第十三章 首輪の墓場
記録庫の奥に、その地図はあった。
紙ではなかった。
薄い石板だった。
表面には、山脈と川と古い街道が刻まれている。文字はほとんど摩耗していたが、ガルナには一部が読めた。ミリアには線と点にしか見えないものを、彼女は指でなぞりながら、低く読み上げた。
「契約谷」
「谷?」
「古い呼び名だ。今の地図には載っていないだろう」
ガルナの指が、山と王都のちょうど間にある深い線で止まった。
「人間と魔物、精霊、土地の神、王家、神殿。そういうものが最初に契約を交わした場所らしい」
「最初に」
ミリアは首飾りに触れた。
首輪は静かだった。
静かすぎた。
古い街の講堂で、ガルナが魔力を注いでから――。
首輪の奥にある白い光は、ほんの少しだけ近くなった。ネリスの声も、かすかに届くようになった。
けれど、それは戻ったというほどではない。
声はまだ遠い。
姿はない。
袖の中は軽いままだ。
時折、首輪の内側から、白い蛇が眠りの中で身じろぎするような気配がする。それだけで、ミリアは息をつなぐように一日を越えている。
「その谷に何があるんですか」
ミリアが聞くと、ガルナは石板の隅に刻まれた小さな輪の印を指した。
「契約具の廃棄場だ」
「廃棄場?」
「壊れた契約具、役目を終えた輪、砕けた誓約鎖、古い血石、花嫁の冠、聖女の腕輪。そういうものを埋めた場所だ」
ミリアは息を呑んだ。
「首輪も?」
「おそらく」
ガルナは石板から顔を上げた。
「首輪の墓場だな」
その言葉で、首飾りが小さく鳴った。
ちりん。
ミリアは喉元を押さえる。
「反応した」
「嫌がっているのか、呼ばれているのか」
ガルナが言った。
「どちらにしても、行くしかなさそうだ」
首輪の内側から、かすかな声がした。
「そこに」
ネリスの声だった。
ミリアは体を硬くする。
「ネリス?」
「そこに、あるかもしれません」
「何が」
少しの沈黙。
声が途切れかける。
「欲しいでも、いらないでもない言葉」
ミリアは首飾りを握った。
「聞こえてたんだ」
「聞こえていました」
声は遠い。
でも、あった。
「全部?」
「少しずつ」
「なら、話してよ」
「声にすると、ほどけそうで」
ミリアは息を止めた。
「ごめんなさい」
「謝らないで」
反射的に言ってから、ミリアは少しだけ苦笑した。
何度このやりとりを繰り返しているのだろう。
ガルナが石板を見下ろしたまま言った。
「ネリス。そこに何がある」
「覚えていません」
「覚えていない?」
「でも、知っています」
ネリスの声は、首輪の奥で震えた。
「首輪が、そこを知っています。たくさんの契約具が眠っている場所。使われ、壊れ、忘れられたものたちの場所」
「墓場だな」
「はい」
ネリスは言った。
「そして、たぶん、首輪はそこへ戻りたくありません」
首飾りが、もう一度鳴った。
今度は、ひどく低い音だった。
*
契約谷へは、古い街から丸一日歩いた。
ガルナはまだ本調子ではなかった。
魔力を差し出した影響で、ときどき足が遅くなる。本人は大丈夫ではないと言えるようになったものの、それは別に無理をしないという意味ではなかった。
「少し休みましょう」
ミリアが言うと、ガルナは眉をひそめる。
「必要ない」
「大丈夫ではないんですよね」
「大丈夫ではないが、歩ける」
「それ、ネリスと同じ言い方です」
ガルナは黙った。
効いたらしい。
結局、ミリアたちは道端の岩陰で休むことになった。
谷へ向かう道は、使われなくなって久しいようだった。石畳は草に埋まり、標識の柱は折れている。だが、道そのものは不思議とはっきり残っていた。誰かが今も、ときどきここを通っているように。
あるいは、道が自分で残っているのかもしれない。
契約の場所へ続く道。
人が忘れても、言葉が覚えている道。
ミリアはそんなことを考えた。
首輪は静かだった。
だが、首の奥がずっと重い。近づくにつれ、空気そのものが細い鎖になって、喉に絡んでくるようだった。
「ネリス」
呼ぶ。
しばらくして、かすかな声が返った。
「はい」
「苦しい?」
「少し」
「少しじゃないでしょう」
「……かなり」
「よし」
ミリアは小さく頷いた。
ガルナが横で呆れたように言う。
「それで満足するのか」
「ちゃんと言ったので」
「妙な教育をしているな」
「ガルナも対象です」
「知っている」
ミリアは首飾りに触れた。
「ネリス、谷に近づくほど苦しいの?」
「苦しいというより、引かれます」
「引かれる?」
「首輪の奥へ」
ミリアの指が止まった。
「墓場が近いから?」
「はい。たくさんの終わった契約が眠っています。首輪は、そこに触れたくない。でも、私のほうは……」
声が途切れた。
「私のほうは?」
「眠りたくなります」
ミリアの胸が冷えた。
「だめ」
「はい」
「今のは、だめ」
「わかっています」
「わかってない。眠りたくなるって、そういう意味でしょう」
ネリスは答えなかった。
ミリアは首飾りを両手で握った。
「ネリス」
「はい」
「眠らないで」
「努力します」
「努力じゃなくて」
言いかけて、止まる。
命令したくなかった。
消えるな。
戻ってこい。
眠るな。
言いたい。
けれど、命令の形になってしまう。
ミリアは唇を噛んだ。
「眠りそうになったら、呼んで」
言い直した。
「私が呼ぶから。何度でも」
首輪の奥で、小さな白い光が揺れた気がした。
「はい」
ガルナが立ち上がった。
「行くぞ。日が沈む前に谷へ降りる」
「夜は危ないですか」
「危ない」
「いつも危ないじゃないですか」
「ここは、少し違う」
ガルナは谷の方角を見た。
「眠っているものが多すぎる。夜になると、眠ったまま喋る」
「怖いです」
「私も嫌だ」
ガルナが普通に言ったので、ミリアは少し驚いた。
「嫌なんですか」
「嫌だ」
「ガルナにも嫌な場所があるんですね」
「ある」
ガルナは自分の喉の痕に触れた。
「ここは、私に似たものが多すぎる」
*
契約谷は、二つの山の間に口を開けていた。
遠くから見ると、ただの深い裂け目だった。
だが、近づくにつれ、その裂け目の両側に無数の石柱が立っているのが見えた。倒れているもの。折れているもの。苔に覆われたもの。どれも古く、文字が刻まれている。
谷へ降りる階段は、白い石でできていた。
白鐘の神殿の石に似ている。
王宮の玉座にも似ている。
ガルナを縛った祭壇の石にも似ている。
同じ石なのかもしれない。
ミリアがそう思った瞬間、首輪が鳴った。
ちりん。
ネリスの声が、首輪の奥でかすかに震えた。
「ここです」
谷の底には、廃神殿があった。
神殿と呼べるほど整ってはいない。
壁は半分崩れ、屋根はなく、柱だけが空へ向かって立っている。中心には円形の祭壇があり、その周りに、壊れた契約具が置かれていた。
いや、置かれていたというより、積もっていた。
輪。
鎖。
冠。
腕輪。
短剣。
指輪。
首飾り。
木札。
石板。
血の染みた布。
名前の消えた誓約書。
それらが、灰色の土の上に無数に積もっている。
壊れた首輪があった。
真っ二つに割れたもの。
錆びて赤黒くなったもの。
半分だけ石になったもの。
小さな子供の首にしか合わないようなもの。
巨人の首にも大きすぎるもの。
誓約の鎖があった。
青黒い光を失い、ただの鉄のように横たわっている。ところどころに騎士の名が刻まれていた。誰かに忠誠を誓った者たちの鎖。
花嫁の冠があった。
金細工の美しい冠。
だが、内側には小さな棘がびっしりと並んでいる。身につければ、額から血が滲むだろう。家と家を結ぶための冠。
聖女の腕輪があった。
白く、清らかに見える。
けれど、触れる前から、ミリアの指先が痛んだ。誰かの病や穢れを受けるための腕輪。
血石の欠片があった。
赤黒く、乾いた心臓のように見える。王家の契約に使われたものだろうか。
そして、黒く焼けた大きな輪があった。
ガルナが足を止めた。
それは、彼女の喉に巻かれていた首輪ではない。
もうミリアの喉へ移っているから、ここにあるはずがない。
それでも、似ていた。
大きな輪。
魔物を縛るためのもの。
山や川や獣の怒りを、一つの喉へ閉じ込めるもの。
ガルナの顔から表情が消えた。
「ここは」
ミリアは囁いた。
「全部、首輪みたい」
「そうだ」
ガルナは答えた。
「形が違うだけだ」
ミリアは一歩、祭壇へ近づいた。
足元に、割れた鏡のようなものがあった。
拾おうとすると、ガルナが止めた。
「触るな」
「まだ力が?」
「死んだものでも、噛むことがある」
ミリアは手を引いた。
死んだ契約具たち。
その言葉が浮かんだ。
ここにあるものは、使われたのだ。
誰かを縛り、誰かに役目を押しつけ、誰かを救い、誰かを壊し、そして役目を終えた。
壊れたからここにある。
でも、壊れるまでには、どれほどの人がこれらを身につけたのだろう。
リィナの首。
ロゼリアの額。
イリゼの腕。
セレナの喉。
リュシエラの胸。
ガルナの喉。
ミリアの喉。
全部、同じ仕組みだった。
誰か一人に、役目を押しつける。
「私は」
ミリアは言った。
「旅をしていたと思っていました」
ガルナがこちらを見る。
「首輪を外す方法を探して、次の町へ行って、次の人に会って。そのたびに、その人の問題だと思っていた」
売られる娘。
婚約破棄された令嬢。
搾取される聖女。
忠誠に縛られた女騎士。
国を背負う王女。
「でも、全部同じだったんですね」
ミリアの声は震えた。
「違う形の首輪だった」
谷の底に風が吹いた。
壊れた鎖がかすかに鳴る。
ちり、と。
ミリアの首飾りも、それに応えるように鳴った。
ちりん。
ネリスが首輪の奥で身を震わせる。
「ミリア」
「大丈夫?」
「大丈夫ではありません」
「うん」
「でも、聞いてください」
ネリスの声は、弱い。
でも、急いでいた。
「ここは、首輪の記憶に近いです。首輪の呪いは、ここから何度も更新されていたのだと思います」
「更新?」
「持ち主が変わるたびに。誰かが欲しいと言い、誰かが譲るたびに。新しい恐怖と後悔を食べるたびに、首輪はここに眠る古い契約具たちと繋がって、力を取り戻した」
ミリアは喉元を押さえた。
「私は一度も渡さなかった」
「はい」
「だから」
「首輪は、弱っています」
ネリスの声がかすれる。
「本当に、弱っています。ガルナの魔力で一時的に満たされました。でも、それは更新ではありません。新しい犠牲者の恐怖でも、後悔でもない。首輪にとっては、食べ慣れた古い魔力です」
ガルナが眉をひそめる。
「つまり、腹の足しにはなったが、若返りはしなかったということか」
「たぶん」
ネリスは言った。
「首輪は、もう飢えています。弱っています。ここへ来たことで、それがはっきりわかります」
ミリアは首飾りを握った。
弱っている。
それは、望んでいたことのはずだった。
首輪が弱れば、いつか外れるかもしれない。
誰にも渡さず、首輪の力を尽きさせれば、呪いは終わるかもしれない。
でも。
「ネリスは」
ミリアは聞いた。
「あなたは?」
長い沈黙があった。
谷の風が、壊れた冠を鳴らす。
やがて、ネリスの声がした。
「私も、弱っています」
知っていた。
でも、聞きたくなかった。
「首輪が弱るということは、首輪から生まれた私も弱るということです。ここへ来て、はっきりしました」
「どのくらい」
ミリアの声は掠れた。
「わかりません」
「ネリス」
「本当に、わからないのです」
ネリスの声が震える。
「でも、このままなら、首輪が外れるより先に、私がほどけます」
ミリアは息ができなくなった。
首輪が締めたのではない。
自分で息を止めたのだ。
ガルナの顔も険しくなった。
「首輪が外れるより先に、か」
「はい」
「外れたあとではなく」
「外れる前です」
ネリスは言った。
「首輪は、最後まで自分を保とうとします。私を内側へ戻し、使い、食べ、薄くしてでも、自分の形を保つ。首輪が壊れるころには、私のほうが先になくなっている」
ミリアは首飾りを両手で押さえた。
「だめ」
小さな声だった。
「だめだよ」
首輪の奥で、白い光が揺れる。
「ミリア」
「だめ」
「まだ、方法がないとは」
「だめって言ってる」
ミリアの声が強くなる。
「首輪が外れる前にあなたが消えるなら、それは解決じゃない。そんなの、首輪が最後にあなたを食べて終わるだけじゃない」
ガルナが低く言った。
「確かに、虫のいい終わり方だな。首輪にとっては」
ミリアは祭壇の周りを見た。
壊れた契約具。
役目を終えた輪。
忘れられた冠。
名前を失った鎖。
ここには、終わったものが集まっている。
でも、終わるまでに消えた人たちの声は、どこへ行ったのだろう。
「ここには」
ミリアは言った。
「使われた人たちの声は残っていないんですか」
ガルナが黙った。
ネリスの声がした。
「残っています」
ミリアは目を上げた。
「どこに」
「契約具の内側に。壊れた輪の奥に。言葉の底に」
「聞ける?」
首輪の奥で、ネリスがためらった気配がした。
「聞かないほうが」
「聞く」
ミリアは言った。
ガルナがこちらを見る。
「ミリア」
「聞きます」
ミリアは祭壇の中央に立った。
「ここまで来て、見ないふりはできない」
首輪が冷たくなる。
ネリスの声が遠くなった。
「たくさんあります。全部を聞くと、あなたが」
「全部じゃなくていい」
ミリアは首飾りに触れた。
「少しでいい。何がここに眠っているのか、知りたい」
ガルナが一歩近づいた。
「なら、私も聞く」
「ガルナ」
「私も同じ仕組みで縛られた。聞く権利があるとは言わぬ。だが、聞く責任はある」
ミリアは頷いた。
ネリスはしばらく黙っていた。
そして、首輪の奥で、白い光が静かに広がった。
谷の空気が変わった。
壊れた契約具たちが、薄く光り始める。
最初に聞こえたのは、女の声だった。
私は、この家に嫁ぎます。
私の名を捨てます。
私の子は、夫の家のものになります。
私の願いは、家の繁栄のあとに置きます。
花嫁の冠が、かすかに光った。
次に、少年の声。
私は、この剣を主に捧げます。
この腕は命令に従います。
この足は逃げません。
この口は疑いを言いません。
誓約の鎖が鳴った。
少女の声。
私は、病を受けます。
穢れを受けます。
町の痛みを、この体に受けます。
清らかであることを、やめません。
聖女の腕輪が白く光った。
老いた男の声。
私は王の血に従います。
私の土地は王のもの。
私の川は王のもの。
私の息子もまた、王のもの。
血石の欠片が赤く瞬いた。
魔物の声。
人ではない声。
獣に近く、風に近い声。
私は森を守る。
私は川を守る。
だが、私を縛るなら、私の怒りもおまえたちのものになる。
割れた大きな輪が、低く唸った。
声は重なった。
いくつも。
いくつも。
差し出します。
引き受けます。
従います。
守ります。
捧げます。
欲しいと言われました。
欲しいと言いました。
差し上げようと言われました。
差し上げました。
ミリアは耳を塞ぎたくなった。
だが、声は耳ではなく喉に入ってくる。
首輪を通して。
ネリスの小さな悲鳴が混じった。
ミリアは首飾りを握る。
「もういい」
声が止まらない。
それらは、聞いてほしかったのだ。
長い間、ここで壊れたまま、誰にも聞かれずに眠っていた。
ガルナがミリアの肩に手を置いた。
「ミリア、戻れ」
「戻りたい」
「なら戻れ」
「声が」
「全部を聞くな。一人で聞くな」
その言葉に、ミリアは息を吸った。
一人で聞くな。
そうだ。
これも、一人で背負ってはいけない。
ミリアは首飾りに触れ、言った。
「ネリス」
声が重なり続ける中で、ネリスの気配が遠くにある。
「一人で通さないで」
白い光が震えた。
「あなたが全部、私に聞かせようとしてる。違う。あなたも聞いて。ガルナも聞く。私も聞く。誰か一人を声の器にしないで」
声の洪水が、少しだけ乱れた。
ガルナが、肩に置いた手に力を込めた。
「聞いている」
彼女は言った。
「私も聞いている。花嫁の声も、騎士の声も、聖女の声も、王の声も、魔物の声も。私だけではない。ミリアだけではない。ネリスだけでもない」
首輪の奥で、ネリスがかすかに息をした。
「はい」
その瞬間、声の重なりが少しずつほどけた。
完全には消えない。
だが、ミリア一人の喉へ流れ込むのではなく、谷の風へ散っていくようになった。
壊れた契約具たちの光が、ひとつずつ弱まる。
花嫁の冠。
誓約の鎖。
聖女の腕輪。
血石。
魔物の輪。
声は、谷そのものへ戻っていった。
ミリアはその場に膝をついた。
喉が痛い。
頭も痛い。
だが、息はできる。
ガルナも深く息を吐いた。
「危なかったな」
「危なかったなら、早く止めてください」
「止めようとした」
「もっと強く」
「強く止めたら、おまえは怒る」
「怒ります」
「面倒だな」
「知ってます」
いつものやりとりができたことに、ミリアは少しだけ救われた。
首輪の奥で、ネリスの声がした。
「ごめんなさい」
「何に」
「私も、声を一人で通そうとしました」
「気づいたならいい」
ミリアは言った。
「でも、もうしないで」
「はい」
声は弱い。
それでも、少しだけ近かった。
ミリアは祭壇を見た。
そこに、黒い円が刻まれている。
最初はただの模様だと思った。
だが、壊れた契約具たちの光が消えたあと、その円だけが残っていた。祭壇の中心に刻まれた、黒い輪。
首輪に似ている。
だが、もっと古い。
ガルナもそれに気づいた。
「心臓だな」
「心臓?」
「首輪の呪いの、古い心臓」
ガルナは祭壇の円を見下ろした。
「ここから、契約具たちは力を得たのだろう。いや、違うな。ここへ、力を戻していたのかもしれぬ。誰か一人が役目を背負うたびに、その痛みがここへ戻る。ここがそれを蓄え、また新しい契約具へ流す」
「だから、墓場なのに心臓」
「そうだ」
ガルナの声は低い。
「死んだ契約具たちの墓場であり、次の首輪を生む心臓だ」
ミリアはぞっとした。
ここに眠るものは終わったものではない。
終わったふりをして、次の誰かを縛る力になっていた。
誰かの痛みは、ここで忘れられるのではなく、再利用されていたのだ。
「ユーレナは」
ミリアは言った。
「ここを知っている」
「当然だろうな」
「ここを守っている?」
「守っているというより、使っている」
ガルナは答えた。
首輪が、低く鳴った。
ちりん。
ミリアは喉元を押さえる。
その音は、前より弱い。
はっきりわかるほど弱い。
首輪は弱っている。
でも、ネリスも弱っている。
「どうすればいいの」
ミリアは祭壇の黒い円を見つめた。
壊したい。
こんな心臓は壊したい。
だが、壊せば何が起きるのか。
首輪も消えるのか。
ネリスも消えるのか。
それとも、ここに眠る声が全部あふれ出すのか。
わからない。
また、わからない。
そのとき、祭壇の黒い円に、細い亀裂が入った。
ミリアは息を呑んだ。
「何」
ガルナが一歩前へ出る。
亀裂から、黒い光が漏れた。
王宮の血石から現れた、あの黒い輪と同じ気配だった。
よく来た。
声がした。
言葉ではない。
意味だけが、喉に入ってくる。
ミリアは首飾りを押さえた。
首輪の奥でネリスが震える。
ガルナの喉の痕が赤く光った。
よくここまで弱らせた。
よくここまで飢えさせた。
よくここまで、更新を拒んだ。
黒い光は、祭壇の円の奥でゆっくり渦を巻いている。
ならば、もうすぐ終わる。
首輪も。
首輪の精も。
おまえの迷いも。
ミリアは歯を食いしばった。
「終わらせ方は、私が決める」
黒い光が揺れた。
決められると思うのか。
「思う」
声が震えた。
でも、言った。
「私は、あなたの言う通りにはしない」
ガルナが隣に立つ。
「私もだ」
首輪の奥で、ネリスの声がした。
「私も」
弱い。
とても弱い。
それでも、三つの声が揃った。
黒い円の奥から、笑いのようなものが響いた。
では、来るがいい。
首輪の心臓へ。
そして見届けよ。
誰か一人に役目を押しつけずに、世界が回るものか。
黒い光が消えた。
祭壇には、亀裂の入った黒い円だけが残っている。
谷は静かだった。
だが、その静けさは、嵐の前のようだった。
*
その夜、三人は谷の外れで火を焚いた。
谷の底では眠れなかった。
壊れた契約具たちの声は静まったが、まだ土の下に残っている。そこに寝れば、夢の中で誰かの誓いを飲み込んでしまいそうだった。
ガルナは火のそばで黙っていた。
顔色は悪い。魔力を差し出した疲れも、谷で聞いた声の重さも、彼女には効いているようだった。
ミリアも疲れていた。
けれど、眠るのが怖かった。
ネリスの声がまた遠くなるのではないか。
眠っている間に、首輪の内側で白い光が消えてしまうのではないか。
何度も首飾りに触れる。
そのたびに、かすかな気配がある。
まだいる。
まだ消えていない。
「ネリス」
呼ぶ。
「はい」
返事はある。
でも、弱い。
「寝てる?」
「少し」
「起こした?」
「起きていました」
「嘘?」
「少し」
ミリアは苦く笑った。
「嘘を少しにしないで」
「はい」
「怖い?」
首輪の奥で、沈黙があった。
「怖いです」
ネリスは言った。
「とても」
ミリアは目を閉じた。
「私も怖い」
「はい」
「でも、聞いて」
「はい」
「このまま首輪が弱って、あなたが消えるのは、私は嫌だ」
「はい」
「でも、首輪を誰かに渡してあなたを生かすのも嫌だ」
「はい」
「だから、また別の言葉を探す」
少しの沈黙。
「見つかるでしょうか」
「わからない」
「はい」
「でも、今日わかったことがある」
ミリアは谷の方角を見た。
「首輪は、ただの首輪じゃない。世界の仕組みの心臓みたいなものだった。誰か一人へ役目を集める仕組み。その古い心臓」
「はい」
「なら、私一人の喉の問題じゃない」
ミリアは首飾りに触れた。
「でも、あなた一人の命の問題でもある」
ネリスは黙った。
「大きすぎるものと、小さすぎるものが、同じ輪の中にある」
世界の仕組み。
ネリスの命。
どちらも重い。
どちらも、見ないふりはできない。
ガルナが火に枝を足した。
「だからこそ、三人で行く」
彼女は言った。
「首輪の心臓へ」
「行くんですね」
ミリアが聞くと、ガルナは頷いた。
「行かなければ、ユーレナが来る。あるいは、首輪が先にネリスを食う」
「嫌な二択」
「だから三つ目を作る」
ガルナは火を見た。
「おまえの得意なやつだ」
「得意ではありません」
「だが、いつもやっている」
ミリアは少しだけ笑った。
「いつも苦しんでます」
「知っている」
首輪の奥で、ネリスが小さく言った。
「私も、行きます」
ミリアは喉元に触れた。
「一緒にね」
「はい」
「一人で先に行かないで」
「はい」
「首輪の奥へ勝手に沈まないで」
「……努力します」
「そこは、はい」
ネリスの声に、かすかな笑いが混じった。
「はい」
その小さな笑いだけで、ミリアの胸は少しだけ温かくなった。
首輪はまだ外れない。
呪いは弱っている。
ネリスも弱っている。
墓場の心臓は、こちらを呼んでいる。
終わりが近づいている。
でも、その終わりを首輪に決めさせるつもりはなかった。
ミリアは火の向こうに広がる暗い谷を見た。
そこには、壊れた首輪たちが眠っている。
壊れた誓いが眠っている。
美しい犠牲と呼ばれたものたちが、名前を失って眠っている。
その声を、もう一度聞くことになるのだろう。
だが、今度は一人では聞かない。
ミリアは首飾りに手を置き、ガルナの横顔を見た。
三人で行く。
そう思ったとき、首輪が小さく鳴った。
ちりん。
その音は、もう勝ち誇ってはいなかった。
弱く、苛立ち、焦っている音だった。
ミリアは静かに言った。
「あなたも、怖いんだね」
首輪は答えなかった。
谷の奥で、風が壊れた鎖を鳴らした。




