第十章 契約の魔女
王宮の禁書庫は、地下にあった。
戴冠の間からさらに奥へ進み、王族と限られた書記だけが通れるという細い階段を下りる。壁には灯火が等間隔に並んでいたが、その炎は赤くも黄色くもなかった。青白く、音もなく揺れている。
ミリアは、その炎を見るたびに喉が冷えた。
普通の火ではない。
契約に使われる火だと、ガルナが言った。
「古い文字を読ませるための火だ」
「読ませる?」
「書かれたものをただ照らすのではない。隠された文字も浮かび上がらせる。便利ではある」
「嫌な便利さですね」
「契約術に便利なものは、だいたい嫌なものだ」
ガルナはそう言いながら、前を歩いている。
彼女の手にはまだ黒い火傷のような痕が残っていた。戴冠の間で黒い輪の影を掴んだときにできたものだ。治らないのかと聞くと、ガルナは「そのうち薄くなる」とだけ言った。
そのうち。
ガルナの「そのうち」は、人間の一日や二日ではなさそうだった。
ミリアの袖の中には、白蛇のネリスがいる。
昨夜よりは少しだけ声が近い。だが、体はまだ軽く、頼りない。ミリアは何度も袖口に手をやり、そのたびに自分で気づいてやめた。
心配している。
もう、それを認めないふりはできなかった。
ただ、心配しているからといって、すべてが許されるわけではない。
ネリスはミリアを騙した。
首輪を押しつけた。
その事実は、まだ喉に巻きついている。
けれど、ネリスを消したくない。
その願いもまた、喉の奥に残っている。
禁書庫の扉は、黒い木でできていた。
表面には赤い文字が細かく刻まれている。読めないが、見ているだけで口の中が苦くなるような文字だった。
王女リュシエラが、扉の前で足を止めた。
「ここから先は、私も長くは入れません」
彼女は言った。
戴冠の間で王家の血契約を変えたあと、リュシエラの顔色は少し戻っていた。だが、疲労は隠せない。妹たちは別室で休んでいるという。王家の契約が完全に消えたわけではないから、王宮内は朝から騒然としていた。
臣下たちは不安がり、神官たちは血石の破損を嘆き、古い家臣たちは王家の威信が揺らぐと囁いている。
それでも、リュシエラは禁書庫の鍵を持ってきた。
「首輪の根源に近いものについて、記録があるとすればここです」
「ありがとうございます」
ミリアが言うと、王女は首を横に振った。
「私も知る必要があります。あれは王家の契約にも触れていました。私たちだけの問題ではありません」
リュシエラは鍵を差し込んだ。
扉が開く。
乾いた空気が流れ出した。
紙と革と、古い香と、血に似た鉄の匂いが混じっている。
ガルナが顔をしかめた。
「腐った蜜に鉄を混ぜて、さらに乾かした匂いだな」
「もう匂いの説明はいいです」
ミリアはそう言いながら、扉の中へ入った。
禁書庫は円形だった。
壁一面に書架が並び、天井近くまで本と巻物が積まれている。中央には丸い机があり、その上に古びた台座が置かれていた。台座には何も載っていない。だが、何かが長くそこに置かれていた跡がある。丸い輪の跡だった。
ミリアの首輪が鳴った。
ちりん。
袖の中でネリスが身を震わせる。
「ここに」
ネリスの声がした。
「何かありました」
「首輪?」
「近いものです。でも、同じではありません」
リュシエラが台座を見つめた。
「禁書庫の目録には、『原環』と記されていました。王家の血契約より古く、継承環の原型に近いものだと」
「原環」
ミリアは繰り返した。
それだけで、喉が冷えた。
ガルナが台座に近づいた。
「今はないな」
「はい。数百年前に失われたと記録されています」
「失われたのではない」
ガルナの目が細くなる。
「誰かが持ち出した」
そのとき、禁書庫の奥で、紙がめくれる音がした。
ミリアは振り返った。
誰もいないはずの書架の間に、人影があった。
女だった。
黒い衣を着ている。
神官のようにも見えたが、神殿の白衣とはまるで違う。裾も袖も長く、体の線を隠している。髪は灰色で、年齢はわからない。若いようにも、老いているようにも見えた。顔は整っているが、どこか表情が薄い。
首から、細い黒い輪を下げていた。
首飾りではない。
輪だ。
ミリアの首輪よりもさらに細く、古びている。黒い金属のように見えるが、光を吸うように暗い。
女は一冊の本を閉じた。
「よく来ましたね」
声は、柔らかかった。
だが、その柔らかさが怖かった。
ガルナが即座にミリアの前へ出る。
「誰だ」
「名はいくつかあります」
女は微笑んだ。
「契約の魔女。縛りの女神官。原環の番人。古い家では、ユーレナと呼ぶ者もいます」
リュシエラの顔色が変わった。
「ユーレナ……王家の古記録にある名です。契約を守る影の神官。けれど、実在したのは五百年以上前のはず」
「契約は、時間を越えます」
ユーレナはそう言った。
「人が死んでも、誓いは残る。王が死んでも、王家の血は残る。神官が死んでも、神殿の掟は残る。魔女が死んでも、契約は誰かの口を借りて続く」
ミリアの首輪が、低く鳴った。
ちりん。
ユーレナの視線がミリアの喉元へ向く。
「そして、あなたが今つけているものも、続くための環です」
「あなたが作ったんですか」
ミリアは聞いた。
ユーレナは少し首を傾けた。
「私一人ではありません。誰か一人で作れるものではない。人々の望みが作ったのです」
「望み?」
「ええ」
ユーレナは中央の台座に手を置いた。
「役目を誰かへ渡したい。苦しみを誰かへ引き受けてほしい。自分は自由になりたい。大切な人だけは救いたい。国を守りたい。家を守りたい。誓いを守りたい。そういう望みです」
ミリアは首飾りを押さえた。
「それを、あなたたちが首輪にした」
「違います」
ユーレナは優しく言った。
「人は、最初から輪を欲しがっていました。私たちは形を与えただけです」
その声が、首輪に似ていた。
甘く、静かで、逃げ道のように聞こえる。
ミリアは一歩下がった。
袖の中でネリスが震えている。
「ミリア」
ネリスの声が遠い。
「気をつけてください。この人は、首輪に近い」
「近いだけか」
ガルナが低く言う。
「私には、首輪そのものの匂いがする」
ユーレナはガルナを見た。
「山の守り手。久しぶりですね」
ガルナの金色の目が燃えた。
「おまえが、私に首輪をかけた者か」
「私はその場にはいませんでした」
「なら、誰だ」
「王の術師たちです。彼らは私たちの残した環を使いました。あなたを封じるために」
「便利な道具を残したものだ」
「必要でした」
ユーレナの声は揺れなかった。
「山は強すぎた。王国が広がるには、山の怒りを誰かが引き受ける必要がありました。あなたが自由であれば、川は人を拒み、鉱山は開かず、道は通らなかった」
「だから私を縛った」
「そうです」
あまりに当然のように言われ、ミリアは背筋が冷えた。
ガルナの背中から、怒りが立ち上がる。
人の姿なのに、部屋全体が山に踏まれたように軋んだ。
「ガルナ」
ミリアは呼んだ。
ガルナはすぐには振り返らなかった。
ユーレナは微笑んでいる。
「怒ってよいのです。あなたは被害者です。山を奪われ、首を縛られ、長い時間を檻の中で過ごした」
ガルナの拳が震える。
「だからあなたは、次の誰かへ環を渡した。自由になるために」
ユーレナの目が、ミリアへ向く。
「当然のことです」
「当然じゃない」
ミリアは言った。
声が思ったより強く出た。
「当然じゃないです」
「そうでしょうか」
ユーレナは首を傾げた。
「誰かが自由になるためには、誰かが役目を引き受けなければなりません。王も、聖女も、花嫁も、騎士も、魔物も。世界はそうして回っている」
彼女は部屋の書架へ視線を巡らせた。
「この禁書庫は、その記録です。国境を守るため、王家が血を差し出した。病と穢れを浄めるため、聖女が器になった。家と家を結ぶため、花嫁が名を変えた。主君の暴走を止めるため、騎士が剣を誓った。山の怒りを封じるため、魔物に環をかけた」
「どれも、誰か一人を苦しめていました」
「どれも、誰か大勢を救っていました」
ユーレナは即座に答えた。
ミリアは言葉に詰まった。
その瞬間を、ユーレナは逃さなかった。
「あなたは、苦しむ一人だけを見ています。けれど、その一人が引き受けたことで助かっている者たちはどうなるのですか」
リィナの村。
ロゼリアの家。
イリゼの神殿町。
セレナの領地。
王女の国。
どの場所にも、誰か一人が背負うことで回っていたものがあった。
それは間違っていた。
そう思う。
でも、壊したあと、すべてがすぐに良くなったわけではない。
リィナの村には、まだ借金が残っている。
ロゼリアは王都で父と向き合わなければならない。
イリゼの町では、浄化の仕組みが変わり、混乱が続いている。
セレナの領地では、侯爵家との争いが始まるだろう。
リュシエラの国では、王家の契約が変わったことで臣下たちが揺れている。
自分は、何をしたのだろう。
ただ、苦しみを別の形に散らしただけではないのか。
ユーレナが静かに言った。
「あなたは優しいのではない。選ばないことで、全員を苦しめているだけです」
その言葉は、まっすぐミリアの胸に刺さった。
ミリアは息を吸えなかった。
首輪が鳴る。
ちりん。
まるで、同意するように。
「違う」
袖の中で、ネリスが言った。
だが声は小さかった。
ユーレナはネリスへ視線を向ける。
「首輪の精。あなたはわかるでしょう」
ミリアの袖口から、白蛇が顔を出した。
「何をですか」
「あなたは、役目から生まれた。誰かを縛るために。役目を失えば、消える」
ネリスの体が震えた。
「ミリアが誰にも渡さないことで、あなたは弱っている。首輪が飢えれば、あなたも飢える。彼女の選ばない優しさは、あなたを殺している」
ミリアは首元を押さえた。
「やめて」
「事実です」
ユーレナは優しい声で言った。
「事実は、ときに最も深く傷つけます」
ネリスはミリアの袖から出ようとした。
だが、白い体が揺れ、うまく動けない。
ミリアは両手で受け止めた。
「ネリス」
「大丈夫ではありません」
ネリスは言った。
ミリアは思わず息を呑んだ。
今、それを言えることが、嬉しいのか苦しいのかわからなかった。
「でも、聞きます」
白蛇はユーレナを見た。
「私が弱っているのは、ミリアのせいではありません」
「本当に?」
「はい」
「彼女があなたを生かしたいなら、首輪を誰かに渡せばよい。王女でも、騎士でも、聖女でも、望む者はいた。あなたは生き延びられた」
「それは」
ネリスの声が震える。
「誰かを、また縛ることです」
「そうです」
ユーレナは頷いた。
「世界とは、そういうものです」
「違います」
ネリスは言った。
だが、その声は弱い。
「違う世界にしたいと、ミリアは」
「したい、だけでは世界は変わりません」
ユーレナの声は少しも荒れない。
「あなたたちは、優しい言葉を集めています。誰も犠牲にしない。誰も器にしない。一人に押しつけない。美しい言葉です」
彼女は微笑んだ。
「でも、その間に契約は崩れ、町は揺れ、国は不安定になる。聖女が器を降りれば、病人は誰が見るのですか。王女が一人で背負わなければ、国境の痛みは誰が持つのですか。騎士が誓約から解ければ、軍は誰に従うのですか。山の魔物が自由になれば、人間の道は誰が守るのですか」
ミリアは一つもすぐに答えられなかった。
答えはあるはずだ。
みんなで少しずつ。
一人で背負わない。
言葉を取り戻す。
そう言ってきた。
だが、ユーレナの問いは、それを甘いと言っている。
みんなで少しずつ。
その「みんな」は、本当に痛みを持ってくれるのか。
結局、誰かが逃げ、誰かがまた押しつけられるのではないか。
ミリアは拳を握った。
「それでも」
声が掠れた。
「一人を首輪にするより、ましです」
「まし」
ユーレナは繰り返した。
「まし、なのですね。よい言葉です。あなたも、最善ではなく、ましなほうを選んでいるだけだ」
ミリアの喉が痛んだ。
「首輪も同じです」
ユーレナはミリアの首元を指した。
「首輪は、もっとも明快です。誰が役目を引き受けるのか、はっきりさせる。曖昧に散らさない。痛みの場所を決める。世界を回すために必要な残酷さを、隠さず輪にする」
「だから、正しいと?」
「正しいかどうかではありません」
ユーレナは答えた。
「機能するのです」
その言葉が、ひどく冷たかった。
機能する。
苦しむ人がいても。
泣く人がいても。
その人が消えかけても。
仕組みとして動けば、正しいのか。
ミリアは怒りを感じた。
しかし、その怒りの底に、迷いがあることもわかった。
自分が壊してきたものは、たしかに機能していた。
ひどい形で。
それでも、動いていた。
では、壊したあと、自分は何を置けるのか。
「あなたは」
ユーレナは一歩近づいた。
「誰にも渡さない、と言う。誰も犠牲にしない、と言う。ネリスも救いたい、と言う。けれど、それらはすべて同時には叶いません」
ミリアは動けなかった。
「選びなさい」
ユーレナは言った。
「首輪を外し、自由になるか。誰かに渡してネリスを生かすか。首輪を弱らせてネリスを消すか。あなたが首輪を抱え続け、周囲を巻き込みながら迷い続けるか」
言葉が、部屋に落ちる。
「選ばないことも、選択です」
ミリアは喉元を押さえた。
息が苦しい。
首輪が締まっているのか、自分の息が詰まっているのかわからなかった。
ガルナが前に出た。
「よく喋るな」
その声は低く、危険だった。
「喋るだけなら、私もできる。だが、おまえの言葉は、全部同じ場所へ戻る」
「同じ場所?」
「誰か一人に押しつける場所だ」
ガルナの背後に、巨大な影が立ち上がる。
「世界がそうだと言う。仕組みがそうだと言う。機能すると言う。そうやって、おまえたちは私に首輪をかけた」
ユーレナはガルナを見上げた。
「あなたを縛らなければ、多くの人が死にました」
「死んだだろうな」
ガルナは認めた。
「私は怒っていた。人間を区別しなかった。王も兵も木こりも同じに見た。だから、私にも罪はある」
ミリアはガルナを見た。
その言葉を、ガルナはまっすぐ言った。
「だが、おまえたちはそれを理由に、私を役目にした。山の怒りを一つの喉に押し込めた。楽だったろう」
ユーレナは黙っている。
「私はその楽さを知っている。だから、ミリアに首輪を押しつけた」
ガルナの金色の目が燃えた。
「その結果、今ここでおまえを殴りたくなっている」
ミリアは思わず言った。
「殴るんですか」
「殴りたい」
「殴るとどうなりますか」
「たぶん禁書庫が少し壊れる」
「少し?」
「かなり」
「やめてください」
「だから我慢している」
ユーレナはそのやりとりを見て、少しだけ笑った。
「面白いですね。山の魔物が、人間の娘の顔色を見て我慢を覚えた」
「最近、人を見る目を鍛えている」
ガルナは言った。
「おまえを見る目もな」
次の瞬間、ガルナが動いた。
速かった。
彼女の腕が黒い影をまとい、ユーレナの首元へ伸びる。
だが、ユーレナは避けなかった。
ガルナの手が、女の喉を掴む直前、空中に文字が浮かんだ。
赤い契約文字。
ガルナの腕が止まった。
「っ」
ガルナの喉の古傷が赤く光る。
ミリアは叫んだ。
「ガルナ!」
「山の守り手は、王の契約に触れた者を害せず」
ユーレナが囁いた。
「古い契約の残りです。まだ少し効くようですね」
ガルナの顔が歪む。
腕が震える。
それでも前へ進まない。
ユーレナはその手にそっと触れた。
「暴力は簡単です。でも、契約はもっと深いところで止めます」
ガルナが低く唸った。
ミリアは首飾りを握った。
ガルナを助けたい。
だが、どうすればいい。
白鐘の神殿のときのように契約の言葉を探すには、相手が早すぎる。
セレナのときのように誓いの原点を取り戻すには、ガルナを縛っている残りの言葉が見えない。
リュシエラが王女として命じるように言った。
「ユーレナ。王家の名において、ガルナを解放しなさい」
ユーレナは王女を見た。
「王家の血契約を乱したばかりのあなたが、まだ王家の名を使うのですか」
リュシエラの顔が強ばる。
その瞬間、彼女の胸元の赤い紋様が光った。
血契約の残りが反応したのだ。
王女が膝をつく。
「殿下!」
使者が駆け寄ろうとするが、床に赤い文字が走り、足を止められた。
ユーレナは静かに言った。
「王は国のために。王女は血のために。魔物は山のために。聖女は町のために。騎士は主のために。花嫁は家のために」
禁書庫の壁の本が震え始めた。
「そして、首輪の持ち主は、次の器のために」
ミリアの首飾りが強く締まった。
息が止まる。
ネリスがミリアの手の中で悲鳴を上げた。
「ミリア!」
ガルナが動こうとする。
だが、赤い文字に縛られている。
リュシエラも動けない。
使者も、禁書庫の入口で足を止められている。
ミリアは喉を押さえ、膝をついた。
首輪が熱い。
これまでにないほど熱い。
ユーレナの黒い輪が、彼女の胸元で光っていた。
「あなたの首輪は、よく飢えています」
ユーレナはミリアの前に膝をついた。
「何度も機会を逃したから。欲しがる者がいたのに、渡さなかったから。優しさという名の飢えを、ずっと溜めてきた」
ミリアは声を出そうとした。
出ない。
「今なら、少し押すだけで移ります」
ユーレナの指が、ミリアの首飾りに触れようとする。
ミリアは身を引こうとした。
だが、体が動かない。
頭の中に声が流れ込んでくる。
渡せ。
譲れ。
選べ。
誰かを器にしろ。
役目を決めろ。
世界を回せ。
リィナの顔。
ロゼリアの顔。
イリゼの顔。
セレナの顔。
リュシエラの顔。
みんな苦しんでいた。
ミリアは、それぞれの首から鎖を外したつもりだった。
でも、本当に外せたのか。
ただ、別の不安へ放り出しただけではないのか。
選ばないことで、全員を苦しめているだけ。
ユーレナの言葉が、喉の奥に刺さる。
ミリアは息ができない。
「違う」
声がした。
ネリスだった。
白蛇の体が、ミリアの手の中で白く光っている。
「違う」
二度目の声は、少し強かった。
ユーレナがネリスを見る。
「首輪の精。あなたは消えかけています。彼女が選ばないせいで」
「違う」
ネリスの体がほどけ、光になった。
ミリアの手から、小さな白い光が浮かび上がる。
それは少女の形を取った。透けていて、薄くて、今にも消えそうなネリス。
けれど、彼女は立っていた。
「ミリアは、選んでいます」
ネリスは言った。
「誰かを器にしないことを。首輪に従わないことを。私を消したくないことを」
「それは欲張りです」
ユーレナは優しく言った。
「叶わない願いです」
「そうかもしれません」
ネリスの声が震える。
「でも、叶わないからといって、最初から誰かを縛ることに戻っていい理由にはなりません」
「あなたはその結果、消える」
「はい」
ネリスは一瞬だけ目を伏せた。
「怖いです」
ミリアの胸が痛んだ。
「でも」
ネリスは顔を上げた。
「ミリアを、あなたの言葉に渡したくありません」
ユーレナの目が細くなる。
「では、どうしますか。あなたにできることは少ない。あなたは首輪から生まれた。首輪に戻ることだけが、もっとも自然です」
ネリスの体が揺れた。
ミリアは息を止めた。
「ネリス」
声が出た。
かすれた声だった。
「だめ」
ネリスはミリアを見た。
泣きそうな顔ではなかった。
怖がっている顔だった。
それでも、逃げていない顔だった。
「ミリア」
「だめ」
「あなたを助けたい」
「だめ」
「私は、首輪から出てきたものです。なら、戻れば、少しは首輪を内側から抑えられるかもしれない」
「そんなことしたら」
「消えるかもしれません」
ネリスは静かに言った。
「でも、今ここであなたが奪われるよりは」
「だめ!」
ミリアは叫んだ。
首輪が喉を締める。
それでも叫んだ。
「私を助けるために、自分を差し出さないで!」
ネリスの目が揺れた。
「王女さまと同じことになる。イリゼと同じことになる。あなたが自分から首輪に戻ったら、私は」
ミリアは言葉に詰まった。
息が苦しい。
でも、言わなければならない。
「私は、あなたを助けたいって言ったのに」
ネリスの顔が歪んだ。
ユーレナが静かに言う。
「美しいですね。ですが、時間がありません」
彼女の指が首飾りに触れた。
首輪が激しく鳴る。
ちりん、ちりん、ちりん。
ミリアの視界が白くなる。
ユーレナの声が遠くから聞こえる。
「選ばないなら、首輪が選びます」
その瞬間、ネリスが動いた。
白い光が、ミリアの喉へ飛び込む。
「ネリス!」
ミリアは叫んだ。
ネリスの体が、首飾りの輪に吸い込まれていく。
白い髪も、白い衣も、細い手も、すべて光になり、首輪の内側へ戻っていく。森で初めて見た白蛇の姿も、袖の中で眠っていた小さな冷たさも、ミリアを見上げた黒い目も、全部が輪の中へ吸われていく。
最後に、ネリスの声がした。
「ごめん」
「謝らないで!」
「今度は」
声が震える。
「騙すためじゃない」
ミリアは手を伸ばした。
届かない。
白い光が首輪に沈む。
その瞬間、首輪の締めつけが止まった。
ミリアは床に倒れ込み、激しく咳き込んだ。
息が戻る。
喉は焼けるように痛い。
だが、ネリスの姿はどこにもなかった。
袖の中にも。
手の中にも。
床の上にも。
首飾りだけが、ミリアの喉にある。
その白い輪の内側に、細い光が一筋だけ走っていた。
「ネリス」
ミリアは呼んだ。
返事はない。
「ネリス」
もう一度呼んだ。
首輪の奥で、かすかな音がした。
声ではなかった。
けれど、完全な沈黙でもなかった。
ユーレナは少しだけ目を見開いていた。
「自ら戻りましたか」
彼女は呟いた。
「首輪の精が、持ち主を守るために」
ガルナの拘束が破れた。
赤い文字が弾け飛び、彼女の影が禁書庫全体に広がる。
「ユーレナ」
その声は、山鳴りより低かった。
ユーレナは微笑んだ。
「今日はここまでにしましょう」
「逃がすと思うか」
「逃げるのではありません」
彼女の黒い輪が、音もなく広がった。
「契約は、次の場へ移るのです」
黒い輪が彼女の体を包む。
ガルナの影の腕が伸びるが、届く前に、ユーレナの姿は薄れていく。
消える直前、彼女はミリアを見た。
「あなたは、また誰かに救われましたね」
その言葉だけを残して、契約の魔女は消えた。
禁書庫に、紙の匂いと青白い火だけが残った。
*
ミリアは床に座り込んだまま、首飾りを握っていた。
喉が痛い。
胸も痛い。
息はできる。
だが、袖が軽い。
ありえないほど軽い。
「ネリス」
呼んでも、返事はない。
首輪の奥に、かすかな白い光がある。
それだけだった。
ガルナが近づいてきた。
手を伸ばしかけ、止める。
「ミリア」
「戻った」
ミリアは言った。
声が自分のものではないようだった。
「ネリスが、首輪に戻った」
ガルナは何も言わない。
「私を助けるために」
ミリアは首飾りを握りしめた。
「だめって言ったのに」
リュシエラがゆっくり立ち上がった。
彼女も苦しそうだったが、ミリアのそばへ来て膝をついた。
「ミリアさん」
「だめって言った」
ミリアは繰り返した。
「自分を差し出すなって。誰か一人になるなって。言ったのに」
首輪の白い光が、ほんの少しだけ揺れた。
ネリスが聞いているのかもしれない。
聞こえていないのかもしれない。
ミリアにはわからなかった。
ガルナが低く言った。
「取り戻す」
ミリアは顔を上げた。
ガルナの金色の目が燃えていた。
怒りではある。
だが、それだけではない。
「首輪の内側から、ネリスを取り戻す」
「できるの?」
「わからぬ」
ガルナは答えた。
「だが、やる」
ミリアは喉元に触れた。
首輪はまだある。
しかも、そこにネリスが戻ってしまった。
外すだけでは足りない。
渡さないだけでは足りない。
救いたいと願うだけでも足りなかった。
ネリスは、ミリアを守るために自分を差し出した。
それを許してはいけない。
ネリスを責めるためではない。
その行動を、美しい犠牲として終わらせないために。
ミリアはゆっくり立ち上がった。
足が震えたが、倒れなかった。
「ユーレナを探す」
ミリアは言った。
「首輪の内側へ入る方法も探す。ネリスを取り戻す。首輪も外す。誰にも渡さない」
ガルナが少しだけ眉を上げた。
「欲張りだな」
「うん」
ミリアは頷いた。
「欲張りでいい」
首輪が小さく鳴った。
ちりん。
その音の奥に、ほんのわずか、白い蛇が身じろぎするような気配があった。
ミリアは首飾りに触れ、低く言った。
「聞こえてるなら、覚えておいて」
喉が痛む。
でも、言葉は出た。
「今度は、私が迎えに行く」
禁書庫の青い火が、一斉に揺れた。




