第二部 第十三話「呼び直せない」
翌朝、ボルグの家の前に、アルたちが立っていた。
呼び鈴を押す前に、扉が、がちゃりと開いた。
無精ひげのまま、目を真っ赤にしたボルグが、そこにいた。
「……入れ」
「いいんですか」
「いいから、入れ」
家の中は、散らかっていた。床には、昨日のぐしゃぐしゃの紙が落ちている。拾い上げたあとがあって、何度も、広げて、折り直したらしい皺だらけになっていた。
「一晩、考えた」
ボルグが、ぼそりと言った。
「あの名前で、呼んでみる。……試すだけだ」
「ボルグさん」
「勘違いするな。納得したわけじゃない。ただ、……ドラゴンが、あんな目で俺を見てたのが、頭から離れなくて」
アルは、小さく頷いた。
「それで十分です」
ギルドの訓練場に、石板が静かに立っていた。
受付嬢と職員が、少し離れた場所で、固唾を呑んで見守っている。ガルドも、腕を組んで、壁際に立っていた。
石板の前に、狼が座っていた。猫が、その隣にぴたりと寄り添っている。
ボルグは、狼の正面に立った。
大きな手が、わずかに震えている。握りしめた紙が、くしゃりと音を立てた。
「ドラゴン」
狼の耳が、びくりと動いた。
「……いや」
ボルグは、首を振った。
「違うな。今から、言うのは、別の名前だ」
深く、息を吸う。
「そばで、待つ者」
訓練場が、しんと静まり返った。
石板が、淡く光った。
〈ドラゴン〉の文字が、じわりと薄れていく。そして、その下から、灰色だった文字が、少しずつ、くっきりと浮かび上がってきた。
〈そばで 待つ者〉
「……あ」
受付嬢が、小さく声を漏らした。
狼が、ゆっくりと顔を上げた。さっきまで逆立っていた毛が、ふわりと、元に戻っていく。尻尾が、おずおずと、床に垂れた。
ボルグの目が、わずかに潤んだ。
「よし……」
「ボルグさん、そのまま」
アルが、小声で言った。
「そのまま、しばらく、動かないで」
ボルグは、頷いた。
けれど、次の瞬間、その唇が、わずかに動いた。
「……強く、なってくれ」
誰にも、聞こえないほど、小さな声だった。
けれど、石板は、聞き逃さなかった。
ぱち、と。
石板の表面に、火花が散った。
〈そばで 待つ者〉の文字が、ぐにゃりと歪む。その上に、消えかけていた〈ドラゴン〉が、再び、滲み出してきた。二つの文字が、ぶつかり合って、ぎりぎりと軋む。
「やばい」
司書が、短く言った。
「名前が、割れる」
「えっ」
狼が、悲鳴のような声を上げた。
「キャン!」
毛が、一気に逆立つ。目が、大きく見開かれる。狼は、後ろ足で床を蹴って、跳ね上がった。
「ドラゴン!」
ボルグが、手を伸ばした。
けれど、狼は、その手をすり抜けた。
人垣を飛び越えて、訓練場の入口を駆け抜けていく。
「待て! 待ってくれ!」
ボルグが、追いかけようとして、足をもつれさせて、膝をついた。
猫が、すっと立ち上がった。
「にゃ」
「猫!」
猫は、狼のあとを追って、入口に向かって駆け出した。けれど、ほんの数歩で、立ち止まった。
狼の姿は、すでに、町の門の向こうへ消えていた。
「……森か」
ガルドが、低く言った。
「あの方角は、東の森だ」
ガルドが、ボルグの隣に歩み寄った。
「東の森には、もう、昨夜から、異変が出ている」
「異変?」
「他の十体も、昨夜から、行方が分からない」
アルが、息を呑んだ。
「名付けられた魔物が、逃げた?」
「ああ。全員、東の森の方角だ」
ボルグは、地面に膝をついたまま、動かなかった。
ひどく大きな背中が、ひどく小さく見えた。
訓練場の隅の、石段に、ボルグは座っていた。
アルは、少し離れた場所に腰を下ろした。三体が、その隣にいる。
しばらく、誰も、何も言わなかった。
風が、石畳の上を、ひゅうと吹き抜けていった。
「……なあ」
ボルグが、ぽつりと言った。
「初めて会った日に、俺が、お前に言ったこと、覚えてるか」
「初めて会った日……ああ、ギルドで」
「そうだ。お前が、F級スライムを連れて、バケツを抱えてた日」
アルは、少し考えた。
「ああ。『荷物にもならねえだろ』って」
「そうだ」
ボルグは、ゆっくりと息を吐いた。
「あれは、俺の本音じゃない」
「え」
「……いや。本音だった。昔の、俺の」
ボルグは、膝の上で、拳を握りしめた。
「十年前、俺にも、いた。F級の、小さな犬型の魔物が」
アルは、黙って聞いていた。
「コロ、って名前をつけてた。ちっこくて、足も遅くて、戦えなくて。でも、俺の後ろを、いつも、ちょこちょこついてきた」
ボルグの声が、わずかに震える。
「パーティの連中に、笑われた。F級を連れた、冒険者か、って。荷物だ、置いていけ、って」
「……」
「俺は、頷いたんだ」
石畳の上に、沈黙が落ちた。
「森の入口に、コロを連れてって、『ここで待ってろ』って言った。『すぐ戻る』って」
ボルグは、顔を覆った。
「戻らなかった」
「……」
「何日か経って、気になって、探しに行った。でも、コロは、いなかった。あれから、一度も、会ってない」
大きな肩が、小さく揺れた。
「だから、俺は、強くなりたかった。強くなって、誰にも笑われない、冒険者になりたかった。強い魔物を連れて、堂々と歩きたかった」
「それで、ドラゴン」
「そうだ」
ボルグは、顔から手を離した。
目が、真っ赤だった。
「そばで待つ、なんて名前、つけられるか。……俺は、待たせた側なんだ。待たせて、置いていった側なんだ」
「ボルグさん」
「俺には、あの名前を呼ぶ、資格がない」
誰も、何も言えなかった。
青が、小さく体を揺らした。司書は、羽をたたんで、静かにボルグを見ていた。
そのとき、猫が、ゆっくりと、ボルグの前に歩み寄った。
ボルグの足元に、ぺたんと座り込む。
琥珀色の目で、じっと、ボルグの顔を見上げた。
そして、猫は、言った。
「……今度は、お前が、待て」
ボルグが、目を見開いた。
「……え」
「待たせたのは、お前だ」
猫の声は、低くて、静かだった。
「なら、今度は、待つ番だ」
「待つ、番……」
「あの子は、待ってた。お前を、ずっと」
猫は、そこまで言って、また黙った。
ただ、真っ直ぐに、ボルグを見つめている。
ボルグの目から、ぽたり、と、涙が落ちた。
「……そうか」
ボルグは、顔を上げた。
「そうか。……今度は、俺が、待つ番か」
アルが、立ち上がった。
「行きましょう」
「どこへ」
「東の森へ。ドラゴンを、探しに」
ボルグは、大きく息を吸った。
それから、膝に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。
「……ああ」
「それから」
「何だ」
「呼び直すのは、見つけたあとで、いいんです。名前は、約束だから」
「約束……」
「今のボルグさんが、ちゃんと守れる約束を、一緒に探しましょう」
ボルグは、しばらく黙っていた。
それから、短く、頷いた。
東の森は、夕方の光を、葉の間から細く透かしていた。
アルたちは、ガルドと、数人の騎士と一緒に、森の入口に立っていた。
「静かだな」
ボルグが、呟いた。
「鳥の声が、しない」
「……ああ」
アルは、足元の地面を見た。
小さな足跡が、いくつも、森の奥へ向かって続いている。大きいもの、小さいもの。四本足、二本足。一つひとつ、違う形。
「全部、同じ方向に向かってる」
「にゃ」
猫が、鼻をひくひくさせながら、先頭に立った。
森の奥へ、進んでいく。
一時間ほど歩いたところで、不意に、視界が開けた。
円形の、広場だった。
地面には、古い石畳が、苔に覆われて広がっている。その中央に、苔むした、石の柱が一本、立っていた。
その周りに、魔物たちが、集まっていた。
ハムスターのような魔物。猫ほどの大きさの魔物。小さな鳥。丸い獣。
「デストロイヤー!」
「ヴァルキリー!」
冒険者の一人が、思わず声を上げた。
魔物たちは、石柱を囲むように、輪になって座っていた。誰も動かない。誰も、鳴かない。
ただ、全員が、同じ方向を見ていた。
石柱の、上のほうを。
「……ドラゴン」
ボルグが、掠れた声で言った。
輪の端に、灰色の狼がいた。他の魔物たちと同じように、じっと、石柱を見上げている。
「ドラゴン!」
ボルグが、駆け出そうとした。
「待て」
ガルドが、その腕を掴んだ。
「何か、おかしい」
アルは、石柱を見上げた。
そのとき、気づいた。
石柱の表面が、うっすらと、光っていた。
青白い、淡い光。それが、ゆっくりと、脈打つように、強くなっていく。
魔物たちの頭の上に、文字が浮かんだ。
〈ドラゴン〉〈魔王〉〈デストロイヤー〉〈ヴァルキリー〉
そして、その下に、灰色の文字が、ざわざわと、揺れている。
「……これは」
司書の声が、緊張を帯びた。
「名前が、共鳴している」
「共鳴?」
「十一体の名と、本来の名が、同時に、軋んでいる。……このままでは」
次の瞬間、石柱の光が、一気に強くなった。
森全体が、青白く、染まった。
日が暮れる前の森が、夜の海のように、光り始めた。
「……来る」
アルは、息を呑んだ。
魔物たちの目が、いっせいに、アルたちのほうを、向いた。




