第75話 外で通じた名前は、職場ではまだ口にできない
タイトルが決まると、急にその言葉が日常のあちこちへ引っかかるようになった。
四十七歳、まだ『次で変わる』と思っている。
朝の電車で吊り革につかまっている時も、会社のエレベーターを待っている時も、営業部から戻ってきた見込み表へ赤を入れている時も、その一行がふいに頭の中へ浮かぶ。
困るのは、それが仕事中にも妙に似合ってしまうことだった。
営業部はいつも、次の案件で変わると思っている。
三浦は次の文面なら先方にうまく伝わると思っている。
榎本は次の資料なら営業も少しは現実を見ると思っている。
部長は次の会議こそ短く終わると思っている。
そして私は、次の一作で何かが変わるかもしれないと思っている。
誰も口にはしない。
けれど、会社という場所にも、そういう小さな期待は無数に転がっている。
朝、営業管理課の島へ入ると、三浦がモニターの前で唸っていた。
「係長、これ、どう思います?」
「何が」
「先方への返信なんですけど、“次回こそ具体化できればと考えております”って、ちょっと重いですかね」
私は鞄を置きながら、画面をのぞいた。
「重いな」
「やっぱり」
「“次回以降、具体化に向けて確認します”くらいでいい」
「夢が一段減りますね」
「仕事のメールで夢を盛ると、あとで現実が請求書みたいに来る」
三浦が変な顔をした。
「係長、今日ちょっと文学入ってません?」
「入ってない」
「いや、今のは入ってましたよ」
隣で榎本が笑った。
「三浦、それメモしとけ。先方に送らないやつとして」
「送らないんですか」
「送ったら怒られるだろ」
そんな会話をしている間、本城は向かいの席で静かに資料を整えていた。
いつものように無駄のない手つきで、一覧の順番を揃え、補足メモを差し替え、ページ番号を確認している。だが、私が席へ座った時、彼女はほんの少しだけ顔を上げた。
「おはようございます」
「おはよう」
それだけだった。
なのに、なんとなく見られた気がした。
最近、その“なんとなく”が増えている。
彼女が何かを知っているわけではない。たぶん知らない。少なくとも、私がライトノベル作家であることを確定させる材料は職場には出していないはずだ。
それでも、本城は私の中で何かが動いていることだけは見ている。
名前がついた。
タイトルが外で少し通じた。
そのせいで、私の中では明らかに作品が一段、現実へ寄った。
だが、その名前はここでは言えない。
職場ではまだ、ただの営業管理課係長でいなければならない。
◇
午前中は、予想より落ち着いていた。
営業部から来た資料は少し強気だったが、いつもの範囲だったし、部長の確認も二往復で済んだ。三浦の文面も、こちらが思ったより早く整った。榎本は「今日、逆に不気味ですね」と言っていたが、その言い方も半分冗談だった。
昼前、本城が午前版の一覧を机へ持ってきた。
「確認お願いします」
「ありがとう」
私は受け取って、ざっと目を通す。
相変わらずきれいだ。
仕事として、こういう人が一人いると本当に助かる。
「いいと思う。ここだけ日付入れておいて」
「はい」
本城はメモを取り、すぐに戻ろうとした。
だが、その手が少し止まった。
「係長」
「うん?」
「今日は、何か少し決まったあとの顔ですね」
私は危うく資料を落としそうになった。
「……顔の分類、増えすぎじゃないか」
「最近、増えやすいので」
「こっちのせいみたいに言うな」
本城は少しだけ笑った。
本当に小さな笑みだった。見逃そうと思えば見逃せるくらいの。
「でも、昨日までより散らばってないです。考えが」
私は返事に迷った。
タイトルが決まった。
しかも外で少し通じた。
だから、作品の立ち姿が少しはっきりした。
そのことを、この人はもちろん知らない。
知らないのに、“散らばっていない”と言う。
怖い。
けれど、少しだけありがたい。
「そう見えるなら、たぶんそうなんだろうな」
私が言うと、本城は一度だけ頷いた。
「悪い感じではないです」
「それは助かる」
「でも、少し重そうです」
「そこまで分かるのか」
「はい」
即答だった。
私は苦笑するしかなかった。
本城はそれ以上言わず、資料を持って席へ戻っていく。
私はその背中を見ながら、心の中で今の言葉をそっと拾った。
決まったあとの顔。
散らばっていない。
でも少し重い。
それは、作品にタイトルがついた今の状態そのものだった。
◇
昼休み、高梨からメッセージが来た。
社食の端で味噌汁を飲んでいる時だった。
今日は珍しく三浦と榎本が営業部の連中に捕まり、私は一人で昼を食べていた。本城は少し離れた席でおにぎりを食べながら、何かの資料を読んでいる。
スマホが震え、画面を見る。
高梨だった。
タイトルの件ですが、もう一人にも見せました。
こちらも反応良いです。
ただ、“四十七歳”を前に出すなら、主人公の年齢による切実さを冒頭でもう少しだけ感じさせたい、との意見がありました。
大きな直しではなく、年齢がただの数字ではないことを一、二行で置けると強いかもしれません。
私は箸を止めた。
四十七歳。
ただの設定ではない。
年齢が痛みとして効く必要がある。
たしかにそうだ。
タイトルに年齢を出す以上、読者はそこへ意味を求める。
四十七歳だから何なのか。
若くないからこそ何が刺さるのか。
四十七歳なのにまだ変わると思っている、その“なのに”の部分を、冒頭で少しだけ感じさせなければならない。
私は高梨へ短く返した。
分かる。
朝の会社パートで自然に入れられそう。
健康診断、通勤、若い部下との時間感覚あたりかもしれない。
すぐ返ってくる。
健康診断、良いです。
生活の手触りで年齢が出るので。
ただし自虐しすぎないほうがいいです。切実さが先、笑いは後で。
やはり的確だ。
健康診断。
机の端にずっと置いてある紙。
昔なら気にしなかった数値。
夜更かしの回復の遅さ。
若い頃なら一晩寝れば戻った身体。
そういうもので、四十七歳は出せる。
私は味噌汁を一口飲み、スマホのメモ帳を開いた。
四十七歳は、ただの年齢じゃない。
夜更かしが翌日に残る年齢であり、健康診断の紙を捨てられない年齢であり、それでも次の一作で何かが変わると思ってしまう年齢だ。
打った瞬間、かなりしっくり来た。
これだ。
説明ではなく、生活の中にある四十七歳。
「係長」
声がして顔を上げると、本城が立っていた。
「すみません、ここ空いてますか」
「ああ、どうぞ」
彼女はトレーを置き、向かいに座った。
珍しい。
本城は昼を一人で済ませることが多い。たまたま席が空いていなかったのかもしれない。
「今日は珍しいな」
「向こう、混んでいたので」
それだけ言って、彼女はおにぎりのフィルムを静かに剥がした。
私はスマホを伏せた。
不自然ではない程度に。
本城はそれを見たのか見ていないのか、特に何も言わない。
ただ、味噌汁の蓋を開けながら言った。
「今日は、何かを隠してるというより、名前を出せない顔ですね」
私は箸を落としかけた。
「……本当に顔の分類、増やしすぎだろ」
「違いますか」
「違わないのが嫌なんだよ」
本城は少しだけ笑った。
さっきよりも、ほんのわずかに。
「名前があるのに、ここでは出せないものって、たぶん重いですよね」
私は黙った。
その通りだった。
タイトルがある。
でも、職場では言えない。
自分の中では作品が名前を持ち始めているのに、この場所ではまだ無名のままだ。
それが今の一番のねじれだった。
「……そういうの、よく分かるな」
「分かるというか」
本城は少しだけ考えた。
「名前がついたものって、言える場所と言えない場所があるので」
私はその言葉を、かなり深く受け取った。
言える場所と言えない場所。
たしかにそうだ。
作家の名前も、
作品のタイトルも、
職場ではまだ言えない。
でも、言えないから存在しないわけではない。
むしろ、言えないものほど内側で重くなることがある。
本城はそれ以上、踏み込まなかった。
おにぎりを食べ、味噌汁を飲み、仕事の話を一つだけして、昼休みの終わりにはいつも通り席へ戻った。
私はその背中を見送りながら、またメモを開いた。
名前がついたものには、言える場所と言えない場所がある。
言えない場所にいる時、その名前はかえって重くなる。
これは、かなり使える。
いや、使えるというより、この作品の真ん中へ近い。
◇
午後の仕事を終えて帰宅する頃には、冒頭に足すべき一、二行がほぼ見えていた。
年齢の切実さ。
名前がついた作品を職場では言えない重さ。
それを、会社の朝の自然な流れに混ぜる。
夕食後、書斎へ入ると、私はすぐにファイルを開いた。
第一話の冒頭。
主人公が会社のメール画面の前で一秒止まる場面。
そこへ、健康診断の紙の記憶を薄く差し込む。
机の端には、先月から捨てそびれている健康診断の結果があった。
再検査が必要なほどではない。
けれど、昔なら笑って流せた数字を、四十七歳の身体は笑って流してくれない。
打ってから、少しだけ眺めた。
いい。
自虐に寄りすぎていない。
ただの年齢説明でもない。
生活の手触りとして、四十七歳が出る。
そのあとに、タイトルの気配が続く。
それでも彼は、まだ次の一作で何かが変わると思っている。
そのことを、会社の誰にも言えないまま。
私は手を止めた。
かなり来た。
タイトルと本文が、ようやく同じ線でつながった気がした。
四十七歳。
健康診断。
会社のメール画面。
そして、まだ次の一作で何かが変わると思っている男。
これなら、タイトルの痛みが冒頭から自然に入る。
◇
高梨へ改稿部分だけを送ると、思ったより早く返事が来た。
これ、かなり良いです。
“四十七歳”が単なる属性じゃなく、身体と生活にちゃんと乗りました。
タイトルと冒頭が繋がったと思います。
私はその文面を読んで、深く息を吐いた。
タイトルと冒頭が繋がった。
それは大きい。
タイトルは入口で、約束だ。
その約束が本文の最初で果たされ始めているなら、読者はたぶんもう少し安心して読み進められる。
私はメモ帳へ最後に書いた。
作品の名前が職場では言えない。
でも、言えない名前があるから、主人公は少しだけ前へ進んでいる。
そこまで書いて、パソコンを閉じた。
今日は派手な進展ではない。
けれど、かなり大事なところがつながった日だった。




