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第二部 第十四話「暴走の夜」

森が、悲鳴を上げた。


青白い光の中で、魔物たちの体が、ぐにゃりと歪み始めた。


最初に変わったのは、ハムスターだった。


デストロイヤーと呼ばれていた、手のひらサイズの魔物。その体が、ぼこぼこと膨らんでいく。毛が逆立ち、爪が伸び、あっという間に、犬ほどの大きさになった。


「な、何だ!?」


冒険者の一人が、悲鳴を上げた。


隣では、ヴァルキリーと呼ばれていた魔物の背中から、ぼろぼろの羽のようなものが、にょきにょきと生えていた。


「名前に、引きずられている」


司書が、鋭く言った。


「呼ばれた名に、体を合わせようとしている。このままでは、体が持たない」


「止められるか」


ガルドが、剣に手をかけた。


「検証していない。だが、おそらく」


司書は、言葉を切った。


石柱の光が、一際強く脈打った。


魔物たちが、いっせいに、咆哮を上げた。


一体、また一体。輪が崩れて、四方八方に、駆け出していく。


「町だ!」


誰かが叫んだ。


「全部、町のほうに向かってる!」


魔物たちの足跡は、東の森から、西へ、町の方角へ、一直線に続いていた。


その先頭を、灰色の狼が走っていた。


さっきまでの小型の狼ではなかった。肩の高さは、すでに、アルの胸ほどまで伸びている。毛が銀色に光り、額から、小さな角が一本、生えかけていた。


「ドラゴン!」


ボルグの叫びも、もう、届かなかった。


町の東門は、すでに騒然としていた。


「鐘を鳴らせ!」


「冒険者を集めろ!」


松明の列が、門の周りに並んでいく。ギルド上層の騎士たちが、盾を構えて、隊列を組んでいた。


その中央で、騎士隊長が、大声を上げていた。


「数は十一体! 名付け魔物の暴走だ! 全員、町に入る前に、討伐する!」


「待ってください!」


アルは、人垣をかき分けて、前に出た。


「討伐は、待ってください!」


「何だ、お前は」


「アルです。査定部の、ガルドさんと一緒に」


「査定部が、何の用だ」


ガルドが、隣に並んだ。


「暴走の原因が、確認できていない。討伐の判断は、時期尚早だ」


「原因など、どうでもいい!」


隊長が、吠えた。


「町に危険が迫っている。それだけで、十分だ!」


「ですが」


司書が、アルの肩の上から、静かに口を開いた。


「討伐は、検証されていない手段だ」


「フクロウが、何を」


「聞け」


司書の声は、静かだったが、有無を言わせなかった。


「名を呼ばれた魔物が死んだ場合、その名は、呼んだ者を探して、さまよう。……百年前の、災厄の記録に、そう書かれている」


「それが、何だ」


「討伐すれば、十一の名が、同時に、行き場を失う。それは、百年前と、同じ状況になる可能性がある」


隊長の顔が、わずかに引きつった。


「……可能性、だと」


「可能性だ。だが、検証できない以上、避けるべきだ」


「時間がない!」


「三十分、ください」


アルが、まっすぐに言った。


「三十分。それで、何も変わらなければ、討伐してください」


隊長は、アルを睨みつけた。


ガルドが、静かに言った。


「責任は、私が取る」


「……」


長い沈黙のあと、隊長は、苦々しげに頷いた。


「……三十分だ」


「ありがとうございます」


アルは、足元の三体を見た。


「やるぞ」


「うん!」


「にゃ」


「検証を、続行する」


アルは、門の外の景色を見渡した。


道は、東の森から、まっすぐ門まで続いている。その途中に、一本の浅い川が流れていた。町の東を回り込むように流れる、石の浅瀬だ。旧街道で渡った、あの川の、ずっと上流にあたる。


「……青」


「うん」


「お前は、道に、やわらかい壁を作ってくれ。ぶつかっても、怪我をしないやつ」


「やわらかいの、得意!」


青が、ぐにゃりと膨らんだ。


「司書は、空から、魔物たちの動きを見て、報告してくれ。どの個体が、どの方向に向かうか」


「了解した」


「猫」


「にゃ」


「道の両側に、溝を掘って、魔物たちを、川のほうへ誘導できるか」


猫は、琥珀色の目で、アルをじっと見た。


それから、ゆっくりと、頷いた。


「にゃ」


「頼む」


猫は、駆け出した。


アルは、その背を見送りながら、考えていた。


足りない。まだ、何かが足りない。


魔物たちを足止めするだけなら、何とかなるかもしれない。けれど、暴走の根本を止めるには、何かが。


「アルさん!」


川原の方向から、少年の声が聞こえた。


アルは、振り返った。


「……ミナト?」


浅瀬のほとりに、小さな少年と、巨大な岩のような亀が立っていた。


「アルさん! やっぱり、アルさんだ!」


「どうして、ここに」


「村長に頼まれて、荷物を届けに来たんです。ドンと一緒に、川の底を歩いて」


ミナトは、ドンの甲羅をぽんと叩いた。


「夕方に着いたから、川原で休んでたら、すごい音がして」


「ミナト、頼みがある」


アルは、短く言った。


「今から、魔物の群れが、ここに来る。暴走してる。ドンを、浅瀬の真ん中に、立たせてくれないか」


「え」


ミナトは、目を丸くした。


「ドンを、真ん中に?」


「ああ。動かなくていい。ただ、そこに、立っててほしい」


「……ドンが、ぶつかられちゃう」


「ドンは、止まれるだろ」


アルは、ドンを見た。


「止まって、流れに身を任せないで、歩き続ける。……そういうやつだったはずだ」


ミナトは、ドンの顔を見上げた。


岩亀は、ゆっくりと、まばたきをした。


「……ドンは、止まらないです」


ミナトが、静かに言った。


「でも、止まれます。必要なときは」


ミナトが、ドンの首をぽんと叩いた。


「ドン、行こう」


岩亀が、のっそりと、浅瀬に歩み入った。


夜の底から、地鳴りが、近づいてきた。


「来るぞ!」


ガルドの叫びと同時に、東の暗闇から、魔物の群れが、雪崩のように押し寄せてきた。


先頭を走るのは、銀色の狼。その後ろに、巨大なハムスター。翼を生やしかけた獣。角を生やした鳥。


十一体が、一塊になって、道を駆けてくる。


「青!」


「いくよ!」


青が、全身を、ぶわっと広げた。


道いっぱいに、巨大な、やわらかい壁が現れた。


「ぼふん!」


先頭の魔物たちが、壁にぶつかって、跳ね返された。誰も、怪我をしていない。


「いたくない!? いたくない?」


「痛くないぞ! そのまま、押さえてろ!」


「うん! 重い! でも、がんばる!」


青の壁が、ぐぐっと、後ろに押される。


魔物たちは、青の体に飲み込まれるように、もがいていた。


そのとき、側面の闇から、ざくざくざく、と土を掘る音が響いた。


「にゃ!」


猫が、道の両脇に、深い溝を掘り進めていた。


溝は、道に沿って、川のほうへ、緩やかに曲がっていく。


「司書!」


「右に、三体、溝に誘導されている! 左は、二体!」


司書が、頭上から、声を張り上げた。


「残りの六体は、青の壁を迂回しようとしている! 川の方向に流れていく!」


「いいぞ、そのまま!」


魔物たちが、溝に沿って、川の浅瀬に向かって、ゆっくりと流されていく。


その先に、岩のような亀が、立っていた。


ドンは、動かなかった。


銀色の狼が、真っ先に、ドンに突進した。


どん、と鈍い音。


「ドン!」


ミナトが叫んだ。


けれど、ドンは、そこに立っていた。


びくともしない。


狼は、ドンの甲羅にぶつかって、はじき返された。後ろの魔物たちも、ドンを避けて、両脇の水に押し流されていく。


「……」


アルは、息を呑んだ。


魔物たちの足が、遅くなった。


ドンの周りの水が、静かに揺れている。他の場所は、どんどん荒れているのに、ドンの周囲だけ、水面が、不思議と凪いでいた。


「……共鳴が」


司書が、はっとした声を出した。


「ドンの周りで、共鳴が、弱まっている」


「え?」


「他の魔物の頭上の光が、ドンに近づくにつれて、弱くなっている。……正しい名前が、そばにいるだけで」


「正しい名前が」


アルは、ドンを見た。


岩亀は、ゆっくりと、静かに、まばたきしていた。


その頭上に、小さな文字が、うっすらと浮かんでいた。


〈歩き通す者〉


「……そうか」


アルは、呟いた。


「ずれた名前は、正しい名前の隣だと、少し、静まる」


「確認が必要だが、そう見える」


「時間は?」


ガルドが、懐中時計を見た。


「あと、十二分」


アルは、歯を食いしばった。


ドンの周りで、魔物たちの勢いが、少しずつ、削がれていく。


けれど、銀色の狼だけは、違った。


他の魔物たちが足を止める中で、狼だけが、ドンの脇をすり抜けて、浅瀬の中ほどの、小さな中州へ、駆け上がった。


「ドラゴン!」


ボルグの声が、背後から響いた。


息を切らして、森から駆け戻ってきた大男が、水をかき分けて、その中州に立っていた。


その前に、巨大な銀色の狼が、立ちはだかっていた。


狼の体は、もう、完全に、大型の獣になっていた。額の角は、すでに手のひらほどの長さ。牙が剥き出しになり、全身が、青白く光っている。


「……ドラゴン」


ボルグは、一歩、近づいた。


「グルルルル」


狼が、低く唸った。


ボルグの足が、止まった。


「俺だ。……ボルグだ」


「ガアアア!」


「分かってる。……お前が、怖いのは」


ボルグは、また一歩、近づいた。


「俺が、ずっと、お前を、強くしようとして」


「グルルルル」


「そばに、いてやれなかった」


狼の目が、ぎらりと光った。


ボルグは、ゆっくりと、地面に膝をついた。


それから、地面の上に、どっかりと、腰を下ろした。


「……待つ」


ボルグが、言った。


「俺は、ここで、待つ」


狼の唸り声が、一瞬、止まった。


「お前が、落ち着くまで、ここで待つ。……今度は、俺が、待つ番だ」


大きな背中が、夜風に揺れていた。


狼は、ボルグの目の前まで、ゆっくりと、歩み寄った。


鼻先が、ボルグの顔に、触れそうなほど近づく。


ボルグは、動かなかった。


けれど、狼の体の光は、まだ、消えていなかった。


〈ドラゴン〉の文字が、狼の頭上で、ぎりぎりと、軋んでいた。灰色の文字と、ぶつかって、火花を散らしている。


「……足りない」


アルは、呟いた。


「あと、一つ、足りない」


司書が、ゆっくりと、頷いた。


「呼ぶ者の覚悟だけでは、名は、定着しない」


「……誰かが、渡さないと」


アルは、ボルグの手の中の、ぐしゃぐしゃの紙を見た。


昨日、ボルグが握りつぶした、灰色の文字の訳。


「ボルグさん」


アルは、ゆっくりと、近づいていった。


「その約束、俺に、一度、預けてください」


ボルグが、顔を上げた。


「預ける?」


「はい」


アルは、手を、差し出した。


「俺が、渡します。ボルグさんの代わりに、ドラゴンに」


夜の浅瀬で、水の音だけが、静かに響いていた。

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