第十二章 ガルナの罪
王宮を出る朝、リュシエラは門まで見送りに来た。
王女は濃い青の外套を羽織っていた。
胸元の赤い紋様は、昨日より薄くなっている。消えたわけではない。けれど、ひとりの体を焼くような光ではなくなっていた。
妹たちは少し離れた回廊にいた。
一番下の少女が手を振った。リュシエラが振り返ると、あわてて手を下ろす。その仕草が普通の子供のようで、ミリアは少しだけ胸が緩んだ。
「古い街へ戻るのですね」
リュシエラが言った。
「はい」
ミリアは答えた。
「禁書庫にも記録はありました。でも、あそこにはユーレナの気配が強すぎます」
「契約の魔女」
「はい」
その名を口にすると、喉の首輪が冷たくなった。
ネリスはそこにいる。
首輪の内側にいる。
昨夜から声はほとんど聞こえない。
欲しいと言って。
いらないと言って。
その言葉が、まだミリアの喉の奥に残っている。
どちらも言えなかった。
言ってはいけないと思った。
けれど、言わないことがネリスを宙に吊るしているのだと、ネリスは言った。
その痛みが、ずっとある。
「ミリアさん」
リュシエラは静かに言った。
「ネリスさんを、取り戻せますように」
ミリアは少しだけ首飾りに触れた。
「はい」
「もし王家の記録が必要なら、いつでも使者を送ってください。王家も、もう知らないふりはできません」
「ありがとうございます」
リュシエラはガルナへ視線を向けた。
「ガルナ」
ガルナは面倒そうに片眉を上げた。
「何だ」
「あなたの山について、王宮に残る記録を調べます」
ガルナの表情が少し変わった。
「今さら何を調べる」
「王家が何をしたのかです」
リュシエラは言った。
「山魔鎮定という言葉で隠されてきたことを、そのままにはしておけません」
ガルナはしばらく黙っていた。
朝の光が、王宮の白い壁を照らしている。
その光の中で、ガルナの喉の黒い痕はいつもよりはっきり見えた。
「調べて、何になる」
ガルナの声は低かった。
「山は戻らぬ。切られた木も、曲げられた川も、死んだ者も戻らぬ」
「戻りません」
リュシエラは答えた。
「でも、戻らないからといって、何があったのかを隠し続けてよい理由にはなりません」
ガルナは王女を見た。
「王族らしくないことを言う」
「最近、王族らしいことに少し疑いを持っています」
リュシエラはかすかに微笑んだ。
ガルナはふん、と鼻を鳴らした。
「好きにしろ」
「はい」
それは許可ではない。
けれど、拒絶でもなかった。
ミリアたちは王宮を出た。
白い門を抜け、王都の石畳を歩き、やがて古い街へ向かう馬車に乗る。王宮からの使者が馬車を用意してくれたが、ミリアは柔らかい座席に座るたび、落ち着かなくなった。
袖の中は軽い。
その軽さに、まだ慣れない。
ネリスがいない。
いや、いる。
喉にいる。
近すぎる場所にいるのに、どこよりも遠い。
ミリアは首飾りに触れた。
「ネリス」
呼んでみる。
返事はなかった。
ガルナは向かいの席に座っている。
いつもなら窓の外を見るか、腕を組んで黙っているところだが、この日はずっとミリアの首元を見ていた。
「何ですか」
ミリアが聞くと、ガルナは目を逸らさずに言った。
「ネリスは返事をしないのか」
「しません」
「昨夜からか」
「はい」
「そうか」
それだけだった。
ミリアは少し苛立った。
「もっと何か言ってください」
「何を」
「わかりません。でも、そうか、だけだと」
「不安か」
あっさり言われて、ミリアは黙った。
不安だった。
怖かった。
怒ってもいた。
「怖いです」
ミリアは小さく言った。
ネリスが言ったように、自分も言ってみることにした。
大丈夫ではないなら、大丈夫ではないと言う。
「ネリスが、奥へ行ってしまった気がします」
「首輪の内側か」
「はい」
ミリアは首飾りを押さえた。
「昨日は声が聞こえた。でも、今はほとんど何もない。呼べば聞こえているのかもしれないけど、返事がない」
ガルナは黙っていた。
「私が、欲しいともいらないとも言わなかったからでしょうか」
「違う」
「でも」
「違う」
ガルナの声が少し強くなった。
ミリアは顔を上げた。
「おまえが言わなかったから、ネリスが奥へ沈んだのではない。首輪がそうした。ユーレナがそう仕向けた。ネリス自身も、また自分を押し込めた」
「ネリス自身も」
「ああ」
ガルナは自分の喉の痕に触れた。
「ネリスは、昔からそうだった。痛む者の近くにいると、自分が痛みの形になろうとする。私が怒れば、怒りを覚えた。私が苦しめば、苦しみを覚えた。私が自由になりたいと思えば、自由になりたいと思った。そして、自分が何かを望むたび、その望みごと首輪の中へ戻ろうとした」
「どうして」
「そう作られたからだ」
ガルナは苦く言った。
「誰かの役目を形にするもの。誰かの痛みを受けるもの。誰かを縛るもの。首輪はそういうものだ。ネリスはそこから生まれた」
ミリアは首飾りを握った。
「でも、ネリスはそれだけじゃない」
「そうだ」
ガルナはすぐに答えた。
「それだけではない」
その言い方が、ミリアには少し意外だった。
ガルナは窓の外を見た。
王都の白い壁が少しずつ遠ざかっていく。
「私は、それを認めるのが遅かった」
ガルナの声は低かった。
「ネリスは、私を縛るものだった。私の喉で声を真似、痛みを聞き、ときどき私を見上げた。私はずっと、あれを首輪だと思おうとした。憎む相手として、楽だったからな」
「楽?」
「相手がただの呪いなら、憎める。砕ける。消えても構わぬと思える」
ガルナは目を細めた。
「だが、あれはだんだん、私の痛みに返事をするようになった。痛いの、と聞いた。外へ出たい、と言った。私が眠れぬ夜に、黙って喉の近くで丸まっていた」
ミリアは何も言えなかった。
「そのころから私は、ネリスを首輪だけとは思えなくなった。だが、そう認めると、困る」
「困る?」
「私は首輪から自由になりたかった。首輪を憎みたかった。首輪の精まで憎みたかった。だが、ネリスをただ憎めなくなった」
ガルナは自分の手を見た。
「だから私は、都合よく考えた。ネリスも自由になりたい。私も自由になりたい。なら、次の者へ移すしかない。そうすれば、私たちは助かる」
ミリアの胸が冷えた。
「私を選んだ」
「そうだ」
「ネリスだけじゃなくて、ガルナも」
「そうだ」
ガルナは逃げなかった。
「私は、ネリスが白蛇としておまえに近づくのを止めなかった。ネリスに行かせた。おまえが首飾りを欲しいと言うように仕向けた」
「仕方なかったと思っていたんですか」
ミリアは聞いた。
声は冷たくなっていた。
ガルナは少しだけ目を伏せた。
「思っていた」
短い答えだった。
「私は縛られていた。長く、長く。山から切り離され、声を奪われ、喉に輪をかけられた。私を縛った者たちが悪い。人間が悪い。王が悪い。契約術師が悪い。首輪が悪い」
ガルナの声は静かだった。
だからこそ、重かった。
「だから、私は自由になる権利があると思った」
ミリアは首飾りを握った。
「そのために、私を縛っても?」
「そうだ」
ガルナは答えた。
「そう思っていた」
馬車の中に、車輪の音だけが響いた。
ミリアは怒っていいはずだった。
叫んでいい。
責めていい。
あなたのせいだと言っていい。
それなのに、言葉がすぐには出てこなかった。
ガルナが被害者だったことを、もう知っている。
山を奪われ、首輪をかけられ、長い時間を縛られていた。
でも、それでも。
ミリアの喉にある首輪は、今もここにある。
「被害者だったことは」
ミリアはゆっくり言った。
「私を犠牲にしていい理由にはなりません」
「ならない」
ガルナは答えた。
「今は、そう思うんですか」
「ああ」
「どうして」
ガルナはしばらく黙った。
馬車の窓から、王都の外の畑が見えている。
夏の終わりのような光が、麦の刈り跡を照らしていた。
「おまえを見ていたからだ」
ガルナは言った。
「私を?」
「おまえは首輪を外したがっている。自由になりたがっている。当然だ。だが、誰かに渡さない。リィナにも、ロゼリアにも、イリゼにも、セレナにも、王女にも渡さなかった」
「渡せなかっただけです」
「それでも渡さなかった」
ガルナは言った。
「そして、ネリスまで救おうとしている」
ミリアは黙った。
「ネリスはおまえを騙した。私と同じように、おまえを犠牲にした。それでも、おまえはネリスを消したくないと言った。欲しいとも、いらないとも言わず、別の言葉を探すと言った」
「まだ見つかってません」
「見つかっていなくても、探している」
ガルナは自分の喉の痕に触れた。
「私は探さなかった」
その声は、とても静かだった。
「私は、私を縛った者たちと同じ道を選んだ。苦しい者がいる。なら、その苦しみを誰かの首にかければよい。私ではない誰かへ移せばよい。役目を決めれば、世界は回る。そう考えた」
ミリアは息を止めた。
ガルナはミリアを見た。
「私は自由になったのではない」
その目には、逃げがなかった。
「私を縛った者たちと同じことをしただけだった」
馬車の中が静まり返った。
ミリアは言葉を探した。
責めたい。
責めるべきだ。
それでも、その言葉を聞いてしまうと、胸の中にあった怒りの形が少し変わる。
軽くはならない。
消えもしない。
ただ、置き場所が変わる。
「それを」
ミリアは言った。
「私に言って、どうしたいんですか」
「許してほしいわけではない」
「なら」
「同じ側に立ちたい」
ガルナは言った。
ミリアは驚いて、彼女を見た。
「都合がいいですね」
「そうだ」
ガルナは認めた。
「私は都合がいい。首輪から逃げ、おまえに押しつけ、今度は同じ側に立ちたいと言っている」
「わかっているんですか」
「わかっている」
「なら、どうして」
「それでも、そうしなければまた逃げる」
ガルナの声が低くなる。
「私は強い。魔力もある。力で解決できることは多い。だから、力で済むことに逃げやすい。殴る。壊す。脅す。焼く。差し出す。それで片がついたような顔をする」
ミリアは、山の祭壇でのガルナを思い出した。
黒い輪を掴み、痛いと言いながら笑っていたガルナ。
王宮で、ユーレナを殴ろうとして契約に止められたガルナ。
「私は、私の魔力を差し出す」
ガルナは言った。
ミリアは身を硬くした。
「また、それですか」
「違う」
「何が違うんですか。王女さまと同じじゃないですか。ネリスと同じじゃないですか」
「違うと言いたいが、似ている」
ガルナは苦く笑った。
「だから、見張れ」
「見張る?」
「私が自分を犠牲にして美しい顔をしようとしたら、止めろ」
ミリアは言葉に詰まった。
ガルナは真剣だった。
「私の魔力だけでは首輪は外れぬ。外れるなら、とっくに外していた。何百年も喉に巻かれていたのだ。力で砕けるなら、私は爪で裂き、火で焼き、岩で潰していた」
「では、魔力を差し出しても」
「外れぬ」
「なら、何のために」
「首輪を少しだけ満たす」
ミリアの喉が冷たくなった。
「満たす?」
「飢えた首輪は、ミリアを締め、ネリスを奥へ沈める。なら、私の魔力を食わせる。首輪はもともと私に長く馴染んでいた。私の魔力なら受け取るだろう」
「それで、ネリスは?」
「少しは浮かび上がるかもしれぬ」
「かもしれない」
「かもしれない、だ」
ガルナははっきり言った。
「外れはしない。解決もしない。私も弱る。首輪がさらに私の魔力の味を思い出し、何か悪い反応をするかもしれぬ」
「危ないじゃないですか」
「危ない」
「それでも?」
「それでも」
ガルナはミリアを見た。
「これは、私が首輪へ戻ることではない。おまえへ首輪を渡させた代わりに、今度はおまえの喉を少しでも軽くするために使う。償いとは言わぬ。そんな綺麗な言葉にする気はない。ただ、私がやるべきことだ」
ミリアは首飾りに触れた。
ネリスの声はしない。
でも、奥に白い光がいる。
「ネリスが反対するかもしれません」
「するだろうな」
「自分のためにガルナが弱るのは嫌だって」
「言いそうだ」
「私も嫌です」
「だろうな」
「なのに、どうして」
ガルナは少しだけ困ったような顔をした。
ガルナが困る顔は珍しい。
「ミリア」
「はい」
「同じ側に立つというのは、たぶん、誰かが何かを差し出すのを全部止めることではない」
ミリアは黙った。
「何も差し出さずに済むなら、それがよい。だが、生きていれば、力も時間も言葉も痛みも、誰かへ渡すことはある。問題は、それを一人に押しつけることだ。相手の首にかけることだ。渡したあと、なかったことにすることだ」
ガルナは自分の手を見た。
「私は、おまえに押しつけた。ネリスも押しつけた。だから今度は、押しつけずに出す」
「そんなこと、できるんですか」
「わからぬ」
ガルナは答えた。
「だから、おまえにも見ていてほしい。ネリスにも聞いていてほしい。これは、私が一人で首を差し出すことではないと」
ミリアは長く黙った。
ガルナは待っていた。
ミリアは首飾りに手を置く。
「ネリス」
呼んだ。
返事はない。
「聞こえてるかどうかわからないけど、聞いて」
首輪の奥で、白い光がかすかに揺れた気がした。
「ガルナが、自分の魔力を首輪に渡すと言ってる。私は、怖い。ガルナがまた一人で背負うことになるのも怖いし、首輪が何かするのも怖い」
ミリアは言葉を区切った。
「でも、ネリスを少しでもこちらへ戻せるなら、試したい」
白い光が、また揺れた。
「これは、あなたを物にするためじゃない。あなたを私のものにするためでも、ガルナの罪をなかったことにするためでもない」
ミリアはガルナを見た。
「三人で決めることにしたい」
ガルナが小さく頷いた。
首輪の内側から、かすかな音がした。
声ではない。
けれど、ネリスが何かを聞いている気配だった。
*
古い街へ着いたのは、その日の夕方だった。
崩れた石壁は、前に来たときよりも寂しく見えた。
尖塔の影が長く伸び、風が空の窓を鳴らしている。契約術師たちの学都だった場所。橋だった契約が、鎖へ変わっていった場所。
三人は記録庫ではなく、街の中央にある円形の講堂へ向かった。
そこは、古い契約の実習場だったとガルナが言った。
床には円形の溝が刻まれ、中心には石の台がある。かつて術師たちはここで、精霊や土地や人との契約を学んだのだろう。
今は天井が半分落ち、空が見えている。
夕暮れの赤い光が、床の円を照らしていた。
「ここなら、王宮よりましだ」
ガルナが言った。
「ユーレナの気配は?」
「ある」
「あるんですか」
「どこにでもある。契約の古い場所ならな。だが、王宮ほど濃くはない」
ミリアはため息をついた。
「まし、ですね」
「ああ。ましだ」
その言葉に、二人とも少しだけ苦い顔をした。
まし。
ユーレナが使ったような冷たい言葉にもなる。
でも、今の彼女たちに完全な答えはない。
ましなほうを、首輪の餌にしないように選ぶしかない。
ミリアは円の中心に立った。
首飾りを布から出す。
白い輪が夕暮れに光った。
首輪の奥には、細い白い光がある。
ネリス。
ガルナはミリアの前に立った。
「始めるぞ」
「どうすれば」
「おまえは何もしなくてよい」
「それが嫌です」
ミリアはすぐに言った。
ガルナは一瞬、黙った。
それから、少し笑った。
「そう言うと思った」
「何もしないで受けるだけは嫌です」
「では、見ていろ」
「それだけ?」
「見て、止めろ。私がやりすぎたら」
ミリアは頷いた。
「わかりました」
ガルナは自分の喉に触れた。
黒い痕が、夕暮れの中で赤く浮かぶ。
「ネリス」
ガルナが首輪へ向かって言った。
「聞こえているか」
しばらく沈黙があった。
首輪の奥で、白い光がかすかに震えた。
「返事はできぬか」
ガルナの声は、いつもより少しだけ低かった。
「なら、聞いていろ」
彼女は目を閉じた。
「私は、おまえをずっと首輪だと思っていた。私を縛るものだと。実際、そうだった。おまえは私を縛った。私の喉にいて、私の力を止め、私の声を真似た」
ミリアは黙って聞いていた。
「だが、おまえはそれだけではなかった」
ガルナの声が、石の講堂に響く。
「私はそれを知っていた。知っていながら、知らないふりをした。首輪だけ憎んでいれば楽だったからだ。おまえが外へ出たいと願っていることも、痛みを覚えていることも、本当は見えていた」
首輪の奥の光が、少し強くなった。
「それでも私は、おまえにミリアを選ばせた」
ガルナはミリアを見た。
「いや、違う。おまえだけに選ばせたのではない。私も選んだ」
ミリアは息を呑んだ。
「私は、自由になりたかった。何としても。だから、ミリアを犠牲にした。おまえだけの罪ではない」
首輪が低く鳴った。
ちりん。
それは痛みを伴わない音だった。
「私は自由になったのではない」
ガルナは言った。
「私を縛った者たちと同じことをしただけだった」
その言葉が、講堂の円に落ちる。
空から差す夕陽が、少し暗くなったように見えた。
ガルナは自分の胸に手を当てた。
「だから、今、私の魔力を渡す」
ミリアは身を硬くした。
ガルナは続けた。
「首輪を外すためではない。罪を消すためではない。私がいい者になるためでもない。ネリスをこちらへ浮かばせるために。ミリアの喉を少しでも軽くするために。そして、私が逃げずにここにいるために」
彼女の体から、黒金色の光が立ち上がった。
山の気配だった。
木の根。
岩の熱。
深い水脈。
獣の息。
霧の重さ。
雷の前の空気。
ガルナがかつて山そのものに近かったことが、ミリアにもわかった。
その魔力が、彼女の掌に集まる。
「待って」
ミリアは言った。
ガルナが目を開ける。
「怖くなったか」
「怖いです」
「やめるか」
ミリアは首飾りに触れた。
ネリスの白い光が、奥で揺れている。
「やめません。でも、一つだけ」
「何だ」
「ガルナだけが差し出す形にはしたくない」
ガルナは眉を寄せた。
「おまえに魔力はないだろう」
「ありません」
「では何を出す」
「言葉」
ミリアは言った。
自分でも頼りないと思った。
でも、それしかなかった。
「言葉か」
「契約は言葉で動くんでしょう。なら、言葉を出します」
「何と言う」
「まだわかりません」
「おまえは本当に、わからぬまま進むな」
「はい」
ミリアは首飾りに触れた。
「ネリス」
呼ぶ。
返事はない。
「欲しいとは言わない。いらないとも言わない。あなたを私のものにもしないし、消えていいとも言わない」
首輪が冷たくなる。
でも、ミリアは続けた。
「でも、戻ってきてほしい」
言った瞬間、首輪が強く鳴った。
ちりん。
ガルナの魔力が、ミリアの首飾りへゆっくり流れ込んだ。
熱い。
だが、焼けるような熱ではない。
山の地面に手を置いたときのような、深い熱だった。
首輪がその魔力を吸う。
ミリアの喉が締まった。
息が苦しい。
ガルナの顔も歪む。
魔力を奪われているのだ。
「ガルナ」
「まだだ」
「無理しないで」
「無理はしている」
「してるんですか」
「だが、まだ止めるな」
ガルナの額に汗が浮かぶ。
人の姿をした彼女の背後に、巨大な山の影が揺れていた。
首輪の奥で、白い光が強くなる。
ミリアはその光を見た。
ネリス。
声がした気がした。
遠くで。
とても遠くで。
ミリア。
ミリアは息を吸った。
「ネリス!」
呼ぶ。
白い光が揺れる。
ガルナの魔力がさらに流れ込む。
首輪が飢えた獣のようにそれを食う。喉の痛みが増す。ミリアは膝をつきそうになった。
そのとき、首輪の奥から、かすかな声が聞こえた。
「やめて」
ネリスだった。
ミリアは目を見開いた。
「ネリス」
「ガルナが」
声は遠い。
「弱る」
ガルナが歯を食いしばった。
「今さら優しいことを言うな」
「だめ」
ネリスの声が震える。
「私のために、また誰かが」
「一人ではない」
ミリアは叫ぶように言った。
「一人じゃない。ガルナだけがやってるんじゃない。私もいる。あなたもいる。聞こえてるなら、あなたもここにいて」
「でも」
「でも、じゃない」
ミリアは首飾りを握った。
「あなたが勝手に首輪の中へ戻ったこと、まだ怒ってる。すごく怒ってる。でも、今はそこから戻ってきて。怒る相手が遠すぎる」
白い光が震えた。
ガルナが低く笑った。
「よい言い方だ」
「笑わないでください」
「怒るために戻ってこい、か」
「そうです」
ミリアは喉の痛みに耐えながら言った。
「許すためじゃない。所有するためじゃない。消えてもらうためじゃない。怒るためでもいいから、戻ってきて」
首輪が激しく鳴った。
ちりん、ちりん、ちりん。
魔力の流れが乱れる。
ガルナの膝が折れかけた。
「止めて!」
ミリアは叫んだ。
ガルナは手を離した。
黒金色の光が途切れる。
講堂に静けさが戻った。
ミリアはその場に膝をついた。
喉が焼けるように痛む。息をするだけで、首輪が内側から響く。
ガルナも片膝をついていた。
顔色が悪い。人の姿になってから初めて見るほど、疲れていた。
「大丈夫ですか」
ミリアが聞くと、ガルナは口元を歪めた。
「大丈夫ではない」
「よし」
「またそれか」
「ちゃんと言ったから」
ガルナは少しだけ笑った。
それから、深く息を吐いた。
「外れたか」
「いいえ」
ミリアは首飾りに触れた。
首輪はある。
相変わらず喉に巻きついている。
少しも外れていない。
だが。
「ネリス」
ミリアは呼んだ。
長い沈黙。
それから、とても小さな声がした。
「はい」
ミリアは目を閉じた。
声はまだ遠い。
でも、昨日より近い。
「聞こえる」
「はい」
「戻れる?」
「まだ」
ネリスの声は弱かった。
「でも、さっきより、近いです」
ミリアは首飾りを握りしめた。
「よかった」
「よくありません」
ネリスの声に、少しだけ怒りがあった。
「ガルナが、あんなに」
「怒ってる?」
ミリアが聞くと、首輪の内側で沈黙があった。
「怒っています」
ネリスは言った。
「勝手に魔力を差し出して」
ガルナが苦笑した。
「おまえにだけは言われたくない」
「はい」
ネリスの声が少し震える。
「だから、言います。私も同じことをしました。だから、ガルナにもしてほしくない」
ガルナは黙った。
ミリアは、二人の間にある長い時間を感じた。
縛るものと、縛られたもの。
呪いと、魔物。
加害者と、被害者。
そして、長すぎる時間の中で、ただそれだけではなくなってしまった二人。
「ガルナ」
ネリスの声が言った。
「私は、あなたに謝るべきでした」
ガルナは顔を上げた。
「今さらか」
「はい」
「遅いな」
「はい」
「だが、聞く」
首輪の奥で、ネリスの気配が揺れた。
「私は、あなたを縛っていました。私の意思ではなかったとしても、あなたを苦しめていました。あなたの声を真似て、あなたの力を止め、あなたの喉にいました」
「そうだ」
「ごめんなさい」
ガルナはしばらく何も言わなかった。
風が講堂を抜けた。
落ちた天井の隙間から、夜になりかけた空が見える。
「許すとは言わぬ」
ガルナは言った。
「はい」
「だが、おまえがただの首輪ではなかったことは、もう知っている」
ネリスは返事をしなかった。
それでも、首輪の奥の白い光が少しだけ揺れた。
ミリアはその光を見つめた。
自分も、言わなければならないことがある気がした。
「ネリス」
「はい」
「私も、謝ることがある」
ガルナが少しだけ眉を上げた。
ネリスの声が戸惑う。
「あなたが、ですか」
「うん」
ミリアは首飾りに触れた。
「あなたを宙に吊った」
首輪の内側が静かになる。
「欲しいとも言えなかった。いらないとも言えなかった。それは間違っていないと思ってる。でも、そのまま、あなたがどこに立てばいいのかを一緒に探す前に、私はただ拒んだ。あなたが怖がっていることを、ちゃんと見てなかった」
「ミリア」
「だから、謝る」
ミリアは言った。
「ごめん」
ネリスはすぐには答えなかった。
ミリアは待った。
待つしかなかった。
やがて、首輪の奥から、細い声がした。
「受け取ります」
その言葉に、ミリアの胸が少しだけ震えた。
許す、ではない。
受け取る。
それで十分だった。
ガルナが、ゆっくり立ち上がろうとした。
ふらついたので、ミリアは手を伸ばした。
ガルナは一瞬その手を見た。
それから、素直に取った。
重かった。
魔物の手だった。
熱く、傷だらけで、力を失ってもまだ強い手。
ミリアはその手を引いた。
「大丈夫ではないんですよね」
「大丈夫ではない」
「なら、肩を貸します」
「私は重いぞ」
「知ってます」
「潰れるかもしれぬ」
「脅さないでください」
ガルナは少しだけ笑った。
そのとき、首輪の奥でネリスが言った。
「私も」
「何?」
ミリアが聞く。
「私も、そちらへ戻ったら」
声は弱い。
「肩を貸します」
ミリアは思わず笑った。
「蛇の肩ってどこ」
少しの沈黙。
「……ありません」
ガルナが低く笑った。
ミリアも笑った。
短い笑いだった。
涙が出そうな笑いだった。
首輪は外れていない。
ネリスはまだ内側にいる。
ガルナは魔力を失ってふらついている。
ユーレナはどこかでこちらを見ているだろう。
何も解決していない。
それでも、今、三人は同じ円の中にいた。
誰か一人が背負うためではなく。
誰か一人を所有するためでもなく。
誰か一人を消すためでもなく。
同じ側に立つために。
ミリアはガルナの腕を支え、首輪に手を添えた。
「行こう」
小さく言った。
「どこへ」
ガルナが聞く。
「記録庫へ。橋だったころの契約を探す」
「まだ探すか」
「探します」
ミリアは首飾りの奥の白い光に向かって言った。
「欲しいでも、いらないでもない言葉を」
ネリスの声が、かすかに返った。
「はい」
今度は、少しだけ近かった。
夜の古い街に、風が吹いた。
崩れた講堂の円を、細い月の光が照らしている。
輪にはまだ足りない月だった。
けれど、その欠けた光の中で、三人の影は初めて、同じ方向へ伸びていた。




