第76話 タイトルは、まだ会社の机では伏せられている
翌朝、出社してすぐ、私はいつものようにノートパソコンを開いた。
会社の机は、当たり前だが書斎とは違う。
ここには見本誌もない。健康診断の紙もない。高梨からの赤入り原稿も、タイトル候補を書き散らしたノートもない。
あるのは会社用のノートパソコン、内線電話、共有フォルダへ上げる資料、営業部から戻ってきた見込み表、三浦が悩んでいる返信文、榎本が黙って直した数字、そして本城が整えた一覧だけだ。
それなのに、頭の奥にはまだ昨夜の一行が残っていた。
四十七歳、まだ『次で変わる』と思っている。
この机では、その名前は出せない。
出せない名前があるというのは、思ったより重い。
ファイル名としても、メモとしても、企画書としても、もうそのタイトルは存在している。高梨にも送った。真由美にも見せた。結衣にも、おそらく何となくは伝わっている。
けれど、会社ではまだ無名だ。
私はその作品名を口にできないまま、営業部から来た資料を開いた。
「係長、朝からすみません」
三浦が席の向こうから声をかけてきた。
「何」
「先方への返信なんですけど、昨日の件です」
「見せて」
三浦がモニターをこちらへ向ける。
文面は悪くなかった。
ただ、最後の一文が少し引っかかった。
次回のご提案で、状況を大きく前進させられるよう準備いたします。
私はそこを指で示した。
「ここ、少し強い」
「やっぱりですか」
「“大きく前進”は言いすぎかな」
「営業の人から、そのくらい言っておいてって」
「営業は言いたがるよ。責任を取る時には少し後ろにいるけど」
三浦が変な顔をした。
「係長、今日も朝から刺しますね」
「刺してない。事実を丸めて渡してるだけ」
榎本が横から笑った。
「丸めても硬いんですよ、係長のは」
「柔らかすぎると先方が噛まないだろ」
「それ、資料の話ですか?」
「資料の話だよ」
三浦が笑いながら文面を直し始める。
「じゃあ、“次回以降の確認を踏まえて、具体化に向けて進めます”くらいですか」
「そのくらい」
「夢が小さくなりました」
「夢は心の中で見ればいい」
言ったあとで、少しだけ自分に刺さった。
夢は心の中で見ればいい。
そう言いながら、私はいま、自分の夢にタイトルまでつけている。
会社のメールでは期待値を下げる。
でも書斎では、まだ次で変わると思っている。
その矛盾が、今朝はやけにくっきり見えた。
◇
午前中は、妙に「次」という言葉が多い日だった。
営業部は「次回提案で巻き返したい」と言い、部長は「次の会議までに整理してくれ」と言い、三浦は「次の文面で先方の温度を見ます」と言い、榎本は「次からこの形式に統一したほうが早いです」と淡々と言った。
そのたびに、私の中ではタイトルの一部が小さく鳴る。
次で変わる。
誰もそんなことは言っていない。
けれど、会社の会話には、案外いつもそれに近いものが混ざっている。
次の提案。
次の会議。
次の資料。
次の数字。
次の返答。
みんな、次で何かが少し良くなると思って働いている。
そうでなければ、こんなふうに毎日同じような資料を開き、同じような言葉を削り、同じように期待値を調整し続けられない。
「係長」
本城が資料を持ってきた。
「午前会議の一覧です」
「ありがとう」
受け取って、ざっと見る。
きれいだ。
見出しの粒度も、案件の並びも、補足の入れ方も、必要なところだけに手が入っている。
「いいと思う。ここだけ順番入れ替えよう。先方返答待ちを後ろにしたほうがいい」
「分かりました」
本城はメモを取ったが、そのまま戻らなかった。
「今日は、言葉に引っかかってる感じですね」
私は顔を上げた。
「また顔?」
「顔というか、返事の間です」
「返事の間まで見られるのか」
「今日は分かりやすいです」
彼女はさらっと言った。
私はため息をつきそうになって、やめた。
「どの言葉に引っかかってるように見える?」
本城は少し考えた。
「次、ですかね」
私は危うく、持っていた資料を机に落としそうになった。
「……よく分かるな」
「今日、何回か反応が遅れました」
「そんなに出てたか」
「三浦さんが“次の文面”って言った時と、部長が“次の会議”って言った時です」
細かい。
細かすぎる。
私は苦笑した。
「仕事のことだよ」
「たぶん、仕事だけではないですよね」
本城はそう言ってから、すぐに目を伏せた。
「すみません。余計でした」
その引き方が、またうまい。
踏み込みかけて、すぐ戻る。
でも、言ったことは残る。
私は少しだけ間を置いてから言った。
「いや、余計ではないよ」
本城は小さく頷いた。
「じゃあ、一覧直しておきます」
「ああ。頼む」
彼女が席へ戻っていく。
その背中を見送りながら、私は思った。
この人はやはり、作品の中身を知らない。
タイトルも知らない。
なのに、今朝の私が「次」という言葉に引っかかっていることだけは分かる。
正体を知らないまま近い。
高梨が気にしていた“便利キャラ”にしないためには、こういう引き方を書くべきなのだろう。
見抜きすぎるのではない。
全部は知らない。
ただ、少しだけ当ててくる。
そして、踏み込みすぎる前に戻る。
その戻り方まで含めて、距離なのだ。
◇
昼休み、高梨からメッセージが来た。
私は社食ではなく、会社近くの小さな喫茶店にいた。
たまに一人になりたい時だけ使う店だ。
昼時でも満席にはならない。コーヒーは普通で、ランチのトーストも普通だが、その普通さがいい。
窓際の二人席でスマホを開く。
昨日のタイトルと冒頭修正を合わせて、再提出用の企画書に落とし込み始めます。
先生側でも、短い作品説明を一度作ってもらえますか。
長いあらすじではなく、“この作品は何の話か”を三行くらいで。
三行。
私はコーヒーを一口飲んでから、少しだけ笑った。
三行が一番難しい。
長いプロットならいくらでも書ける。
登場人物の心情も、職場の会話も、ホテルの夜の見栄も、いくらでも説明できる。
でも「何の話か」を三行で言えと言われると、急に逃げ場がなくなる。
私は返信した。
了解。
三行、考えます。かなり難しいけど。
すぐ返る。
難しいですが、ここが決まると再提出時の軸がかなり強くなります。
タイトルが見えたので、あとは説明の芯です。
説明の芯。
タイトルは入口。
冒頭は約束。
そして三行説明は、作品の芯。
だんだん逃げ道がなくなっていく。
私はスマホのメモ帳を開いた。
最初に浮かんだのは、少し整いすぎた文章だった。
四十七歳の兼業ライトノベル作家が、会社員としての日常と創作への未練の間で揺れながら、新企画に自分の痛みを重ねていく物語。
悪くない。
でも固い。
次に書く。
売れていないわけではない。けれど人生が変わるほど売れてもいない。そんな中年作家が、まだ“次の一作”にしがみつく話。
これは少し近い。
もう一行。
会社では正体を隠し、家では疲れを見抜かれ、編集には痛いところまで読まれながら、それでも書くことをやめられない男の、半径数メートルの再挑戦。
私は三つを見比べた。
少しずつ近づいている。
でも、まだ何か足りない。
高梨へはまだ送らず、いったんスマホを伏せた。
窓の外では、昼休みの会社員たちが歩いている。
誰も、私が喫茶店の片隅で三行説明に詰まっていることなど知らない。
そのことが少しだけ救いだった。
◇
午後、会社へ戻ると、本城が共有フォルダの修正版を開いていた。
「係長、午後の資料ですけど、冒頭の説明を少し短くしました」
「冒頭?」
「長いと、会議で読まれないので」
「正しい」
私は資料を見た。
本城は、部長が長々書いた説明文を半分ほどに圧縮していた。
しかも、要点は落ちていない。
「うまいな」
思わず言うと、本城は少しだけ首を傾げた。
「長く書くより、短く残すほうが難しいですよね」
私はそこで、固まった。
短く残すほうが難しい。
今日の昼から、まさにそれを考えていた。
三行で、この作品は何の話かを残す。
説明しすぎず、でも芯は落とさず。
「……本当に、今日はそういう日だな」
私が呟くと、本城は怪訝そうにした。
「そういう日?」
「いや、こっちの話」
「そうですか」
彼女はそれ以上聞かなかった。
私は資料を見ながら、さっきの三行説明をもう一度考えた。
長く書くより、短く残すほうが難しい。
だったら、三行説明も“整える”より“残す”べきなのだろう。
私は社用メモの端へ、仕事用のふりをして書いた。
売れていないわけじゃない。
でも、人生は変わっていない。
それでも、まだ次で変わると思っている。
書いた瞬間、かなり近いと思った。
シンプルだ。
説明しきってはいない。
でも、タイトルと同じ痛みがある。
私はそれをスマホへ写し、少しだけ整える。
売れていないわけじゃない。けれど、人生は変わっていない。
会社員として働き、家族に疲れを見抜かれながら、それでも彼はまだ次の一作で何かが変わると思っている。
これは、四十七歳の現役ラノベ作家が、自分の見栄と未練を抱えたまま机へ戻る物語。
これだ。
たぶん、かなり近い。
◇
終業後、駅へ向かう道で、高梨へ送った。
すぐには返ってこなかった。
電車に乗って、二駅ほど過ぎた頃に返信が来る。
これでいきましょう。
かなり良いです。
タイトル、冒頭、三行説明が一本の線で繋がりました。
再提出用の軸として使えます。
私は電車の中で、少しだけ目を閉じた。
一本の線で繋がった。
それは、ここ数話でずっと探していたものだった。
タイトルがつき、冒頭がつながり、三行説明が決まる。
作品は少しずつ外へ出る形になっている。
だが同時に、そのたび逃げ道は減っていく。
もう『再構成_危ない案』ではない。
ちゃんと名前があり、入口があり、説明の芯がある。
それは嬉しい。
でも怖い。
私はスマホのメモ帳に一行だけ書いた。
外で通じた名前は、職場ではまだ口にできない。
それでも、その名前があるから、今日の自分は少しだけ前へ進んでいた。
保存して、窓の外を見た。
夜の電車のガラスには、いつもの中年会社員の顔が映っている。
だがその内側には、もう口にできない作品名がある。
それで十分だと思えた。




