第65話 再提出用の直しは、褒められたあとほど難しい
人は、駄目だった理由がはっきりしている時のほうが、まだ直しやすい。
ここが弱い。
主人公が立っていない。
フックが足りない。
市場に合っていない。
そういうふうに、企画が駄目だった理由を比較的わかりやすい言葉で渡されると、落ち込むことは落ち込むが、少なくとも次にどこをいじればいいかは見える。
厄介なのは、その逆だ。
方向性は面白い。
主人公も立っている。
近さも武器になっている。
ただ、入口が狭い。
職場の女が少し便利に見える。
だから、もう一段整えれば再提出できる。
そう言われた時、人は嬉しい。
でも、嬉しいからこそ余計に難しくなる。
褒められている部分を壊したくない。
壊したくないのに、直さなければ通らない。
その加減が、思っているよりずっと難しい。
第四章の終わりから三日後の夜、私はまさにその難しさの前で止まっていた。
◇
書斎の机の上には、いつものように見本誌と会社の手帳と健康診断の紙が並んでいる。
見本誌は、いま動いている現シリーズのものだ。
会社の手帳には明日の会議の時間が書かれている。
健康診断の紙は、先月からずっと机の端に置かれたままだ。
再検査が必要というほどではないが、見て気分が良くなる数値でもない。
その全部の真ん中で、ノートパソコンには『再構成_危ない案』が開いている。
高梨から戻ってきた会議後のメモを、私はさっきから何度も読んでいた。
・主人公の魅力が出るまでの入口をもう少し広げたい
・“近すぎる”ことの面白さが、ただの生傷に見えない工夫が必要
・職場の女は効いているが、察しがよすぎる便利キャラにはしたくない
・タイトル再考
どれも正しい。
かなり正しい。
だから困る。
ここが全部外れているなら、もっと簡単だ。
いっそ主人公の設定からやり直せばいいし、ホテルの夜のパートを削って、読みやすさ優先の入り口へ組み直すという選択もある。
だが、そうではない。
高梨も、会議で強く推してくれた誰かも、いまの近さとみっともなさ自体は武器だと読んでいる。
つまり、武器を捨てずに、振り方だけ変えろと言われているのだ。
それが一番難しい。
私は画面の前で少しだけ目を閉じた。
いまの主人公は、かなり自分に近い。
ホテルの夜で憧れ、
若い受賞者に刺され、
売れていない同業へ少し優越感を持ち、
その優越感にあとで自分でうんざりする。
そして翌朝には、何事もなかった顔でネクタイを締めて会社へ行く。
その男の“みっともなさ”が、ようやく魅力へ変わり始めた。
そこは、たぶん壊してはいけない。
だが、読者の入口が狭いという指摘も分かる。
ホテルの夜から入ると、いきなり主人公の見栄や嫉妬や劣等感へ触れることになる。いまの自分にはそこが面白いが、初見の読者が一話目からその濃度へついてこられるかと言われると、少し不安もある。
私は指先でテーブルを二度叩いた。
癖だ。
考えが詰まった時の。
褒められたあとほど難しい。
その感覚は、こういうことなのだろう。
◇
スマホが震えた。
高梨からだった。
『起きてますか』
私はすぐに返信した。
『起きてます』
既読がつき、すぐに次が来る。
『少しだけいいですか。電話でもメッセージでも』
私は少しだけ迷ってから、『メッセージでお願いします』と返した。
今日は声で話すと、余計に自分の迷いがはっきりしそうだったからだ。
『了解です』
高梨は短く返してから、すぐに本題へ入った。
『会議のあとで改めて思ったんですが、今回の直しって“足す”というより“最初の見せ方を変える”に近いと思ってます』
私はその一文で、少しだけ姿勢を正した。
最初の見せ方。
それは、まさにいま私が机の前で悩んでいたことだった。
『ホテルの夜のパート、先生にとってかなり大事なのは分かります。あれで主人公のみっともなさが一気に立つので』
『うん』
私は短く返す。
『でも、一話の頭からあそこへ行くと、“嫌なことを考えてる中年”としては面白いけど、“この人をもう少し見たい”へ行くまでの橋が少し細い気がします』
高梨は、やはりそこを見ていた。
中年。
みっともない。
面白い。
でも、もう少し見たいへ行く橋が細い。
それはかなり正確だと思った。
いまの稿は、刺さる人には刺さる。
だが、刺さる前に読むのをやめる人もいるだろう。
『じゃあ、先に会社から入るか』
私がそう打つと、高梨は少しだけ間を置いて返した。
『その可能性は高いです。
“普通に働いてるのに、何かだけおかしい”ところから入って、そこからホテルの夜へ戻る構成のほうが、読者は入りやすいかもしれません』
私はその文章を見て、少しだけ目を細めた。
会社から入る。
普通に働いている。
でも、何かだけおかしい。
たしかに、それなら入口は広くなる。
榎本や三浦や本城との日常の空気の中に、中年会社員としての主人公をまず置ける。
そのうえで、主人公の内側に昨夜のホテルの夜が残っていることを少しずつ見せていけば、読者も自然に“何があったんだろう”で先へ行ける。
ホテルの夜を消すのではない。
順番を変えるだけだ。
私はその考え方に、少しだけ息がしやすくなるのを感じた。
『職場の女も、最初から“見抜く側”として強く出しすぎないほうがいいかもしれません』
高梨がさらに送ってくる。
『一話目は“なんとなく違和感に気づく人”くらいにとどめて、読者が後から“この人、最初から近かったんだ”と思うくらいの距離でいい気がします』
それも正しい。
いまの本城由来の女は、すでにかなり強い。
疲れ方を見抜く。
仕事の顔じゃない瞬間を言い当てる。
それが魅力になっている一方で、会議の指摘どおり“察しがよすぎる人”にも見えやすい。
だったら、一話目では少しだけ後ろへ引けばいい。
近さは残す。
でも、まだ読者に断定させない。
私はそこまで考えて、ふと笑ってしまった。
高梨は相変わらず、こちらが悩んでいる核心をかなり正確に拾ってくる。
『助かる』
私はそう返した。
『いえ。
今回の直し、かなり大事だと思うので』
その一言に、私はまた少しだけ緊張した。
かなり大事。
それはつまり、ここを超えられれば本当に次の段階へ行けるかもしれない、ということでもある。
嬉しい。
でも、やはり少し怖い。
◇
メッセージを終えたあと、私はノートを開いた。
今夜やることは決まった。
主人公を綺麗にしない。
ホテルの夜も削らない。
ただ、入口の順番を変える。
まず、会社。
営業管理課。
榎本の現実的な顔、
三浦の文面の温度、
本城の静かな観察、
そして主人公自身の“何かだけ違う”日。
そこからホテルの夜を少しずつ差し込む。
そうすれば、読者はまず“いまこの男に何が起きているのか”でページをめくれる。
いきなり見栄と嫉妬の濃い場所へ放り込まれるより、ずっと入りやすい。
私は一枚目の冒頭を大胆に切り離した。
ホテルのパートを後ろへ回す。
代わりに、新しい書き出しを置く。
その朝、彼はいつもより一秒だけ長く、会社のメール画面の前で止まった。
そこまで打って、私は手を止めた。
悪くない。
かなり悪くない。
続ける。
榎本はその一秒を見ていない。三浦も見ていない。
だが本城だけは、たぶん見ている。
見ているくせに、何も言わない。
何も言わないまま、一覧の順番だけをきれいに揃えている。
私は少しだけ身を乗り出した。
これならいける。
ホテルの夜の濃さを消さずに、入口だけ日常へ寄せられる。
しかも本城由来の女の近さも、最初はまだ“見ている気がする”くらいの温度に置ける。
投稿サイトで読まれるなら、このほうがたしかに強い。
一話目の引きとしてもいい。
“何かあったらしい中年会社員”をまず置き、その理由が少しずつホテルの夜へ繋がっていく。
それはたぶん、かなり次を押させる構造だ。
◇
私はそのまま一気に数段落を書いた。
営業部の見込みの夢見がちな言い方。
三浦の余計に丁寧な文面。
本城の「今日は“悪い疲れ”じゃないですね」へつながる気配。
そして主人公の中に残っている、ホテルの夜のざらついた光。
書けば書くほど、前よりよくなるのが分かった。
これは珍しい感覚だ。
普通、直しというのはどこかで原型を傷つける。
だが今夜の直しは違う。
原型を壊さず、見せ方だけが少しずつよくなっていく。
高梨の言った通りだ。
足すのではなく、最初の見せ方を変える。
それだけで、企画の呼吸が少し楽になる。
私はふと、数日前の自分を思い出していた。
企画会議の結果待ちで仕事が手につかず、本城に“何も来ていないの意味を自分で足し始めている時の顔”だと言われていた自分。
あの地味な苦しさも、結局こうして物語の入口へ使える。
待っている時間、
悪い想像が勝手に育つ感じ、
それを仕事の顔のまま隠し切れない感じ。
やはり、いまの私が書くべきものはここなのだろう。
◇
零時が近づいた頃、私はようやく手を止めた。
冒頭数ページはかなり組み替わった。
ホテルの夜は後ろへ回ったが、熱は消えていない。
むしろ、主人公が日常の中で“少しだけ変”に見えるぶん、あの夜の回想がより効く気さえする。
私は読み返してから、メモ帳へ短く残した。
再提出用の直しは、削ることじゃなかった。
この主人公を、読者がもう半歩だけ長く見ていられる入口を作ることだった。
そこまで書いて、私は小さくうなずいた。
これなら、次に出せる。
まだ荒い。
でも、前より確かに通る形へ近づいている。
そして何より大きいのは、主人公のみっともなさを守ったまま直せたことだ。
そこを守れたなら、今回の直しには意味がある。
私はパソコンを閉じる前に、高梨へ短く送った。
『入口を会社からに組み替えてみます。
かなり良くなりそうです』
送信してから、デスクライトの下で自分の手を見た。
少し疲れている。
でも、悪い疲れではない。
たぶん今の私は、前の案群へ戻らずに済む場所へ、ようやく来られているのだろう。




