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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第71話 主人公がまだ気づいていない時間を、読者だけが先に知っている

 土曜の夜は、平日の夜より少しだけ残酷だ。


 会社がないぶん、言い訳が減るからだろう。

 平日なら、仕事で疲れている、会議が長かった、営業部がまた夢を見ていた、部長の確認が多かった、そういう外側の理由をいくらでも並べられる。だが土曜の夜は違う。書けるか、書けないか。直せるか、逃げるか。その選択が、かなりそのまま自分の問題になる。


 その夜、私は書斎の机の前で、再提出版の第一話を開いていた。


 高梨が言ったことは明確だった。


 主人公がまだ分かっていないことを、あと半歩だけ強くしたい。

 読者のほうが少しだけ先に気づける余白がほしい。


 言われた瞬間から、それが正しいことは分かっている。

 問題は、どうやってやるかだった。


 ただ主人公を鈍くすればいいわけではない。

 理解の遅い男にすればいいわけでもない。

 むしろ逆だ。主人公はかなり敏感で、仕事でも人の期待値や言葉の温度差を見抜く男だ。そういう人間だからこそ、自分のことだけはうまく整理できない。その歪さが必要なのだ。


 私は画面を見つめながら、ホテルの夜から朝の電車、会社の会議、そして本城由来の女とのやり取りまでを何度も読み返していた。


 読める。

 かなりいい。

 でも、高梨の言う“あと半歩”も分かる。


 いまの稿では、主人公は自分の見栄や惨めさに気づくのが、まだ少しだけ早い。

 読者が「この人、まだそこまで自分を分かってないよな」と思う前に、自分で少し説明してしまう。

 その親切さが、わずかにブレーキになっている。


 私は椅子へ深くもたれ、目を閉じた。


 主人公がまだ気づいていない時間。

 読者だけが先に知っている時間。


 それが長いほど、たぶん物語は強くなる。

 少なくともこの作品では。


     ◇


 書斎のドアが軽くノックされた。


「起きてる?」


 結衣の声だった。


「起きてる」


 私は返した。

 ドアが少しだけ開き、結衣が顔だけ出す。

 部屋着のまま、スマホを片手に持っている。いかにも休日前の夜という感じだ。


「コンビニ行くけど何かいる?」


 私は少しだけ考えた。

「コーヒー」


「温かいの?」


「いや、冷たいのでいい」


「了解」


 彼女はそれだけ言って閉めかけ、それからもう一度だけ顔を出した。


「まだ終わらなそう?」


 私は苦笑した。

「何がだよ」


「その顔のやつ」


 また顔だ。

 家でも職場でも、本当に最近はそればかりだと思う。


「終わる時は、もう少しすっきりした顔してるんでしょ、たぶん」


 結衣はそう言った。


 その言い方に、私は少しだけ目を上げた。

「そんなに分かるか」


「お母さんほどじゃないけど、前よりは分かる」


 彼女は肩をすくめる。

「今は、答えが近いのにまだ届いてない顔」


 それだけ言って、本当にドアを閉めた。


 私はそのまましばらく動けなかった。


 答えが近いのにまだ届いてない顔。

 まただ。

 家族も、本城も、どうしてこう、人がまだ言語化していない感覚に先に名前をつけてくるのだろう。


 だが、今の一言はかなり大きかった。

 答えは近い。

 でも、まだ届いていない。


 それはたぶん、いま私が主人公にやらせたい状態そのものだった。


 読者には近い。

 でも、本人にはまだ届いていない。

 その距離が、一話の終わりの引きになる。


     ◇


 私はメモ帳を開いた。


 答えが近いのにまだ届いてない。

 それを読者だけが先に知っている。

 主人公は整理できていない。

 でも、行動や視線や言葉の選び方に、もう答えの輪郭だけは出ている。


 そこまで打って、私は自分でうなずいた。


 そうか。

 説明を減らすだけでは足りなかったのだ。

 必要なのは、説明を減らしたうえで、行動のほうに“答えの輪郭”を強く出すことだった。


 主人公がまだ言葉にはしていない。

 でも、

 若い受賞者への視線の残し方、

 売れていない同業へ感じた一瞬の安堵の長さ、

 ホテルのトイレで顔を見る時の間、

 朝の電車で同じメモを見返す回数、

 そういうもので、もう読者には見えていなければならない。


 この人は、もうかなり危ない。

 でも、自分ではまだ整理した気になっているだけだ。


 そのズレだ。

 必要なのは。


 私は急いで本文へ戻った。


 ホテルの夜のパートへ手を入れる。

 若い受賞者と話したあと、主人公が“継続している自分”に少し救われる場面がある。そこへ、反省の一文は入れない。代わりに、名札を見下ろす時間を一拍だけ長くする。

 売れていない作家の名刺を受け取る場面では、自己嫌悪の独白を少し後ろへ送る。そのぶん、相手の必死さを前にした時の、自分の指先の冷え方を描く。

 酔った同業に刺された場面では、“事実だから厄介なのだ”のあとでまとめすぎない。主人公がホテルのトイレで鏡を見るまで、感情を宙づりにしておく。


 すると、不思議なくらい流れが変わった。


 主人公は何も説明していない。

 でも、読者には見える。

 この人はたぶん、もうかなり自分を持て余している。

 それなのに、まだ“ちゃんと分かっている側”へ立ちたがっている。


 いい。

 かなりいい。


     ◇


 スマホがまた震えた。

 結衣からだった。


『アイスコーヒーでいいんだよね』


『いい』


 返すと、すぐに来る。


『了解

 たぶんあと20分くらい』


 私はそのメッセージを閉じてから、ふと思った。

 20分。

 それまでに、今日の答えへ届きたい。


 子どもみたいな考えだと思う。

 だが、こういう時間の区切りがあると、人は少しだけ手を速く動かせる。


 私は書き続けた。


 会社の朝。

 本城由来の女が主人公の一秒の停止を見る場面。

 ここにも少し手を入れる。

 女はまだ何も言わない。

 だが、“今日は悪い疲れじゃないですね”という台詞の前に、主人公がマウスへ触れる指先を一度だけ止める描写を足す。

 それだけで、読者には分かる。

 この男の中で何かがまだ続いている。


 主人公本人は、それをまだ“ホテルの夜の余韻”とか“仕事ではない別の熱”とか、うまく整理できていない。

 でも読者は、あの夜からここまでの流れをもう見ている。

 だから先に気づける。


 私は一話の終わりを見直した。


 その時の彼は、まだ自分がどこまでみっともないのかを、ちゃんとは分かっていなかった。


 この一文も悪くない。

 だが、いま読み返すと少しだけ説明に寄っている気がする。


 私はそこをしばらく見つめ、そして消した。


 代わりに、新しく置く。


 彼はその朝、自分がまだ昨夜から戻りきれていないことだけは知っていた。

 それが何を意味するのかは、まだ言葉にしないまま。


 打ってから、私は背もたれへ身体を預けた。


 これだ。

 たぶん、これだ。


 主人公は少しだけ分かっている。

 でも、全部には届いていない。

 読者だけが、その意味をもう少し先まで見ている。


 答えが近いのにまだ届いてない。

 まさにその感じだ。


     ◇


 結衣がコーヒーを持ってきたのは、ちょうどその時だった。


「どう?」


 彼女は部屋へ入るなり聞いた。


「たぶん、届いた」


 私がそう言うと、結衣は少しだけ得意そうに笑った。

「でしょ」


「何がだよ」


「顔」


 私は思わず笑う。

「もういいよ、その判定は」


 結衣は机へ缶コーヒーを置き、画面をのぞくでもなくそのままドアへ戻った。


「お母さんに、たぶん今日は終わるって言っとく」


「なんで共有されてるんだよ」


「見れば分かるからでしょ」


 それだけ言って出ていく。


 ドアが閉まったあと、私はしばらく笑っていた。

 家の中で創作の具体的な中身を共有しているわけではない。

 でも、進んだ顔と詰まった顔だけは、どうやらかなり共有されてしまっているらしい。


 私は缶コーヒーを開け、一口飲んだ。

 冷たい。

 少しだけ甘い。


 それからもう一度、改稿した一話を頭から通して読んだ。


 会社の朝。

 ホテルの夜。

 若い受賞者。

 売れていない同業。

 アニメ化作家。

 酔った作家。

 トイレの鏡。

 朝の電車。

 疲れ方を見抜く女。


 読者だけが半歩先にいる。

 主人公はまだそこまで届いていない。

 でも、もう戻れないところまで来ている。


 うん。

 これならかなり強い。


 私はメモ帳へ最後に一行だけ残した。


 主人公がまだ気づいていない時間を、読者だけが先に知っている。

 その一歩の差が、たぶん続きを押させる。


 そこまで書いて、私は深く息を吐いた。


 今夜の直しは、かなり大きかった。

 派手なイベントではない。

 でも、物語の引力そのものが一段変わった感じがある。

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