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第十一章 欲しいと言ってくれれば

 首輪の内側には、音があった。

 最初に聞こえるのは、息の音だった。

 近くて、遠い。

 喉のすぐそばで鳴っているのに、厚い壁の向こうから聞こえるようでもある。

 吸う。

 止まる。

 また吸う。

 少し痛む。

 それはミリアの息だった。

 ネリスは、暗い輪の中で目を開けた。

 目を開けた、と思った。

 けれど、そこに目があるのかどうかはわからなかった。手も足もない。髪もない。白い蛇の体も、少女の体もない。あるのは、自分がまだ消えていないという、ひどく細い感覚だけだった。

 ここは、知っている場所だった。

 首輪の内側。

 ガルナの喉で、長い年月を過ごした場所。

 怒りと痛みと眠れない夜が、何層にも積もっていた場所。

 誰かを縛るためだけにあった場所。

 けれど、同じではなかった。

 今、首輪の外にいるのはガルナではない。

 ミリアだ。

 ガルナの喉の中は、岩と火と山の匂いがした。

 怒りは熱く、孤独は深く、声はいつも大きかった。罵声も、悲鳴も、沈黙も、山鳴りのように響いた。

 ミリアの喉は違う。

 薬草の匂いがする。

 乾いたパンと、井戸水と、歩きすぎた日の息。

 怒りは鋭く、悲しみは薄く見えて深い。

 そして、優しさがあった。

 ネリスは、その優しさを知っている。

 知っていたから、利用した。

 白い蛇として罠にかかり、助けられ、泣きそうな少女の姿を見せた。

 首飾りが欲しいと言ってほしいと頼んだ。

 みんな助かると、言った。

 あれは嘘だった。

 そして、嘘だけではなかった。

 ガルナを助けたかった。

 自分も首輪から出たかった。

 ミリアにも、たぶん助かってほしかった。

 けれど、ミリアがどう苦しむかを、ちゃんと見なかった。

 見ないまま、選んだ。

 今、ネリスはその喉の内側に戻っている。

 自分がかつてガルナにしていたことを、今度はミリアにしている。

 首輪の内側には、記憶が浮かんでいた。

 リィナの声。

 それがあれば、ここから出られるのかな。

 ロゼリアの声。

 それがあれば、私はまだ価値ある女に見えるかしら。

 イリゼの声。

 私は、器じゃない。

 セレナの声。

 私の剣は、領と民を守るためにある。

 リュシエラの声。

 私一人が国になる契約は、いらない。

 それらの声が、首輪の内側で小さく光っている。

 首輪は、それらを嫌っていた。

 欲しいと言わせたかった。

 譲らせたかった。

 新しい喉へ移りたかった。

 なのに、ミリアは渡さなかった。

 誰にも渡さなかった。

 だから、首輪は飢えている。

 飢えた首輪は、ミリアを締める。

 少しずつ。

 急がずに。

 喉の奥へ根を下ろすように。

 ネリスは、それを内側から感じていた。

 このままでは、ミリアは壊れる。

 すぐに死ぬわけではない。

 だが、首輪は待つことを知っている。持ち主が疲れ、迷い、後悔し、いつか自分から次の誰かを探すようになるまで、待つ。

 ミリアは強い。

 だが、強い人ほど、折れるときは深く折れる。

 ネリスはそれを見たくなかった。

 なら、どうする。

 首輪の奥で、古い言葉が光っていた。

 欲しいと言われること。

 譲られること。

 所有されること。

 役目が決まること。

 そこに、抜け道がある。

 ミリアが首輪に縛られるのではなく、ミリアが首輪を所有する。

 首輪の精であるネリスを、ミリアが欲しいと言う。

 ネリスが、自分を差し出す。

 自分の意志で、ミリアのものになる。

 そうすれば、首輪は少なくとも、ミリアを殺せない。

 所有者を壊せば、所有されたものも壊れる。

 主を殺せば、従うべき先が消える。

 古い契約の理屈は、ひどく冷たい。

 だが、冷たいからこそ隙がある。

 ネリスは、その隙を知っていた。

 知ってしまった。

 ミリアに言えば、きっと怒る。

 拒む。

 傷つく。

 それでも、言わなければならない。

 ネリスは首輪の内側で、かすかな声を作った。

 ミリア。

     *

 王宮の客室で、ミリアは目を覚ました。

 夜だった。

 窓の外には月が出ている。

 丸くはない。まだ輪には少し足りない月だった。薄い雲がかかり、庭の水盤が鈍く光っている。

 部屋には、青白い火が一つだけ灯っていた。

 王宮の客室に置かれた灯火は、禁書庫のものとは違い、普通の油の匂いがした。それでも、今のミリアには、どんな火も少し契約の火に見える。

 ガルナは壁際の椅子で眠っていた。

 眠っていると言っても、目を閉じているだけかもしれない。腕を組み、長い黒髪を肩に落とし、いつでも起き上がれそうな姿勢だった。

 ミリアは、自分の袖口に触れた。

 軽い。

 そこに、ネリスはいない。

 その事実に、胸が冷えた。

 何度目だろう。

 目が覚めるたび、袖の中を確かめようとして、いないことを思い出す。白蛇の冷たい重さ。小さな体が布の内側で動く感覚。それがない。

 代わりに、喉に首輪がある。

 いつもより重い。

 そして、内側で白い細い光が揺れている。

 ネリスはそこにいる。

 いるはずだ。

 完全に消えたわけではない。

「ネリス」

 小さく呼んだ。

 返事はなかった。

 ミリアは首飾りに触れた。

 冷たい。

 だが、ほんの少しだけ、奥に温度がある。

「聞こえてるなら」

 ミリアは囁いた。

「返事して」

 沈黙。

 窓の外で、夜鳥が鳴いた。

 ミリアは唇を噛んだ。

 禁書庫で、ネリスは首輪に戻った。

 自分を助けるために。

 ユーレナの言葉から、首輪の締めつけから、ミリアを守るために。

 だめだと言った。

 自分を差し出すなと言った。

 それでも、ネリスは戻った。

 今度は、騙すためじゃない。

 あの声が、ずっと耳に残っている。

 騙すためではなくても、自分を差し出したことに変わりはない。

 王女と同じだ。

 イリゼと同じだ。

 リィナが家族のために売られようとしたのと同じだ。

 誰かを守るために、自分を首輪へ差し出す。

 それを美しいことにしてはいけない。

 そう思うのに、ネリスが自分を助けようとしたことが、胸の奥で痛いほど嬉しい。

 嬉しいと思ってしまう自分が、嫌だった。

「ミリア」

 声がした。

 ミリアは息を止めた。

 首輪の内側からだった。

 耳で聞いたのではない。

 喉の奥で、声がした。

「ネリス?」

「はい」

 かすかな声だった。

 でも、確かにネリスだった。

 ミリアは思わず首飾りを握った。

「どこにいるの」

「ここに」

「ここって」

「首輪の中です」

 わかっていた。

 でも、言われると胸が痛くなった。

「出られる?」

 少しの沈黙。

「今は、まだ」

 ミリアは目を閉じた。

 まだ、という言葉にすがりたくなった。

 でも、すがればネリスに負担をかける気がした。

「痛い?」

「痛いというより」

 ネリスは言葉を探しているようだった。

「狭いです」

「狭い」

「はい。前は、ここが世界でした。ガルナの喉にいたころは、ここしか知りませんでした。だから狭いと思わなかった。でも、一度外へ出ました。森を見て、道を見て、宿場を見て、あなたの袖の中で眠りました」

 声が少し震えた。

「だから、今は狭いです」

 ミリアは喉を押さえた。

「ごめん」

「あなたが謝ることではありません」

「でも」

「私が戻りました」

「戻らないでって言った」

「はい」

「なのに戻った」

「はい」

「怒ってる」

「はい」

 ネリスは、静かに受け止めた。

 その静けさが、余計に痛かった。

「怒ってるし」

 ミリアは言った。

「怖かった」

「はい」

「今も怖い」

「はい」

「あなたがここで消えたら、私は」

 言葉が止まった。

 首輪が喉を少し締めた。

 言わせまいとしているのか、それともただ反応しただけなのか、わからない。

「ミリア」

 ネリスの声がした。

「お願いがあります」

 ミリアは嫌な予感がした。

「何」

「私を欲しいと言って」

 部屋の空気が止まった。

 ミリアは首飾りから手を離した。

「何を」

「私を欲しいと言ってください」

 ネリスの声は震えている。

 けれど、言葉ははっきりしていた。

「そうすれば、私はあなたのものになります」

「やめて」

 ミリアは即座に言った。

 ガルナが椅子の上で目を開けた。

「どうした」

 ミリアは答えられなかった。

 首輪を押さえたまま、息をしているだけだった。

 ネリスの声は続く。

「あなたが私を欲しいと言えば、首輪の契約は形を変えます。あなたが首輪に縛られるのではなく、あなたが私を所有する。私はあなたのものになる。あなたに従う。あなたが主になる」

「やめて」

「そうすれば、首輪はあなたを殺せません」

「やめて!」

 ミリアの声が大きくなった。

 ガルナが立ち上がる。

「ネリスか」

 ミリアは頷いた。

 声が出なかった。

 ガルナの顔が険しくなる。

「何を言った」

 ミリアは首元を押さえたまま、かすれた声で答えた。

「私に、欲しいと言えって」

 ガルナの目が冷えた。

「ネリス」

 低い声だった。

 首輪の奥で、ネリスがわずかに怯えた気配がした。

「聞こえているな」

「はい」

「それは、古い契約に戻る言葉だ」

「知っています」

 ネリスは答えた。

「知っていて言うか」

「はい」

「愚か者」

 ガルナの声は厳しかった。

 ミリアは反射的に言った。

「ガルナ」

「止めるな」

 ガルナはミリアを見た。

「これは叱らねばならぬ」

 そして、首輪へ向き直るように言った。

「ネリス。おまえはまた、自分を道具にしようとしている」

「はい」

「はい、ではない」

「でも」

 ネリスの声が震えた。

「このままでは、ミリアが壊れます」

「だから自分を差し出すのか」

「私なら、首輪の内側を知っています。ミリアが私を所有すれば、首輪は彼女を持ち主として認める。殺す対象ではなく、主として扱う。少なくとも、ユーレナに奪われるよりは」

「ましだと言うのか」

「はい」

 まし。

 その言葉が、ミリアの胸に突き刺さった。

 何度も聞いた言葉。

 悪い取引ではない。

 ましな選択。

 世界はそうして回る。

 ユーレナの声が蘇る。

 あなたは優しいのではない。選ばないことで、全員を苦しめているだけです。

 ネリスは、その言葉にまだ縛られている。

「ネリス」

 ミリアはやっと言った。

「それ、私を助ける方法じゃない」

「助かります」

「違う」

「あなたは死にません」

「それは、助かるとは違う」

 首輪の奥が静かになった。

 ミリアは喉が痛くなるほど強く言った。

「あなたが私のものになって、私があなたを支配して、それで私が生き残るなら、それは助かったんじゃない。別の首輪を作っただけ」

「でも、私は最初から首輪です」

「違う」

「違いません」

 ネリスの声が、珍しく強くなった。

「私は呪いだよ。首輪から生まれた。誰かを縛るために存在してきた。あなたを騙した。ガルナを縛っていた。外に出ても、私は首輪から離れられなかった」

「知ってる」

「なら」

「知ってるからって、あなたを物にしていい理由にはならない」

 ミリアは、胸の奥から言葉を引きずり出すように続けた。

「あなたが呪いだって知ってる。私を騙したことも知ってる。誰かを縛るために生まれたことも知ってる。でも、あなたが怖いって言ったことも知ってる。生きたいって言ったことも知ってる。袖の中で眠っていたことも、水を飲めなくなっていたことも、泣きそうに笑うのをやめようとしていたことも知ってる」

 首輪が熱くなる。

「それを全部知ってるから、私はあなたを物にできない」

 沈黙。

 ネリスの声が、小さく戻った。

「物ではなく、あなたのものになりたいと言ったら?」

 ミリアの胸が強く痛んだ。

 その言い方は、あまりに危うかった。

 甘く聞こえる。

 愛の告白のように聞こえる。

 あなたのものになりたい。

 あなたに欲しいと言われたい。

 でも、その奥にあるのは所有だ。

 支配だ。

 自分を差し出すことだ。

「それを」

 ミリアは言った。

「愛みたいに言わないで」

 首輪の内側で、ネリスが息を呑む気配がした。

「愛では、ないのですか」

 その問いは、あまりに細かった。

 ミリアは答えられなかった。

 愛。

 その言葉がここで出るとは思っていなかった。

 でも、ずっと近くにあったのかもしれない。

 怒り。

 心配。

 許せなさ。

 見捨てられなさ。

 消えてほしくなさ。

 袖の中の冷たい小さな体を、何度も確かめた夜。

 声が遠くなったときの恐怖。

 首輪に戻ったときの、胸を裂かれるような痛み。

 それらを何と呼ぶのか、ミリアにはわからない。

 けれど、たとえ愛だとしても。

「愛だとしても」

 ミリアは言った。

「所有にしたら、首輪と同じになる」

 ネリスは何も言わない。

「私があなたを欲しいと言ったら、魔法は喜ぶ。首輪は喜ぶ。ユーレナもきっと笑う。ほら、結局みんな欲しがるんだって。誰かを自分のものにしたいんだって」

 ミリアの声が震えた。

「私は、それが嫌なの」

「では」

 ネリスの声も震えていた。

「いらないと言って」

 ミリアは息を止めた。

「私がいらないなら、首輪は私を手放すかもしれません。あなたが私を拒めば、私は首輪の中でほどけます。首輪は少し弱る。あなたは少し楽になる」

「言えるわけない」

「言って」

「言えない」

「言ってください」

「言えない!」

 ミリアは叫んだ。

 喉が痛んだ。

 首輪が締まった。

 それでも、叫んだ。

「欲しいとも言えない。いらないとも言えない。そんな言葉を、私に選ばせないで」

「でも、選ばなければ」

 ネリスの声は泣いていた。

「あなたが苦しむ」

「あなたが消えるよりましだなんて、言いたくない」

「私は、あなたが壊れるより、私が消えるほうがいい」

「そういうことを言わないで!」

 ガルナが静かに立っていた。

 何も言わない。

 言えないのかもしれない。

 この言い合いは、ミリアとネリスのものだった。

 ネリスは、首輪の内側から言った。

「ミリア」

「何」

「あなたは、私を救いたいと言いました」

「言った」

「でも、私はあなたを救いたい」

「それが、自分を差し出すことなら嫌だ」

「あなたも、いつも自分を削って誰かを助けています」

 その言葉に、ミリアは動けなくなった。

 ネリスは続けた。

「リィナさんを助けた。ロゼリアさんを助けた。イリゼさんを助けた。セレナさんを助けた。王女さまを助けた。全部、自分を削っていました」

「同じじゃない」

「同じではありません。でも、似ています」

「似ていても違う」

「では、どこが違うの」

 ミリアは言葉に詰まった。

 どこが違う。

 自分は、自分を削っていたのか。

 ネリスの言う通りなのか。

 誰かを救っているつもりで、自分を殺している。

 以前、ネリスにそう言われた。

 そのときミリアは、ネリスに言い返した。

 じゃあ、あなたは自分が助かるために、私を殺したんだね。

 今、その言葉が自分へ返ってくる。

 誰かを救うために、自分を削ること。

 自分を差し出すこと。

 それはどこまでが選択で、どこからが首輪なのか。

 わからない。

 ミリアは本当に、わからなかった。

「わからない」

 ミリアは言った。

 声が小さくなる。

「わからないけど、でも、あなたに欲しいと言うのは違う。あなたにいらないと言うのも違う」

「では、何と言うのですか」

 ネリスの声は、絶望に近かった。

「私をどうしたいの」

 その問いは、深く刺さった。

 私をどうしたいの。

 欲しいのか。

 いらないのか。

 許したいのか。

 憎みたいのか。

 救いたいのか。

 罰したいのか。

 ミリアは、答えを持っていなかった。

「わからない」

 もう一度、そう言うしかなかった。

 首輪の奥が冷たくなる。

「そうですか」

 ネリスの声が遠くなった。

「ネリス」

「やっぱり、あなたは選べない」

 その言葉は、ユーレナの言葉より痛かった。

 ミリアは息を呑んだ。

「違う」

「違わない」

 ネリスの声は静かだった。

 静かすぎた。

「私を欲しいとは言えない。いらないとも言えない。救いたいと言う。でも、どう救うかはわからない。私は、あなたにまた重荷を増やしているだけです」

「違う」

「ミリア」

「違うって言ってる」

「あなたは優しいです」

 ネリスは言った。

「でも、その優しさの中で、私は宙に吊られている」

 ミリアは言葉を失った。

 宙に吊られている。

 欲しいとも言われず。

 いらないとも言われず。

 許されもせず。

 捨てられもせず。

 救いたいと言われながら、救われる形もわからない。

 それは、たしかに苦しいのかもしれない。

 ミリアの拒絶は、正しいと思っていた。

 所有しないこと。

 見捨てないこと。

 それが首輪に逆らう道だと思っていた。

 でも、ネリスにはそれが、別の宙吊りに見えているのか。

「私は」

 ミリアは言った。

「あなたを苦しめたいわけじゃない」

「知っています」

「でも、苦しめてる?」

 沈黙。

 それが答えだった。

 ミリアは首元に手を当てた。

 首輪は冷たい。

 その奥にネリスがいる。

 近いのに、これまでで一番遠い。

 ガルナがようやく口を開いた。

「二人とも、今はやめろ」

 その声は低かったが、珍しく優しかった。

「このまま話しても、首輪の言葉に絡め取られるだけだ」

「でも」

 ミリアが言うと、ガルナは首を振った。

「言葉が熱を持ちすぎている。今の『欲しい』も『いらない』も、どちらも首輪の餌になる」

 ネリスは答えなかった。

 ガルナはミリアを見た。

「眠れ」

「眠れるわけない」

「横になれ。眠れなくてもよい。喉を休ませろ」

「ネリスが」

「ネリスも休め」

 ガルナは首輪へ向かって言った。

「聞こえているな。逃げるな。消えるな。勝手に結論を出すな」

 しばらくして、ネリスの声がした。

「はい」

 それは、ひどく小さい声だった。

 ミリアはその小ささに胸が痛んだ。

「ネリス」

 呼ぶ。

「はい」

「私は」

 言葉が出てこない。

 欲しいとは言えない。

 いらないとも言えない。

 ごめんとも言えない。

 大丈夫とも言えない。

 ネリスは待っていた。

 ミリアは、結局、何も言えなかった。

 沈黙が落ちる。

 長い沈黙だった。

 やがて、ネリスが言った。

「おやすみなさい」

 その言葉は、扉を閉める音に似ていた。

 ミリアは、返事が遅れた。

「おやすみ」

 返したときには、もう首輪の内側から声はしなかった。

     *

 翌朝、王宮の庭は明るかった。

 鳥が鳴き、水盤には朝日が揺れている。

 王女リュシエラの妹たちが、遠くの回廊を歩いているのが見えた。昨日より少し顔色がよい。彼女たちは侍女に付き添われながら、庭の花を見ていた。

 世界は、何も知らないように朝になる。

 ミリアは窓辺に座ったまま、ほとんど眠れなかった目で庭を見ていた。

 首輪の内側から、ネリスの声はしない。

 呼べば、返事はあるのかもしれない。

 だが、ミリアは呼べなかった。

 呼んで、また「欲しいと言って」と言われたら。

 呼んで、何も返ってこなかったら。

 どちらも怖かった。

 ガルナは椅子に座り、腕を組んでいる。

 こちらも眠っていないようだった。

「ガルナ」

 ミリアは言った。

「私は、間違っていますか」

 ガルナはすぐには答えなかった。

「何についてだ」

「ネリスを欲しいと言わなかったこと」

「間違ってはいない」

 ミリアは少しだけ息を吐いた。

 しかし、ガルナは続けた。

「だが、それだけで正しいわけでもない」

 胸がまた痛んだ。

「そうですよね」

「所有しないことは大事だ。だが、所有しないと言いながら、相手の行き場を宙に吊るすこともある」

「聞いてたんですね」

「聞こえた」

「全部?」

「だいたい」

 ミリアは顔を伏せた。

「恥ずかしい」

「恥ずかしい話ではない」

「じゃあ、何ですか」

「苦しい話だ」

 ガルナは静かに言った。

 ミリアは首飾りに触れた。

「私は、ネリスをどうしたいんだろう」

「それを私に聞くな」

「ですよね」

「だが」

 ガルナは少しだけ視線を窓の外へ向けた。

「おまえは、ネリスを物にしたくない。それは本当だ」

「はい」

「ネリスを消したくない。それも本当だ」

「はい」

「ネリスがしたことを、なかったことにはしたくない。それも本当だ」

「はい」

「本当が三つあると、だいたい人は詰まる」

 ミリアは少しだけ笑いそうになった。

「雑な慰めですね」

「慰めではない。事実だ」

「知ってます」

 沈黙が落ちた。

 ミリアは窓の外を見る。

 王女の妹たちが、花の前で立ち止まっている。一番下の少女が、花を摘もうとして侍女に止められ、頬を膨らませていた。

 あの子たちは、もう王女一人に守られるだけではない。

 少しずつ痛みを知ることになる。

 それでも、知らないまま守られるよりはいいのだと、昨日彼女たちは言った。

 ネリスにも、ミリアだけで決めてはいけない。

 そう思う。

 でも、ネリスが自分を差し出そうとするときは、止めたい。

 どこからが相手の選択で、どこからが自己犠牲なのか。

 ミリアにはわからない。

「古い街へ戻りましょう」

 ミリアは言った。

「禁書庫ではなく?」

「禁書庫にも手がかりはあるかもしれません。でも、ユーレナはここを知っていました。ここで探すと、また向こうの言葉に巻き込まれそうな気がします」

「古い街なら安全だと?」

「安全ではないです」

「だろうな」

「でも、契約が橋だったころの記録があるかもしれない」

 ミリアは首飾りを握った。

「所有でも、拒絶でもない言葉を探したい」

 ガルナは少しだけ目を細めた。

「そんな都合のよい言葉があると思うか」

「わかりません」

「また、それだ」

「でも、探さないと」

 ミリアは言った。

「欲しいとも言えない。いらないとも言えない。なら、その二つ以外の言葉を探すしかない」

 ガルナはしばらく黙っていた。

 それから、立ち上がった。

「行くか」

「はい」

「王女には私から言う」

「言えるんですか、普通に」

「私は最近、人を見る目を鍛えている」

「王女相手にもそれですか」

「便利だからな」

 ミリアはほんの少しだけ笑った。

 笑えたことに、自分で驚いた。

 そのとき、首輪の内側でかすかな音がした。

 声ではない。

 でも、白いものが身じろぎするような気配。

 ネリスが聞いているのかもしれない。

 ミリアは首飾りに手を当てた。

「ネリス」

 呼んだ。

 少し待つ。

 返事はなかった。

 ミリアは目を閉じた。

「欲しいとも、いらないとも、今は言わない」

 喉が痛む。

「でも、探す」

 首輪は冷たい。

「あなたを物にしない言葉を、探す」

 長い沈黙があった。

 返事はなかった。

 けれど、首輪の奥の白い光が、ほんの少しだけ揺れた。

 それが肯定なのか、拒絶なのか、ミリアにはわからない。

 未解決のまま、朝は進んでいく。

 庭の花は明るく、王宮の白い壁は眩しい。

 世界は、答えのない者にも容赦なく光を当てる。

 ミリアは立ち上がった。

 喉には首輪がある。

 その内側に、ネリスがいる。

 近い。

 近すぎる。

 それなのに、今までで一番遠かった。

 ミリアは布で首飾りを隠した。

 隠したところで、重さは消えない。

 それでも、歩くしかなかった。


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