第72話 終わった顔のあとに来るのは、だいたい次の怖さだ
答えへ届いた夜の翌朝は、少しだけ身体が軽かった。
もちろん、疲れが消えているわけではない。
四十七歳の会社員が、平日のあいだに会議と差し戻しと文面調整をこなし、土曜の夜に書斎で数時間原稿をいじって、翌朝いきなり爽やかな顔になるはずがない。肩は普通に重いし、目の奥も少し熱い。鏡の中の自分は相変わらず地味で、ホテルのシャンデリアの下に立っていた作家の顔より、よほど営業管理課係長の顔に近かった。
それでも、昨日までとは違った。
詰まっている顔ではない。
答えが近いのにまだ届いていない顔でもない。
少なくとも、今朝の私はそこを一度越えている。
主人公がまだ気づいていない時間を、読者だけが先に知っている。
その一歩の差が、続きを押させる。
昨夜そこへ届いた感触は、朝になっても消えていなかった。
むしろ、寝て起きたことで少しだけ固まっていた。
私はネクタイを締めながら、ふと思った。
人は、答えに届くと楽になるのではない。
答えに届いた瞬間に、今度はそれを前へ出す怖さが始まるのだ。
つまり、少し軽い朝のあとには、だいたい別の怖さが来る。
◇
ダイニングへ行くと、真由美がもうコーヒーを淹れていた。
「今日は終わった顔してる」
私が席へ着く前に、彼女が言った。
また顔だ。
最近のこの家は、本当に顔の判定ばかりしている。
「終わったっていうか」
私はトーストへ手を伸ばしながら言った。
「一回、届いた感じ」
「同じようなものじゃない」
「そうか?」
「詰まってる時と違うから」
真由美はそれだけ言って、ジャムを塗る。
結衣はスマホを見ながら牛乳を飲んでいたが、私の顔を一度だけ見てから言った。
「で、次は何に怯えてるの」
私は思わず笑った。
「決めつけるな」
「だって今の顔、落ち着いてるのに少し警戒してるやつじゃん」
雑だが、正しい。
詰まりは越えた。
でも、その稿を高梨へ出して、また返ってくる言葉を受ける段階へ入る。
そして、その返り方次第では本当に再提出の現実が近づく。
つまり、終わった顔のあとには、次の怖さがもう来ているのだ。
「まあ、そんな感じだよ」
私がそう言うと、真由美が小さく笑った。
「順調なんじゃない」
「順調って言われると、逆に不安になるな」
「いつも不安でしょ」
それはそうだった。
◇
通勤電車の中で、私は昨夜の一話をもう一度だけ読み返した。
会社の朝から入り、
主人公の一秒長い停止があり、
本城由来の女が何も言わずにそれを見ていて、
ホテルの夜のざらついた記憶が少しずつ差し込まれてくる。
若い受賞者への刺され方も、
売れていない同業への安堵も、
酔った作家の言葉に残る嫌な手触りも、
全部が前より少しだけ読者のほうへ開いている。
そして何より、一話の最後で主人公だけがまだ少し遅れている。
彼はその朝、自分がまだ昨夜から戻りきれていないことだけは知っていた。
それが何を意味するのかは、まだ言葉にしないまま。
そこへ来ると、ちゃんと次を押したくなる。
少なくとも私は、自分の文章で少しだけそう思えた。
それはかなり大きい。
私はスマホを閉じ、窓ガラスに映る自分を見た。
今日は、この稿を高梨へ送る。
そして、返ってくるものを受け取る。
待つだけではなく、自分で出したものがある顔。
本城がそう言った時のことを、私はふと思い出していた。
◇
出社すると、営業管理課は月曜らしい慌ただしさの中にあった。
榎本は朝から営業部の見込み表に嫌な顔をし、
三浦は先方への返信文の“引き続き”の位置で悩み、
本城は一覧の見出しとページ番号を黙って揃えている。
「おはようございます」
本城が言う。
「おはよう」
私は返し、席へ座った。
パソコンを開く前に、彼女が一瞬だけこちらを見た。
今日は何て言われるだろうと思ったが、本城はすぐには何も言わなかった。
その沈黙が、少しだけ気になる。
朝のメールを処理し、
営業部の数字に返しを入れ、
三浦の文面から余計な期待を削り、
部長へ午前会議の資料を送る。
作業は普通に進む。
だが、今日は昨日までの“詰まりの熱”ではなく、“これで出していいのか”の緊張が底にある。
「係長」
本城が一覧を持ってきた。
「午前版です」
「ありがとう」
私は受け取り、ざっと目を通す。
きれいだ。いつものように。
本城はそのまま戻らず、ほんの少しだけ立っていた。
「今日は、昨日より静かですね」
私は顔を上げた。
「静か?」
「はい。
考えてる時の音が、少し減ってる感じがします」
考えてる時の音。
また妙な言い方をする。
でも、嫌いじゃない。
「それは、たぶん一回届いたからだろうな」
私は半分独り言みたいに言った。
本城はそこで、ほんの少しだけ口元をやわらげる。
「じゃあ今日は、次のやつですね」
「次のやつ?」
「終わったあとの、次の怖いほうです」
私は思わず笑ってしまった。
「そこまで分類するか」
「最近、分かりやすいので」
そう言って本城は自席へ戻った。
終わったあとの、次の怖いほう。
私はその一言を、しばらく頭の中で転がしていた。
まったくその通りだと思ったからだ。
詰まりは越えた。
でも、越えたら次は“これを前へ出す怖さ”が来る。
それをこの人は、顔だけで見ている。
私は会議資料の端へ、小さく書いた。
終わったあとの、次の怖いほう。
いい。
かなりいい。
◇
昼休み、私は外へ出てコンビニの前の灰色のベンチに座った。
曇り空。
少し蒸す風。
相変わらず地味な昼だ。
私はスマホを開き、高梨へのメールを打つ。
『お疲れさまです。
昨夜、最後の調整を入れました。
主人公がまだ気づいていない時間を、読者が半歩先に見られるようにしたつもりです。
現時点の版をお送りします。』
添付を確認し、送信する。
送ったあとで、ふっと少しだけ楽になる。
昨日までの私は、机の前で答えを探していた。
今日は、その答えをもう一度高梨へ渡せた。
数分後、すぐに高梨から返信が来た。
『ありがとうございます。
今日中に見ます。
“主人公がまだ気づいていない時間”という整理、かなり大事だと思います』
私はその一文を見て、静かに息を吐いた。
やはり、高梨もそこを見ている。
主人公がまだ気づいていない時間。
読者が先に分かっている時間。
その差が、この企画の引力なのだ。
私はベンチに座ったまま、メモ帳を開き、一行だけ足した。
気づいていない主人公を、読者だけが少し先に知っている。
たぶん物語の面白さは、だいたいそこで生まれる。
◇
午後の仕事は、思っていたより普通にこなせた。
営業部は少し夢を見ていたが、今日はそれを苛立たずに現実へ戻せた。
三浦の文面も、二度目でほぼ整った。
榎本は数字を黙って揃え、部長も会議を長引かせすぎなかった。
集中できる。
昨日までと違って、待っているだけではないからだろう。
もう自分で出したものがある。
その手応えもある。
だから、あとは返ってくる言葉を受けるだけだ。
「今日はわりと穏やかですね」
榎本が言う。
「そうか?」
「昨日までみたいな、“頭のどっかで別の時計見てる感”が少ないです」
私は苦笑した。
やはり、見られている。
三浦も頷く。
「今日は、ちゃんと今いる感じします」
私はその言い方に少しだけ驚いた。
今いる感じ。
それもまた、悪くない表現だった。
本城はそこで、小さく言った。
「たぶん今日は、“もう出したからあとは受け取るだけ”の顔です」
私は笑った。
「ほんとに、何でも分類するな」
「最近はしやすいので」
その返しに、私はまた少し笑う。
分類されるのは本来あまり気分のいいものではないのに、本城の言い方だとなぜか少しだけ救われる。
あとは受け取るだけ。
たしかに今日は、そこまで来ている。
◇
高梨から返事が来たのは、終業の少し前だった。
私は自席で営業部への最終返しを確認していた。
私物スマホが震え、画面を見る。
『かなり良いです。
今度は、“主人公だけが少し遅れている”感じがちゃんと引きになってます。
これで再提出版としてまとめに入れそうです。
あと、タイトルの話を少ししたいです。』
私はその文面を読んで、ゆっくりと息を吐いた。
かなり良い。
引きになってる。
再提出版としてまとめに入れそう。
そこまで来たか、と思う。
まだ結果ではない。
でも、確実に前へ進んでいる。
「係長」
本城が静かに呼んだ。
私は顔を上げる。
本城は共有フォルダを閉じながら、いつものように大きく表情を動かさずに言った。
「今日は、たぶんちゃんと前に進んだ顔です」
私は一瞬だけ返事に迷い、それから笑った。
「そう見えるか」
「はい。
終わった、でも、届いた、でもなくて、“進んだ”です」
その分類は、今日いちばんしっくりきた。
終わったのではない。
結果が届いたわけでもない。
でも、確実に進んだ。
私は小さくうなずいた。
「それなら、たぶん当たりだな」
本城はそれ以上は言わず、「お疲れさまでした」とだけ残して帰っていった。
◇
帰りの電車の中で、私は今日一日を静かに振り返っていた。
答えへ届いた夜があり、
そのあとには次の怖さが来て、
でも、その怖さも前へ出すことで少しずつ別のものへ変わっていく。
仕事は普通に続く。
会社員は普通に働くしかない。
その中で、企画も少しずつ前へ進む。
派手ではない。
だが、いまのこの物語に必要なのは、たぶんこういう進み方だ。
私はスマホのメモ帳を開き、短く書いた。
終わった顔のあとに来るのは、たぶんいつも次の怖さだ。
でも、その怖さごと前へ出せた時、人は“待っている”から“進んでいる”へ少しだけ変わる。
そこまで書いて、保存する。
今日は、それで十分だった。




