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第二部 第十二話「試す、確かめる、掘る」

翌朝。


町外れの、ボルグの家の裏庭。


粗末な犬小屋の前で、大柄な男が、地面に座り込んでいた。無精ひげが伸びて、目の下には隈。一晩中、ここにいたらしい。


その背中の向こう、小屋の奥から、二つの目が光っている。


「ボルグさん」


「……来てくれたのか」


「約束しましたからね」


アルは、後ろに三体を従えて、ボルグの隣にしゃがんだ。


「調べさせてください。俺たちのやり方で」


「やり方?」


「試して、確かめて、掘って。順番に」


「……よく分からんが、好きにしてくれ」


ボルグは、疲れた声で言った。


「ただ、頼む。ドラゴンを、傷つけないでくれ」


「もちろん」


最初に動いたのは、青だった。


「いってみよう!」


青は、犬小屋の前にぺたんと座り込んだ。そして、なるべく狼を刺激しないように、ゆっくり体を揺らした。


「ねえ、ドラゴン」


「グル……」


狼の毛が、ぶわりと逆立つ。尻尾が、股の間に引っ込んだ。


「あ、ごめん。これ、だめなんだ」


青は、すぐに身を引いた。それから、少し考えて、別の言葉を試してみた。


「じゃあ、ぷるぷる!」


狼は、ぽかんと青を見た。毛が、少しだけ、元に戻った。


「あ、反応あった。でも、これ、ぼくの名前じゃないから、ちがうよね。……ええと」


青は、今度は、何も言わずに、狼の隣に、ただ座った。


沈黙。


昼になり、日が傾き始める頃、狼は、そろそろと、小屋から顔を出した。そして、青から、一歩くらい離れた場所に、ちょこんと腰を下ろした。


「……」


青は、動かなかった。


狼も、動かなかった。


そのまま、夕方になるまで、二匹は、ただ並んで座っていた。


「どうだった?」


夕方、アルが声をかけると、青は、嬉しそうに跳ねた。


「あのね、わかった」


「うん」


「名前を呼ばないほうが、あの子、安心してた」


「呼ばないほうが」


「うん。呼ばれると、毛が逆立つ。でも、そばに座ってるだけだと、だんだん、おちつく」


「……なるほど」


アルは、メモを取っていた司書を見た。


「確かめる、は?」


「進行中だ」


司書は、昨日からの記録を広げていた。そこには、ガルドから借りた手帳も、一緒に開かれている。


「ガルドが、遺跡の壁で書き写した名前の一覧だ。それと、今回の症状が出ている十一体と七件、計十八件の名前を、並べて比較している」


「何か、分かった?」


「一つ、確認できた点がある」


司書は、羽の先で、紙の上の二つの列を指した。


「壁の名前は、すべて、何をする者か、で書かれている。『歩き通す者』『跳ね続ける者』『静かに待つ者』『運ぶ者』。例外は、一つもない」


「ふむ」


「一方、症状が出ている十八件の名前は、『ドラゴン』『魔王』『デストロイヤー』『ヴァルキリー』。すべて、何者か、で書かれている。強さの種類は様々だが、行いを示す名前は、一つもない」


アルは、少し考えた。


「つまり、壁の名前は、行い。今の名前は、肩書き」


「そう整理できる。ただし、現時点では、相関に過ぎない」


「相関でも、十八件全部同じなら、結構な根拠だぞ」


「検証は、継続する」


アルは、笑った。


「相変わらずだな」


「それが、私の仕事だ」


最後に、猫が、ゆっくりと立ち上がった。


「にゃ」


「掘る、番だな」


猫は、犬小屋の裏に回った。小屋の底の、板と地面の隙間を、前足でちょん、と叩く。


それから、ぼこっ、と掘り始めた。


「何を……」


ボルグが、不安そうに身を乗り出す。


ざくざく、ざくざく。


土が、後ろにぽんぽんと飛んでいく。しばらくして、猫の前足が、何か布のようなものに触れた。


猫が、顔を上げた。鼻先に土がついている。


「にゃ」


アルが、覗き込んだ。


そこには、一つの小さな穴があった。そして、その中に、いろいろなものが、丁寧に並べて埋められていた。


革の手袋が、片方。


ブーツの、紐の切れた片方。


ほつれた布の切れ端。


古い、指の欠けた、革の指ぬき。


「……これ」


ボルグが、息を呑んだ。


「俺の、手袋だ。先週から、見当たらなかったんだ」


手を伸ばして、手袋を取り上げる。泥だらけだが、確かに、使い込まれた跡が残っている。


「ブーツも。……あの切れ端、俺の、マフラーの」


「ボルグさんの持ち物ばかり、ですね」


アルが、静かに言った。


「ドラゴンが、集めてたんです。一つずつ、隠して。毎日、掘って、確かめて」


「なんで」


ボルグの声が、かすれた。


「俺の、においがするものばっかりだ」


「そばにいたいから、じゃないですか」


アルが言った。


「でも、ボルグさんは、強くしたいと思ってた。だから、そばで、ただ座っていることが、できなかった」


ボルグは、何も言わなかった。


手袋を握りしめて、じっと、小屋の奥の狼を見ていた。


狼は、光る目で、ボルグを見ていた。


その目は、さっきよりも、ずっと静かだった。


翌日。


ほこり堂の扉を開けると、古い紙の匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。


「また来たのかい」


ミレ婆が、カウンターの奥から、眼鏡越しに顔を上げた。


「魔物は、入れんでくれと言ったじゃろう」


「裏に書いてあるんですよね」


「そうじゃ」


「でも今は、表に『魔物も歓迎』って書いてありましたよ」


「……あれは、勢いじゃ」


ミレ婆は、ぷいと顔をそらしたが、口の端が、ほんの少し緩んでいた。


「で、今度は何じゃ」


アルは、一枚の紙を、カウンターに置いた。司書が、あの夕方のうちに書き写した、石板の灰色の文字だった。


「これを、読んでもらえますか」


ミレ婆は、紙を手に取って、じっと見つめた。


分厚い眼鏡が、わずかにずり落ちる。


「……こりゃ、石板に出た字か」


「はい。狼の、名前の下に、薄く重なっていたやつです」


「ふむ」


ミレ婆は、辞書をぱらぱらとめくった。


〈読み継ぐ者〉


アルの視界の端に、また、あの文字が浮かんだ。


「……読めた」


ミレ婆は、辞書から顔を上げた。


「『そばで、待つ者』」


「そばで待つ者」


「それが、この魔物の、名のようじゃな。ただ」


ミレ婆は、紙の下の端を、指で叩いた。


「もう一行、あるぞ」


「何て?」


「『名は、呼ばれる者のものであり、呼ぶ者の、約束である』」


店内が、静まり返った。


古い柱時計の音だけが、こつ、こつ、と響く。


「……約束」


「古語ではな、『名』と『約束』は、同じ字なんじゃよ」


ミレ婆は、ゆっくりと言った。


「亭主が、よう言うとった。名を呼ぶことは、約束することじゃと」


「約束を、守れない名前を、つけてしまったから」


「そういうことじゃな」


ミレ婆は、眼鏡の位置を直した。


「呼んだ者が、その名前に見合う者でいられんなら、名前は、居場所をなくす」


アルは、ゆっくりと息を吐いた。


「ありがとうございます」


「礼は、いらん」


ミレ婆は、少しだけ、目を細めた。


「その狼、ええ名前じゃ。そばで待つ者、とはな」


夕暮れ。


アルたちは、ボルグの家に戻った。


ボルグは、犬小屋の前に座ったまま、じっと、手袋を握りしめていた。


「ボルグさん」


「ああ」


「分かりました。ドラゴンの、本当の名前」


アルは、紙を差し出した。


ボルグは、無言で、それを受け取った。


古い文字の隣に、司書の字で、訳が書かれている。


〈そばで、待つ者〉


ボルグは、長い時間、その文字を見ていた。


それから、顔を上げた。


「……待つ、だけか」


「え」


「待つだけ、なのか」


ボルグの声が、低くなった。


「待つだけの名前、か」


「ボルグさん」


「それは、……名前、なのか」


ボルグは、紙を握りつぶすように、ぐしゃりと丸めた。


「そんな、弱そうな名前、つけられるか」


「でも」


「あいつは、ドラゴンだ。ドラゴンに、なるんだ」


ボルグは、立ち上がった。


「もう、帰ってくれ」


「ボルグさん」


「頼む」


ボルグは、背を向けて、家の中に消えた。


扉が、ばたん、と閉まった。


庭に、静けさが落ちた。


アルは、小さく息を吐いた。


足元の青が、ぽつりと言った。


「……あの子、聞いてたよ」


「うん」


「ずっと、小屋の中から、聞いてた」


アルは、犬小屋を見た。


暗闇の奥に、二つの目が、静かに光っていた。


猫が、犬小屋の前まで歩いていって、そこにぺたんと座り込んだ。


「にゃ」


それ以上、猫は、何も言わなかった。


アルは、夕空を見上げた。


「……ここからが、本番か」


司書が、肩の上で、静かに頷いた。


「検証は、続行する」

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