第73話 タイトルを決める夜は、だいたい自分の欲を言い訳できなくなる
作品のタイトルを決める時間は、たいてい少しだけ恥ずかしい。
あらすじを考える時は、まだ外向きの理屈で考えられる。
主人公の設定を詰める時も、物語上の必要性という言い訳が効く。
だがタイトルだけは違う。そこには、その作品をどう見られたいか、どう売れたいか、どんな読者に引っかかってほしいかという、作り手の欲がかなり露骨に出る。
だから私は、昔からタイトル決めが少し苦手だった。
夜、書斎の机で高梨とやり取りを始めた時も、最初に感じたのは、期待より少し強い気恥ずかしさだった。
スマホの画面には、高梨からのメッセージが出ている。
タイトルの話、少ししたいです。
今の仮タイトル、作品の芯は合ってるんですが、入口としては少し説明が多いかもしれません。
その指摘は、まあ、そうだろうなと思った。
いまの仮タイトルは、正直かなり“中身そのもの”だった。
悪くはない。
むしろ、自分が何を書いているのかを見失わないためにはかなり有効だった。
だが、投稿サイトで読者が一覧から作品を選ぶ時のタイトルとしては、少し長いし、少し誠実すぎる。
誠実すぎるタイトルは、たいてい少しだけ弱い。
私はノートを開き、仮タイトルを書いた行を見つめた。
四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のまま
芯はある。
でも、たしかに長い。
そして、主人公の“みっともなさ”や“まだ夢を見てしまう感じ”よりも、条件説明が前に出ている。
私はスマホへ打つ。
『分かる。
方向は好きなんだけど、入口としては少し固い気もする』
すぐに高梨から返ってくる。
はい。
この作品って、設定だけで引くより、“この人の中途半端さが妙に気になる”で入ったほうが強いと思うんです。
なので、タイトルも少しだけ欲を出したいです。
欲を出したい。
その言い方に、私は小さく笑った。
やはりそうなのだ。
タイトルを決める夜というのは、作品そのもの以上に、自分たちの欲の置き方を話している。
◇
私は椅子へ深く腰掛け、ノートの新しいページへ候補を書き始めた。
高梨とやり取りしながら、まずは方向を探る。
『欲を出すなら、どこを強く見せる?
年齢か、兼業か、オリコンか、綺麗じゃない主人公か』
少し間があってから、高梨が返す。
全部大事なんですけど、優先順位をつけるなら、
1. 中年なのにまだ夢を見てる
2. 作家なのに会社員でもある
3. 売れてないわけではないのに人生は変わっていない
この三つかなと思ってます。
私はその並びを見て、かなり納得した。
そうだ。
オリコンランカーという事実はフックにはなるが、それだけを前へ出すと少し違う。
この作品の核は、“売れていない悲劇”でも“成功者の苦悩”でもなく、その中間にいる男がまだ夢を見てしまうところにある。
私は候補を三つ、四つ書いた。
四十七歳、まだラノベを書いている。
売れてないわけじゃない。だから余計に諦めきれない。
会社員のまま、まだ次の一冊で人生が変わると思っている。
オリコンに入っても、明日の朝にはまた満員電車に乗る。
どれも悪くない。
だが、どれもまだ“説明”に寄っている気もする。
私はそれを見ながら、ふと思った。
主人公のタイトルとして必要なのは、条件の羅列ではなく、もっと一段感情に近い言い方なのではないか、と。
ホテルの夜で見栄を抱え、
若い受賞者に刺され、
売れていない同業に少しだけ安心し、
その安心に自分でうんざりする。
そういう中年男を引っ張るタイトル。
私はノートへもう一つ書いた。
四十七歳、まだ“次で変わる”と思っている。
書いた瞬間、少しだけ手が止まった。
いい。
かなりいい。
少なくとも、いままでの候補よりずっとこの作品の体温に近い。
私はそれを高梨へ送った。
『たとえばこれとか
“四十七歳、まだ『次で変わる』と思っている。”』
既読がつき、少し長めの間があいた。
そのあいだ私は、ノートの上の文字を見つめていた。
タイトルは、主人公の自己紹介であると同時に、読者への約束でもある。
このタイトルなら、たぶん約束の中身はかなりはっきりする。
中年だ。
まだ諦めていない。
しかも、それを少し自分で恥ずかしいとも思っている。
その感じが、いまの私にはかなりしっくり来る。
高梨から返信が来た。
かなり好きです。
少しだけ痛くて、少しだけ笑えて、でもちゃんと切実なのがいいです。
かなりこの作品らしいです。
私はその言葉を見て、胸の奥で小さく何かが落ち着くのを感じた。
◇
タイトルが一つ見えると、逆に次の迷いも出てくる。
これで本当にいいのか。
あまりに地味すぎないか。
一覧で見た時に弱くないか。
投稿サイトでは、もう少しフックの強い言い方のほうが有利ではないか。
私はその不安も含めて、高梨へそのまま打った。
『好きなんだけど、地味じゃないかという不安もある』
高梨の返信は早かった。
地味さはあります。
でも、この作品はたぶん、派手なタイトルへ寄せすぎると中身とのズレが出ます。
そのズレで一回開かれるより、“何だこれ”で引っかかって、中身で残るほうが強い気がします。
私はその一文を、かなり静かに受け止めた。
何だこれ、で引っかかる。
中身で残る。
たしかに、それがこの作品の勝ち筋だろう。
大きな事件や分かりやすいラブコメの引きで一気に読ませるタイプではない。
むしろ、妙に分かる、妙に痛い、妙に次が気になる、そういう引っかかりの積み重ねで読ませる作品だ。
だったらタイトルも、派手に強く叫ぶより、“何だこれ”で一回止めるほうがいい。
私はそのことを考えながら、書斎の机を見回した。
見本誌。
会社の手帳。
健康診断の紙。
冷めかけた麦茶。
そしてノートの上のタイトル候補。
ホテルの夜の華やかさとは真逆の場所だ。
だが、たぶんこの作品は最初からこういう場所の物語なのだろう。
明日の朝には満員電車へ戻る人間が、それでもまだ“次で変わる”と思ってしまう話。
そう思うと、いまのタイトルはかなり正しい気がした。
◇
その時、ドアが少しだけ開いた。
「まだ起きてる?」
真由美だった。
「起きてる」
私が返すと、彼女は半分だけ顔をのぞかせる。
「顔、ちょっと迷ってる」
また顔だ。
だが、今夜のそれはたしかにそうだった。
「タイトルで迷ってる」
私は正直に言った。
「タイトル」
「うん」
真由美は部屋へ少しだけ入ってきた。
「どんな」
私は少し迷ったが、ノートをそのまま見せた。
真由美は候補を順に読み、最後にそこへ止まる。
四十七歳、まだ『次で変わる』と思っている。
「これじゃないの」
彼女はあっさり言った。
「そんなにすぐ決めるか」
「だって、いちばんあなたっぽいし」
私は苦笑した。
「作品のタイトルだぞ」
「だからでしょ」
真由美はノートを見たまま言う。
「他のは少し説明してる感じだけど、これはちょっと恥ずかしくて、ちょっと本音で、ちゃんとこの人の話になりそう」
その言い方に、私は少しだけ黙った。
ちょっと恥ずかしくて、ちょっと本音。
まさにこの作品の温度だ。
高梨の“少しだけ痛くて、少しだけ笑えて、でもちゃんと切実”と、かなり近い。
「一覧で見た時、弱くないかな」
私が言うと、真由美は肩をすくめた。
「強そうなふりしたタイトルのほうが、あなたの話だと逆に弱そうだけど」
それは、かなり刺さる言い方だった。
強そうなふり。
たしかに、それをやるとこの作品は急に嘘くさくなる。
ホテルの夜の見栄や、会社での削れ方や、家で“まだ寝ない顔してる”と言われる感じと、全部ずれてしまう。
真由美はもう一度そのタイトルを見てから言った。
「これ、たぶん読む側も少しだけ痛いよ」
「痛い?」
「だって、何歳でも似たようなこと思う時あるでしょ。仕事でも趣味でも、次で変わるかもしれないって」
私はその言葉に、少しだけ胸を突かれた。
そうか。
このタイトルは、作家の話でありながら、別に作家だけの痛みではないのかもしれない。
年齢に関係なく、何かをまだ諦めきれない人間の話として読める。
だったら、入口としてもそこまで狭くない。
「……それ、かなり大きいな」
私が言うと、真由美は小さくうなずいた。
「でしょ」
それだけ言って、彼女は部屋を出ていった。
◇
ドアが閉まったあと、私はしばらくノートを見ていた。
高梨も好きだと言った。
真由美もこれだと言った。
そして、自分でも、たぶん一番この作品の芯に近いと感じている。
だったら、もういいのかもしれない。
タイトルを決める夜に必要なのは、絶対の正解ではなく、“これで行く”とどこかで恥ずかしさごと引き受けることなのだろう。
私はスマホを開き、高梨へ送った。
『今のところ、
“四十七歳、まだ『次で変わる』と思っている。”
でかなりしっくり来てる。
一度これを軸に考えたい』
高梨からはすぐに返信が来た。
賛成です。
これ、かなり残るタイトルだと思います。
説明ではなく、主人公の痛みが先に来るのがいいです。
私はその一文を見て、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
残るタイトル。
それは、いまの私にとってかなり大きな褒め言葉だった。
◇
私はノートの上で、他の候補にうっすらと線を引いた。
消すわけではない。
でも、今夜の時点ではもう一つに絞っていい気がした。
四十七歳、まだ『次で変わる』と思っている。
その一行を、今度は少し丁寧に書き直す。
字は汚い。
でも、その汚さも含めて今夜の私にはちょうどよかった。
タイトルを決める夜は、だいたい自分の欲を言い訳できなくなる。
どう見られたいか。
どんな読者へ届いてほしいか。
この作品のどこを一番先に引っかかってほしいか。
そういう欲が、かなりそのまま出る。
そして今夜の私は、ようやくそこへ正直になれた気がした。
若くない。
成功しきってもいない。
でも、まだ次で変わると思ってしまう。
そのみっともなさこそが、この作品の核なのだろう。
私はメモ帳を開き、最後に一行だけ残した。
タイトルは説明ではなく、恥ずかしさの形なのかもしれない。
だから、少し痛いくらいのほうが、たぶん残る。
そこまで書いて、私は静かにパソコンを閉じた。




