終章 もう犠牲者は探さない
首輪が外れても、朝は特別な顔をしてくれなかった。
空はいつものように明るくなり、草には露がつき、鳥は事情を知らない声で鳴いた。契約谷を出る道は細く、石段は欠け、足元にはまだ古い白い石の粉が残っていた。
ミリアは何度も、自分の喉に触れた。
そこには、もう首輪はない。
だが、何もないわけでもなかった。
薄い白い痕が、喉を一周している。痛みは強くない。けれど、ふとした拍子にひりつく。水を飲むとき、声を出すとき、夜に目を覚ましたとき。そのたびに、あの輪が本当にあったのだと体が思い出す。
忘れられない。
忘れてはいけないのかもしれない。
手首には、小さな白蛇が巻きついていた。
輪ではない。
縛っているのでもない。
指を入れればすぐほどけるくらい、ゆるく、頼りない巻きつき方だった。
ネリスは生き残った。
ただし、生き残ったという言葉が似合うほど、しっかりした姿ではない。白蛇の体は半透明で、朝の光に透ける。ときどき眠りが深くなりすぎて、呼んでも返事が遅れる。少女の姿に戻れるのは、ほんの短い時間だけだった。
それでも、いる。
喉の奥ではなく。
首輪の内側ではなく。
ミリアの手首に、自分で選んでいる。
ガルナは、少し離れて歩いていた。
大きな黒い外套を肩にかけ、いつものように先頭へ出ようとしては、足元でふらつき、何もなかった顔をする。魔力を分けた代償は小さくなかった。金色の目の光はまだ強いが、以前のように山そのものが歩いているような圧は薄れている。
「大丈夫ですか」
ミリアが聞くと、ガルナは前を向いたまま答えた。
「大丈夫ではない」
「よし」
「その返事も、そろそろどうかと思うぞ」
「ちゃんと言ったからです」
「言わされている気もする」
「言えるようになったんです」
ガルナは少しだけ笑った。
「おまえは、時々ひどく強引だ」
「ガルナに言われたくありません」
「それはそうだな」
そう言って、ガルナはまた歩いた。
ミリアはその背中を見た。
ガルナは、まだ許されたわけではない。
ミリアに首輪を押しつけたこと。
自由になるために、別の誰かを縛ったこと。
それは消えない。
ネリスがガルナを縛っていたことも、ネリスがミリアを騙したことも、消えない。
ミリアが怒ったことも。
ネリスを許せず、それでも消えてほしくなかったことも。
ガルナを責めたいのに、倒れれば手を伸ばしてしまうことも。
何一つ、きれいに終わってはいない。
けれど、きれいに終わらなかったからこそ、まだ続けられるのかもしれなかった。
*
契約谷の出口では、リィナたちが待っていた。
リィナはカヤに干した果物を渡していた。カヤは少し戸惑いながら、それを両手で受け取っている。ロゼリアは崩れた石柱に腰を下ろし、何かを書きつけていた。イリゼは谷のほうへ静かに祈るように目を閉じているが、それは神殿の祈りではなかった。セレナは周囲を見張り、リュシエラは妹のエルナと何かを話している。
みんな、それぞれの場所へ戻っていくのだろう。
完全に解放されたわけではない。
問題は残っている。
村の借金も、家の名誉も、神殿の仕組みも、領地の腐敗も、王家の契約も、カヤの短い命も。
何も一夜で解決しない。
それでも、彼女たちはもう、ただの犠牲者候補ではなかった。
自分の言葉を持っている。
ミリアが近づくと、リィナが最初に気づいた。
「首、本当に軽そうだね」
そう言われて、ミリアは喉に触れた。
「軽いよ」
「いいな」
リィナはそう言ってから、すぐに首を振った。
「いや、違うな。いいなって言うのも変だね」
「変じゃないよ」
ミリアは答えた。
「私も、軽くて少し怖い」
「怖いんだ」
「うん。首輪がないのに、まだある気がする」
リィナは真面目な顔で頷いた。
「私も、帳面に名前を書かれてないのに、まだどこかに書かれてる気がすることがある」
ミリアはリィナを見た。
リィナは笑った。
「でも、見つけたら消すよ」
「うん」
「消せなかったら?」
「誰かに見せる」
ミリアが言うと、リィナは少し驚いて、それから笑った。
「そうだね。一人で読まなくていいもんね」
その言葉が、朝の風に混じった。
ロゼリアが近づいてきた。
「あなたの旅について、記録を残してもよいですか」
「私の?」
「はい。首輪の旅。あるいは、誰か一人を器にしないための旅」
「大げさです」
「大げさなくらいで、ようやく届くこともあります」
ロゼリアは静かに微笑んだ。
「もちろん、あなたが嫌なら書きません」
ミリアは少し考えた。
「私だけの話にしないでください」
「ええ」
「リィナも、ロゼリアさんも、イリゼも、セレナさんも、リュシエラ王女も、カヤも。ガルナも、ネリスも」
ネリスが手首で小さく身じろぎした。
「私も?」
「入るよ」
ミリアが言うと、ネリスは黙った。
その沈黙は、困惑に近かった。
まだ、自分が記録されてよい存在だと思えないのだろう。
ロゼリアは手首の白蛇に向かって、丁寧に頭を下げた。
「あなたのことも、首輪としてではなく、あなたとして書きます」
ネリスは長い間、何も言わなかった。
やがて、小さな声で答えた。
「お願いします」
ミリアは、その声を聞いて胸が少し温かくなった。
*
谷を離れる前に、リュシエラがミリアへ小さな袋を渡した。
「路銀です」
「受け取れません」
「受け取ってください。王宮の宝ではありません。私と妹たちの私物を少し売りました」
「なおさら受け取れません」
「では、貸しです」
リュシエラは微笑んだ。
「いつか返しに来てください。そのとき、王宮が少しでもましになっているか、見てほしいのです」
「まし、ですか」
「はい。完全ではなくても」
ミリアは袋を見た。
完全ではなくても。
その言葉は、今の彼女には前より少し優しく聞こえた。
「では、借ります」
「ええ」
リュシエラは頷いた。
セレナはガルナの前に立っていた。
「あなたは、これからどこへ」
「知らぬ」
ガルナが答える。
「知らぬ?」
「ミリアが歩くところへ行く」
ミリアは振り返った。
「私が決めるんですか」
「嫌なら別に行く」
「嫌とは言ってません」
「なら、決まりだ」
「勝手ですね」
「魔物だからな」
セレナが少し笑った。
「あなたも、誓約なしで誰かについていくことがあるのだな」
ガルナは一瞬、嫌そうな顔をした。
「ついていくのではない。見張るのだ」
「何を」
「ミリアが、また面倒なものに首を突っ込まぬように」
ミリアは抗議しようとしたが、リィナが先に笑った。
「無理じゃない?」
イリゼも小さく頷く。
「たぶん、突っ込むと思います」
「みんなして何ですか」
ミリアが言うと、カヤが初めて少し笑った。
その笑いは、弱いけれど、犠牲者になる前の静かな笑みではなかった。
怖いと言ったあとの笑みだった。
*
昼前に、それぞれが別れた。
リィナは村へ戻る。
ロゼリアは王都へ。
イリゼは神殿町へ。
セレナは領地へ。
リュシエラは王宮へ。
カヤはしばらくリュシエラに同行することになった。王宮で、墓場の声について記録を残すという。
別れは、不思議と寂しすぎなかった。
また会う気がした。
誰か一人を縛る仕組みは、世界のあちこちに残っている。ならば、彼女たちの道も、どこかでまた交わるだろう。
ミリアは、ガルナとネリスと三人で、古い街道へ戻った。
どこへ行くのか、まだはっきりとは決めていない。
ただ、旅の名前は変わった。
もう、次の犠牲者を探す旅ではない。
誰かに首輪を渡すための旅ではない。
誰かの優しさを、自分の自由の代金にする旅でもない。
世界に残る、誰か一人を縛る仕組みを探す旅。
それを少しずつ、ほどいていく旅。
大きすぎる目的だと、ミリアは思う。
自分はただの薬草採りの娘だ。
王女でも、聖女でも、騎士でも、魔物でもない。
何かをすべて変える力などない。
それでも、首輪は外れた。
誰かに渡すことなく。
誰かを最後の犠牲者にすることなく。
ネリスを消しきることなく。
それだけは、本当に起きたことだった。
ならば、次の場所でも、何か一つくらいはほどけるかもしれない。
ミリアは手首を見る。
ネリスは、そこにいなかった。
「あれ?」
袖口を覗く。
いない。
胸元の布にも、籠の縁にもいない。
「ネリス?」
呼ぶと、道端の草むらがかすかに揺れた。
白い小さな頭が、ひょこりと出る。
ミリアは息を吐いた。
「勝手に離れないで」
「勝手についてくればいいと言われました」
ネリスの声は小さいが、どこか少しだけ得意そうだった。
「勝手に迷子になっていいとは言ってない」
「迷子ではありません。薬草を見ていました」
「薬草?」
ミリアが近づくと、白蛇は草の根元を指すように頭を動かした。
そこには、小さな青い花が咲いていた。
「青銀苔の近くに咲く花です」
ネリスが言った。
「傷に効きます」
ミリアはしゃがみこんだ。
「よく知ってるね」
「あなたが、森で私に使いました」
その言葉に、ミリアは黙った。
最初の日。
罠にかかった白い蛇。
青銀苔。
助けたと思った。
そして騙された。
すべての始まりだった。
ネリスも同じことを思い出したのだろう。
白蛇の体が、少しだけ縮こまった。
ミリアは花に触れた。
「摘んでおこう」
「はい」
「旅には必要だから」
「はい」
ミリアは丁寧に花を摘み、籠に入れた。
ガルナが後ろから見ている。
「拾うのか」
彼女が言った。
「おまえを騙した蛇だぞ」
ミリアは袖口から顔を出した白蛇を見た。
白蛇は少しだけ身をすくめた。
昔なら、泣きそうに笑ったかもしれない。
今は、笑わなかった。
ただ、怖そうにミリアを見ていた。
ミリアは言った。
「拾わないよ」
白蛇の体が、わずかに固まる。
ミリアは続けた。
「でも、ついてくるなら勝手にすればいい」
白蛇はしばらく迷った。
本当に迷っていた。
袖に入るのか、草むらに戻るのか、手首に巻きつくのか、自分で考えているようだった。
やがて、白蛇はするするとミリアの袖口へ近づいた。
一度、そこで止まる。
「袖でいいの?」
ミリアが聞くと、ネリスは小さく答えた。
「今は」
「うん」
「でも、ずっとではないかもしれません」
「うん」
「手首がいい日もあるかもしれません」
「うん」
「歩きたい日も」
「そのときは歩けばいい」
白蛇は、少しだけ安心したように袖の中へ戻った。
重さはほとんどない。
けれど、たしかにいる。
ガルナが笑った。
「まったく。おまえは最後まで、誰も縛らないのだな」
「縛らないよ」
ミリアは歩き出した。
古い街道の先には、まだ知らない町がある。
知らない契約がある。
名前を変えた首輪が、誰かの喉や手首や心に巻きついているかもしれない。
それを全部ほどけるとは思わない。
でも、一つずつなら。
一人ずつなら。
言葉を聞くことくらいはできる。
ミリアは喉の痕に一度だけ触れた。
それから、袖の中の白蛇に触れないように、少しだけ腕を動かした。
「縛らないよ」
もう一度、ミリアは言った。
「でも、置いてもいかない」
ガルナが隣へ並んだ。
袖の中で、白蛇が小さく身じろぎした。
三人の影が、昼の街道に伸びていく。
今度は、誰かを探すためではなく。
誰かを置いていかないために。




