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第十五章 欲しくない、消えてほしくない

 黒い円の向こうには、道がなかった。

 それなのに、ミリアは歩いている。

 足元はある。

 けれど、石でも土でもない。踏むたびに、薄い音がした。壊れた首輪を踏む音。古い鎖を踏む音。誰かが飲み込んだ言葉を踏む音。

 周囲は暗い。

 闇の中に、無数の輪が浮かんでいる。

 小さな輪。大きな輪。冠に似た輪。腕輪。指輪。誓約の鎖。花嫁の冠。聖女の腕輪。王家の血石。魔物の喉に巻かれた巨大な環。

 それらはすべて、こちらを見ていた。

 目などない。

 けれど、見られている。

 ミリアの喉の首輪は、ずっと鳴っていた。

 ちりん。

 ちりん。

 ちりん。

 弱い音だった。

 かつてのように甘くない。

 誘う音ではない。

 焦り、苛立ち、恐れに近い音だった。

 隣にはガルナがいる。

 人の姿ではあるが、その背後に山の影が立っていた。黒い髪は闇に溶け、金色の目だけが火のように光っている。魔力を消耗しているはずなのに、彼女は倒れなかった。

 首輪の内側には、ネリスがいる。

 姿はない。

 声も遠い。

 けれど、白い光が喉の奥でかすかに揺れている。

 ミリアは、その光を頼りに歩いた。

 後ろからは、声が届いていた。

 リィナ。

 ロゼリア。

 イリゼ。

 セレナ。

 リュシエラ。

 カヤ。

 彼女たちは黒い円の外にいるはずだった。

 だが、ここでは外と内の境が薄いのか、それぞれの声が細い糸のようにミリアへ届いている。

 売られない。

 黙らない。

 器にならない。

 命令だけで剣を振らない。

 一人で国にならない。

 最後の犠牲者にならない。

 その声が、闇の中で小さな灯りになっていた。

 ミリアは歩きながら、首飾りに触れた。

「ネリス」

 呼ぶ。

 返事は遅れた。

「はい」

 かすかな声だった。

「聞こえる?」

「少し」

「眠ってない?」

「眠りそうです」

 ミリアは息を呑んだ。

「だめ」

「はい」

「だめだよ」

「はい」

 返事はある。

 けれど、どんどん遠くなる。

 白い光も、薄い。

 ガルナが低く言った。

「急ぐぞ」

「どこへ」

「心臓だ」

 闇の奥に、赤黒い光が見えた。

 鼓動している。

 どくん。

 どくん。

 音ではない。

 契約の鼓動だった。

 誰かが誓うたびに。

 誰かが首を差し出すたびに。

 誰かが「欲しい」と言い、誰かが「差し上げよう」と言うたびに。

 その心臓は鼓動してきたのだろう。

 近づくほど、声が増えた。

 欲しい。

 差し上げよう。

 従います。

 守ります。

 捧げます。

 受けます。

 私でいい。

 私がやります。

 私がもらいます。

 あなたは自由になってください。

 優しい声もあった。

 泣いている声もあった。

 誇らしい声も、諦めた声も、誰かを本当に助けたい声もあった。

 それらがすべて、同じ場所へ吸い込まれている。

 首輪の心臓。

 ミリアは立ち止まりそうになった。

 こんなものを、壊せるのだろうか。

 これは悪意だけでできているわけではない。

 誰かを助けたい気持ち。

 守りたい気持ち。

 自分の痛みに意味が欲しい気持ち。

 その全部が、ここに流れ込んでいる。

 だからこそ、強い。

 だからこそ、怖い。

「ミリア」

 ガルナが言った。

「止まるな」

「でも」

「考えるのは止まってもできる。だが、ここで止まると飲まれる」

 ミリアは頷き、もう一歩進んだ。

 その瞬間、闇の中央にユーレナが現れた。

 黒い衣。

 灰色の髪。

 首に下げた細い黒い輪。

 彼女は首輪の心臓の前に立っていた。

「来ましたね」

 その声は、禁書庫で聞いたときと同じように柔らかかった。

「ここまで来れば、もうごまかせません」

「ごまかしているのは、あなたでしょう」

 ミリアは言った。

 ユーレナは微笑む。

「私は仕組みを隠していません。むしろ見せています。この世界は、誰か一人が引き受けることで秩序を保ってきた。あなたが旅で見てきたものは、その証拠です」

「証拠じゃない」

「では何ですか」

「傷です」

 ミリアは答えた。

 ユーレナの微笑みが、ほんの少し薄くなった。

「傷は、意味を持つことで耐えられる」

「意味を押しつけないで」

「押しつけているのではありません。与えているのです」

「それが押しつけです」

 ミリアは首飾りを握った。

 首輪が冷たく震える。

 ユーレナは、ミリアの喉元を見た。

「首輪はもう崩れかけています」

 彼女は静かに言った。

「見えるでしょう」

 ミリアは首飾りを見る。

 白い輪の表面に、細い亀裂が走っていた。

 今までどれほど引っ張っても、叩いても、焼いても、祈っても外れなかった首輪。

 それが、今、かすかに崩れかけている。

 だが、同時に。

 内側の白い光も、弱っていた。

 ネリスの気配が、今にもほどけそうだった。

「あなたは望んだはずです」

 ユーレナは言った。

「首輪を外したいと」

「望んだ」

「では、喜びなさい。あなたは誰にも渡さず、更新させず、ここまで弱らせた。もう少しで首輪は壊れます」

 彼女の視線が、首輪の内側へ向かう。

「ただし、その前に首輪の精は消えるでしょう」

 ミリアの喉が詰まった。

 ユーレナは続ける。

「これは自然なことです。呪いが終われば、呪いから生まれたものも終わる。首輪が壊れるなら、首輪の精も消える。あなたの望みは叶います」

「違う」

「違いません」

「私は、ネリスが消えることを望んでいない」

「では、欲しいと言えばよい」

 ユーレナは優しく言った。

 その瞬間、闇の中の輪たちがいっせいに鳴った。

 ちりん。

「欲しいと言えば、ネリスはあなたのものになる。あなたが所有すれば、首輪は彼女をあなたから切り離せない。あなたも少しは長く保つ。ネリスも消えずに済む」

 ネリスの声が、首輪の奥から聞こえた。

「ミリア」

 ひどく弱い。

「言って」

「ネリス」

「私を欲しいと言って」

 白い光が震えている。

「それでいい」

「よくない」

「いいの」

 初めて、ネリスの声から敬語が消えた。

 それは近さではなく、崩れかけているせいかもしれなかった。

 自分を保つ余裕がなくなっているせいかもしれなかった。

「私は、誰かのものになるために生まれたんだから」

 ミリアの胸が裂けるように痛んだ。

「違う」

「違わない」

「違う」

「首輪から生まれた。ガルナを縛った。あなたを騙した。外に出ても、私は首輪だった。なら、最後くらい、あなたの首輪になりたい」

「やめて」

「あなたのものになりたい」

 それは告白のようだった。

 だから、なおさら残酷だった。

「あなたに欲しいと言われたい」

 ミリアは涙が出そうになった。

 首輪の奥で、ネリスが消えかけている。

 それでも、最後に差し出そうとしている。

 自分を。

 ミリアのために。

 ミリアに所有されるために。

 首輪として。

 ユーレナは静かに見ている。

 闇の中の声たちも、息を潜めるように静まっている。

 ガルナが低く言った。

「ミリア」

「わかってる」

 ミリアは答えた。

 でも、何がわかっているのか、自分でもわからなかった。

 欲しいと言えば、ネリスは傷つかずに済むのかもしれない。

 少なくとも、今ここで消えることは避けられるかもしれない。

 自分がネリスを所有する。

 自分のものにする。

 それは、首輪の文法だ。

 けれど。

 いらないと言えば、ネリスは消えるかもしれない。

 欲しいと言えない。

 いらないとも言えない。

 でも、その二つの間で黙っていれば、またネリスを宙に吊るす。

 ミリアは首飾りに触れた。

 白い光が、今にも消えそうに揺れている。

「ネリス」

「はい」

 また敬語に戻った。

 声が遠くなる。

「聞いて」

「はい」

「私は」

 喉が痛い。

 首輪が、言葉を待っている。

 ユーレナも待っている。

 闇の中の輪たちも待っている。

 欲しいか。

 いらないか。

 どちらかを言え、と。

 ミリアは息を吸った。

「欲しくない」

 ネリスの白い光が止まった。

 ガルナが息を呑む気配がした。

 ユーレナが、かすかに微笑んだ。

 ネリスの声がした。

「そう」

 とても小さな声だった。

「そう、だよね」

 ミリアの胸が痛んだ。

 その痛みを飲み込んで、彼女は続けた。

「でも、消えてほしくない」

 白い光が、かすかに揺れた。

 ユーレナの微笑みが消えた。

「何を」

 彼女が言う。

 ミリアは首飾りを両手で握った。

「私は、あなたを欲しくない」

 言葉を選ぶ。

 一つずつ。

 首輪に食われないように。

「首輪として欲しくない。私のものとして欲しくない。私を守る道具として欲しくない。私の首に巻きついて、私だけを見て生きるものとして欲しくない」

 ネリスの光が震えている。

「でも、消えてほしくない」

 ミリアは言った。

「私のものにならなくていい」

 首輪が激しく鳴った。

 ちりん、ちりん。

「首輪じゃなくていい」

 闇の中の輪たちがざわめく。

「誰かの役目にならなくていい。私を助けるための道具にならなくていい。ガルナを縛ったものでも、私を縛るものでも、誰かへ移るものでもなくていい」

 声が震えた。

「ただ、消えないで」

 首輪が喉を締める。

 ミリアは耐えた。

「私のものじゃなくていい。私があなたを所有しなくていい。あなたが私に所有されなくていい」

 ネリスの声が、首輪の奥で震えた。

「じゃあ、私は」

「勝手についてくればいい」

 その言葉が、闇の中に落ちた。

 音が止まった。

 首輪の心臓の鼓動も。

 壊れた輪たちのざわめきも。

 ユーレナの呼吸も。

 全部が、一瞬止まった。

 ミリアは、もう一度言った。

「勝手についてくればいい」

 涙が頬を伝った。

「私が欲しいと言わなくても。あなたが私のものにならなくても。あなたが首輪じゃなくても。許したわけじゃなくても。怒っていても。何て呼べばいいかわからなくても」

 白い光が、少しずつ広がる。

「ついてくるなら、勝手に来ればいい」

 ネリスの声が、聞こえた。

「それは」

 震えている。

「それは、何?」

 ミリアは首を振った。

「わからない」

「契約ではない」

「うん」

「所有でもない」

「うん」

「役目でもない」

「うん」

「では、私は何になるの」

 ミリアは答えられなかった。

 でも、今度は黙らなかった。

「一緒に考える」

 白い光が、大きく揺れた。

「名前がないなら、後でつける。形がないなら、歩きながら決める。あなたが怖いなら怖いって言って。私が怒っているなら怒っているって言う。ガルナが無理したら止める。誰か一人が答えにならないように」

 ガルナが低く笑った。

「私も入っているのか」

「入ってます」

「そうか」

 ユーレナが一歩前へ出た。

「そんなものは契約ではありません」

「そうでしょうね」

 ミリアは答えた。

「契約には、欲しい者と譲る者が必要です。所有する者と所有される者が必要です。役目を定めなければ、力は流れない」

「なら、流れなくていい」

「世界はそれでは回らない」

「回らないなら、押して歩く」

 リィナの声が、外から届いた。

 ミリアは振り返らなかった。

 でも、聞こえた。

「車輪が壊れても、みんなで押せば少しは進む」

 ロゼリアの声。

「名前のない関係にも、言葉は後から追いつきます」

 イリゼの声。

「器でなくても、手は伸ばせます」

 セレナの声。

「誓約でなくても、剣は守れます」

 リュシエラの声。

「王家一人でなくても、国は朝を迎えます」

 カヤの声。

「犠牲にならなくても、怖いと言えます」

 それぞれの声が、闇の中へ届いた。

 ユーレナの黒い輪が震えた。

「未完成な言葉ばかり」

「そうです」

 ミリアは言った。

「でも、未完成でも、首輪よりましです」

 首輪の心臓が大きく鳴った。

 どくん。

 黒い光が噴き上がる。

 ユーレナの姿が揺らぎ、背後の黒い輪と重なった。

「不完全な選択は、いずれ誰かを苦しめる」

「完全な犠牲も、誰かを苦しめてきた」

 ガルナが言った。

 彼女が前へ出る。

「私はそれを知っている」

 ガルナの体から、再び黒金色の魔力が立ち上がった。

 ミリアは振り返る。

「ガルナ、まだ」

「少しだけだ」

「その少しが信用できません」

「今度は、おまえたちに渡す」

 ガルナは自分の胸に手を当てた。

「首輪に食わせるのではない。ネリスに渡す。首輪から切り離されたあと、消えぬように」

「そんなこと、できるんですか」

「わからぬ」

 ガルナは言った。

「だが、ネリスは長く私の喉にいた。私の魔力を覚えている。首輪が繋いでいた縁を、今度は私の意思で、別の形にする」

「それも契約では」

 ミリアは不安になった。

 ガルナは頷いた。

「契約だろうな」

「ガルナ」

「だが、押しつけない」

 ガルナは首輪の中の白い光へ向かって言った。

「ネリス。受け取るか」

 沈黙。

 白い光が震える。

「私が、選ぶの?」

 ネリスの声だった。

「ああ」

 ガルナは答えた。

「私の魔力の一部を渡す。おまえを私のものにするためではない。私の罪を消すためでもない。おまえが首輪から離れたあと、少しでも形を保つためだ」

「でも、ガルナが」

「弱る」

「だめ」

「だめか」

「だめ」

「では、少しだけにする」

 ミリアは思わず言った。

「二人とも、少しだけが信用できない」

 ガルナは少し笑った。

「なら、おまえが見張れ」

 ネリスの声が震えた。

「受け取っても、いいの?」

 ガルナは静かに答えた。

「いいかどうかを私に聞くな。おまえが決めろ」

 ネリスは長く黙った。

 闇の中で、首輪の心臓が歪んでいる。

 ユーレナが黒い輪と重なりながら、こちらを睨んでいる。

 それでも、ネリスは急がなかった。

 やがて、小さな声がした。

「受け取ります」

 ガルナの金色の目が少しだけ柔らかくなった。

「では、受け取れ」

 黒金色の魔力が、首輪へではなく、その内側の白い光へ流れた。

 首輪が激しく拒んだ。

 ちりん、ちりん、ちりん。

 それは自分の中にあるものを、自分以外の縁で保たれることを嫌がっている音だった。

 ユーレナが叫んだ。

「それは契約の形ではない!」

「そうか」

 ガルナは歯を食いしばりながら言った。

「なら、初めて見るがいい」

 ミリアは首飾りを握った。

「ネリス」

「はい」

「怖い?」

「怖い」

「消えたい?」

「消えたくない」

「私のものになりたい?」

 少しの沈黙。

「なりたかった」

 ネリスの声は震えていた。

「あなたのものになれば、場所がもらえると思った。役目がもらえると思った。消えずに済むと思った」

「うん」

「でも」

 白い光が、首輪の亀裂から漏れ始める。

「今は、あなたのものにならなくても、そばにいていいのか知りたい」

 ミリアは泣きながら頷いた。

「いい」

「首輪じゃなくても?」

「うん」

「呪いから生まれていても?」

「うん」

「あなたを騙したことが消えなくても?」

「消えない」

 ミリアははっきり言った。

「でも、消えなくても、あなたは消えなくていい」

 その瞬間、首輪の亀裂が大きく広がった。

 黒い心臓が悲鳴を上げる。

 欲しい。

 譲る。

 縛る。

 闇の中で、古い言葉が暴れた。

 欲しい。

 譲る。

 縛る。

 その三つが、首輪の骨だった。

 誰かが欲しがり、誰かが譲り、誰かを縛る。

 それで呪いは何度も生き返ってきた。

 だが、ミリアの言葉は、そのどれでもなかった。

 欲しくない。

 でも、消えてほしくない。

 私のものにならなくていい。

 首輪じゃなくていい。

 勝手についてくればいい。

 それは契約ではなかった。

 命令でもなかった。

 所有でも、譲渡でも、犠牲でもなかった。

 だから、首輪は受け取れなかった。

 首輪が受け取れない言葉が、首輪の中心へ届いた。

 黒い心臓に、白い亀裂が走った。

 ユーレナが叫んだ。

「そんな曖昧なものに、力など」

「ある」

 ガルナが言った。

「少なくとも、私をここまで連れてきた」

 外から声が届く。

「私も」

「私も」

「私も」

 リィナ。

 ロゼリア。

 イリゼ。

 セレナ。

 リュシエラ。

 カヤ。

 誰も完全ではない。

 誰も完全に救われたわけではない。

 それでも、自分の言葉でそこにいる。

 黒い心臓が、さらに割れた。

 首輪の内側から、白い蛇が現れた。

 最初は光だった。

 細い、切れそうな光。

 それが少しずつ形を取り、小さな白蛇になった。

 ミリアは息を止めた。

 ネリス。

 白蛇は、首輪の輪の内側で震えている。

 外へ出ようとしているのに、首輪が離さない。

 ミリアは両手を伸ばした。

「ネリス」

 白蛇がミリアを見た。

 黒い小さな目。

 森で初めて見たときと同じようで、違う目。

「来て」

 ミリアは言いかけて、止まった。

 命令にしたくなかった。

 言い直す。

「来るなら、来て」

 白蛇が震えた。

「行っても、いい?」

「うん」

「あなたのものじゃなくても?」

「うん」

「首輪じゃなくても?」

「うん」

「勝手に?」

「勝手に」

 白蛇が、首輪の亀裂から身を滑らせた。

 その瞬間、首輪が最後の力で締まった。

 ミリアは息が止まった。

 喉が焼ける。

 視界が白くなる。

 ユーレナの声が響く。

「離れれば、どちらも壊れる!」

 ガルナが叫んだ。

「ネリス!」

 黒金色の魔力が、白蛇へ流れる。

 外から、リュシエラの血契約の光が細く差し込む。イリゼの祈りではない歌が響く。セレナの剣が黒い鎖を断ち、ロゼリアの破った契約文が白い紙片となって舞い、リィナが祭壇に残る帳面の木札を蹴り飛ばす。カヤが胸の痣に手を当て、墓場の声を一人で受けず、谷へ返す。

 すべてが同時だった。

 白蛇が首輪から抜けた。

 首輪が割れた。

 音は小さかった。

 ぱきん。

 それだけだった。

 あれほど長くミリアの喉に巻きついていたものが、あまりに小さな音で割れた。

 白い輪は二つに裂け、光を失い、ミリアの足元へ落ちた。

 喉が軽い。

 軽すぎて、ミリアは自分の首がなくなったように感じた。

 息を吸う。

 痛い。

 だが、息が入る。

 自分の喉に。

 自分の息が。

 ミリアは膝をついた。

 その手の中に、小さな白蛇が落ちてきた。

 あまりに軽い。

 冷たい。

 透けている。

 だが、いた。

 ネリスは、いた。

「ネリス」

 ミリアは呼んだ。

 白蛇は動かない。

「ネリス」

 二度目。

 白蛇の小さな頭が、かすかに動いた。

「はい」

 声は、耳で聞こえた。

 喉の奥ではなく。

 首輪の内側ではなく。

 ミリアの手の中から聞こえた。

 ミリアは泣いた。

 声を上げずに、ただ涙が落ちた。

 白蛇は、その涙が当たって驚いたように身じろぎした。

「濡れます」

「ごめん」

「謝らないで」

「うん」

 ミリアは笑いながら泣いた。

 ガルナが膝をついた。

 かなり無理をしたのだろう。顔色はひどく悪い。それでも、彼女は手の中の白蛇を見て、長く息を吐いた。

「残ったか」

「はい」

 ネリスは小さく答えた。

「かなり、小さいですが」

「前から小さかった」

 ガルナが言う。

「ひどいです」

「戻ったな」

 その一言に、ネリスは黙った。

「はい」

 小さな声だった。

 黒い心臓は崩れていた。

 ユーレナの姿も、揺らいでいる。

 完全に消えるわけではないのかもしれない。彼女は契約の残り香のような存在だから。だが、少なくとも今までのような形は保てなくなっていた。

「こんな曖昧な言葉で」

 ユーレナが呟いた。

「世界は保てない」

 ミリアは立ち上がれなかった。

 だから、膝をついたまま答えた。

「保てないかもしれない」

 喉が痛む。

 でも、自分の声だった。

「でも、誰か一人の首で保つ世界なら、変えたほうがいい」

 ユーレナはミリアを見た。

「変えるには、長い時間がかかります」

「でしょうね」

「途中で裏切る者も出ます。誰かに押しつけたほうが楽だと言う者も、また現れます」

「いるでしょうね」

「あなたは、全部を止められない」

「止められない」

 ミリアは認めた。

「でも、今ここで、ネリスを首輪にしなかった」

 白蛇がミリアの手の中で震えた。

「それは、できた」

 ユーレナはしばらく黙っていた。

 やがて、黒い輪が砕け始めた。

「ならば、見ていましょう」

 彼女は言った。

「あなたたちが、どれほど長く曖昧な言葉に耐えられるか」

 その声は遠くなっていく。

「人はまた、輪を欲しがります」

「そのときは」

 ミリアは言った。

「また誰かが、欲しくないって言えばいい」

 ユーレナの姿が消えた。

 黒い心臓も、ゆっくり崩れた。

 闇の中に浮かんでいた無数の輪が、ひとつずつ光を失っていく。壊れた首輪、鎖、冠、腕輪、血石。すべてが消えるわけではない。だが、中心へ痛みを送り返す力は、もう失われていた。

 首輪の心臓は、止まった。

     *

 黒い円の外へ戻ったとき、夜明けが近かった。

 契約谷の底には、薄い青い光が差し始めている。

 壊れた契約具たちは、まだそこにあった。

 首輪も、鎖も、冠も、腕輪も、血石の欠片も。

 だが、もう前のようにざわめいてはいなかった。

 墓場になっていた。

 初めて、本当に。

 リィナたちが駆け寄ってきた。

 ミリアは何か言おうとしたが、喉が痛んで声がうまく出なかった。

 それでも、手の中の白蛇を見せると、みんなが息を呑んだ。

「ネリスさん?」

 イリゼが聞く。

 白蛇はかすかに頭を上げた。

「はい」

「小さい」

 リィナが思わず言った。

 ロゼリアが肘でつつく。

「リィナさん」

「だって、本当に小さい」

 ネリスは小さく息を吐いた。

「否定できません」

 その返事に、場の空気が少しだけ緩んだ。

 セレナがミリアの首元を見る。

「外れたのか」

 ミリアは頷いた。

 喉に触れる。

 何もない。

 首輪は、もうない。

 だが、皮膚には薄い白い痕が残っていた。

 輪の痕。

 痛みの痕。

 忘れないための痕。

 ロゼリアが静かに言った。

「痕は、残るのですね」

「はい」

 ミリアは答えた。

「でも、もう締めません」

 リュシエラが深く息を吐いた。

「よかった」

 カヤが前へ出た。

 彼女は泣いたあとで目が赤かった。

 だが、顔は少しだけ晴れていた。

「私は」

 カヤは言った。

「最後の犠牲者にならなくても、まだ何かできますか」

 ミリアは答えようとして、喉が痛んだ。

 代わりに、リィナが言った。

「できるでしょ」

 ロゼリアが続ける。

「声を聞いてきた人にしか、書けない記録があります」

 イリゼが言う。

「痛いと言える人のそばに、いてあげることもできます」

 セレナが言う。

「必要なら、護衛をつける」

「それは少し物騒です」

 リュシエラが微笑む。

「王宮にも、墓場の声を聞いた人が必要です。けれど、来るかどうかはあなたが決めてください」

 カヤは何度も頷いた。

 ミリアはそれを見て、少しだけ笑った。

 喉は痛い。

 体も疲れている。

 首輪は外れたのに、まだ重さが残っている。

 でも、手の中に白蛇がいる。

 それだけで、立っていられる気がした。

 ガルナがふらりとよろめいた。

 ミリアは慌てて支えようとしたが、体格差でほとんど支えにならなかった。

 セレナがすぐに反対側から支える。

「魔物でも倒れるのか」

 セレナが言うと、ガルナは不機嫌そうに答えた。

「倒れぬ。少し地面に近づいただけだ」

「それを倒れかけたと言う」

「騎士は細かい」

「魔物が雑すぎる」

 リィナが笑った。

 ネリスも、ミリアの手の中でほんの少し身じろぎした。

 ガルナはネリスを見た。

「魔力は足りるか」

「少し」

「少しだけか」

「はい」

「なら、また少し渡す」

 ミリアはすぐに言った。

「だめです」

 ガルナが眉を上げる。

「少しだ」

「その少しが信用できないと言ったでしょう」

「では、あとで相談する」

「はい。三人で」

 ネリスの声が小さくした。

「三人で」

 その言葉に、ミリアは手の中の白蛇をそっと見た。

 ネリスは弱々しい。

 半透明で、今にも光に溶けそうだ。

 少女の姿に戻れるかどうかもわからない。

 完全なハッピーエンドではない。

 これからも、ネリスは不安定だろう。

 ガルナの魔力に少し支えられ、ミリアのそばで、ゆっくり自分の形を探すことになる。

 首輪の精ではなく、首輪ではない何かとして。

 それが何なのかは、まだ誰にもわからない。

 でも、わからなくていい。

 今すぐ名前をつけなくていい。

 ミリアは白蛇にそっと言った。

「勝手についてくる?」

 白蛇はしばらく黙っていた。

 それから、ミリアの手の中で、小さく丸まった。

「勝手に」

 ミリアは笑った。

 ガルナが空を見上げる。

 谷の上に、朝日が差し始めていた。

 夜明けの月は、まだ空に残っている。

 輪には少し足りない、薄い月だった。

 でも、その欠けた白さが、今は妙に美しく見えた。

 ミリアは喉に触れた。

 首輪はない。

 痕だけがある。

 手の中には、小さな白蛇。

 隣には、ふらつきながらも立っている魔物。

 背後には、自分の言葉を取り戻した女たち。

 世界はまだ、誰か一人に役目を押しつける癖をやめたわけではない。

 またどこかで、首輪に似たものが作られるかもしれない。

 ユーレナの言った通り、人はまた輪を欲しがるかもしれない。

 それでも。

 今ここでは、ひとつの首輪が外れた。

 誰かに渡されることなく。

 誰かを最後の犠牲者にすることなく。

 首輪の精を消しきることもなく。

 ミリアは手の中の白蛇を袖口へ近づけた。

 白蛇は少し迷い、それから、昔のように袖の中へ入ろうとして、途中で止まった。

「どうしたの」

「ここに入ると」

 ネリスの声は小さい。

「また、前の場所に戻ったみたいで」

 ミリアは袖口を見た。

 確かに、そこは旅の間ずっとネリスの場所だった。

 隠れる場所。

 眠る場所。

 ミリアの近くにいる場所。

 けれど、今は少し違うのかもしれない。

「じゃあ、どこがいい?」

 ネリスはしばらく考えた。

 それから、ミリアの手首にゆっくり巻きついた。

 首ではなく。

 喉ではなく。

 手首に。

 軽く、ほどけるくらいに。

 ミリアは息を止めた。

「そこ?」

「はい」

「きつくない?」

「きつくしません」

「そうじゃなくて、あなたが」

「大丈夫ではありません」

「うん」

「でも、ここがいいです。今は」

 ミリアは頷いた。

「わかった」

 手首に、白蛇の冷たさがある。

 首輪ではない。

 縛っていない。

 いつでもほどける。

 それでも、そこにいる。

 ガルナが横から言った。

「腕輪か」

 ミリアとネリスが同時にガルナを見た。

「違います」

 ミリアが言う。

「違います」

 ネリスも言う。

 ガルナは少しだけ笑った。

「そうか」

 朝日が、谷の底へ届いた。

 壊れた契約具たちが、静かに光った。

 もう誰かを呼んでいるのではない。

 ただ、そこにあったことを、忘れないでほしいように。

 ミリアは一度だけ、その墓場に頭を下げた。

 誰かが差し出したもの。

 誰かに押しつけられたもの。

 美しいと言われて消費されたもの。

 その全部へ。

 それから、顔を上げた。

「行こう」

 ミリアが言うと、ガルナが頷いた。

 手首の白蛇が、小さく身じろぎした。

 三人は、契約谷を後にした。

 背後で、壊れた鎖が風に鳴る。

 それはもう、首輪の音ではなかった。

 ただの、朝の音だった。


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