第十五章 欲しくない、消えてほしくない
黒い円の向こうには、道がなかった。
それなのに、ミリアは歩いている。
足元はある。
けれど、石でも土でもない。踏むたびに、薄い音がした。壊れた首輪を踏む音。古い鎖を踏む音。誰かが飲み込んだ言葉を踏む音。
周囲は暗い。
闇の中に、無数の輪が浮かんでいる。
小さな輪。大きな輪。冠に似た輪。腕輪。指輪。誓約の鎖。花嫁の冠。聖女の腕輪。王家の血石。魔物の喉に巻かれた巨大な環。
それらはすべて、こちらを見ていた。
目などない。
けれど、見られている。
ミリアの喉の首輪は、ずっと鳴っていた。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
弱い音だった。
かつてのように甘くない。
誘う音ではない。
焦り、苛立ち、恐れに近い音だった。
隣にはガルナがいる。
人の姿ではあるが、その背後に山の影が立っていた。黒い髪は闇に溶け、金色の目だけが火のように光っている。魔力を消耗しているはずなのに、彼女は倒れなかった。
首輪の内側には、ネリスがいる。
姿はない。
声も遠い。
けれど、白い光が喉の奥でかすかに揺れている。
ミリアは、その光を頼りに歩いた。
後ろからは、声が届いていた。
リィナ。
ロゼリア。
イリゼ。
セレナ。
リュシエラ。
カヤ。
彼女たちは黒い円の外にいるはずだった。
だが、ここでは外と内の境が薄いのか、それぞれの声が細い糸のようにミリアへ届いている。
売られない。
黙らない。
器にならない。
命令だけで剣を振らない。
一人で国にならない。
最後の犠牲者にならない。
その声が、闇の中で小さな灯りになっていた。
ミリアは歩きながら、首飾りに触れた。
「ネリス」
呼ぶ。
返事は遅れた。
「はい」
かすかな声だった。
「聞こえる?」
「少し」
「眠ってない?」
「眠りそうです」
ミリアは息を呑んだ。
「だめ」
「はい」
「だめだよ」
「はい」
返事はある。
けれど、どんどん遠くなる。
白い光も、薄い。
ガルナが低く言った。
「急ぐぞ」
「どこへ」
「心臓だ」
闇の奥に、赤黒い光が見えた。
鼓動している。
どくん。
どくん。
音ではない。
契約の鼓動だった。
誰かが誓うたびに。
誰かが首を差し出すたびに。
誰かが「欲しい」と言い、誰かが「差し上げよう」と言うたびに。
その心臓は鼓動してきたのだろう。
近づくほど、声が増えた。
欲しい。
差し上げよう。
従います。
守ります。
捧げます。
受けます。
私でいい。
私がやります。
私がもらいます。
あなたは自由になってください。
優しい声もあった。
泣いている声もあった。
誇らしい声も、諦めた声も、誰かを本当に助けたい声もあった。
それらがすべて、同じ場所へ吸い込まれている。
首輪の心臓。
ミリアは立ち止まりそうになった。
こんなものを、壊せるのだろうか。
これは悪意だけでできているわけではない。
誰かを助けたい気持ち。
守りたい気持ち。
自分の痛みに意味が欲しい気持ち。
その全部が、ここに流れ込んでいる。
だからこそ、強い。
だからこそ、怖い。
「ミリア」
ガルナが言った。
「止まるな」
「でも」
「考えるのは止まってもできる。だが、ここで止まると飲まれる」
ミリアは頷き、もう一歩進んだ。
その瞬間、闇の中央にユーレナが現れた。
黒い衣。
灰色の髪。
首に下げた細い黒い輪。
彼女は首輪の心臓の前に立っていた。
「来ましたね」
その声は、禁書庫で聞いたときと同じように柔らかかった。
「ここまで来れば、もうごまかせません」
「ごまかしているのは、あなたでしょう」
ミリアは言った。
ユーレナは微笑む。
「私は仕組みを隠していません。むしろ見せています。この世界は、誰か一人が引き受けることで秩序を保ってきた。あなたが旅で見てきたものは、その証拠です」
「証拠じゃない」
「では何ですか」
「傷です」
ミリアは答えた。
ユーレナの微笑みが、ほんの少し薄くなった。
「傷は、意味を持つことで耐えられる」
「意味を押しつけないで」
「押しつけているのではありません。与えているのです」
「それが押しつけです」
ミリアは首飾りを握った。
首輪が冷たく震える。
ユーレナは、ミリアの喉元を見た。
「首輪はもう崩れかけています」
彼女は静かに言った。
「見えるでしょう」
ミリアは首飾りを見る。
白い輪の表面に、細い亀裂が走っていた。
今までどれほど引っ張っても、叩いても、焼いても、祈っても外れなかった首輪。
それが、今、かすかに崩れかけている。
だが、同時に。
内側の白い光も、弱っていた。
ネリスの気配が、今にもほどけそうだった。
「あなたは望んだはずです」
ユーレナは言った。
「首輪を外したいと」
「望んだ」
「では、喜びなさい。あなたは誰にも渡さず、更新させず、ここまで弱らせた。もう少しで首輪は壊れます」
彼女の視線が、首輪の内側へ向かう。
「ただし、その前に首輪の精は消えるでしょう」
ミリアの喉が詰まった。
ユーレナは続ける。
「これは自然なことです。呪いが終われば、呪いから生まれたものも終わる。首輪が壊れるなら、首輪の精も消える。あなたの望みは叶います」
「違う」
「違いません」
「私は、ネリスが消えることを望んでいない」
「では、欲しいと言えばよい」
ユーレナは優しく言った。
その瞬間、闇の中の輪たちがいっせいに鳴った。
ちりん。
「欲しいと言えば、ネリスはあなたのものになる。あなたが所有すれば、首輪は彼女をあなたから切り離せない。あなたも少しは長く保つ。ネリスも消えずに済む」
ネリスの声が、首輪の奥から聞こえた。
「ミリア」
ひどく弱い。
「言って」
「ネリス」
「私を欲しいと言って」
白い光が震えている。
「それでいい」
「よくない」
「いいの」
初めて、ネリスの声から敬語が消えた。
それは近さではなく、崩れかけているせいかもしれなかった。
自分を保つ余裕がなくなっているせいかもしれなかった。
「私は、誰かのものになるために生まれたんだから」
ミリアの胸が裂けるように痛んだ。
「違う」
「違わない」
「違う」
「首輪から生まれた。ガルナを縛った。あなたを騙した。外に出ても、私は首輪だった。なら、最後くらい、あなたの首輪になりたい」
「やめて」
「あなたのものになりたい」
それは告白のようだった。
だから、なおさら残酷だった。
「あなたに欲しいと言われたい」
ミリアは涙が出そうになった。
首輪の奥で、ネリスが消えかけている。
それでも、最後に差し出そうとしている。
自分を。
ミリアのために。
ミリアに所有されるために。
首輪として。
ユーレナは静かに見ている。
闇の中の声たちも、息を潜めるように静まっている。
ガルナが低く言った。
「ミリア」
「わかってる」
ミリアは答えた。
でも、何がわかっているのか、自分でもわからなかった。
欲しいと言えば、ネリスは傷つかずに済むのかもしれない。
少なくとも、今ここで消えることは避けられるかもしれない。
自分がネリスを所有する。
自分のものにする。
それは、首輪の文法だ。
けれど。
いらないと言えば、ネリスは消えるかもしれない。
欲しいと言えない。
いらないとも言えない。
でも、その二つの間で黙っていれば、またネリスを宙に吊るす。
ミリアは首飾りに触れた。
白い光が、今にも消えそうに揺れている。
「ネリス」
「はい」
また敬語に戻った。
声が遠くなる。
「聞いて」
「はい」
「私は」
喉が痛い。
首輪が、言葉を待っている。
ユーレナも待っている。
闇の中の輪たちも待っている。
欲しいか。
いらないか。
どちらかを言え、と。
ミリアは息を吸った。
「欲しくない」
ネリスの白い光が止まった。
ガルナが息を呑む気配がした。
ユーレナが、かすかに微笑んだ。
ネリスの声がした。
「そう」
とても小さな声だった。
「そう、だよね」
ミリアの胸が痛んだ。
その痛みを飲み込んで、彼女は続けた。
「でも、消えてほしくない」
白い光が、かすかに揺れた。
ユーレナの微笑みが消えた。
「何を」
彼女が言う。
ミリアは首飾りを両手で握った。
「私は、あなたを欲しくない」
言葉を選ぶ。
一つずつ。
首輪に食われないように。
「首輪として欲しくない。私のものとして欲しくない。私を守る道具として欲しくない。私の首に巻きついて、私だけを見て生きるものとして欲しくない」
ネリスの光が震えている。
「でも、消えてほしくない」
ミリアは言った。
「私のものにならなくていい」
首輪が激しく鳴った。
ちりん、ちりん。
「首輪じゃなくていい」
闇の中の輪たちがざわめく。
「誰かの役目にならなくていい。私を助けるための道具にならなくていい。ガルナを縛ったものでも、私を縛るものでも、誰かへ移るものでもなくていい」
声が震えた。
「ただ、消えないで」
首輪が喉を締める。
ミリアは耐えた。
「私のものじゃなくていい。私があなたを所有しなくていい。あなたが私に所有されなくていい」
ネリスの声が、首輪の奥で震えた。
「じゃあ、私は」
「勝手についてくればいい」
その言葉が、闇の中に落ちた。
音が止まった。
首輪の心臓の鼓動も。
壊れた輪たちのざわめきも。
ユーレナの呼吸も。
全部が、一瞬止まった。
ミリアは、もう一度言った。
「勝手についてくればいい」
涙が頬を伝った。
「私が欲しいと言わなくても。あなたが私のものにならなくても。あなたが首輪じゃなくても。許したわけじゃなくても。怒っていても。何て呼べばいいかわからなくても」
白い光が、少しずつ広がる。
「ついてくるなら、勝手に来ればいい」
ネリスの声が、聞こえた。
「それは」
震えている。
「それは、何?」
ミリアは首を振った。
「わからない」
「契約ではない」
「うん」
「所有でもない」
「うん」
「役目でもない」
「うん」
「では、私は何になるの」
ミリアは答えられなかった。
でも、今度は黙らなかった。
「一緒に考える」
白い光が、大きく揺れた。
「名前がないなら、後でつける。形がないなら、歩きながら決める。あなたが怖いなら怖いって言って。私が怒っているなら怒っているって言う。ガルナが無理したら止める。誰か一人が答えにならないように」
ガルナが低く笑った。
「私も入っているのか」
「入ってます」
「そうか」
ユーレナが一歩前へ出た。
「そんなものは契約ではありません」
「そうでしょうね」
ミリアは答えた。
「契約には、欲しい者と譲る者が必要です。所有する者と所有される者が必要です。役目を定めなければ、力は流れない」
「なら、流れなくていい」
「世界はそれでは回らない」
「回らないなら、押して歩く」
リィナの声が、外から届いた。
ミリアは振り返らなかった。
でも、聞こえた。
「車輪が壊れても、みんなで押せば少しは進む」
ロゼリアの声。
「名前のない関係にも、言葉は後から追いつきます」
イリゼの声。
「器でなくても、手は伸ばせます」
セレナの声。
「誓約でなくても、剣は守れます」
リュシエラの声。
「王家一人でなくても、国は朝を迎えます」
カヤの声。
「犠牲にならなくても、怖いと言えます」
それぞれの声が、闇の中へ届いた。
ユーレナの黒い輪が震えた。
「未完成な言葉ばかり」
「そうです」
ミリアは言った。
「でも、未完成でも、首輪よりましです」
首輪の心臓が大きく鳴った。
どくん。
黒い光が噴き上がる。
ユーレナの姿が揺らぎ、背後の黒い輪と重なった。
「不完全な選択は、いずれ誰かを苦しめる」
「完全な犠牲も、誰かを苦しめてきた」
ガルナが言った。
彼女が前へ出る。
「私はそれを知っている」
ガルナの体から、再び黒金色の魔力が立ち上がった。
ミリアは振り返る。
「ガルナ、まだ」
「少しだけだ」
「その少しが信用できません」
「今度は、おまえたちに渡す」
ガルナは自分の胸に手を当てた。
「首輪に食わせるのではない。ネリスに渡す。首輪から切り離されたあと、消えぬように」
「そんなこと、できるんですか」
「わからぬ」
ガルナは言った。
「だが、ネリスは長く私の喉にいた。私の魔力を覚えている。首輪が繋いでいた縁を、今度は私の意思で、別の形にする」
「それも契約では」
ミリアは不安になった。
ガルナは頷いた。
「契約だろうな」
「ガルナ」
「だが、押しつけない」
ガルナは首輪の中の白い光へ向かって言った。
「ネリス。受け取るか」
沈黙。
白い光が震える。
「私が、選ぶの?」
ネリスの声だった。
「ああ」
ガルナは答えた。
「私の魔力の一部を渡す。おまえを私のものにするためではない。私の罪を消すためでもない。おまえが首輪から離れたあと、少しでも形を保つためだ」
「でも、ガルナが」
「弱る」
「だめ」
「だめか」
「だめ」
「では、少しだけにする」
ミリアは思わず言った。
「二人とも、少しだけが信用できない」
ガルナは少し笑った。
「なら、おまえが見張れ」
ネリスの声が震えた。
「受け取っても、いいの?」
ガルナは静かに答えた。
「いいかどうかを私に聞くな。おまえが決めろ」
ネリスは長く黙った。
闇の中で、首輪の心臓が歪んでいる。
ユーレナが黒い輪と重なりながら、こちらを睨んでいる。
それでも、ネリスは急がなかった。
やがて、小さな声がした。
「受け取ります」
ガルナの金色の目が少しだけ柔らかくなった。
「では、受け取れ」
黒金色の魔力が、首輪へではなく、その内側の白い光へ流れた。
首輪が激しく拒んだ。
ちりん、ちりん、ちりん。
それは自分の中にあるものを、自分以外の縁で保たれることを嫌がっている音だった。
ユーレナが叫んだ。
「それは契約の形ではない!」
「そうか」
ガルナは歯を食いしばりながら言った。
「なら、初めて見るがいい」
ミリアは首飾りを握った。
「ネリス」
「はい」
「怖い?」
「怖い」
「消えたい?」
「消えたくない」
「私のものになりたい?」
少しの沈黙。
「なりたかった」
ネリスの声は震えていた。
「あなたのものになれば、場所がもらえると思った。役目がもらえると思った。消えずに済むと思った」
「うん」
「でも」
白い光が、首輪の亀裂から漏れ始める。
「今は、あなたのものにならなくても、そばにいていいのか知りたい」
ミリアは泣きながら頷いた。
「いい」
「首輪じゃなくても?」
「うん」
「呪いから生まれていても?」
「うん」
「あなたを騙したことが消えなくても?」
「消えない」
ミリアははっきり言った。
「でも、消えなくても、あなたは消えなくていい」
その瞬間、首輪の亀裂が大きく広がった。
黒い心臓が悲鳴を上げる。
欲しい。
譲る。
縛る。
闇の中で、古い言葉が暴れた。
欲しい。
譲る。
縛る。
その三つが、首輪の骨だった。
誰かが欲しがり、誰かが譲り、誰かを縛る。
それで呪いは何度も生き返ってきた。
だが、ミリアの言葉は、そのどれでもなかった。
欲しくない。
でも、消えてほしくない。
私のものにならなくていい。
首輪じゃなくていい。
勝手についてくればいい。
それは契約ではなかった。
命令でもなかった。
所有でも、譲渡でも、犠牲でもなかった。
だから、首輪は受け取れなかった。
首輪が受け取れない言葉が、首輪の中心へ届いた。
黒い心臓に、白い亀裂が走った。
ユーレナが叫んだ。
「そんな曖昧なものに、力など」
「ある」
ガルナが言った。
「少なくとも、私をここまで連れてきた」
外から声が届く。
「私も」
「私も」
「私も」
リィナ。
ロゼリア。
イリゼ。
セレナ。
リュシエラ。
カヤ。
誰も完全ではない。
誰も完全に救われたわけではない。
それでも、自分の言葉でそこにいる。
黒い心臓が、さらに割れた。
首輪の内側から、白い蛇が現れた。
最初は光だった。
細い、切れそうな光。
それが少しずつ形を取り、小さな白蛇になった。
ミリアは息を止めた。
ネリス。
白蛇は、首輪の輪の内側で震えている。
外へ出ようとしているのに、首輪が離さない。
ミリアは両手を伸ばした。
「ネリス」
白蛇がミリアを見た。
黒い小さな目。
森で初めて見たときと同じようで、違う目。
「来て」
ミリアは言いかけて、止まった。
命令にしたくなかった。
言い直す。
「来るなら、来て」
白蛇が震えた。
「行っても、いい?」
「うん」
「あなたのものじゃなくても?」
「うん」
「首輪じゃなくても?」
「うん」
「勝手に?」
「勝手に」
白蛇が、首輪の亀裂から身を滑らせた。
その瞬間、首輪が最後の力で締まった。
ミリアは息が止まった。
喉が焼ける。
視界が白くなる。
ユーレナの声が響く。
「離れれば、どちらも壊れる!」
ガルナが叫んだ。
「ネリス!」
黒金色の魔力が、白蛇へ流れる。
外から、リュシエラの血契約の光が細く差し込む。イリゼの祈りではない歌が響く。セレナの剣が黒い鎖を断ち、ロゼリアの破った契約文が白い紙片となって舞い、リィナが祭壇に残る帳面の木札を蹴り飛ばす。カヤが胸の痣に手を当て、墓場の声を一人で受けず、谷へ返す。
すべてが同時だった。
白蛇が首輪から抜けた。
首輪が割れた。
音は小さかった。
ぱきん。
それだけだった。
あれほど長くミリアの喉に巻きついていたものが、あまりに小さな音で割れた。
白い輪は二つに裂け、光を失い、ミリアの足元へ落ちた。
喉が軽い。
軽すぎて、ミリアは自分の首がなくなったように感じた。
息を吸う。
痛い。
だが、息が入る。
自分の喉に。
自分の息が。
ミリアは膝をついた。
その手の中に、小さな白蛇が落ちてきた。
あまりに軽い。
冷たい。
透けている。
だが、いた。
ネリスは、いた。
「ネリス」
ミリアは呼んだ。
白蛇は動かない。
「ネリス」
二度目。
白蛇の小さな頭が、かすかに動いた。
「はい」
声は、耳で聞こえた。
喉の奥ではなく。
首輪の内側ではなく。
ミリアの手の中から聞こえた。
ミリアは泣いた。
声を上げずに、ただ涙が落ちた。
白蛇は、その涙が当たって驚いたように身じろぎした。
「濡れます」
「ごめん」
「謝らないで」
「うん」
ミリアは笑いながら泣いた。
ガルナが膝をついた。
かなり無理をしたのだろう。顔色はひどく悪い。それでも、彼女は手の中の白蛇を見て、長く息を吐いた。
「残ったか」
「はい」
ネリスは小さく答えた。
「かなり、小さいですが」
「前から小さかった」
ガルナが言う。
「ひどいです」
「戻ったな」
その一言に、ネリスは黙った。
「はい」
小さな声だった。
黒い心臓は崩れていた。
ユーレナの姿も、揺らいでいる。
完全に消えるわけではないのかもしれない。彼女は契約の残り香のような存在だから。だが、少なくとも今までのような形は保てなくなっていた。
「こんな曖昧な言葉で」
ユーレナが呟いた。
「世界は保てない」
ミリアは立ち上がれなかった。
だから、膝をついたまま答えた。
「保てないかもしれない」
喉が痛む。
でも、自分の声だった。
「でも、誰か一人の首で保つ世界なら、変えたほうがいい」
ユーレナはミリアを見た。
「変えるには、長い時間がかかります」
「でしょうね」
「途中で裏切る者も出ます。誰かに押しつけたほうが楽だと言う者も、また現れます」
「いるでしょうね」
「あなたは、全部を止められない」
「止められない」
ミリアは認めた。
「でも、今ここで、ネリスを首輪にしなかった」
白蛇がミリアの手の中で震えた。
「それは、できた」
ユーレナはしばらく黙っていた。
やがて、黒い輪が砕け始めた。
「ならば、見ていましょう」
彼女は言った。
「あなたたちが、どれほど長く曖昧な言葉に耐えられるか」
その声は遠くなっていく。
「人はまた、輪を欲しがります」
「そのときは」
ミリアは言った。
「また誰かが、欲しくないって言えばいい」
ユーレナの姿が消えた。
黒い心臓も、ゆっくり崩れた。
闇の中に浮かんでいた無数の輪が、ひとつずつ光を失っていく。壊れた首輪、鎖、冠、腕輪、血石。すべてが消えるわけではない。だが、中心へ痛みを送り返す力は、もう失われていた。
首輪の心臓は、止まった。
*
黒い円の外へ戻ったとき、夜明けが近かった。
契約谷の底には、薄い青い光が差し始めている。
壊れた契約具たちは、まだそこにあった。
首輪も、鎖も、冠も、腕輪も、血石の欠片も。
だが、もう前のようにざわめいてはいなかった。
墓場になっていた。
初めて、本当に。
リィナたちが駆け寄ってきた。
ミリアは何か言おうとしたが、喉が痛んで声がうまく出なかった。
それでも、手の中の白蛇を見せると、みんなが息を呑んだ。
「ネリスさん?」
イリゼが聞く。
白蛇はかすかに頭を上げた。
「はい」
「小さい」
リィナが思わず言った。
ロゼリアが肘でつつく。
「リィナさん」
「だって、本当に小さい」
ネリスは小さく息を吐いた。
「否定できません」
その返事に、場の空気が少しだけ緩んだ。
セレナがミリアの首元を見る。
「外れたのか」
ミリアは頷いた。
喉に触れる。
何もない。
首輪は、もうない。
だが、皮膚には薄い白い痕が残っていた。
輪の痕。
痛みの痕。
忘れないための痕。
ロゼリアが静かに言った。
「痕は、残るのですね」
「はい」
ミリアは答えた。
「でも、もう締めません」
リュシエラが深く息を吐いた。
「よかった」
カヤが前へ出た。
彼女は泣いたあとで目が赤かった。
だが、顔は少しだけ晴れていた。
「私は」
カヤは言った。
「最後の犠牲者にならなくても、まだ何かできますか」
ミリアは答えようとして、喉が痛んだ。
代わりに、リィナが言った。
「できるでしょ」
ロゼリアが続ける。
「声を聞いてきた人にしか、書けない記録があります」
イリゼが言う。
「痛いと言える人のそばに、いてあげることもできます」
セレナが言う。
「必要なら、護衛をつける」
「それは少し物騒です」
リュシエラが微笑む。
「王宮にも、墓場の声を聞いた人が必要です。けれど、来るかどうかはあなたが決めてください」
カヤは何度も頷いた。
ミリアはそれを見て、少しだけ笑った。
喉は痛い。
体も疲れている。
首輪は外れたのに、まだ重さが残っている。
でも、手の中に白蛇がいる。
それだけで、立っていられる気がした。
ガルナがふらりとよろめいた。
ミリアは慌てて支えようとしたが、体格差でほとんど支えにならなかった。
セレナがすぐに反対側から支える。
「魔物でも倒れるのか」
セレナが言うと、ガルナは不機嫌そうに答えた。
「倒れぬ。少し地面に近づいただけだ」
「それを倒れかけたと言う」
「騎士は細かい」
「魔物が雑すぎる」
リィナが笑った。
ネリスも、ミリアの手の中でほんの少し身じろぎした。
ガルナはネリスを見た。
「魔力は足りるか」
「少し」
「少しだけか」
「はい」
「なら、また少し渡す」
ミリアはすぐに言った。
「だめです」
ガルナが眉を上げる。
「少しだ」
「その少しが信用できないと言ったでしょう」
「では、あとで相談する」
「はい。三人で」
ネリスの声が小さくした。
「三人で」
その言葉に、ミリアは手の中の白蛇をそっと見た。
ネリスは弱々しい。
半透明で、今にも光に溶けそうだ。
少女の姿に戻れるかどうかもわからない。
完全なハッピーエンドではない。
これからも、ネリスは不安定だろう。
ガルナの魔力に少し支えられ、ミリアのそばで、ゆっくり自分の形を探すことになる。
首輪の精ではなく、首輪ではない何かとして。
それが何なのかは、まだ誰にもわからない。
でも、わからなくていい。
今すぐ名前をつけなくていい。
ミリアは白蛇にそっと言った。
「勝手についてくる?」
白蛇はしばらく黙っていた。
それから、ミリアの手の中で、小さく丸まった。
「勝手に」
ミリアは笑った。
ガルナが空を見上げる。
谷の上に、朝日が差し始めていた。
夜明けの月は、まだ空に残っている。
輪には少し足りない、薄い月だった。
でも、その欠けた白さが、今は妙に美しく見えた。
ミリアは喉に触れた。
首輪はない。
痕だけがある。
手の中には、小さな白蛇。
隣には、ふらつきながらも立っている魔物。
背後には、自分の言葉を取り戻した女たち。
世界はまだ、誰か一人に役目を押しつける癖をやめたわけではない。
またどこかで、首輪に似たものが作られるかもしれない。
ユーレナの言った通り、人はまた輪を欲しがるかもしれない。
それでも。
今ここでは、ひとつの首輪が外れた。
誰かに渡されることなく。
誰かを最後の犠牲者にすることなく。
首輪の精を消しきることもなく。
ミリアは手の中の白蛇を袖口へ近づけた。
白蛇は少し迷い、それから、昔のように袖の中へ入ろうとして、途中で止まった。
「どうしたの」
「ここに入ると」
ネリスの声は小さい。
「また、前の場所に戻ったみたいで」
ミリアは袖口を見た。
確かに、そこは旅の間ずっとネリスの場所だった。
隠れる場所。
眠る場所。
ミリアの近くにいる場所。
けれど、今は少し違うのかもしれない。
「じゃあ、どこがいい?」
ネリスはしばらく考えた。
それから、ミリアの手首にゆっくり巻きついた。
首ではなく。
喉ではなく。
手首に。
軽く、ほどけるくらいに。
ミリアは息を止めた。
「そこ?」
「はい」
「きつくない?」
「きつくしません」
「そうじゃなくて、あなたが」
「大丈夫ではありません」
「うん」
「でも、ここがいいです。今は」
ミリアは頷いた。
「わかった」
手首に、白蛇の冷たさがある。
首輪ではない。
縛っていない。
いつでもほどける。
それでも、そこにいる。
ガルナが横から言った。
「腕輪か」
ミリアとネリスが同時にガルナを見た。
「違います」
ミリアが言う。
「違います」
ネリスも言う。
ガルナは少しだけ笑った。
「そうか」
朝日が、谷の底へ届いた。
壊れた契約具たちが、静かに光った。
もう誰かを呼んでいるのではない。
ただ、そこにあったことを、忘れないでほしいように。
ミリアは一度だけ、その墓場に頭を下げた。
誰かが差し出したもの。
誰かに押しつけられたもの。
美しいと言われて消費されたもの。
その全部へ。
それから、顔を上げた。
「行こう」
ミリアが言うと、ガルナが頷いた。
手首の白蛇が、小さく身じろぎした。
三人は、契約谷を後にした。
背後で、壊れた鎖が風に鳴る。
それはもう、首輪の音ではなかった。
ただの、朝の音だった。




