第77話 三行にしたら、逃げ場がなくなった
三行で説明できたからといって、その作品が簡単になるわけではない。
むしろ逆だった。
長いあらすじの中にいる時、私はまだ逃げられた。人物の背景、職場の空気、ホテルの夜、編集とのやり取り、家族の言葉、そういうものを順番に並べていけば、作品の輪郭はそれなりに説明できる。
だが、三行にすると逃げ場がなくなる。
売れていないわけじゃない。けれど、人生は変わっていない。
会社員として働き、家族に疲れを見抜かれながら、それでも彼はまだ次の一作で何かが変わると思っている。
これは、四十七歳の現役ラノベ作家が、自分の見栄と未練を抱えたまま机へ戻る物語。
高梨は「これでいきましょう」と言った。
タイトル、冒頭、三行説明が一本の線でつながった、とも。
嬉しかった。
けれど、その夜から私は、その三行を何度も読み返していた。
読むたびに思う。
これはもう、ただの企画説明ではない。
かなり自分のことだ。
◇
翌朝、営業管理課の島は少しだけ騒がしかった。
朝から営業部の資料が差し戻されていた。先方の返答が曖昧な案件を、なぜか「来月以降大幅前進見込み」と表現していたからだ。
「大幅って何なんですかね」
榎本が言った。
「大幅に前進したい気持ち、だろうな」
私が返すと、三浦が笑った。
「願望を資料に書いちゃ駄目ですよね」
「駄目だな」
「でも、分かりますけどね。何か書かないと、進んでない感じするんで」
三浦の言葉に、私は少しだけ手を止めた。
何か書かないと、進んでない感じがする。
それは仕事の話でもあり、企画の話でもあった。
三行説明を作ったのも、結局そういうことなのかもしれない。まだ刊行も決まっていない。再提出もこれからだ。なのに、タイトルと説明を作ると、少しだけ進んだ気がする。
いや、気がするだけではない。
実際に進んでいる。
ただ、その進み方が地味すぎて、自分でも時々見失うのだ。
「係長?」
三浦がこちらを見ていた。
「ああ、悪い。ここ、“大幅前進見込み”は消して」
「ですよね」
「“継続協議中”でいい」
「また夢が削られました」
「削ったんじゃない。現実に戻しただけ」
「係長、それ本にできますよ」
私は危うく返事を間違えそうになった。
「……仕事の資料ならな」
三浦は特に気にせず笑って、自分の席へ戻った。
向かいの席で、本城が一瞬だけこちらを見た。
ほんの一瞬だった。
だが、私はその一瞬に気づいてしまった。
◇
午前会議の前、本城が資料を持ってきた。
「今日の一覧です。部長用に、冒頭だけ少し短くしました」
「助かる」
受け取って目を通す。
たしかに短い。
でも要点は落ちていない。
「うまいな」
「長いと読まれないので」
「耳が痛い」
「係長の資料は読めます」
「それ、褒めてるのか?」
「褒めてます」
本城は真顔で言った。
少し間が空いた。
彼女は戻りかけてから、やはり戻らず、机の脇に立ったまま言った。
「今日は、短くした言葉を気にしてる顔です」
私は思わず笑った。
「もう占い師になれるな」
「外れました?」
「外れてないのが問題なんだよ」
本城は小さく首を傾げた。
「何かを短くすると、急に本音っぽくなる時ありますよね」
その一言で、私は返事が遅れた。
まったくその通りだった。
三行にしたら、逃げ場がなくなった。
長く説明していた時には、作品の周辺にいたはずの言葉が、三行になると一気に中心へ寄ってくる。余計な装飾が削られ、言い訳が落ちる。残るのは、かなり裸に近い本音だ。
「……あるな」
私はそれだけ返した。
本城は頷いた。
「短くするのって、削ることじゃなくて、隠れられなくすることなのかもしれません」
そう言って、彼女は席へ戻っていった。
私はその背中を見て、しばらく資料を開いたまま動けなかった。
まただ。
この人は、こちらが言葉にする前に、少しだけ近い場所へ来る。
知っているわけではない。
だが、近い。
◇
昼休み、高梨からメッセージが入った。
今日は会社の近くのベンチではなく、社内の休憩スペースにいた。外は風が強く、コンビニへ出る気にならなかったのだ。
スマホを開く。
三行説明を企画書に入れました。
かなり締まりました。
ただ、次に必要なのは“この作品をどう売るか”の一文です。
編集部内で説明する時の、もう少し外向きの言葉ですね。
私は思わず天井を見た。
まだあるのか。
三行説明が決まって終わりではない。
今度は外向きの一文。
高梨から続けて来る。
ざっくり言うと、
“これは誰に刺さる作品か”
を一度言葉にしたいです。
誰に刺さる作品か。
私は休憩スペースの椅子にもたれた。
この作品は、誰に刺さるのか。
四十七歳の兼業作家だけでは狭すぎる。
作家を目指している人だけでも狭い。
出版業界ものとして売りたいわけでもない。
もっと広いはずだ。
けれど、広げすぎるとぼやける。
私はスマホのメモ帳を開いた。
最初に浮かんだのは、
夢を諦めきれない大人へ。
悪くない。
だが、少し広告っぽい。
次に、
もう若くないのに、まだ何かが変わると思ってしまう人へ。
これは近い。
さらに、
仕事も生活もある。それでもまだ、自分の名前を残したい人へ。
これも悪くない。
ただ、少し強すぎる気がした。
私はしばらく考えて、高梨へ三つ送った。
返信はすぐではなかった。
その間、休憩スペースには他部署の若い社員が二人入ってきた。缶コーヒーを買いながら、週末の予定を話している。
「今度こそジム行くわ」
「先週も言ってなかった?」
「今週は本気」
「それ毎週言ってる」
二人は笑って出ていった。
私はその会話を聞きながら、少しだけ目を伏せた。
今度こそ。
今週は本気。
次で変わる。
人は年齢に関係なく、そういう言葉をどこかで使って生きている。
ただ、四十七歳になると、その言葉が少し重くなるだけだ。
◇
高梨から返信が来たのは、午後の会議前だった。
二つ目が一番近いと思います。
“もう若くないのに、まだ何かが変わると思ってしまう人へ。”
ただ、少しだけきれいなので、もう半歩だけ泥を残したいです。
泥。
高梨らしい言い方だった。
続けて来る。
この作品は希望だけじゃなく、見栄や未練も込みなので。
“まだ何かが変わると思ってしまう”の“しまう”が良いです。
そこを残したいです。
私は画面を見たまま頷いた。
“思っている”ではなく、“思ってしまう”。
そこが大事なのだ。
望んでそうしているわけではない。
もう諦めてもいいはずなのに、まだ期待してしまう。
そのみっともなさが、この作品の芯だ。
私は打った。
もう若くない。生活もある。
それでもまだ、次で変わると思ってしまう人へ。
少し待つ。
高梨から返る。
かなり良いです。
外向きの一文として使えます。
これで、タイトル、三行説明、読者への刺さり方が繋がりました。
私はスマホを伏せ、静かに息を吐いた。
また一つ、逃げ道が減った。
だが、同時に立ち姿は強くなっている。
◇
午後の会議は、思ったより長引いた。
営業部の資料名をめぐって、また少し揉めた。
「これ、名称変えると勢いが落ちませんか」
営業部の課長が言う。
「勢いは落ちます」
私は答えた。
「ただ、実態とずれた勢いは、後で邪魔になります」
「でも入口としては強いほうが」
「入口で強く言いすぎると、中身が弱く見えます」
言ってから、自分で少し苦笑しそうになった。
今日ずっと考えていることと同じだ。
タイトルも、三行説明も、外向きの一文も。
強く言えばいいわけではない。
きれいに言えばいいわけでもない。
実態に合った痛みを残す必要がある。
部長が資料をめくりながら言った。
「じゃあ、少し落とすか」
「はい。そのほうが後で説明しやすいと思います」
会議はその方向でまとまった。
会議室を出ると、三浦が横でぼそっと言った。
「係長、今日の会議、なんかタイトル会議みたいでしたね」
私は心臓が一瞬止まりかけた。
「何のタイトルだよ」
「いや、案件名の話です」
「ああ」
「何か、言葉で見せ方変わるんだなって。ちょっと面白かったです」
私は少しだけ力を抜いた。
「言葉は変わるよ」
「ですよね」
三浦は深く考えていない顔で歩いていく。
何でもない会話だ。
だが、こちらにとっては少しだけ危ない。
仕事の中で、作品の話に近い言葉が増えている。
それだけ、いまの企画が日常へ染みてきているのだろう。
◇
終業後、私は会社を出てすぐ、高梨へ外向きの一文を改めて送った。
もう若くない。生活もある。
それでもまだ、次で変わると思ってしまう人へ。
高梨からは短く返ってきた。
これでいきましょう。
再提出資料に入れます。
その一文を見て、私は駅へ向かう足を少しだけ止めた。
再提出資料に入る。
タイトル。
三行説明。
読者への一文。
少しずつ、作品が自分の手元から外へ出ていく準備をしている。
嬉しい。
怖い。
そして、もう引き返せない感じがする。
◇
夜、書斎に戻ってから、私はノートへ今日決まった言葉を書き写した。
四十七歳、まだ『次で変わる』と思っている。
その下に、
売れていないわけじゃない。けれど、人生は変わっていない。
会社員として働き、家族に疲れを見抜かれながら、それでも彼はまだ次の一作で何かが変わると思っている。
これは、四十七歳の現役ラノベ作家が、自分の見栄と未練を抱えたまま机へ戻る物語。
さらに、
もう若くない。生活もある。
それでもまだ、次で変わると思ってしまう人へ。
並べて見ると、かなりはっきりした。
これはもう、ただの案ではない。
作品として立ち始めている。
私はその三つの文章を見ながら、妙に落ち着かない気持ちになった。
言葉が決まれば決まるほど、曖昧なまま逃げられる場所が減っていく。
けれど、そのぶん作品は他人へ渡せる形になる。
自分の中だけで温めている間は、どんなに熱くても作品はまだ閉じている。
外へ出すには、名前が要る。
説明が要る。
誰に届くのかという言葉が要る。
そして、その一つ一つを決めるたびに、自分の欲も少しずつ見えてしまう。
私はメモ帳を開き、今日の最後にこう書いた。
三行にしたら、逃げ場がなくなった。
外向きの一文にしたら、欲も隠せなくなった。
でも、作品が人に届く形になるとは、たぶんそういうことなのだ。
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