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第十三章 首輪の墓場

 記録庫の奥に、その地図はあった。

 紙ではなかった。

 薄い石板だった。

 表面には、山脈と川と古い街道が刻まれている。文字はほとんど摩耗していたが、ガルナには一部が読めた。ミリアには線と点にしか見えないものを、彼女は指でなぞりながら、低く読み上げた。

「契約谷」

「谷?」

「古い呼び名だ。今の地図には載っていないだろう」

 ガルナの指が、山と王都のちょうど間にある深い線で止まった。

「人間と魔物、精霊、土地の神、王家、神殿。そういうものが最初に契約を交わした場所らしい」

「最初に」

 ミリアは首飾りに触れた。

 首輪は静かだった。

 静かすぎた。

 古い街の講堂で、ガルナが魔力を注いでから――。

首輪の奥にある白い光は、ほんの少しだけ近くなった。ネリスの声も、かすかに届くようになった。

 けれど、それは戻ったというほどではない。

 声はまだ遠い。

 姿はない。

 袖の中は軽いままだ。

 時折、首輪の内側から、白い蛇が眠りの中で身じろぎするような気配がする。それだけで、ミリアは息をつなぐように一日を越えている。

「その谷に何があるんですか」

 ミリアが聞くと、ガルナは石板の隅に刻まれた小さな輪の印を指した。

「契約具の廃棄場だ」

「廃棄場?」

「壊れた契約具、役目を終えた輪、砕けた誓約鎖、古い血石、花嫁の冠、聖女の腕輪。そういうものを埋めた場所だ」

 ミリアは息を呑んだ。

「首輪も?」

「おそらく」

 ガルナは石板から顔を上げた。

「首輪の墓場だな」

 その言葉で、首飾りが小さく鳴った。

 ちりん。

 ミリアは喉元を押さえる。

「反応した」

「嫌がっているのか、呼ばれているのか」

 ガルナが言った。

「どちらにしても、行くしかなさそうだ」

 首輪の内側から、かすかな声がした。

「そこに」

 ネリスの声だった。

 ミリアは体を硬くする。

「ネリス?」

「そこに、あるかもしれません」

「何が」

 少しの沈黙。

 声が途切れかける。

「欲しいでも、いらないでもない言葉」

 ミリアは首飾りを握った。

「聞こえてたんだ」

「聞こえていました」

 声は遠い。

 でも、あった。

「全部?」

「少しずつ」

「なら、話してよ」

「声にすると、ほどけそうで」

 ミリアは息を止めた。

「ごめんなさい」

「謝らないで」

 反射的に言ってから、ミリアは少しだけ苦笑した。

 何度このやりとりを繰り返しているのだろう。

 ガルナが石板を見下ろしたまま言った。

「ネリス。そこに何がある」

「覚えていません」

「覚えていない?」

「でも、知っています」

 ネリスの声は、首輪の奥で震えた。

「首輪が、そこを知っています。たくさんの契約具が眠っている場所。使われ、壊れ、忘れられたものたちの場所」

「墓場だな」

「はい」

 ネリスは言った。

「そして、たぶん、首輪はそこへ戻りたくありません」

 首飾りが、もう一度鳴った。

 今度は、ひどく低い音だった。

     *

 契約谷へは、古い街から丸一日歩いた。

 ガルナはまだ本調子ではなかった。

 魔力を差し出した影響で、ときどき足が遅くなる。本人は大丈夫ではないと言えるようになったものの、それは別に無理をしないという意味ではなかった。

「少し休みましょう」

 ミリアが言うと、ガルナは眉をひそめる。

「必要ない」

「大丈夫ではないんですよね」

「大丈夫ではないが、歩ける」

「それ、ネリスと同じ言い方です」

 ガルナは黙った。

 効いたらしい。

 結局、ミリアたちは道端の岩陰で休むことになった。

 谷へ向かう道は、使われなくなって久しいようだった。石畳は草に埋まり、標識の柱は折れている。だが、道そのものは不思議とはっきり残っていた。誰かが今も、ときどきここを通っているように。

 あるいは、道が自分で残っているのかもしれない。

 契約の場所へ続く道。

 人が忘れても、言葉が覚えている道。

 ミリアはそんなことを考えた。

 首輪は静かだった。

 だが、首の奥がずっと重い。近づくにつれ、空気そのものが細い鎖になって、喉に絡んでくるようだった。

「ネリス」

 呼ぶ。

 しばらくして、かすかな声が返った。

「はい」

「苦しい?」

「少し」

「少しじゃないでしょう」

「……かなり」

「よし」

 ミリアは小さく頷いた。

 ガルナが横で呆れたように言う。

「それで満足するのか」

「ちゃんと言ったので」

「妙な教育をしているな」

「ガルナも対象です」

「知っている」

 ミリアは首飾りに触れた。

「ネリス、谷に近づくほど苦しいの?」

「苦しいというより、引かれます」

「引かれる?」

「首輪の奥へ」

 ミリアの指が止まった。

「墓場が近いから?」

「はい。たくさんの終わった契約が眠っています。首輪は、そこに触れたくない。でも、私のほうは……」

 声が途切れた。

「私のほうは?」

「眠りたくなります」

 ミリアの胸が冷えた。

「だめ」

「はい」

「今のは、だめ」

「わかっています」

「わかってない。眠りたくなるって、そういう意味でしょう」

 ネリスは答えなかった。

 ミリアは首飾りを両手で握った。

「ネリス」

「はい」

「眠らないで」

「努力します」

「努力じゃなくて」

 言いかけて、止まる。

 命令したくなかった。

 消えるな。

 戻ってこい。

 眠るな。

 言いたい。

 けれど、命令の形になってしまう。

 ミリアは唇を噛んだ。

「眠りそうになったら、呼んで」

 言い直した。

「私が呼ぶから。何度でも」

 首輪の奥で、小さな白い光が揺れた気がした。

「はい」

 ガルナが立ち上がった。

「行くぞ。日が沈む前に谷へ降りる」

「夜は危ないですか」

「危ない」

「いつも危ないじゃないですか」

「ここは、少し違う」

 ガルナは谷の方角を見た。

「眠っているものが多すぎる。夜になると、眠ったまま喋る」

「怖いです」

「私も嫌だ」

 ガルナが普通に言ったので、ミリアは少し驚いた。

「嫌なんですか」

「嫌だ」

「ガルナにも嫌な場所があるんですね」

「ある」

 ガルナは自分の喉の痕に触れた。

「ここは、私に似たものが多すぎる」

     *

 契約谷は、二つの山の間に口を開けていた。

 遠くから見ると、ただの深い裂け目だった。

 だが、近づくにつれ、その裂け目の両側に無数の石柱が立っているのが見えた。倒れているもの。折れているもの。苔に覆われたもの。どれも古く、文字が刻まれている。

 谷へ降りる階段は、白い石でできていた。

 白鐘の神殿の石に似ている。

 王宮の玉座にも似ている。

 ガルナを縛った祭壇の石にも似ている。

 同じ石なのかもしれない。

 ミリアがそう思った瞬間、首輪が鳴った。

 ちりん。

 ネリスの声が、首輪の奥でかすかに震えた。

「ここです」

 谷の底には、廃神殿があった。

 神殿と呼べるほど整ってはいない。

 壁は半分崩れ、屋根はなく、柱だけが空へ向かって立っている。中心には円形の祭壇があり、その周りに、壊れた契約具が置かれていた。

 いや、置かれていたというより、積もっていた。

 輪。

 鎖。

 冠。

 腕輪。

 短剣。

 指輪。

 首飾り。

 木札。

 石板。

 血の染みた布。

 名前の消えた誓約書。

 それらが、灰色の土の上に無数に積もっている。

 壊れた首輪があった。

 真っ二つに割れたもの。

 錆びて赤黒くなったもの。

 半分だけ石になったもの。

 小さな子供の首にしか合わないようなもの。

 巨人の首にも大きすぎるもの。

 誓約の鎖があった。

 青黒い光を失い、ただの鉄のように横たわっている。ところどころに騎士の名が刻まれていた。誰かに忠誠を誓った者たちの鎖。

 花嫁の冠があった。

 金細工の美しい冠。

 だが、内側には小さな棘がびっしりと並んでいる。身につければ、額から血が滲むだろう。家と家を結ぶための冠。

 聖女の腕輪があった。

 白く、清らかに見える。

 けれど、触れる前から、ミリアの指先が痛んだ。誰かの病や穢れを受けるための腕輪。

 血石の欠片があった。

 赤黒く、乾いた心臓のように見える。王家の契約に使われたものだろうか。

 そして、黒く焼けた大きな輪があった。

 ガルナが足を止めた。

 それは、彼女の喉に巻かれていた首輪ではない。

 もうミリアの喉へ移っているから、ここにあるはずがない。

 それでも、似ていた。

 大きな輪。

 魔物を縛るためのもの。

 山や川や獣の怒りを、一つの喉へ閉じ込めるもの。

 ガルナの顔から表情が消えた。

「ここは」

 ミリアは囁いた。

「全部、首輪みたい」

「そうだ」

 ガルナは答えた。

「形が違うだけだ」

 ミリアは一歩、祭壇へ近づいた。

 足元に、割れた鏡のようなものがあった。

 拾おうとすると、ガルナが止めた。

「触るな」

「まだ力が?」

「死んだものでも、噛むことがある」

 ミリアは手を引いた。

 死んだ契約具たち。

 その言葉が浮かんだ。

 ここにあるものは、使われたのだ。

 誰かを縛り、誰かに役目を押しつけ、誰かを救い、誰かを壊し、そして役目を終えた。

 壊れたからここにある。

 でも、壊れるまでには、どれほどの人がこれらを身につけたのだろう。

 リィナの首。

 ロゼリアの額。

 イリゼの腕。

 セレナの喉。

 リュシエラの胸。

 ガルナの喉。

 ミリアの喉。

 全部、同じ仕組みだった。

 誰か一人に、役目を押しつける。

「私は」

 ミリアは言った。

「旅をしていたと思っていました」

 ガルナがこちらを見る。

「首輪を外す方法を探して、次の町へ行って、次の人に会って。そのたびに、その人の問題だと思っていた」

 売られる娘。

 婚約破棄された令嬢。

 搾取される聖女。

 忠誠に縛られた女騎士。

 国を背負う王女。

「でも、全部同じだったんですね」

 ミリアの声は震えた。

「違う形の首輪だった」

 谷の底に風が吹いた。

 壊れた鎖がかすかに鳴る。

 ちり、と。

 ミリアの首飾りも、それに応えるように鳴った。

 ちりん。

 ネリスが首輪の奥で身を震わせる。

「ミリア」

「大丈夫?」

「大丈夫ではありません」

「うん」

「でも、聞いてください」

 ネリスの声は、弱い。

 でも、急いでいた。

「ここは、首輪の記憶に近いです。首輪の呪いは、ここから何度も更新されていたのだと思います」

「更新?」

「持ち主が変わるたびに。誰かが欲しいと言い、誰かが譲るたびに。新しい恐怖と後悔を食べるたびに、首輪はここに眠る古い契約具たちと繋がって、力を取り戻した」

 ミリアは喉元を押さえた。

「私は一度も渡さなかった」

「はい」

「だから」

「首輪は、弱っています」

 ネリスの声がかすれる。

「本当に、弱っています。ガルナの魔力で一時的に満たされました。でも、それは更新ではありません。新しい犠牲者の恐怖でも、後悔でもない。首輪にとっては、食べ慣れた古い魔力です」

 ガルナが眉をひそめる。

「つまり、腹の足しにはなったが、若返りはしなかったということか」

「たぶん」

 ネリスは言った。

「首輪は、もう飢えています。弱っています。ここへ来たことで、それがはっきりわかります」

 ミリアは首飾りを握った。

 弱っている。

 それは、望んでいたことのはずだった。

 首輪が弱れば、いつか外れるかもしれない。

 誰にも渡さず、首輪の力を尽きさせれば、呪いは終わるかもしれない。

 でも。

「ネリスは」

 ミリアは聞いた。

「あなたは?」

 長い沈黙があった。

 谷の風が、壊れた冠を鳴らす。

 やがて、ネリスの声がした。

「私も、弱っています」

 知っていた。

 でも、聞きたくなかった。

「首輪が弱るということは、首輪から生まれた私も弱るということです。ここへ来て、はっきりしました」

「どのくらい」

 ミリアの声は掠れた。

「わかりません」

「ネリス」

「本当に、わからないのです」

 ネリスの声が震える。

「でも、このままなら、首輪が外れるより先に、私がほどけます」

 ミリアは息ができなくなった。

 首輪が締めたのではない。

 自分で息を止めたのだ。

 ガルナの顔も険しくなった。

「首輪が外れるより先に、か」

「はい」

「外れたあとではなく」

「外れる前です」

 ネリスは言った。

「首輪は、最後まで自分を保とうとします。私を内側へ戻し、使い、食べ、薄くしてでも、自分の形を保つ。首輪が壊れるころには、私のほうが先になくなっている」

 ミリアは首飾りを両手で押さえた。

「だめ」

 小さな声だった。

「だめだよ」

 首輪の奥で、白い光が揺れる。

「ミリア」

「だめ」

「まだ、方法がないとは」

「だめって言ってる」

 ミリアの声が強くなる。

「首輪が外れる前にあなたが消えるなら、それは解決じゃない。そんなの、首輪が最後にあなたを食べて終わるだけじゃない」

 ガルナが低く言った。

「確かに、虫のいい終わり方だな。首輪にとっては」

 ミリアは祭壇の周りを見た。

 壊れた契約具。

 役目を終えた輪。

 忘れられた冠。

 名前を失った鎖。

 ここには、終わったものが集まっている。

 でも、終わるまでに消えた人たちの声は、どこへ行ったのだろう。

「ここには」

 ミリアは言った。

「使われた人たちの声は残っていないんですか」

 ガルナが黙った。

 ネリスの声がした。

「残っています」

 ミリアは目を上げた。

「どこに」

「契約具の内側に。壊れた輪の奥に。言葉の底に」

「聞ける?」

 首輪の奥で、ネリスがためらった気配がした。

「聞かないほうが」

「聞く」

 ミリアは言った。

 ガルナがこちらを見る。

「ミリア」

「聞きます」

 ミリアは祭壇の中央に立った。

「ここまで来て、見ないふりはできない」

 首輪が冷たくなる。

 ネリスの声が遠くなった。

「たくさんあります。全部を聞くと、あなたが」

「全部じゃなくていい」

 ミリアは首飾りに触れた。

「少しでいい。何がここに眠っているのか、知りたい」

 ガルナが一歩近づいた。

「なら、私も聞く」

「ガルナ」

「私も同じ仕組みで縛られた。聞く権利があるとは言わぬ。だが、聞く責任はある」

 ミリアは頷いた。

 ネリスはしばらく黙っていた。

 そして、首輪の奥で、白い光が静かに広がった。

 谷の空気が変わった。

 壊れた契約具たちが、薄く光り始める。

 最初に聞こえたのは、女の声だった。

 私は、この家に嫁ぎます。

 私の名を捨てます。

 私の子は、夫の家のものになります。

 私の願いは、家の繁栄のあとに置きます。

 花嫁の冠が、かすかに光った。

 次に、少年の声。

 私は、この剣を主に捧げます。

 この腕は命令に従います。

 この足は逃げません。

 この口は疑いを言いません。

 誓約の鎖が鳴った。

 少女の声。

 私は、病を受けます。

 穢れを受けます。

 町の痛みを、この体に受けます。

 清らかであることを、やめません。

 聖女の腕輪が白く光った。

 老いた男の声。

 私は王の血に従います。

 私の土地は王のもの。

 私の川は王のもの。

 私の息子もまた、王のもの。

 血石の欠片が赤く瞬いた。

 魔物の声。

 人ではない声。

 獣に近く、風に近い声。

 私は森を守る。

 私は川を守る。

 だが、私を縛るなら、私の怒りもおまえたちのものになる。

 割れた大きな輪が、低く唸った。

 声は重なった。

 いくつも。

 いくつも。

 差し出します。

 引き受けます。

 従います。

 守ります。

 捧げます。

 欲しいと言われました。

 欲しいと言いました。

 差し上げようと言われました。

 差し上げました。

 ミリアは耳を塞ぎたくなった。

 だが、声は耳ではなく喉に入ってくる。

 首輪を通して。

 ネリスの小さな悲鳴が混じった。

 ミリアは首飾りを握る。

「もういい」

 声が止まらない。

 それらは、聞いてほしかったのだ。

 長い間、ここで壊れたまま、誰にも聞かれずに眠っていた。

 ガルナがミリアの肩に手を置いた。

「ミリア、戻れ」

「戻りたい」

「なら戻れ」

「声が」

「全部を聞くな。一人で聞くな」

 その言葉に、ミリアは息を吸った。

 一人で聞くな。

 そうだ。

 これも、一人で背負ってはいけない。

 ミリアは首飾りに触れ、言った。

「ネリス」

 声が重なり続ける中で、ネリスの気配が遠くにある。

「一人で通さないで」

 白い光が震えた。

「あなたが全部、私に聞かせようとしてる。違う。あなたも聞いて。ガルナも聞く。私も聞く。誰か一人を声の器にしないで」

 声の洪水が、少しだけ乱れた。

 ガルナが、肩に置いた手に力を込めた。

「聞いている」

 彼女は言った。

「私も聞いている。花嫁の声も、騎士の声も、聖女の声も、王の声も、魔物の声も。私だけではない。ミリアだけではない。ネリスだけでもない」

 首輪の奥で、ネリスがかすかに息をした。

「はい」

 その瞬間、声の重なりが少しずつほどけた。

 完全には消えない。

 だが、ミリア一人の喉へ流れ込むのではなく、谷の風へ散っていくようになった。

 壊れた契約具たちの光が、ひとつずつ弱まる。

 花嫁の冠。

 誓約の鎖。

 聖女の腕輪。

 血石。

 魔物の輪。

 声は、谷そのものへ戻っていった。

 ミリアはその場に膝をついた。

 喉が痛い。

 頭も痛い。

 だが、息はできる。

 ガルナも深く息を吐いた。

「危なかったな」

「危なかったなら、早く止めてください」

「止めようとした」

「もっと強く」

「強く止めたら、おまえは怒る」

「怒ります」

「面倒だな」

「知ってます」

 いつものやりとりができたことに、ミリアは少しだけ救われた。

 首輪の奥で、ネリスの声がした。

「ごめんなさい」

「何に」

「私も、声を一人で通そうとしました」

「気づいたならいい」

 ミリアは言った。

「でも、もうしないで」

「はい」

 声は弱い。

 それでも、少しだけ近かった。

 ミリアは祭壇を見た。

 そこに、黒い円が刻まれている。

 最初はただの模様だと思った。

 だが、壊れた契約具たちの光が消えたあと、その円だけが残っていた。祭壇の中心に刻まれた、黒い輪。

 首輪に似ている。

 だが、もっと古い。

 ガルナもそれに気づいた。

「心臓だな」

「心臓?」

「首輪の呪いの、古い心臓」

 ガルナは祭壇の円を見下ろした。

「ここから、契約具たちは力を得たのだろう。いや、違うな。ここへ、力を戻していたのかもしれぬ。誰か一人が役目を背負うたびに、その痛みがここへ戻る。ここがそれを蓄え、また新しい契約具へ流す」

「だから、墓場なのに心臓」

「そうだ」

 ガルナの声は低い。

「死んだ契約具たちの墓場であり、次の首輪を生む心臓だ」

 ミリアはぞっとした。

 ここに眠るものは終わったものではない。

 終わったふりをして、次の誰かを縛る力になっていた。

 誰かの痛みは、ここで忘れられるのではなく、再利用されていたのだ。

「ユーレナは」

 ミリアは言った。

「ここを知っている」

「当然だろうな」

「ここを守っている?」

「守っているというより、使っている」

 ガルナは答えた。

 首輪が、低く鳴った。

 ちりん。

 ミリアは喉元を押さえる。

 その音は、前より弱い。

 はっきりわかるほど弱い。

 首輪は弱っている。

 でも、ネリスも弱っている。

「どうすればいいの」

 ミリアは祭壇の黒い円を見つめた。

 壊したい。

 こんな心臓は壊したい。

 だが、壊せば何が起きるのか。

 首輪も消えるのか。

 ネリスも消えるのか。

 それとも、ここに眠る声が全部あふれ出すのか。

 わからない。

 また、わからない。

 そのとき、祭壇の黒い円に、細い亀裂が入った。

 ミリアは息を呑んだ。

「何」

 ガルナが一歩前へ出る。

 亀裂から、黒い光が漏れた。

 王宮の血石から現れた、あの黒い輪と同じ気配だった。

 よく来た。

 声がした。

 言葉ではない。

 意味だけが、喉に入ってくる。

 ミリアは首飾りを押さえた。

 首輪の奥でネリスが震える。

 ガルナの喉の痕が赤く光った。

 よくここまで弱らせた。

 よくここまで飢えさせた。

 よくここまで、更新を拒んだ。

 黒い光は、祭壇の円の奥でゆっくり渦を巻いている。

 ならば、もうすぐ終わる。

 首輪も。

 首輪の精も。

 おまえの迷いも。

 ミリアは歯を食いしばった。

「終わらせ方は、私が決める」

 黒い光が揺れた。

 決められると思うのか。

「思う」

 声が震えた。

 でも、言った。

「私は、あなたの言う通りにはしない」

 ガルナが隣に立つ。

「私もだ」

 首輪の奥で、ネリスの声がした。

「私も」

 弱い。

 とても弱い。

 それでも、三つの声が揃った。

 黒い円の奥から、笑いのようなものが響いた。

 では、来るがいい。

 首輪の心臓へ。

 そして見届けよ。

 誰か一人に役目を押しつけずに、世界が回るものか。

 黒い光が消えた。

 祭壇には、亀裂の入った黒い円だけが残っている。

 谷は静かだった。

 だが、その静けさは、嵐の前のようだった。

     *

 その夜、三人は谷の外れで火を焚いた。

 谷の底では眠れなかった。

 壊れた契約具たちの声は静まったが、まだ土の下に残っている。そこに寝れば、夢の中で誰かの誓いを飲み込んでしまいそうだった。

 ガルナは火のそばで黙っていた。

 顔色は悪い。魔力を差し出した疲れも、谷で聞いた声の重さも、彼女には効いているようだった。

 ミリアも疲れていた。

 けれど、眠るのが怖かった。

 ネリスの声がまた遠くなるのではないか。

 眠っている間に、首輪の内側で白い光が消えてしまうのではないか。

 何度も首飾りに触れる。

 そのたびに、かすかな気配がある。

 まだいる。

 まだ消えていない。

「ネリス」

 呼ぶ。

「はい」

 返事はある。

 でも、弱い。

「寝てる?」

「少し」

「起こした?」

「起きていました」

「嘘?」

「少し」

 ミリアは苦く笑った。

「嘘を少しにしないで」

「はい」

「怖い?」

 首輪の奥で、沈黙があった。

「怖いです」

 ネリスは言った。

「とても」

 ミリアは目を閉じた。

「私も怖い」

「はい」

「でも、聞いて」

「はい」

「このまま首輪が弱って、あなたが消えるのは、私は嫌だ」

「はい」

「でも、首輪を誰かに渡してあなたを生かすのも嫌だ」

「はい」

「だから、また別の言葉を探す」

 少しの沈黙。

「見つかるでしょうか」

「わからない」

「はい」

「でも、今日わかったことがある」

 ミリアは谷の方角を見た。

「首輪は、ただの首輪じゃない。世界の仕組みの心臓みたいなものだった。誰か一人へ役目を集める仕組み。その古い心臓」

「はい」

「なら、私一人の喉の問題じゃない」

 ミリアは首飾りに触れた。

「でも、あなた一人の命の問題でもある」

 ネリスは黙った。

「大きすぎるものと、小さすぎるものが、同じ輪の中にある」

 世界の仕組み。

 ネリスの命。

 どちらも重い。

 どちらも、見ないふりはできない。

 ガルナが火に枝を足した。

「だからこそ、三人で行く」

 彼女は言った。

「首輪の心臓へ」

「行くんですね」

 ミリアが聞くと、ガルナは頷いた。

「行かなければ、ユーレナが来る。あるいは、首輪が先にネリスを食う」

「嫌な二択」

「だから三つ目を作る」

 ガルナは火を見た。

「おまえの得意なやつだ」

「得意ではありません」

「だが、いつもやっている」

 ミリアは少しだけ笑った。

「いつも苦しんでます」

「知っている」

 首輪の奥で、ネリスが小さく言った。

「私も、行きます」

 ミリアは喉元に触れた。

「一緒にね」

「はい」

「一人で先に行かないで」

「はい」

「首輪の奥へ勝手に沈まないで」

「……努力します」

「そこは、はい」

 ネリスの声に、かすかな笑いが混じった。

「はい」

 その小さな笑いだけで、ミリアの胸は少しだけ温かくなった。

 首輪はまだ外れない。

 呪いは弱っている。

 ネリスも弱っている。

 墓場の心臓は、こちらを呼んでいる。

 終わりが近づいている。

 でも、その終わりを首輪に決めさせるつもりはなかった。

 ミリアは火の向こうに広がる暗い谷を見た。

 そこには、壊れた首輪たちが眠っている。

 壊れた誓いが眠っている。

 美しい犠牲と呼ばれたものたちが、名前を失って眠っている。

 その声を、もう一度聞くことになるのだろう。

 だが、今度は一人では聞かない。

 ミリアは首飾りに手を置き、ガルナの横顔を見た。

 三人で行く。

 そう思ったとき、首輪が小さく鳴った。

 ちりん。

 その音は、もう勝ち誇ってはいなかった。

 弱く、苛立ち、焦っている音だった。

 ミリアは静かに言った。

「あなたも、怖いんだね」

 首輪は答えなかった。

 谷の奥で、風が壊れた鎖を鳴らした。


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