第69話 会議を通すための直しと、自分を守るための嘘はよく似ている
金曜の夜、私は書斎の机に肘をつきながら、同じ一文を十分以上見つめていた。
文章そのものが悪いわけではない。
むしろ、単体で見ればよくできていると思う。
主人公の状況も感情も整理されていて、ホテルの夜から会社の朝へ戻ってくる流れも自然だ。高梨の赤を受けて直した入口はかなり機能しているし、本城由来の女の距離感も、少なくとも前よりは“便利な察しのよさ”から離れた。
だからこそ、そこに残っている一行が気になっていた。
彼は昔から、期待しすぎないことで自分を守ってきた。
文章としては成立している。
読みやすい。
親切でもある。
でも、その親切さが、いまの私には少しだけ嘘くさく感じられた。
期待しすぎないことで自分を守ってきた。
たしかに、その通りなのだ。
会社でもそうだし、創作でもそうだし、生活でもそうだろう。
だが、いまのこの企画でその一行をあまりに早く置いてしまうと、主人公が急に“分かっている人”になりすぎる。
分かっている人は、読者にとって安心できる。
でも、安心できるぶんだけ、少しだけ目を離しやすくもなる。
私はそこをもう一度考え直していた。
会議を通すための直しと、
自分を守るための嘘は、
時々よく似ている。
どちらも“少し丸くする”方向へ行きやすいからだ。
◇
その日は会社でも、妙にそういうことばかり考えていた。
営業管理課の朝は、相変わらず普段通りに始まる。
榎本が見込み表の数字を見て無言で嫌な顔をし、三浦は先方への返信に“恐れ入りますが”を入れすぎて文面を自分で重たくし、本城は一覧を整えながらこちらの顔を一度だけ見る。
「おはようございます」
「おはよう」
私はそう返し、自席へ座った。
今日の自分の顔がどの分類に入るのか、本城ならきっと何か言葉をつけられるのだろうと思った。
だが、朝の彼女は特に何も言わない。
その沈黙が、かえってありがたい日もある。
仕事を始めて一時間もしないうちに、営業部からまた少し強気な見込みが戻ってきた。
「係長、これまた“かなり有望”になってます」
榎本が資料を持ってくる。
私は見て、すぐに首を振った。
「“かなり”はいらない」
「ですよね」
「有望、もまだ早い。“継続協議中”で十分」
三浦が横から苦笑する。
「それだと夢がないんですよねえ」
「夢がないんじゃなくて、夢を混ぜないだけだよ」
私がそう言うと、三浦は肩をすくめる。
「似たようなもんじゃないですか」
「似てるけど違う」
私は資料へ赤を入れながら続けた。
「期待を育てすぎると、後で回収のために余計な言葉を使うことになる。最初から必要以上に膨らませないほうが、結局ちゃんと届く」
言ってから、私は少しだけ止まった。
まさにそれだ、と思ったからだ。
期待を育てすぎると、
後で回収のために余計な言葉を使うことになる。
それは営業資料の話でもある。
だが、主人公の独白や心情説明にも、そのまま当てはまる。
いま私が気になっているあの一行、
期待しすぎないことで自分を守ってきた、
あれはまさに“回収のために余計な言葉を使っている”感じに近いのかもしれない。
主人公がまだそこまで言語化していない段階で、
作者の側が先回りして“この人はこういう人です”と説明しすぎている。
それは読者の期待を管理するには便利だ。
でも、便利であるぶんだけ少し弱い。
私はその感覚を忘れないよう、会議メモの端へ小さく書いた。
最初から必要以上に膨らませない。
◇
昼休み、本城が一覧を持ってきた。
「午前版、共有済みです」
「助かる」
私は受け取る。
紙の並びは相変わらずきれいだ。
本城はそのまま戻りかけて、少しだけ立ち止まった。
「今日は、少し考えすぎてる顔ですね」
私は顔を上げた。
「仕事のことじゃなくて?」
「たぶん半分違います」
半分。
この人は、そういう曖昧な言い方がうまい。
断定しない。
でも、外しもしない。
「何を考えてる顔に見える」
私が聞くと、本城は少しだけ考えた。
「言わなくてもいいことを、言葉にするかどうかで迷ってる時の顔です」
私はそこで、本気で一拍止まった。
言わなくてもいいことを、言葉にするかどうかで迷ってる時。
やはり、この人は見すぎる。
そして、見すぎるからこそ、時々こちらの核心へかなり近いところまで来る。
「それ、便利なのか不便なのか、やっぱり分からないな」
私が言うと、本城は少しだけ口元をやわらげた。
「係長にとっては、たぶんまた不便なほうです」
私は思わず笑った。
「だろうな」
本城はそのまま自席へ戻る。
私は彼女の後ろ姿を見ながら、今の言葉を頭の中で繰り返した。
言わなくてもいいことを、言葉にするかどうかで迷ってる時の顔。
これだ。
まさにいまの私がやっていることだ。
主人公の説明を、どこまで言うか。
親切にしてしまうか。
それとも読者へ少しだけ委ねるか。
会議を通すための直しとしては、説明を足すほうが安全に見える。
でも、それが主人公の危うさを守るためには逆効果かもしれない。
本城の一言で、私はようやくその迷いへちゃんと名前をつけられた気がした。
◇
夜、書斎へ戻ると、私は迷わずその一行を消した。
彼は昔から、期待しすぎないことで自分を守ってきた。
カーソルでなぞる。
Deleteを押す。
画面から消える。
それだけなのに、少しだけ怖い。
説明を一つ減らすというのは、読者を信じることでもあるからだ。
そして同時に、自分が主人公を少し裸にすることでもある。
私は削ったあとで、しばらく画面を見ていた。
いまのほうが、強い。
間違いなく強い。
主人公の行動と言葉だけが残り、その裏にある防御の癖はまだ説明されない。
だが、読者はたぶん感じ取れる。
感じ取れるからこそ、次を押す理由になる。
私はさらに、同じ種類の“少し親切すぎる説明”を数か所だけ見つけて、位置を後ろへずらした。
削る。
遅らせる。
言い切らない。
すると、文章の空気が少しだけ変わった。
すっきりしたというより、ざらつきが残る。
でも、そのざらつきのほうが、この企画には合っている。
会議を通すための直しは必要だ。
入口も整えなければいけない。
だが、整えすぎて主人公の毒まで丸くしたら、たぶんまた前の“悪くないけど弱い”ところへ戻る。
その境目を、私は今夜ようやく少しだけ掴んだ気がした。
◇
高梨へ送る前に、私は最後に一文だけ足した。
主人公が、自分でもまだうまく整理できていないまま、仕事の資料の文言へ赤を入れている場面だ。
期待を混ぜないふりをしているだけで、期待していないわけじゃない。
そういう大人を、彼は仕事で何人も見てきたし、自分もたぶんその一人だった。
私はその一文を置いてから、深く息を吐いた。
これならいい。
説明しすぎない。
でも、主人公の防御の癖はちゃんと見える。
しかも仕事の文脈から自然に立ち上がる。
親切すぎる一文で“守る”のではなく、
行動と少し遅れた独白で“残す”。
たぶん、それが今回の直しで一番大事なことだったのだろう。
私は高梨へ改稿版を送った。
『説明を少し削りました。
主人公を守りすぎていた感じがあったので、読者へ委ねるほうへ少し寄せてみました』
送信してから、少しだけ肩の力が抜けた。
会議を通すための直しは必要だ。
でも、自分を守るための嘘まで一緒に残してはいけない。
その違いを、今夜はたぶん少しだけ分かれた。
私はメモ帳へ最後に短く残した。
読者に伝わらないものは削るべきだ。
でも、自分を守るために足している説明は、もっと先に削るべきなのかもしれない。
そこまで書いて、パソコンを閉じた。
今日はかなりいい夜だった。
悪い疲れでもなく、
無理な高揚でもなく、
ただ少しだけ、作品の芯へ近づけた感じがある。




