第70話 削った説明のぶんだけ、主人公は少しだけ残酷に残る
高梨から返信が来たのは、翌日の午後だった。
しかも、いかにも高梨らしいタイミングだった。
こちらが仕事に一番集中しなければならない時間帯を、たぶんまったく狙っていないのに、結果としていちばん効く時間に送ってくる。
営業管理課の島では、午後二時台特有の鈍い疲れが広がっていた。
昼の会議は終わった。
営業部は相変わらず夢見がちだったが、部長が数字を現実へ戻し、榎本がそのあとの修正を無言でこなしている。三浦は先方への文面の結びに「引き続き」を入れるかどうかでまた悩み、本城は共有フォルダへ上げる一覧の最終確認をしていた。
私は営業部から戻ってきた資料へ赤を入れながら、昼の会議で削りきれなかった言い回しを一つずつ整えていた。
その時、私物スマホが短く震えた。
私は一拍だけ迷ってから、机の陰で画面を見た。
高梨だった。
件名もなく、本文だけの短いメッセージ。
『今回の直し、かなり良いです。
削った説明のぶんだけ、主人公が少しだけ残酷に残るようになりました。
そこが良いです。
今夜、少しだけ話せますか』
私はその文面を見て、しばらく動けなかった。
主人公が少しだけ残酷に残る。
高梨は時々、こちらが自分でまだ言葉にしきれていない核心を、あっさり先に言ってしまう。
今回もそうだった。
説明を削った。
主人公を守るために先回りしていた言葉を消した。
その結果、主人公は少しだけ不親切になり、少しだけ危うくなり、少しだけ残酷に見えるようになった。
でも、それが良い。
私はその評価に、かなり深いところで救われた気がした。
削りすぎたのではないか。
嫌な人間に寄せすぎたのではないか。
読者が置いていかれるのではないか。
そういう不安が、完全ではないにせよ少しだけ整理されたからだ。
「係長」
榎本が資料を持ってくる。
「この案件、先方の返答待ちの注記ここでいいですか」
私はスマホを伏せ、すぐに仕事の顔へ戻した。
「ああ、そこはそれでいい。日付だけ入れて」
「了解です」
榎本が去っていく。
私は資料へ目を戻したが、頭の中ではもう高梨の一文が何度も繰り返されていた。
少しだけ残酷に残る。
そこが良い。
◇
その日の午後は、妙に長かった。
仕事そのものは特別重くない。
だが、一つひとつの処理のあいだに、どうしても高梨の言葉が差し込まれる。
主人公が残酷に残る。
良い。
今夜話せるか。
話せる。
もちろん話せる。
むしろ、いま一番話したい相手は高梨かもしれなかった。
ただ、その“話したい”が少し悔しいのも事実だった。
結局私は、いま書いているこの企画を、自分一人ではもう完全には握れていないのだ。
高梨の赤が入り、
高梨の言葉で整理され、
高梨の戦い方で会議へ出される。
それをありがたいと思う一方で、少しだけ怖くもある。
作品が“自分のものだけではなくなる”感じは、やはりあるからだ。
だが、そこまで行かなければ商業にはならない。
それもまた、四十七歳の私はもう分かっている。
「今日は、少し機嫌いいですね」
不意に本城が言った。
私は資料から目を上げた。
「そう見えるか」
「悪い疲れではないです」
彼女はいつものように、あまり大げさな顔をしない。
ただ一覧を揃えながら、ごく自然に言う。
「でも、安心してる感じでもないので」
私は少しだけ笑った。
「細かいな」
「今日はたぶん、“少しだけ報われたけど、まだ怖い”顔です」
私はそこで、本気で返事に詰まった。
少しだけ報われたけど、まだ怖い。
それは今日の私をかなり正確に言い当てていた。
高梨に肯定された。
会議で一度止まったあと、改稿の方向も間違っていなかった。
それはたしかに報われた感じだ。
でも、まだ怖い。
再提出もしていないし、その先の結果も分からない。
主人公をどこまで危うくしていいかも、まだ完全には掴みきれていない。
「……そんな顔か」
私が言うと、本城は小さくうなずく。
「今日はかなり分かりやすいです」
私は思わず苦笑した。
「最近、ほんとに便利なんだか不便なんだか分からないな」
「係長にとっては、ずっと不便だと思います」
その返しに、私は少しだけ声を出して笑った。
榎本が何ですかとこちらを見たが、私は「いや、何でもない」とだけ返した。
何でもない、わけではない。
だが、会社で説明する種類の何かでもない。
ただ、本城のその言い方もまた、新企画へ確実に流れ込んでいく。
この人はもう、本当にそういう存在になってしまっている。
◇
夜、帰宅して夕食を済ませ、風呂から上がると、私は約束通り高梨へ連絡した。
電話は二十二時を少し回っていた。
真由美も結衣も、もうそれぞれの部屋にいる。家の中は静かで、書斎のドアを閉めると外の生活音が少し遠くなった。
「もしもし」
『お疲れさまです』
高梨の声はいつも通りだ。
だが、今日はどこか少しだけ機嫌がいいようにも聞こえる。
「さっきのメッセージ、見た」
『はい』
「残酷に残る、って言い方、好きだな」
私がそう言うと、高梨は少しだけ笑った気配を混ぜた。
『よかったです』
「どういう意味で使った?」
私は椅子へ座りながら聞いた。
『主人公が、自分で自分を早く説明しなくなったんです』
高梨はすぐに答えた。
『前の稿だと、この人はこういう防御の癖があって、こういうふうに傷つく人で、だからこうなんです、って、先生が少し先回りして守ってた感じがあったんです』
「うん」
『でも今回、それが減った。
だから読者は、この人の嫌なところや危ういところを、説明ではなく行動で受け取るしかなくなった。
それって少し残酷なんですけど、そのぶん残るんですよね』
私は黙って聞いていた。
正しい。
かなり正しい。
自分でも分かってはいた。
だが、こうして言葉にされると、改稿の意味がはっきりする。
「読者に優しくないかな、とも思った」
私は正直に言った。
『優しくはないと思います』
高梨はあっさり言った。
『でも、優しくないことと、読めないことは違うので』
その一言が深く入る。
優しくない。
でも、読めないわけではない。
『今回の直しって、先生の主人公を丸くするんじゃなくて、“この人、嫌だけど目が離せない”の状態へ持っていくためのものなんです』
「うん」
『そこへかなり近づいたと思います』
私は椅子にもたれ、目を閉じた。
ようやく、少しだけ安心する。
まだ結果は何も出ていない。
再提出もこれからだ。
だが、少なくとも方向は見えている。
主人公を好かせるためではなく、
主人公を残すために削る。
その方向が間違っていない。
「会議で強く推してくれた人も、たぶんそこを見てたのか」
『そうだと思います』
高梨が言う。
『“嫌われるかもしれないけど残る”って、要するにそういうことだと思うので』
私は息を吐いた。
第四章の最後から、ずっと自分の中にあったテーマが、ここでもまた別の形で返ってきている。
残る。
名前が残る。
主人公が残る。
作品が残る。
会議を通るだけではなく、残るほうへ行く。
たぶん今の私は、ようやくそこを本気で欲しがり始めているのだろう。
◇
「じゃあ、再提出版としては」
私は少しだけ前へ身を乗り出した。
「もう一段だけ詰めれば出せる感じか」
『はい。かなり』
「どこを最後に詰めるべきだと思う」
高梨は少し考えてから言った。
『ホテルの夜のあと、会社へ戻ってきた主人公が“何をまだ分かっていないか”を、もう半歩だけ強くしたいです』
「まだ分かっていないこと」
『はい。
いまの稿だと、主人公はもうかなり自分の危うさに近づいてるんですけど、読者のほうが少しだけ先に気づける余白が、あと半歩あるともっと強いと思います』
私はその指摘に、深くうなずいた。
昨日から考えていたところだ。
「反省をもう少し遅らせるか」
『たぶん、その方向です』
「嫌なやつの時間を、もう少し長くする」
『そうです。
でも嫌なやつにしすぎるんじゃなくて、“この人まだ整理できてないな”の時間を長くする感じで』
その整理が、いかにも高梨らしかった。
単純な毒強化ではない。
読者が主人公を見捨てないぎりぎりの線で、危うさの滞在時間を伸ばす。
それが今のこの作品の勝ち筋なのだろう。
「わかった」
私は言った。
「そこ、やる」
『お願いします』
少し沈黙が落ちる。
悪い沈黙ではない。
「高梨」
『はい』
「今回のこれ、たぶん俺、一人だとまた守りに戻ってたと思う」
私はかなり素直に言っていた。
高梨はすぐには返さなかったが、やがて静かに言った。
『先生は、守りに戻るのが悪いわけじゃないと思います』
「うん」
『ただ、今回は戻るとたぶん残らないです。
だから戻さないように、こっちも戦ってる感じです』
私はその言い方に、少しだけ胸が熱くなった。
通すためじゃなく、
残すために戦っている。
それは編集としてかなり厄介で、かなりありがたい立場なのだろう。
「助かる」
私が言うと、高梨は少しだけ笑った。
『こちらこそです』
◇
電話を切ったあと、私はしばらく机の前で動かなかった。
デスクライトの下には、見本誌と会社の手帳と健康診断の紙。
いつもの机だ。
だが、いまの私はそこに少し違う温度で座っている。
会議で一度止まり、
高梨の赤が入り、
改稿し、
その改稿が“残酷に残る”と言われた。
ここまで来て、ようやくはっきりすることがある。
この企画は、もう次を決めるためだけの案ではない。
自分が何を残したいか、その形そのものに近づいている。
だから怖い。
でも、怖いだけではない。
少しだけ、嬉しい。
私はメモ帳を開き、今日の最後の一文を書いた。
高梨は、会議を通すためじゃなく残すために戦っている。
だから、こちらも自分を守るための嘘へ戻れない。
そこまで書いて、私は静かにうなずいた。
次にやることは見えている。
主人公がまだ分かっていないことを、あと半歩だけ長く残す。
読者のほうが少しだけ先に気づく時間を作る。
その直しができれば、再提出版はかなり強くなるはずだ。
今夜の私は、その方向をかなり信じられていた。




