていいの?」

 王女は答えなかった。

 代わりに、横に控えていた老臣が口を開いた。

「本人が望んでいるなら」

 その声は、穏やかだった。

 白い髭の老人で、ずっと壁際に立っていた。王女の側近なのだろう。顔には深い皺があり、目には理性の光があった。

「殿下はご自分の意思で仰せです。国を守り、妹君たちを守るため、自ら選ばれた。尊い覚悟です」

 尊い覚悟。

 ミリアは、その言葉にぞっとした。

 美しい言葉だった。

 そして、首輪の好きそうな言葉だった。

「私は」

 ミリアは首飾りを握った。

「そうやって騙されたんだよ」

 部屋が静かになった。

 王女がミリアを見る。

 老臣も口を閉じる。

 ガルナは何も言わない。

 ネリスが袖の中で身じろぎした。

「私は、ネリスを助けたいと思った。ガルナが苦しんでいるように見えた。みんな助かると言われた。自分で欲しいと言った。だから、形式だけ見れば、私も望んだことになる」

 ミリアの声は震えていた。

「でも、本当に何を受け取るのかは知らなかった。知らないまま、優しさや心配や、助けたい気持ちを使われた」

 ネリスが小さく震える。

 ミリアは続けた。

「王女さまは知っているのかもしれない。でも、それでも、妹さんたちを守りたい気持ちを、首輪が食べようとしているのは同じです」

 老臣が眉をひそめた。

「旅の娘よ。殿下の覚悟を愚弄するか」

「違います」

 ミリアは言った。

「愚弄したくないから、首輪に渡したくないんです」

 王女の表情が揺れた。

「あなたは、私の願いを否定するのですか」

「否定しません」

「なら」

「でも、あなた一人に全部を集めるのは違う」

「それでは妹たちが」

「妹さんたちは、本当にそれを望んでいるんですか」

 王女は息を止めた。

「幼いのです」

「だから?」

「契約の重さなど、わかるはずがありません」

「わからないまま背負わせるのは違う。でも、わからないからといって、全部あなたが背負っていい理由にもならない」

 ミリアは一歩近づいた。

「それも、誰か一人に役目を押しつけることです」

「私は押しつけられていません」

 王女の声が強くなる。

「自分で選んでいます」

「そう見える」

 ミリアは言った。

「でも、選択肢がそれしかない場所に立たされて、それを選ぶことは、本当に自由なの?」

 王女の顔から、血の気が引いた。

 そのとき、扉の向こうで小さな声がした。

「姉さま」

 リュシエラが振り返る。

 扉が少し開いていた。

 そこに三人の少女が立っている。

 一番上は十四歳くらい。

 次は十二歳ほど。

 一番下は、王女が言っていた通り、八つくらいだった。

 三人とも金色の髪を持ち、白い服を着ている。

 そして、喉元や手首に、薄い赤い紋様が浮かんでいた。

 王女の妹たち。

「入ってはいけないと言ったでしょう」

 リュシエラの声が初めて乱れた。

 一番上の少女が前へ出た。

「聞こえました」

「エルナ」

「姉さまが、また私たちの分まで受けようとしている」

 エルナと呼ばれた少女の声は震えていた。

 でも、目は逃げていなかった。

 リュシエラは苦しそうに言った。

「あなたたちは知らなくていいのです」

「知りたい」

「エルナ」

「知りたいです。知らないまま守られるのは、怖い」

 その言葉に、ミリアは胸を突かれた。

 知らないまま守られるのは、怖い。

 それは、知らないまま犠牲にされることと、少し似ているのかもしれない。

 二番目の少女が、小さな声で言った。

「姉さまが夜に泣いているのを知っています」

 末の少女が言う。

「胸が痛いとき、姉さまの部屋の灯りがつくの」

 王女は唇を噛んだ。

「あなたたちを巻き込みたくなかった」

「もう巻き込まれています」

 エルナは言った。

「王家に生まれたから。血契約があるから。でも、姉さまが黙って全部持っていこうとするなら、もっと巻き込まれます」

 老臣が慌てて前へ出る。

「姫君方、これは殿下と客人の」

「黙って」

 エルナが言った。

 幼い顔に似合わない強さだった。

「私たちの血の話です」

 老臣は言葉を失った。

 王女は妹たちを見つめていた。

 その目に、初めて迷いが浮かぶ。

 ミリアはネリスを袖から出した。

 白蛇はミリアの手の上で小さく丸まっている。

「ネリス」

「はい」

「王家の契約、見える?」

 白蛇は王女と妹たちを見た。

「見えます」

 声は弱い。

 しかし、はっきりしていた。

「血が、一本の川のように繋がっています。王女さまに太く、妹さまたちに細く。けれど、奥では同じ場所へ流れています」

「同じ場所?」

「玉座の下です」

 王女の顔が変わった。

「玉座」

「そこに、契約の核があります。王家の血を土地に結ぶ石。たぶん、古い環の術と近いものです」

 ガルナが低く言った。

「玉座そのものが首輪か」

 リュシエラは目を伏せた。

「王家の血契約は、戴冠の間にあります。王が即位するとき、玉座の下の血石に触れる。そこから契約が流れます」

「そこへ行きましょう」

 ミリアは言った。

 老臣が顔色を変えた。

「なりません。戴冠の間は王族以外」

「私は王族です」

 エルナが言った。

「私も」

 二番目の少女が言う。

「私も行く」

 末の少女が姉の袖を握る。

 リュシエラは三人を見て、苦しそうに目を閉じた。

「だめ」

「姉さま」

「危険です」

「姉さま一人が危険なところへ行くのはいいの?」

 末の少女の言葉に、リュシエラは何も言えなくなった。

 ミリアは王女を見た。

「一人で行かないで」

 その言葉は、誰に向けたものなのかわからなかった。

 王女へ。

 ネリスへ。

 ガルナへ。

 自分へ。

 リュシエラは長い沈黙のあと、ゆっくり頷いた。

「戴冠の間へ」

     *

 戴冠の間は、王宮の中心にあった。

 広い円形の部屋だった。

 高い天井には星と蔓の紋様が描かれている。中央には石の玉座が一つ。白い石でできているが、座面の下だけが赤黒い。血が石になったような色だった。

 王女と妹たちが入ると、玉座の下の血石が光り始めた。

 ミリアの首輪も反応する。

 ちりん。

 ネリスが苦しそうに身を縮める。

「大丈夫?」

 ミリアが聞くと、白蛇は小さく首を横に振った。

「大丈夫ではありません」

「よし」

「よし?」

「ちゃんと言ったから」

 ネリスはかすかに笑った。

 ガルナが玉座を見上げる。

「ひどいものだな」

「何が見えるんですか」

 ミリアが聞くと、ガルナは金色の目を細めた。

「根だ」

「根?」

「玉座から、床へ、壁へ、この宮殿へ、王都へ、国境へ。血の根が伸びている。美しく飾ってあるが、これは巨大な首輪だ」

 王女は玉座の前に立った。

「私は、ここで十六のときに契約を受けました。父が病に倒れ、母が亡くなったあと、誰かが受けなければならなかった」

「誰が決めたのですか」

 ミリアが聞く。

「臣下たちです。神官も、術師も、父も、私自身も」

「あなた自身も」

「はい」

 王女は静かに言った。

「私は国を守りたかった」

「今も?」

「今も」

「妹さんたちも?」

 リュシエラは三人を見た。

 妹たちはそれぞれ、不安そうにしている。

 けれど、逃げようとはしていない。

「守りたい」

 王女は言った。

「でも、守ることと、私一人に集めることは同じではないのですね」

 その声は、まだ揺れていた。

 ミリアは頷いた。

「たぶん」

「たぶん」

 王女は少し笑った。

「あなたは正直ですね」

「よくわからないことが多いので」

「それでも、わからないと言えるのは強いことです」

 老臣が後ろから焦った声を出す。

「殿下、血契約を乱せば、国境が揺らぎます。どうかお考え直しを」

「考えています」

 リュシエラは振り返った。

「今、初めて」

 老臣は黙った。

 王女は玉座の血石に手を伸ばした。

 その瞬間、赤い光が彼女の腕を這い上がった。

 妹たちの紋様も同時に光る。三人が小さく呻いた。

 ミリアの首輪も熱を帯びる。

 王家の契約が動き出している。

「ネリス」

 ミリアは手の中の白蛇に言った。

「何をすればいい」

「契約の言葉を探してください」

「言葉?」

「どんな契約にも、最初の言葉があります。そこに橋だったころの形が残っているはずです」

 ミリアは玉座を見た。

 血石に文字が浮かび上がっている。

 古い文字だ。ミリアには読めない。

「ガルナ、読める?」

 ガルナが目を細める。

「一部だけだ」

「読んで」

 ガルナは低く読み上げた。

「王家の血は国の境となる。王家の心は民の盾となる。王家の痛みは土地の痛みを受ける。王家の者は、国のために」

 そこで、ガルナは言葉を切った。

「どうしたの」

「文字が削られている」

「削られている?」

 ミリアは近づいた。

 確かに、血石の一部が不自然に削れている。後から刻み直されたようにも見える。

 ネリスが白蛇の姿のまま、細い声で言った。

「下に、元の文字があります」

「読める?」

「少し」

 ネリスは苦しそうに身を伸ばした。

「王家の者は、国のために……ではなく」

 白蛇の声が震える。

「国と共に」

 部屋が静かになった。

「国と共に?」

 リュシエラが呟く。

 ネリスは続けた。

「最初の契約は、王家が国を一人で背負うものではありません。王家と土地と民が、互いに力を巡らせる契約だった。王家の血は境となるのではなく、境を結ぶ。王家の心は盾となるのではなく、民の声を聞く。王家の痛みは土地の痛みを受けるのではなく、土地の痛みに気づくための印」

 ミリアの首輪が激しく鳴った。

 ちりん、ちりん、ちりん。

 嫌がっている。

 この契約も、昔は橋だった。

 そして、誰かがそれを鎖に変えた。

 王女は血石を見つめていた。

「では、私たちは」

 声が震える。

「国を背負う器ではなかったのですか」

「最初は」

 ネリスは言った。

「違ったのだと思います」

 老臣が膝をついた。

「そんな。王家は代々、この契約を」

「代々、削られた言葉を読んでいたのでしょう」

 ガルナの声は冷たかった。

「王家に国を背負わせれば、民は楽だ。臣下も楽だ。誰か一人に国を着せれば、他の者は温かい」

 老臣は言葉を失った。

 王女は妹たちを見た。

「エルナ」

「はい」

「痛い?」

 エルナは少し迷い、頷いた。

「痛いです」

 二番目の少女も言った。

「私も」

 末の少女は泣きそうな顔で、姉の手を握った。

「姉さまも痛い?」

 リュシエラは目を閉じた。

「痛い」

 初めて、そう言った。

 その瞬間、血石の光が揺れた。

 ミリアは王女の横に立った。

「言ってください」

「何を」

「あなたの言葉で」

 白鐘の神殿で、イリゼに言った言葉を思い出す。

 あなたの言葉で。

 王女は血石に手を置いたまま、息を吸った。

「私は、国を守りたい」

 赤い光が強くなる。

「妹たちを守りたい」

 さらに強く。

「でも、私一人が国になる契約は、いらない」

 血石に亀裂が入った。

 老臣が叫んだ。

 妹たちが息を呑む。

 ミリアの首輪が熱くなる。

 ガルナが前へ出た。

「まだだ」

「何が」

「王女一人の言葉では、また一人に押しつけることになる」

 ミリアは妹たちを見た。

「あなたたちも」

 エルナが頷いた。

 彼女は震えながら、姉の手に自分の手を重ねた。

「私は、知らないまま守られたくありません」

 二番目の少女も手を重ねる。

「私は、痛いときは痛いと言いたいです」

 末の少女が最後に小さな手を伸ばした。

「私は、姉さまとお菓子を食べたい」

 その言葉に、王女の目から涙が落ちた。

 血石の亀裂が広がる。

 だが、その奥から黒いものが滲み出した。

 ミリアは身を引いた。

 それは影だった。

 血石の亀裂から、細い黒い輪のようなものが浮かび上がってくる。首輪に似ている。だが、もっと古く、もっと冷たい。

 輪の奥に、目のようなものがあった。

 見られている。

 ミリアは直感した。

 首輪の根源に近い何か。

 継承環が呪いへ変わった、その奥にいるもの。

 誰か一人へ役目を集め、押しつけ、次の犠牲者へ移す仕組みそのものを喜ぶもの。

 それが、こちらを見た。

 声がした。

 言葉ではない。

 だが、意味だけが喉に入ってくる。

 よい器だ。

 ミリアの首輪が激しく鳴った。

 よい器が、四つ。

 いや、五つ。

 いや、もっと。

 王女。

 妹たち。

 ミリア。

 ネリス。

 誰を器にする。

 誰に集める。

 誰が欲しがる。

 誰が譲る。

 ミリアは喉を押さえた。

 息ができない。

 ネリスが悲鳴を上げる。

 白蛇の体がミリアの手の中でほどけかけた。

「ネリス!」

 ミリアは彼女を胸に抱えた。

 ガルナが巨大な影を広げる。

「下がれ!」

 黒い輪の影が、王女たちへ伸びる。

 王家の契約を再び一人へ集めようとしているのだ。

 王女は妹たちを庇おうとした。

「だめ!」

 ミリアは叫んだ。

「また一人で前に出ないで!」

 リュシエラの体が止まる。

 その一瞬の代わりに、ガルナが前へ出た。

 巨大な影の腕で、黒い輪を掴む。

 じゅ、と焼ける音がした。

 ガルナの喉の古傷が赤く光る。

「ガルナ!」

「少し熱いだけだ」

「絶対嘘!」

「だいぶ熱い」

 ガルナは歯を剥いて笑った。

「だが、こういうものを掴むのは慣れている」

 彼女は黒い輪を押さえ込む。

 ミリアは王女たちを見た。

「言い直して」

「何を」

「一人じゃなくて」

 王女は涙を拭い、妹たちの手を握った。

「私たちは」

 彼女は言った。

「国と共にある」

 エルナが続ける。

「国を一人で背負わない」

 二番目の少女が言う。

「痛みを隠さない」

 末の少女が、泣きながら叫ぶ。

「姉さまを一人にしない!」

 その瞬間、血石が砕けた。

 赤い光が部屋中に広がった。

 だが、それは爆発ではなかった。広がった光は王女一人に集まらず、床へ、壁へ、窓の外へ、庭へ、水盤へ、王宮の外へと流れていく。

 王家の血だけでなく、土地へ戻っていく。

 契約が、少しだけ元の橋へ戻ろうとしている。

 黒い輪の影が裂けた。

 ガルナが吠える。

 ネリスがミリアの手の中で白く光る。

 ミリアの首輪も、割れるような音を立てた。

 ちりん、ではない。

 悲鳴に近い音だった。

 黒い輪の奥の目が、ミリアを見た。

 覚えた。

 そう聞こえた。

 ミリアの背筋が凍る。

 次の瞬間、影は血石の奥へ引き戻され、消えた。

 戴冠の間に、静けさが戻った。

 王女たちは床に膝をついていた。

 妹たちは泣いている。リュシエラも泣いていた。けれど、胸元の赤い紋様は薄くなっていた。消えたわけではない。だが、一人だけを焼くような光ではなくなっている。

 ミリアは手の中を見た。

 白蛇が動かない。

「ネリス」

 呼ぶ。

 返事がない。

「ネリス!」

 白蛇の体が、かすかに透けている。

 ミリアは息が止まりそうになった。

 やがて、とても小さな声がした。

「聞こえています」

 ミリアはその場に座り込んだ。

「返事してって言ったでしょ」

「はい」

「遅い」

「すみません」

「謝らないで」

「はい」

 ネリスの声は弱かった。

 でも、あった。

 ガルナも膝をついていた。

 手のひらから黒い煙が上がっている。喉の痕も赤くなっていた。

「ガルナ」

「生きている」

「それは見ればわかります」

「なら聞くな」

「痛い?」

「痛い」

 ミリアは少しだけ驚いた。

 ガルナが素直に言った。

「痛いんですね」

「痛いものは痛い」

「よし」

「何がよしだ」

「ちゃんと言ったから」

 ガルナは一瞬、妙な顔をした。

 それから、低く笑った。

「おまえは、時々わけのわからぬところで満足する」

「大事なところです」

 王女がゆっくり立ち上がった。

 妹たちの手を握ったままだった。

「終わったのですか」

 彼女は聞いた。

 ガルナが首を横に振る。

「終わってはいない」

 ミリアも頷いた。

「契約は壊れたんじゃなくて、形が変わったんだと思います」

 ネリスが弱い声で言った。

「血石は砕けました。でも、王家と土地の橋は残っています。今は、王女さま一人に集まっていない」

 リュシエラは胸元に触れた。

「痛みが、遠い」

 エルナが言う。

「私も、少しだけ感じる。でも、怖くない」

 二番目の少女が頷く。

「みんなで持ってるみたい」

 末の少女は姉に抱きついた。

「姉さま、死なない?」

 王女は妹を強く抱きしめた。

「今は、死なない」

「ずっと」

「ずっとは約束できない」

 リュシエラは涙を流しながら微笑んだ。

「でも、一人で死にに行くのはやめます」

 ミリアはその言葉に、深く息を吐いた。

 老臣は床に膝をついたまま、砕けた血石を見ていた。

 顔は青ざめている。

「この国は」

 彼は呟いた。

「どうなるのです」

 リュシエラは彼を見た。

「私たちだけで決めない国にします」

 老臣は顔を上げる。

「殿下」

「王家が国を背負うのではなく、国と共にある。そういう契約だったのでしょう」

 王女はミリアを見た。

「簡単ではありませんね」

「たぶん」

「民は不安がるでしょう。臣下は反発するでしょう。妹たちも痛みを知ることになる」

「はい」

「それでも」

 王女は妹たちの手を握り直した。

「私一人が美しい犠牲になるよりは、ましです」

 ミリアは首飾りに触れた。

 首輪は静かだった。

 いや、静かすぎた。

 先ほどの黒い輪の影。

 あれが、こちらを覚えた。

 それはたぶん、見逃してよいものではない。

     *

 その夜、ミリアたちは王宮の客室に泊められた。

 広すぎる部屋だった。

 天蓋つきの寝台、厚い絨毯、銀の水差し、香の焚かれた暖炉。何もかも立派で、ミリアはどこに座ればよいのかわからなかった。

 結局、窓辺の床に座った。

 ガルナは寝台を見て、「柔らかすぎる」と言い、壁際の椅子に座った。

 ネリスは白蛇の姿のまま、ミリアの膝の上で眠っている。

 眠っている。

 生きている。

 ミリアは何度もそれを確認した。

「王女に渡せば」

 ミリアは小さく言った。

「私は自由になれたかもしれない」

 ガルナが目を向ける。

「そうだな」

「王女も、妹たちを守れたと思った」

「思っただろうな」

「国も、しばらくは安定したかもしれない」

「かもしれぬ」

 ミリアは首飾りに触れた。

「それでも、渡せなかった」

「後悔しているか」

「してる」

 ミリアは正直に答えた。

「でも、渡さなかったことは後悔していない」

「また、それか」

「はい」

 ガルナは少し笑った。

「ややこしい娘だ」

「知っています」

 膝の上で、白蛇がかすかに動いた。

「ミリア」

 ネリスの声がした。

「起きてたの」

「少し」

「寝てていいのに」

「あなたが、寂しそうな声を出したので」

 ミリアは言葉に詰まった。

「出してない」

「出していました」

「蛇に言われるの、悔しい」

 ネリスは小さく笑った。

 声だけの笑いだった。

 ミリアは白蛇の背をそっと撫でた。

「ネリス」

「はい」

「あの黒い輪、見た?」

 白蛇の体がこわばった。

「見ました」

「あれは何」

 少し沈黙があった。

「わかりません」

「首輪の作り手?」

「それに近いものかもしれません。あるいは、作り手が残した意志。契約が鎖になることを喜ぶもの。誰か一人へすべてを集めたがるもの」

 ミリアは喉元を押さえた。

「目をつけられたよね」

「はい」

 ネリスは小さく答えた。

「たぶん、あなたを覚えました」

「どうして私」

「あなたが、何度も首輪の流れを止めているから」

 ガルナが低く言った。

「リィナ、ロゼリア、イリゼ、セレナ、王女。首輪が欲しかったものを、おまえはことごとく渡さなかった。今日は王家の血契約まで戻した」

「私だけじゃありません」

 ミリアは言った。

「王女も、妹さんたちも、ガルナも、ネリスもいた」

「そうだ」

 ガルナは頷いた。

「だから、あれにとってはさらに腹立たしいだろう。一人に集める仕組みを、複数で壊したのだからな」

 ミリアは窓の外を見た。

 王宮の庭には灯りが揺れている。

 遠くで、王女の妹たちの笑い声が聞こえた気がした。

 気のせいかもしれない。

 でも、そう聞こえたことにした。

「私」

 ミリアは言った。

「王女さまが首輪を欲しいと言ったとき、少し腹が立った」

「なぜ」

 ガルナが聞く。

「きれいだったから」

「きれい?」

「自分を犠牲にして妹たちを守るって、すごくきれいに聞こえた。周りの人も、尊い覚悟だって言った。私も一瞬、そう思いそうになった」

 ミリアは首飾りを握った。

「でも、それが怖かった」

 ネリスが静かに聞いている。

「きれいな犠牲は、止めにくい。本人も誇りを持ってる。周りも感謝する。だから、誰もそれが首輪だって言わなくなる」

 白鐘の神殿のイリゼもそうだった。

 聖女。

 器。

 清らかな役目。

 言葉が美しければ美しいほど、そこにある鎖は見えにくい。

「私は」

 ネリスが小さく言った。

「あなたに、きれいな言葉で首輪を渡しました」

 ミリアは白蛇を見た。

「みんな助かるって?」

「はい」

「うん」

「それも、きれいな言葉でした」

「そうだね」

「ごめんなさい」

 ミリアは少し息を吐いた。

「今は、謝ってもいい」

 ネリスは驚いたように顔を上げた。

「いいのですか」

「わからない。でも、今のは受け取る」

 ネリスはしばらく黙った。

「ごめんなさい」

「うん」

 それだけだった。

 許しではない。

 けれど、拒絶でもなかった。

 ガルナが窓の外を見ている。

 その横顔は静かだった。

「次は」

 ミリアは言った。

「あの黒い輪のことを調べないと」

「そうだな」

 ガルナが答える。

「古い街へ戻る?」

「戻る前に、王宮の禁書庫を見る。王女が許すだろう」

「また本ですか」

「本は嫌いか」

「嫌いじゃないけど、首が痛くなります」

「首輪のせいか」

「本のせいです」

 ガルナは少しだけ笑った。

 ネリスも、ほんの少し身じろぎした。

 ミリアは膝の上の白蛇に布をかけた。

 今夜だけは、少し眠れそうな気がした。

 首輪はまだ外れない。

 ネリスもまだ弱い。

 黒い輪のような何かに、目をつけられた。

 問題は増えた。

 それでも、王女は一人で首を差し出さずに済んだ。

 妹たちは、知らないまま守られることを拒んだ。

 王家の契約は、少しだけ橋へ戻った。

 そのことを、今夜は覚えておこうと思った。

 ミリアは窓の外の月を見た。

 月はまだ、輪には足りなかった。

 でも、欠けている月にも光はあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ