第74話 名前がついた瞬間、逃げ道は少し減る
タイトルが決まった翌朝、私はいつもより少しだけ早く目が覚めた。
目覚ましより先に起きると、妙に損をした気分になる。
あと十分眠れたはずなのに、と思う。
だがその朝は、布団の中で目を開けた瞬間から、頭の中に一行が浮かんでいた。
四十七歳、まだ『次で変わる』と思っている。
タイトル。
ただの文字列。
まだ正式決定ではない。
高梨と私と真由美が「これだ」と思っただけの、仮の看板だ。
それでも、名前がついた瞬間に、作品は少しだけこちらの都合を離れていく。
昨日までは『再構成_危ない案』だった。
それは完全に自分のための名前だ。
危ない。
再構成。
まだ案。
つまり、逃げられる名前だった。
だが、昨夜のタイトルは違う。
四十七歳。
まだ。
次で変わる。
思っている。
そこには、もう主人公の痛みがある。
そして、かなり自分の痛みもある。
私は布団の中で小さく息を吐いた。
タイトルをつけたのに、安心するどころか、少しだけ逃げ道が減った気がした。
◇
朝食の席で、真由美は特に何も聞かなかった。
昨日の夜、彼女は「これじゃないの」とあっさり言った。
私よりずっと簡単にタイトルを受け入れた。
あの軽さが、今朝も少し残っている気がする。
結衣はスマホを見ながら、トーストをかじっていた。
私はコーヒーを飲み、昨日ノートへ書いたタイトルを頭の中で何度も読み返していた。
「まだタイトルの顔してる」
結衣が突然言った。
「何だよ、タイトルの顔って」
「何か名前つけたあとって、そういう顔になるじゃん」
「そんな顔、分類されてるのか」
「少なくともお父さんは分かりやすい」
私は苦笑した。
最近、家族と職場から顔の分類をされすぎている。
真由美がコーヒーカップを置きながら言う。
「名前がつくと、逃げにくくなるからね」
私は思わず彼女を見た。
「……それ、今まさに考えてた」
「でしょうね」
真由美は軽く笑う。
「仮のファイル名の時は、まだいくらでも変えられる。でもタイトルになると、急に“それについて責任取ってね”って感じになるでしょ」
それは、かなり正確だった。
責任。
たしかにそうだ。
作品にタイトルをつけるというのは、単に読者へ見せるラベルを貼ることではない。
自分がその痛みをどう扱うのか、どの方向へ読者を誘うのか、その責任を引き受けることでもある。
四十七歳、まだ『次で変わる』と思っている。
このタイトルで行くなら、私は“まだ次で変わると思ってしまう中年”の切実さも、みっともなさも、恥ずかしさも、ちゃんと最後まで引き受けなければならない。
真由美は、そこを簡単に見抜いている。
「逃げ道が減った顔?」
結衣が言う。
「そうかもしれない」
私は認めた。
「じゃあ、いいタイトルなんじゃないの」
結衣は雑に言った。
「逃げられるタイトルって、たぶん弱そうだし」
私は少し笑った。
雑だが、やはり本質に近い。
◇
通勤電車の中でも、私はずっとタイトルのことを考えていた。
スマホのメモ帳を開き、昨夜のタイトル候補を見直す。
四十七歳、まだ『次で変わる』と思っている。
読めば読むほど、少し恥ずかしい。
だが、その恥ずかしさがいいのだと思う。
格好つけていない。
強そうなふりもしていない。
むしろ、かなり情けない。
でも、この情けなさの中に、この作品の芯がある。
私はメモ帳へ一行打った。
タイトルが恥ずかしい時は、たぶん本音に近い。
恥ずかしくないタイトルは、少しだけ逃げていることがある。
打ってから、少しだけ苦笑した。
また、いかにも今の私が好きそうな言い回しだ。
でも、たぶん本当だった。
◇
会社に着くと、営業管理課の朝はいつも通りに始まった。
榎本は営業部の見込み表を見て眉間に皺を寄せ、
三浦は先方への返信文の“ご確認いただけますと幸いです”が弱いか強いかで悩み、
本城は一覧の見出しを揃えていた。
「おはようございます」
本城が言った。
「おはよう」
私は返し、席に座る。
パソコンを開く。
社内メールを確認する。
午前会議の資料を出す。
身体は普通に会社員として動いている。
だが、頭の奥にはまだタイトルが残っていた。
名前がついた。
逃げ道が減った。
次は、その名前を持って再提出される。
そう思うと、仕事の画面の白さまで少し違って見える。
「係長」
本城が資料を持ってきた。
「午前版です」
「ありがとう」
私は受け取った。
本城はそこで少しだけ立ち止まった。
また何か言うのだろうな、と私は思った。
そして、やはり彼女は言った。
「今日は、何かに名前がついた顔ですね」
私は完全に手を止めた。
何かに名前がついた顔。
どうしてこの人は、こういうところだけ妙に正確なのだろう。
「……そんな顔まであるのか」
「あります」
即答だった。
「名前がつく前って、もう少し考えが散らばってる感じです。今日は散らばってないです。でも、その分、少し重そうです」
私は何も言えなかった。
散らばっていない。
でも重そう。
まさにそれだった。
「便利なのか不便なのか」
私が言いかけると、本城は先に言った。
「係長にとっては不便なほうです」
「最近、それ定型文になってないか」
「でも毎回当たってると思います」
それは否定できなかった。
本城はそれ以上踏み込まず、自席へ戻った。
私は受け取った資料を見ながら、心の中で今の一言を保存する。
何かに名前がついた顔。
これは使える。
いや、使えると思ってしまう時点で、もうかなり深くこの日常と作品が混ざっている。
◇
午前の会議では、商品名の話が出た。
偶然とはいえ、あまりにタイミングがよかった。
営業部が新しいキャンペーン資料の仮名称を持ってきて、それが少しだけ強すぎる言い方だったのだ。
実態よりも期待値が高く見える。
導入前なのに、もう成果が出るような響きがある。
「この名称だと、少し期待値を上げすぎると思います」
私は資料を見ながら言った。
営業部の課長が眉を寄せる。
「でも、これくらい前向きな名前のほうが引っかかりませんか」
「引っかかります」
私はうなずいた。
「ただ、引っかけたあとで実態が追いつかないと、あとから説明の言葉が増えます」
部長が「うん」と頷く。
三浦が会議メモを打っている。
「名前って、入口ですけど、同時に約束なので」
私は言った。
言ってから、自分でも少しだけ驚いた。
名前は入口。
同時に約束。
これは、完全に今の私の問題でもあった。
作品のタイトルも同じだ。
読者を引っかける入口であり、同時に作品が果たすべき約束でもある。
四十七歳、まだ『次で変わる』と思っている。
そのタイトルを置くなら、私は読者へ約束しているのだ。
これは、そういう人間の話です、と。
若くないのに、まだ変わると思ってしまう人間の話です、と。
営業部の課長は少し不満そうだったが、部長が「名称は少し落とそう」と言い、会議はその方向で進んだ。
私は会議メモの端へ、小さく書いた。
名前は入口で、同時に約束。
これも、今夜の原稿に入るかもしれない。
◇
昼休み、高梨からメッセージが来た。
昨日のタイトル、編集部の一人に軽く見せました。
かなり反応よかったです。
“これ、読者も自分のこととして刺さる人いると思う”とのことでした。
私は社食の端の席で、その文面をじっと見た。
読者も自分のこととして刺さる人がいる。
真由美が朝言っていたことに近い。
何歳でも、何かに対して“次で変わるかもしれない”と思ってしまう人はいる。
それは作家だけの痛みではない。
このタイトルは、主人公の固有性から入っているようでいて、実はかなり広い感情へ触れるのかもしれない。
私は高梨へ返した。
『それはかなり大きい。
作家の話に閉じすぎない感じがあるなら、このタイトルかなり良い気がする』
すぐに返信が来る。
はい。
作家ものだけど、作家だけの話にしない入口になってます。
そこが強いです。
私はその一文を見て、少しだけ背筋が伸びるのを感じた。
作家ものだけど、作家だけの話にしない。
それは、この作品が長く読まれるために必要なことだ。
半径数メートルの物語は、狭いようで狭くない。
むしろ、狭いからこそ他人が自分を重ねられる。
主人公の仕事や年齢や出版業界の事情が具体的であるほど、その奥にある“まだ変わると思いたい”感情は広くなる。
タイトルは、そこへ届きかけている。
◇
午後、私は少しだけ落ち着いて仕事ができた。
タイトルへの反応が悪くなかったことで、妙な不安が一つ減ったのだと思う。
もちろん正式決定ではない。
再提出もこれからだ。
だが、看板が見えてきたことで、作品の立ち姿が少しはっきりした。
「今日は朝より少し軽くなりましたね」
本城が共有フォルダを閉じながら言った。
「そう見えるか」
「はい。名前をつけたものが、外でも少し通じた時の顔です」
私は思わず笑った。
「何でそこまで分かるんだよ」
「そこまでは分かりません。でも、そういう顔です」
たぶん、半分は当てずっぽうだ。
それでも当たっているのだから、やはり厄介だった。
「本当に不便だな」
「はい」
本城はあっさり認める。
「でも、今日は悪い不便ではなさそうです」
悪い不便ではない。
これもまた、不思議な言い方だ。
私はその言葉を頭の中へ残した。
◇
夜、書斎へ戻ると、私はタイトルを第一話の一番上へ置いてみた。
仮の行ではない。
本文ファイルの冒頭へ、作品名として置く。
四十七歳、まだ『次で変わる』と思っている。
その下に、会社の朝から始まる第一話が続く。
置いてみると、やはり違った。
本文の読み方が変わる。
主人公がメール画面の前で一秒止まるだけで、その一秒に“まだ次で変わると思っている男”の痛みが乗る。
本城由来の女がそれを見るだけで、“この男がまだ何かを諦めていない”ことが少し先に見える。
ホテルの夜の見栄や惨めさも、タイトルがあることで一つの線へつながる。
名前がつくとは、こういうことなのだろう。
私はメモ帳を開いた。
名前がついた瞬間、作品は少しだけ逃げられなくなる。
でも、逃げられなくなるから、ようやく立ち姿が見えることもある。
そこまで書いてから、さらに一行。
タイトルは入口で、約束だ。
その約束が痛いほど、たぶん読者の中に残る。
私はその一文を見て、静かにうなずいた。
今日は、タイトルが少しだけ外へ出た日だった。
そして、外で少しだけ通じた日でもあった。
まだ小さい。
でも、確かな前進だった。




