第十四章 最後の犠牲者
契約谷の夜は、眠っているようで眠っていなかった。
火を焚いても、谷の底から冷えが上がってくる。壊れた首輪や鎖や冠が眠っている場所から、声にならない声が滲んでくる。誰かが何かを誓い、誰かが何かを差し出し、誰かがそれを美しいこととして受け取った、その残り香のようなものが、風に混じっていた。
ミリアはほとんど眠れなかった。
喉には首輪がある。
その奥に、ネリスがいる。
呼べば返事はある。
けれど、声は細い。細すぎる。少しでも強い風が吹けば、消えてしまいそうな声だった。
首輪は弱っている。
それは望んでいたはずのことだった。
誰にも渡さず、更新させず、飢えさせる。そうすれば、いつか呪いは力を失う。ミリアは自由になるかもしれない。
けれど、首輪が弱るほど、ネリスも弱る。
このままなら、首輪が外れる前に、ネリスが消える。
その事実が、ミリアの胸の中で冷たい石のように沈んでいた。
「眠れないのか」
ガルナが言った。
彼女も眠っていなかった。
火の向こうで膝を立て、腕を乗せている。顔色はまだ悪い。自分の魔力を首輪に注いだせいで、いつものような圧は少し薄れていた。それでも、彼女がそこにいるだけで、火の周りの闇は少し遠ざかる。
「眠れるわけないでしょう」
ミリアは答えた。
「そうだな」
「そこで納得しないでください」
「では、眠れと言えば眠るのか」
「眠りません」
「面倒だな」
「知ってます」
そう言ってから、ミリアは首飾りに触れた。
「ネリス」
呼ぶ。
少し待つ。
「はい」
声がした。
遠い。
でも、ある。
「起きてる?」
「少し、眠っていました」
「ごめん」
「起こしてくれて、よかったです」
「どうして」
「深く眠ると、戻り方がわからなくなりそうなので」
ミリアは息を止めた。
ガルナの顔も硬くなった。
「そういうことは、早く言って」
「すみません」
「謝らないで。いや、今のは謝ってもいい。でも、早く言って」
「はい」
首輪の奥で、白い気配がかすかに揺れた。
ミリアは喉元を押さえる。
「眠りそうになったら、呼んで」
「はい」
「私が起こすから」
「はい」
「何度でも」
返事が遅れた。
ミリアの胸がざわつく。
「ネリス?」
「はい」
「今、何を考えたの」
「あなたも眠らなければ、倒れてしまうと」
「そういうのは、考えなくていい」
「でも」
「でもじゃない。私が倒れそうになったら、ガルナが蹴る」
ガルナが火の向こうで眉を上げた。
「蹴るのか」
「優しく」
「難しい注文だ」
「練習してください」
ネリスの声が、ほんの少し笑った。
その笑いがあまりに小さくて、ミリアは泣きそうになった。
そのとき、谷の底から鐘の音がした。
鐘。
いや、違う。
金属が鳴ったのではない。
壊れた契約具たちが、いっせいに身じろぎしたような音だった。
ちり。
ちり。
ちりん。
ミリアの首輪が応えた。
ちりん。
ガルナが立ち上がった。
「来るぞ」
「何が」
「ユーレナだ」
火が急に細くなった。
風が吹いたわけではない。
谷の底から、黒い光が上がってきたのだ。
それは霧のように地面を這い、壊れた首輪たちの間を通り、花嫁の冠の棘を撫で、聖女の腕輪の白い輪をくぐり、誓約の鎖を鳴らしながら、ミリアたちの前へ集まった。
黒い輪が現れる。
その奥から、契約の魔女ユーレナが姿を現した。
黒い衣。
灰色の髪。
年齢の読めない顔。
首から下げた細い黒い輪。
彼女は、夜の中に最初から立っていたような顔で微笑んだ。
「よく眠れませんでしたか」
ミリアは立ち上がった。
「あなたのせいです」
「私のせいだけではありません」
ユーレナは柔らかく言った。
「迷いがあるから眠れない。選ばないから苦しい。誰にも渡さず、誰も捨てず、誰も所有しない。美しい迷いです」
「美しいと言わないで」
「では、残酷な迷いです」
ミリアは首飾りを握った。
ガルナが前へ出る。
「何をしに来た」
「最後の提案を」
ユーレナは答えた。
「提案?」
「ええ。あなた方は、ここまでよく抗いました。首輪を更新させず、いくつもの契約をほどき、墓場までたどり着いた。ですが、もう限界でしょう」
彼女の目が、ミリアの喉元へ向く。
「首輪は弱っている。首輪の精も弱っている。このままなら、首輪が壊れる前に、ネリスは消えます」
ミリアの体がこわばる。
わかっている。
わかっているのに、ユーレナに言われると、首輪が一段深く食い込むようだった。
「だから、最後の器を用意しました」
ユーレナが片手を上げた。
黒い霧の中から、一人の少女が現れた。
年は十五、六ほどだろう。
痩せていた。髪は淡い灰色で、目は薄い琥珀色。白い服を着ているが、それは神殿の服でも王宮の服でもない。粗末で、清潔で、飾りのない服だった。
少女の首元には、何もなかった。
だが、ミリアにはわかった。
この子は、空いている。
空っぽなのではない。
誰かに役目を入れられるために、空けられている。
それがあまりに自然に見えて、ミリアはぞっとした。
少女はミリアを見ると、静かに頭を下げた。
「はじめまして」
声は細いが、澄んでいた。
「私はカヤと申します」
ミリアは返事ができなかった。
カヤは微笑んだ。
その笑みは、悲しくなかった。
無理をしているようにも見えなかった。
ただ、穏やかだった。
それが怖かった。
「あなたが、ミリアさんですね」
「そうです」
「たくさんの人を助けた方だと聞いています」
「私は」
ミリアは言いかけて、止まった。
少し口を出しただけ。
そう言おうとした。
でも、今その言葉は逃げに聞こえる気がした。
「私は、首輪を誰にも渡さなかっただけです」
「それで助かった人がいるのでしょう」
カヤは言った。
「リィナさん。ロゼリアさん。イリゼさん。セレナさん。リュシエラ王女さま。みんな、あなたが首輪を渡さなかったから、自分の言葉を取り戻した」
「どうして、その名前を」
「ユーレナさまに聞きました」
ミリアはユーレナを睨んだ。
ユーレナは穏やかに微笑んでいる。
「事実を伝えただけです」
カヤは続けた。
「私は、その方たちの代わりになれます」
ミリアの喉が冷えた。
「代わり?」
「はい」
「何の」
「最後の犠牲者です」
カヤは、何でもないことのように言った。
ガルナの影が大きくなる。
「娘」
その声は低かった。
「その言葉を誰に教えられた」
「私が選びました」
カヤはガルナを見上げた。
恐れていない。
魔物を前にしているのに、まったく怯えていない。
「私は長く生きられません。生まれたときから、体に契約の痕があります。医師も神官も、私の命は短いと言いました」
彼女は自分の胸元に手を置いた。
そこには薄い黒い痣があった。
輪ではない。
だが、欠けた円のような形をしている。
「私は、首輪の墓場の近くで生まれました。ここに眠る契約具たちの残りを受けてしまったのだそうです。歩けるようになる前から、夢の中で声を聞いていました。花嫁の声、騎士の声、聖女の声、魔物の声、王家の声」
ミリアは息を呑んだ。
カヤは、墓場の声を聞きながら育ったのか。
「私は、ずっと思っていました。これだけの声が行き場をなくしているのなら、誰かが受け止めなければならないと」
「それを、あなた一人で?」
「はい」
カヤは頷いた。
「私は、もう長くありません。なら、最後に役に立てるほうがいい」
役に立てる。
その言葉は、イリゼを思い出させた。
ミリアの手が震えた。
カヤは一歩近づいた。
「私がもらいます」
首輪が鳴った。
ちりん。
甘く、低く。
ミリアの喉に、熱が走る。
「あなたは自由になってください」
カヤの声は、本当に優しかった。
「ネリスさんも、私が受け取ります。私の命が尽きるまでなら、首輪も、首輪の精も、私の中で保てるかもしれません。私はもう、先が短い。だから、他の誰より適しています」
ミリアは何も言えなかった。
完璧だった。
ユーレナが用意した最後の器は、あまりに完璧だった。
死にかけている。
自分の人生を諦めている。
誰かを恨んでいない。
ミリアを慕っている。
ネリスを生かすためにもなる。
首輪も更新される。
ミリアは自由になれる。
誰も騙していない。
カヤは知っている。
自分から言っている。
ミリアが断れば、この少女の善意を踏みにじることになる。
受け取れば、ミリアは自由になる。
そして、ネリスは少しでも生き延びるかもしれない。
首輪が、喉の奥で囁いた。
欲しいと言ってもらえた。
あとは譲るだけだ。
差し上げよう。
その言葉が、舌の裏に浮かんだ。
ミリアは唇を噛んだ。
「ミリア」
首輪の奥で、ネリスの声がした。
遠い。
でも、必死だった。
「だめ」
ミリアは息を止めた。
「だめです」
ネリスは繰り返した。
「私のために、その人へ渡さないで」
カヤは首を傾げた。
「ネリスさん」
まるで、首輪の内側の声が聞こえているかのようだった。
「私は、あなたを助けたいのです」
「それでも」
ネリスの声が震える。
「私は、誰かの首で生き延びたいわけではありません」
「でも、消えるのは怖いでしょう」
「怖いです」
ネリスは答えた。
「とても怖いです」
「なら」
「それでも、だめです」
カヤは少し悲しそうに微笑んだ。
「優しいのですね」
「優しさではありません」
ネリスの声は弱い。
「私は、やっと知りました。誰かに生かされることと、誰かを縛って生きることは違うのだと」
ミリアの胸が熱くなった。
カヤは今度はミリアを見る。
「ミリアさん」
「はい」
「私では、だめですか」
その問いは、あまりにまっすぐだった。
「私は、売られる娘でも、捨てられた令嬢でも、聖女でも、騎士でも、王女でもありません。私はもう、自分の行き先を知っています。ここで首輪を受け取るなら、私は自分で選べます」
ミリアは首飾りを握った。
「選べる?」
「はい」
「本当に?」
カヤは一瞬、目を瞬いた。
「はい」
「本当に、あなたには他の選択肢がある?」
カヤは答えようとして、止まった。
ミリアは一歩近づいた。
「長く生きられないと言われた。墓場の声を聞いて育った。誰かが受け止めなければならないと思ってきた。ユーレナに、あなたなら最後の器になれると言われた」
カヤの顔が少し揺れた。
「それでも、自分で選んだと言える?」
「私は」
「あなたが優しいことはわかる」
ミリアは言った。
「私を助けようとしてくれていることも。ネリスを助けようとしてくれていることも。自分の命が短いから、その命を誰かの役に立てたいと思っていることも」
声が震えた。
「でも、あなたの優しさを、私の自由の代金にはしない」
カヤの目が見開かれた。
首輪が激しく鳴った。
ちりん、ちりん。
ミリアは喉を押さえながら、続けた。
「ありがとう。でも、受け取らない」
「どうして」
カヤの声に、初めて揺らぎが出た。
「私は、望んでいるのに」
「私も、望んでいるように見えたから騙された」
ミリアは言った。
「自分の口で欲しいと言った。でも、それは本当の願いを見つける前の言葉だった」
カヤは唇を噛んだ。
「私の願いが偽物だと言うのですか」
「違う」
ミリアは首を横に振った。
「あなたの願いは本物だと思う。誰かを助けたい気持ちは本物だと思う。でも、本物だからこそ、首輪に渡したくない」
ユーレナの目が細くなった。
「美しい拒絶ですね」
ミリアは彼女を見た。
「あなたには、そう聞こえるでしょうね」
「ええ。たいへん美しい。そして、たいへん残酷です」
ユーレナはカヤの肩に手を置いた。
「この娘は短い命を差し出すと言っています。あなたはそれすら拒む。彼女の価値を否定するのですか」
「違う」
「役に立ちたいという願いを奪うのですか」
「違う」
「なら、受け取ればいい」
「受け取らない」
「なぜ」
「それを受け取ったら」
ミリアは喉の痛みに耐えながら言った。
「この子は、自分が役に立ったと思って死ぬ。私は、それを背負って自由になる。ネリスは、この子の首で生き延びる。あなたは言うでしょう。よかった、みんな少しずつ助かったと」
ユーレナは微笑む。
「違いますか」
「違う」
ミリアははっきり言った。
「それは、また誰か一人を綺麗に使い切るだけです」
カヤの顔が歪んだ。
初めて、痛みが見えた。
「では、私は何のために生きてきたのですか」
その声は、小さかった。
「ずっと声を聞いてきました。壊れた契約具たちの声を。誰も聞かない声を。私はそれを受けるために生まれたのだと思っていました。長く生きられないなら、せめて最後に意味が欲しい」
ミリアは息を呑んだ。
意味が欲しい。
首輪がその言葉を好きだと、わかった。
人は苦しみに意味が欲しい。
短い命に、痛みに、失われたものに、意味が欲しい。
だから、誰かが言う。
あなたの犠牲には意味があった。
あなたが差し出したから、みんな助かった。
あなたは美しかった。
それは救いのように聞こえる。
でも、首輪の声でもある。
「意味は」
ミリアは言った。
「首輪にもらわなくていい」
カヤは目を上げた。
「あなたが声を聞いてきたことは、意味がないことじゃない。でも、その意味を、私の首輪を受け取ることで決めなくていい」
「では、どう決めれば」
「わからない」
ユーレナが小さく笑った。
「また、わからない」
「はい」
ミリアは彼女を睨んだ。
「わからない。でも、わからないからって、首輪に答えをもらわない」
そのとき、谷の入口から声がした。
「その通りだよ」
ミリアは振り返った。
松明の光が、谷の階段を降りてくる。
一人ではない。
最初に見えたのは、痩せた若い娘だった。
粗末だが清潔な旅服を着ている。目が強い。
リィナだった。
その後ろに、灰色の外套を羽織った女が続く。上品だが、以前のように飾られてはいない。髪を簡単に結び、手には書類の束を持っている。
ロゼリア。
さらに、白い衣ではなく、草色の服を着た少女がいた。額の白布も、銀の環もない。少し痩せているが、目は澄んでいる。
イリゼ。
その横に、鎧姿の女騎士が立っていた。
首元には誓約紋の薄い痕。手には剣。だが、その剣は誰かの命令ではなく、彼女自身の意思で握られている。
セレナ。
最後に、濃い青の外套をまとった王女が現れた。
リュシエラ。
その後ろには、妹のエルナもいた。王宮の護衛たちも数人いるが、主役は彼女たちではなかった。
ミリアは言葉を失った。
「どうして」
リィナが肩をすくめた。
「王女さまの使者が来たんだ。あんたがまた面倒な場所に行くらしいって」
「面倒な場所」
ミリアは思わず繰り返した。
「間違ってないでしょう」
ロゼリアが静かに言った。
「私たちは、証人として来ました」
「証人?」
ユーレナが少しだけ目を細める。
リュシエラが前へ出た。
「契約の魔女。あなたは、誰か一人が引き受けなければ世界は回らないと言いましたね」
「事実です」
「なら、私たちは反証です」
リュシエラは言った。
「まだ完全ではありません。国は揺れています。王宮では反発も起きています。妹たちも、血契約の痛みを少し知ることになりました」
彼女は胸元に手を当てた。
「でも、私は一人で国になることをやめました。それでも国は今日も朝を迎えました」
ユーレナは黙っている。
セレナが剣を地面に立てた。
「私は誓約を破った。領内は混乱している。侯爵家との争いも終わっていない」
彼女はミリアを見る。
「だが、民から奪うために剣を振るわずに済んだ。部下の何人かは、自分の意思で私に従っている。誓約なしでも、人は並んで立てる」
イリゼが前へ出た。
「私は聖女候補ではなくなりました。神殿は怒りました。町の浄化も、前のようにはいきません」
彼女の声はまだ少し弱い。
けれど、逃げていない。
「でも、町の人たちは少しずつ、自分たちで病人を世話し、井戸を掃除し、痛みを分ける方法を覚えています。私は今も人を助けています。でも、器ではありません」
ロゼリアが書類を掲げた。
「私は修道院へ行きませんでした。父と争い、親戚に嫌われ、元婚約者の家からは侮辱の手紙をもらいました」
少しだけ笑う。
「それでも、私は自分の名前で商会の再建案を書きました。まだ誰も完全には認めていません。でも、私の価値を誰か一人に決めさせるのを、少しずつ止めています」
リィナが最後に言った。
「私は、まだ貧しい村にいるよ。借金も残ってる。全部解決なんかしてない」
その声は強かった。
「でも、私は売られなかった。母さんも、弟たちも、私の首を帳面に書かせないって決めた。村の人たちも少しずつ、帳面を読むようになった」
リィナはカヤを見た。
「あんたが首輪をもらえば、きっと誰かは助かるんだろうね。でも、そのあと残された人は、また次の帳面を作るだけだよ」
カヤの顔が揺れた。
ユーレナは静かに言った。
「どれも、まだ未完成です」
「そうです」
リュシエラが答えた。
「未完成です」
「不安定で、痛みが残り、混乱している」
「その通りです」
「ならば、私の言うことは間違っていない。誰か一人が引き受ければ、秩序は保たれる」
「秩序だけなら」
ロゼリアが言った。
「でも、その秩序の中で黙らされる人の声を、私たちはもう知っています」
イリゼが頷く。
「清らかという言葉で、痛いと言えなくなる秩序なら、私は戻りません」
セレナが言う。
「忠誠という言葉で、民を斬る秩序なら、私は従わない」
リィナが言う。
「家族のためという言葉で、私を売る秩序なら、壊れていい」
リュシエラが言う。
「国のためという言葉で、王家の娘を一人ずつ器にする秩序なら、変えます」
五人の声が、谷に響いた。
ミリアは、泣きそうになった。
自分の旅は無駄ではなかったのかもしれない。
完全に救えたわけではない。
誰の問題も、綺麗に終わってはいない。
でも、彼女たちは戻ってきた。
犠牲者としてではなく、証人として。
自分の言葉を持って。
カヤは五人を見つめていた。
「でも」
彼女は言った。
「でも、私は」
声が震える。
「私は、何もしていません。誰も救っていません。私には時間がありません」
リィナが近づいた。
「あんた、名前は」
「カヤ」
「カヤ。あんたは、首輪をもらうためにここに立ってるんじゃない」
リィナの声はまっすぐだった。
「今、迷うために立ってるんだよ」
「迷う?」
「うん。迷うのって、結構大事だよ。売られるときは、迷う暇もなかったから」
カヤの目が揺れた。
ロゼリアが言う。
「意味は、誰かに与えられるものではありません。少なくとも、首輪や魔女に渡されるものではないはずです」
イリゼが続ける。
「短い時間でも、器ではなく人として使えます」
セレナが言う。
「戦うことも、守ることも、首を差し出すことだけではない」
リュシエラが最後に言った。
「あなたが聞いてきた声を、私たちにも聞かせてください。あなた一人が受け止める必要はありません」
カヤの表情が崩れた。
穏やかな顔が、初めて年相応の少女の顔になる。
「私は」
彼女は震える声で言った。
「私は、怖かった」
ミリアは息を止めた。
「死ぬのが怖かった。意味もなく死ぬのが、もっと怖かった。だから、誰かの役に立てるなら、怖くないと思いたかった」
涙が頬を伝う。
「でも、本当は怖い」
リィナがカヤの手を取った。
「うん」
ロゼリアも、イリゼも、セレナも、リュシエラも、静かにそばへ立った。
ユーレナの微笑みが消えた。
「愚かな」
彼女は言った。
「全員で痛みを分けるつもりですか。そんなことで、世界が保てると本気で思っているのですか」
「わかりません」
ミリアは言った。
ユーレナがこちらを見る。
「また、わからない」
「はい」
ミリアは首飾りに触れた。
「でも、わからないまま誰かを犠牲にするより、わからないまま一緒に迷うほうを選びます」
首輪が激しく鳴った。
ちりん、ちりん、ちりん。
ネリスの声がした。
「ミリア」
「うん」
「今の言葉」
声は弱い。
でも、少しだけ近かった。
「少し、近いです」
「何に」
「欲しいでも、いらないでもない言葉に」
ミリアは息を呑んだ。
ユーレナが黒い輪を掲げた。
「ならば、見せていただきましょう」
谷の底が揺れた。
壊れた首輪たちが鳴る。
花嫁の冠が震える。
聖女の腕輪が白く光る。
誓約の鎖が起き上がる。
血石の欠片が赤く瞬く。
首輪の墓場全体が、目を覚ました。
ユーレナの声が響く。
「誰も犠牲にしないというなら、誰がこの声を受けるのです」
声があふれた。
差し出します。
従います。
守ります。
捧げます。
受けます。
欲しい。
差し上げよう。
今度はミリア一人に向かってくるのではなかった。
谷にいる全員へ、声が押し寄せた。
カヤが悲鳴を上げる。
イリゼが胸を押さえる。
セレナが剣を抜く。
リュシエラの紋様が光る。
ロゼリアが書類を抱きしめる。
リィナが歯を食いしばる。
ミリアは首飾りを握った。
「一人で受けない!」
叫ぶ。
「誰も、一人で受けない!」
ガルナが巨大な影を広げた。
セレナが剣を掲げる。
リュシエラが王家の血契約の残った光を地面へ流す。
イリゼが祈りではなく、自分の声で歌うように言葉を出す。
ロゼリアが古い契約文の写しを破り、リィナが壊れた帳面のような木札を踏みつける。
カヤが泣きながら、自分の胸に手を置いた。
「私は」
カヤが叫んだ。
「私は、最後の犠牲者になりたくない!」
その言葉が、谷に響いた。
黒い輪が揺らいだ。
ユーレナの顔が初めて歪んだ。
ミリアの首輪の奥で、ネリスが白く光る。
「ミリア」
「ネリス?」
「今なら、見えます」
「何が」
「心臓への道」
谷の祭壇の黒い円が開き始めた。
その向こうに、深い闇がある。
ただの穴ではない。
首輪の呪いの古い心臓へ続く道。
ユーレナがその前に立つ。
「来なさい」
彼女は言った。
「そこでは、言葉だけでは済みません」
ミリアは一歩前へ出た。
ガルナが隣に立つ。
首輪の奥でネリスが息をする。
背後には、これまで出会った女たちがいる。
誰も完全には救われていない。
誰も完全には強くない。
誰も痛みを免れていない。
それでも、誰も一人で首を差し出してはいなかった。
ミリアはカヤを見た。
「ありがとう」
カヤは涙で濡れた顔を上げた。
「でも、あなたの優しさを、私の自由の代金にはしない」
カヤは泣きながら、うなずいた。
ミリアは黒い円へ向き直った。
首輪が鳴る。
ちりん。
その音は、もう誘惑ではなかった。
終わりを怖がる音だった。
ミリアは言った。
「行こう」
ガルナが頷く。
首輪の奥で、ネリスが答える。
「はい」
三人は、首輪の心臓へ続く闇の前に立った。




