第二部 第十五話「渡す者」
浅瀬の真ん中の、小さな中州。
その上に、銀色の巨大な狼と、地面に座り込んだ大男が、向かい合っていた。
月が、雲の隙間から顔を出した。水面が、静かに、青白く光る。
アルは、ゆっくりと、浅瀬に足を踏み入れた。
冷たい水が、足首を洗う。一歩、また一歩。ドンの甲羅の横を通り抜けると、岩亀が、のっそりと、アルを見送った。
「アルさん」
ミナトが、小さく言った。
「ドンが、ここ、守ってます」
「ありがとう」
アルは、中州に上がった。
狼が、低く唸った。
ボルグが、座ったまま、アルを見上げた。
「……預ける、って」
「ええ」
「何を、預ければいい」
アルは、ボルグの隣にしゃがんだ。
「ボルグさんが、ドラゴンに、約束できることです」
「約束……」
「強くしてやる、は、約束できないでしょう」
ボルグは、苦しそうに、唇を噛んだ。
「ああ」
「じゃあ、何なら、約束できますか」
ボルグは、狼の目を見た。
狼は、光る目で、ボルグを見ていた。
「……そばに、いる」
ボルグが、言った。
「置いていかない。……お前が、怖がっても、暴れても、俺は、そばにいる」
狼の唸り声が、わずかに、小さくなった。
「それから」
ボルグは、ごそごそと、懐に手を入れた。
取り出したのは、折り畳まれた、一枚の紙だった。
皺だらけで、端が破れかけている。
「これ」
「引き取りの、書類ですね」
「ああ。ギルドで、サインしたやつだ」
ボルグは、紙を広げた。
月明かりに、小さな文字が浮かび上がる。
〈この魔物が起こした損害は、すべて、引受人の負担とする〉
ボルグは、その一行を、指でなぞった。
「俺は、これを、ただの規則だと思ってた」
「……」
「面倒な決まりだって。サインすりゃ、終わりだって」
ボルグの声が、震えた。
「でも、違うんだな」
「ええ」
「これは、約束なんだな。……この子が、何を壊しても、誰を傷つけても、俺が、引き受けるっていう」
アルは、ゆっくりと、頷いた。
「俺も、三回、サインしました」
「三回」
「青と、司書と、猫。毎回、『損害は引受人の負担』って書いてあった」
アルは、小さく笑った。
「毎回、面倒だと思ってました。でも、いつの間にか、それが、こいつらの、居場所の形になってた」
「居場所の、形」
「責任を引き受けるって、居場所をつくることなんだと、思います」
ボルグは、書類を、ぎゅっと握りしめた。
そして、ゆっくりと、狼に向かって、言った。
「ドラゴン」
狼の耳が、ぴくりと動いた。
「……いや。違うな」
ボルグは、首を振った。
「お前の、名前は、そうじゃない」
深く、息を吸う。
「そばで、待つ者」
狼の体が、びくりと、震えた。
「お前が、何になっても、強くなくても、俺が、そばにいる。損害も、全部、俺が引き受ける」
ボルグの目から、一筋、涙が落ちた。
「俺が、お前の、飼い主だ」
その瞬間、狼の頭上の文字が、ぎり、と軋んだ。
〈ドラゴン〉が、ひび割れる。
その下から、灰色の文字が、ぎりぎりと、せり上がってくる。
けれど、まだ、足りなかった。
二つの文字は、お互いにぶつかり合って、火花を散らしている。
「……ここからは、俺が」
アルが、立ち上がった。
「渡します」
アルは、ボルグの手から、書類と、皺だらけの紙を、そっと受け取った。
そして、両手に、二枚を持った。
狼の前に、一歩、進む。
狼が、牙を剥いた。
「グルルル……」
「大丈夫」
アルは、静かに言った。
「俺は、お前を、止めに来たんじゃない」
狼の目が、揺れた。
「渡しに来たんだ」
アルは、片膝をついて、狼と目の高さを合わせた。
「これは、ボルグさんの、約束だ」
書類を、狼の目の前に、差し出す。
「お前が、何を壊しても、ボルグさんが、引き受ける。置いていかない。そばにいる」
もう一枚の紙を、重ねる。
「そして、これは、お前の、名前だ」
〈そばで、待つ者〉
「ボルグさんが、お前に、呼んだ名前だ」
狼は、動かなかった。
唸り声が、止まっていた。
「俺は、渡すだけ」
アルは、微笑んだ。
「受け取るかどうかは、お前が、決めていい」
浅瀬の水が、さらさらと流れる音だけが、聞こえていた。
青が、ドンの隣で、小さく声を上げた。
「アルの頭に、字が出てる」
「え」
誰も、気づいていなかった。
アルの頭上に、淡い光の文字が、静かに浮かんでいた。
〈渡す者〉
その光が、アルの両手に、ふわりと降りてきた。
紙の上の文字が、光を帯びる。二枚の紙が、一枚に溶け合うように、輝き始めた。
狼は、じっと、その光を見つめていた。
それから、ゆっくりと、頭を下げた。
鼻先を、アルの手に、そっと、触れさせる。
光が、爆ぜた。
青白い光が、中州を包んだ。
水面が、きらきらと輝く。ドンの甲羅が、淡い光を反射して、星のように光った。
狼の頭上で、〈ドラゴン〉の文字が、ぱらぱらと砕けて、水に溶けていく。
代わりに、灰色だった文字が、すうっと、澄んだ色に変わっていった。
〈そばで 待つ者〉
その文字が、静かに、狼の頭上に定着した。
次の瞬間、狼の体が、しゅるしゅると、縮み始めた。
額の角が、引っ込む。銀色に光っていた毛が、元の灰色に戻る。肩の高さが、胸から、腰へ、膝へ。
最後に、大型犬より少し小さい、普通の狼が、そこにいた。
狼は、きょとんとした顔で、周りを見回した。
それから、ボルグの顔を見て、小さく、くうん、と鳴いた。
「……ドラ」
ボルグは、言いかけて、止まった。
それから、ゆっくりと、手を差し出した。
「……おいで」
狼は、少しだけ、迷った。
それから、ボルグの手に、そっと、頭を預けた。
大きな手が、狼の頭を、ゆっくりと、撫でた。
「……ごめんな」
ボルグの声が、かすれていた。
「待たせて、ごめん」
狼は、目を閉じた。
尻尾が、ぱた、ぱた、と、地面を叩いた。
中州を覆っていた光が、すっと消えた。
「……三分、だ」
ガルドの声が、岸から聞こえた。
アルが、振り返る。
岸辺では、騎士たちが、剣を構えたまま、固まっていた。隊長が、口を半開きにして、中州を見つめている。
「……何だ、今のは」
「名を、呼び直したのだ」
ガルドが、静かに言った。
「正しい名と、呼ぶ者の責任を、渡した」
「……責任を」
「ああ」
隊長は、剣を、ゆっくりと下ろした。
「……三十分まで、あと三分ある」
「ええ」
「だが」
隊長は、苦しそうに、言葉を探した。
「……私は、何を見ていた」
誰も、答えなかった。
浅瀬の周りでは、他の魔物たちも、少しずつ、変化していた。
ドンの周りで、すでに静まりかけていた魔物たちが、ゆっくりと、足を止める。体の膨張が、少しずつ、止まっていく。
けれど、完全には、元に戻っていなかった。
「……他の十体は、まだ」
司書が、頭上から、静かに降りてきた。
「ドンの隣では、共鳴が弱まっている。だが、名前そのものが、直ったわけではない」
「じゃあ、あの子たちの、呼び主を」
「そうだ。それぞれの呼び主に、同じことをしてもらう必要がある」
アルは、岸を見た。
ざわざわと、人が集まってきていた。町から駆けつけた冒険者たち。それぞれが、自分の魔物の名前を、呼んでいる。
「デストロイヤー!」
「ヴァルキリー!」
「戻ってこい!」
けれど、魔物たちは、反応しなかった。
その名が、すでに、自分を呼んでいないと、知っているかのように。
「……これは」
アルは、息を吐いた。
「全員に、同じ話を、しなきゃいけないのか」
「その通りだ」
そのとき、後ろから、静かな足音が聞こえた。
石を踏む音。浅瀬の水が、かすかに揺れる音。
アルは、振り返った。
そこに、一人の女性が、立っていた。
灰色の髪を、きっちりと結い上げた、背筋の伸びた女性。外套の裾が、月明かりに、静かに揺れている。
「……セイラさん」
セイラは、中州の狼を、ゆっくりと見つめた。
それから、ボルグの手に頭を預けている姿を、じっと見た。
「……見ていました」
セイラは、小さく言った。
「最初から、最後まで」
誰も、何も言えなかった。
セイラは、ゆっくりと、アルのほうを向いた。
「確かめさせてください」
静かな、けれど、はっきりとした声だった。
「あなた方が、何をしたのか。何が、起きたのか。……百年分、遅れましたが」
アルは、小さく頷いた。
「……はい」
月の光が、浅瀬の上で、静かに揺れていた。




